魔法使いの調べ
リハーサルの時間が近づくと、毛利さんや阿笠さんと合流した。警視庁の刑事さんが数人ホールの入り口付近に控えながらも、ステージでは河辺さんの代役として山根紫音さんがストラディバリウスの調弦をしている。
彼女が弾く曲目はアヴェ・マリアだった。どこか緊張した面持ちの彼女に、思わず千秋と顔を見合わせる。
細い腕に構えられたバイオリンは微かに震えていた。
『..........あ、』
静かに紡がれていくその調べは、倍音はきちんと出ているのだけれど音が詰まったように伸びがなかった。ストラディバリウスの迫力のある響きが伝わってこない。
「ダメだダメだ!この一週間、何をしていたんだ。」
堂本さんの怒号が響き渡り山根さんはびくりと肩を揺らす。場内は騒然とし、秋庭さんの嫌味も飛び出した。震える声で謝る山根さんに、堂本さんのもう一度、という声色が冷たく向けられる。
『...............っ』
思ったように鳴らない音量を無理にでも出そうとしたのだろう。2回目の山根さんの演奏は、側から見てもどこか乱暴だった。
「−−−あんな無茶な弾き方したら.....」
彼女の苦し気な演奏に手に汗を握りしめ、千秋が目を細めたその時だった。バチン、と鋭い音が鳴り弦がはじける。その弦は山根さんの顔を傷つけ、演奏を中断させた。
「す、すみません。すぐに張り直してきます。」
そう言ってバイオリンを抱きしめ駆け出す彼女を見るや、バイオリンケースからミニサッカーボールを取り出す。
『−−−千秋、私ちょっと行ってくるね。』
「......お節介はほどほどにね。」
『分かってる』
15分の休憩を宣言した堂本さんの言葉を聞いて、私は彼女の後を追った。
『...........失礼します。』
山根紫音さんの控え室を訊ねれば、彼女は暗い表情でバイオリンの弦を張り替えていた。
「−−−み、緑川さん?」
『....あ、手は止めないで下さい。』
ボールから絆創膏を取り出すと、彼女の側のデスクに置いた。
『それを渡しに来たんです。痕が残ってコンサート本番に奏者の顔が傷だらけじゃあ、恰好つかないでしょ?』
「あ、ありがとうございます......。」
『−−−いいえ。』
山根さんがおずおずと見上げてきた。
「........あの、緑川さんは、緊張とかしないタイプですか?」
コンサートやメディアに出る機会も多いですよね、と話題を振られて思わず何度も瞬きをする。
『−−−してますよ、常に。だからこそ、練習をいっぱいします。時間がある限り、本番でも自信が持てるくらい沢山。』
山根さんは、あぁだから常にバイオリンを持ち歩いているんですねと頷いた。私が首を傾げると、彼女は石原さんの名前を口にする。黄昏の館でメイドをしていた彼女の名前だ。
「彼女は、私の従姉妹なんです。貴女のことは少しだけ、聞きました。とても、努力家な方だと。」
『そうだったんですね。』
「.........はい。」
気まずい沈黙にそろそろお暇しようと口を開いた。
『−−−えーと、張り替え中にお邪魔してごめんなさい。』
それじゃ、私はホールに戻ります.......そう言って扉に向かった時だった。緑川さん、と呼び止められる。
「−−−本番、私の代わりに弾いてもらえませんか。」
彼女のか細い言葉に思わず振り向けば、山根さんはそのまま言葉を続けた。
「河辺さんの代役なんて、私には無理だったんです。それも、ストラディバリウスだなんて.......」
『..........私だって、ストラディバリウスなんて名器、弾いたことないですよ。』
「それでも、貴女には舞台度胸も、惜しみない練習を重ねられる根性も、持って生まれた天性の才能も備わってる。きっと私よりも、です。私なんかが、舞台に立つより−−−」
山根さんの言葉に目を細めた。
『.........山根さん。人生の中でストラディバリウスを弾くという幸運に巡りあえるのは、ほんのひと握りの−−−選ばれた人だけです。』
「私はたまたま.....河辺さんが負傷したからで......。」
『たとえ、それが偶然だったとしてもです。運も実力、ですよ。』
「.................。」
『そもそも私にはまだ、それを弾くだけの運も実力もありません。』
「............そんなこと」
『"弾き方はバイオリンが教えてくれる"でしたっけ。』
「..............?」
『プロの奏者がよく口にする言葉ですよね。バイオリンと仲良くしなくちゃ、私達は良い演奏ができないって。』
「.......仲良く」
『でもそれって、結局は楽器の音をよく聴き、音を楽しむってことなんじゃないかなと思います。』
「..............。」
『山根さんは、ストラディバリウスとの演奏を楽しんでいますか?』
「..........っ、私は........」
そう呟いたきり考え込む彼女に口元を緩める。山根紫音さんの演奏−−−楽しみにしていますね、と言って私は踝を返した。
その後は秋庭さんに促されるように、リハーサルの見学はお開きとなった。子供達との食事会では、秋庭さんが帝丹小学校の卒業生であること、合唱大会に向けた彼らの練習に参加してくれることが話題となる。
「小春お姉さんも来てくれる?」
うなぎの蒲焼を頬張る元太君や光彦君が歩美ちゃんに賛同するかのように頷いてくれる。園子先輩も練習に参加するようで、夜のイブニングパーティには間に合うように配慮してくれるとのことだった。私の隣で同様に箸を進めている千秋に視線を向ければ、彼女は掌を立てて不参加の意を示してくる。練習当日の土曜日、どうやら彼女には用事があるらしい。
『−−−って、何故、千秋も普通に食事会に混ざってるの?』
「まぁ良いじゃん。自分の分は自分で払うからさ。」
彼女の言葉に溜息をつく。子供達に向き直れば、土曜日の練習の参加の意を示した。
練習当日の土曜。合唱大会の課題曲は帝丹小学校の校歌だと言われた。指導役の秋庭さんは窓の外を眺めながらも、流れてくる音に耳を傾けている。調律の狂ったピアノの前奏を聴き、眉間に皺を寄せていたのがその証拠だった。
「みなぎる力で 試そう勇気を♪」
蘭先輩の伴奏に合わせてクラスの子達全員で元気良く歌い始める。
「−−−帝丹 帝丹 帝丹小学校〜♪」
『................。』
秋庭さんは歌い終わった一人一人にアドバイスを送る。彼女は、その子の良かった所と直した方が良い所を伝えていたのだが、コナン君の番になるや眉間に皺を寄せてジト目で覗き込んでいた。
「あなた、音外しすぎ!わざとじゃないでしょうね?」
指摘され狼狽え始めたコナン君を庇うように歩美ちゃんが叫んだ。コナン君は音痴なだけだもん、と。休日の音楽室が笑いに包まれる中で、私は秋庭さんに許可をもらうとバイオリンケースからバイオリンを取り出して手早く調弦を済ませる。それからコナン君を呼んだ。
「........何?小春姉ちゃん。」
からかわれるとでも思ったのか、げんなりとした様子でコナン君がやって来る。
『........コナン君は良い耳を持ってる。私はそれを知ってる。』
私は彼にそう囁いた。
「..........え?」
鼻歌で私が弾く音を歌ってごらん、と言いながらA(ラ)の音を出せば、彼はやや慌てはしたものの寸分と違わず的確な音を出してくる。それから何個か音を出した後に徐々に校歌のメロディーへと変化させていった。
「..........どの音も1発で、」
コナン君の様子を見ていた秋庭さんが大きく目を見開いた。クラスの子達もおおおっ!と歓声をあげ始める。
『.......コナン君は音感が良いから、伴奏の音やいろんな人の歌声を拾っちゃうんじゃない?そして、どっち付かずにつられてしまう。』
一旦、バイオリンをケースに納めてから彼を見上げれば、コナン君はコナン君で瞳をパチクリとしていた。
『−−−私のバイオリンの師匠が言ってたの。完全な音痴の人はいないって。』
この道のプロである秋庭さんを伺うように見上げれば、彼女はふぅと溜息をつく。
「−−−聴力さえあれば、大抵の人はね。」
メロディーに慣れるまでは君は鼻歌で馴らしてから歌うと良いかもね、と言いながら彼女はコナン君の頭をそっと撫でた。
その時だ。うぎゃあ、と悲鳴をあげて床に転がる元太君は、喉を抑えて苦しそうに悶え始める。彼の側に落ちていたのは水筒で、私は慌てて駆け寄った。
「−−−それ!私の水筒!!」
秋庭さんが信じられない、と言った目で床の上の水筒と元太君の間を行き来する。
「喉が.....喉が」
どうした元太!とコナン君が険しい顔で訊ねれば、彼は自身の喉を指し示した。涙目で顔を真っ赤にした元太君を抱きおこすと近くにいた園子先輩にヘルプを頼む。
『兎に角、水道水で口の中を洗い流しましょう。元太君立てる?』
意識ははっきりしているのだろう、コクリと頷く彼に安堵する。すすいだ後は、水を飲んで貰って..........既に体内に入ってしまった水筒の中身を少しでも薄めたいところだ。
「−−−誰かがその中に何かを入れた.......そう考えるよね。」
音楽室を出てすぐにある水道場に向かう最中で、コナン君が秋庭さんに訊ねる声が背中越しに聞こえた。
蘭先輩は秋庭さんの水筒を持って警察に行き、園子先輩と秋庭さん.....そして探偵団のみんなは、大分落ち着いた様子の元太君を近くの病院に連れて行くことになった。一方の私はというと。
「お姉さん、元太君大丈夫かな?」
「すごく、辛そうだった。」
「元太君、可哀想」
残された子供達の声に、笑顔を向ける。先程の騒動に驚きそわそわと落ち着かない子、涙を浮かべている子などを宥めながら音楽室の後片付けをしていた。元太君の付き添いに大勢はいらないこと、またこの残された一年生達をどうするのかという話しになった際に、その子達の面倒を見る役を買って出たのだ。元太君の状態は気にはなるので、今夜のイブニングパーティの際に園子先輩から直接聞くことになっている。
『応急処置もしたし自分でも歩けていたからね、きっと大丈夫だよ。後はお医者さんに任せよう?』
「.........うん。」
子供達の頭を撫でながらバイオリンを取り出すと、校歌のメロディーを奏でる。わーっ!と歓声が上がった。
『みなぎる力で、試そう勇気を......だよね?きっと元太君、今頑張ってるところだよ。だから、そんな顔しないで?』
私がバイオリンを弾いて帝丹小校歌の伴奏をするから、一度だけみんなで歌おうかと提案する。それを歌ったらみんなで帰ろうね、と。子供達はバイオリンの伴奏に興味を惹かれたのだろう、はーい!と元気良く返事をしてくれた。
鈴木財閥のイブニングパーティーは、思った以上に豪華だった。啓太さんに付き添ってもらいながら鈴木会長やその奥様、次郎吉様と挨拶を交わす。程なくして始まったパーティーでは、特別ゲストとして紹介され、エルガーの愛の挨拶をはじめ他数曲を啓太さんと一緒に弾ききれば、鳴り止まない拍手に安堵した。
「−−−小春!」
財界人の方々と無難な挨拶を交わしていれば、群青のマーメイドドレスを着用した園子先輩と目が合う。彼女に手招かれて傍に寄れば、会場とは別の控えの間に連れ込まれた。そこにはすでにマネージャーである文和さんが控えている。
『.........もしかして元太君の状態が悪かったんですか?』
あー、違う違う!と園子先輩が笑った。
「ガキンチョは元気元気。声は出しづらいみたいだけど、数日すれば治るって。」
良かった、と胸を撫で下ろした。
「それより−−−襲われたのよ!」
鬼気迫る園子先輩の様子に首を傾げる。彼女達は元太君の診察が終わって帰ろうとした時に、一方通行を逆走してきたトラックに轢かれそうになったとのことだった。それも彼女達が道路脇に避けても追いかけてくる辺り故意的なものだったらしい。幸い、誰も怪我はなかったようだけれど、追いかけた先に停まっていたその問題のトラックは、既にもぬけの殻で.......犯人を捕まえることができなかったと悔しそうに園子先輩は拳を握った。
「−−−し、か、も!」
彼女は秋庭怜子さんの愚痴を言い始めた。彼女はどうやら、貴方達と一緒にいたら面倒なことに巻き込まれかねないと言って一人だけタクシーに乗って帰ってしまったらしい。なんて自己中な人かしら!と園子先輩は憤慨していた。
『........少しは落ち着きました?』
「ええ。スッキリしたわ。」
その後はある程度感情を爆発させて落ち着いたのだろう。怒鳴ったら喉が渇いちゃったから何か飲んでくるわね、とケロッとした様子で彼女は控えの間を出て行ってしまった。
彼女の出て行った扉を見つめながら、本当にそうだろうか?と首を傾げる。
元太君が飲んでしまったとはいえ、あれはおそらく秋庭さんを狙ったものだろう。トラックの件はその場にいなかったので分からないが、それだってもし秋庭さんを狙った犯行だとしたら。彼女が一人別行動をとることで、他の人を危険から遠ざけようとしていたのではないだろうか。
「−−−また、考え事ですか?」
『文和さん..........そういえば、会場にいませんでしたね。』
彼は苦笑した。サングラスなしでは、あの会場は少々眩しいですからと言う。
「貴女が周りに気を遣って飲み物や食事を摂ろうとしないので、鈴木のお嬢さんがこの部屋を手配してくれたんです。ここで休憩を取りなさいってことなんじゃないですか?」
彼の言葉に成る程と頷く。どうりでこの部屋のテーブルには所狭しと食事や飲み物が置かれているわけだ。けれど、園子先輩。私達、こんなに食べられないです。
「−−−それと、少し耳に入れてもらいたいことが.....」
真剣な面持ちの文和さんの様子に、二つのグラスにオレンジジュースを注ぐ手を止めた。
「.......事務所に脅迫状が。それも貴女宛です。」
『.....脅迫状?』
思わず眉間に力を込めた。コクリと彼は静かに頷く。
「−−−堂本記念公演に出席すれば、お前は地獄を見るだろう、と。」
『............っ!悪戯かな?』
「悪戯だとしてもタチが悪すぎます。」
既に警察には届け出ました、と彼は言った。流石、仕事が速い。
「今回は聴講を辞めましょう。リハーサルは見学できたんですよね?」
『..........でも』
煮え切らない私の様子に、文和さんは大きな溜息をついた。
「−−−ただでさえ、貴女は色んなことに巻き込まれているんです。バイオリニスト生命..........挙句、命まで失っても本当に良いんですか?」
文和さんの言い分も最もだ。今回はダメでもまた次回があるだろう......そう渋々ながらも私は彼の提案を受け入れた。
「−−−それと、もう一つ。」
『........また悪い報せですか?』
文和さんは苦笑した。
「−−−演奏依頼です。会場は森谷帝二氏の自宅で、彼主催のガーデニングパーティーになるようです。」
森谷帝二?と首を傾げれば、日本を代表する著名な建築家ですよと答えが返ってくる。東都大学建築学科の教授もしているらしい。
『..........いつですか?』
「明後日月曜の15時からです。平日なので学校もありますし、一度はお断りしたのですが.........貴女にどうしても、と。」
私は大きく溜息をついた。随分とまた急な話である。
「合わせはなくバイオリンのみの演奏で1-2曲で良いとのことでした。」
その依頼は引き受けざるを得ないのでしょう?と訊ねれば、すみませんと謝られる。楽しみにしていた堂本公演に行けなくなるわ、学校を早引きしないといけなくなるわで、どんどん投げやりな気持ちになってきた。
『.......モンティのチャルダッシュ弾こうかな。』
グラスに入ったオレンジジュースを眺めながらそう呟けば、文和さんは苦笑した。モンティはイタリアのナポリの作曲家だ。チャルダッシュとは、酒場風という意味がある。
「それはちょっと。ガーデニングパーティの雰囲気もありますし.....。」
『パーティーなんて名ばかりの、酔っ払いの集まりみたいなものじゃないの?』
「........森谷氏はイギリス育ちだと聞きますし、おそらく本場の優雅なアフタヌーン・ティーパーティーになるんじゃないでしょうか?」
『−−−なら、ユーモレスクとか無難な曲にします。確か、クライスラーが編曲した楽譜、持ってますから。』
それから先日買ったばかりの楽譜の一つを思い浮かべる。折角だし、少し毛色の違う曲を入れてみようかな、と。
「チャルダッシュだけはやめて下さいね。」
『........良い曲なんですけどね。』
TPOですよと彼は笑い、私も彼につられて笑ってしまった。
その夜から日曜にかけて、堂本アカデミー出身の男性二人の死亡事件、そして黒川邸が放火される事件など、暗いニュースが相次いで報じられることとなる。