緑灰に散る

―――――――…
桜の花びらが舞う四月。風は春の香りを沢山運んできている。


私は真新しい制服を着こなし鞄を持つと、目的地へと急いだ。向かった先は"緑川病院"。名前の通り、私の父さんが医院長を勤める病院でもある。うちは代々医者の家系で、他にも二つの系列病院も持っていたりする。病院の自動ドアを通ると、クラークさん達が会釈をしてくれた。


『……あ…』


病院独特の匂いが春の香りを霞めてしまい思わず眉間に皺を寄せた。この匂いにはなかなか慣れないな、と一人愚痴る。


「あれ?小春ちゃん、今日もお母さんの見舞いかい?それとも緑川先生に会いに?」


低く落ち着いた声に私は振り向く。そこには、去年から緑川病院に医局人事で異動してきた降谷零さんがいた。


『今日、高校の入学式があったんです。だから、母さんに制服を見せたくて!』


「そっかー、今日が入学式か。懐かしいなぁ。実は小春ちゃんの高校って俺の母校でもあるんだよ。」


知ってる。だからこそ、その高校に合格するために頑張って勉強したのだから…と内心で呟くも、そうなんだーと惚けてみせた。零さんはそんな私を見ながら何かを悟ってしまったのだろうか、ニコリと微笑むと膝を折って視線を合わせてくれる。それから、ポンポンと優しく頭を撫でられた。


「そのセーラー服、似合ってるよ。―――――可愛い。」


その瞬間、ボンッと音がでるくらいに私の頬は熱くなる。きっと可哀相なほど真っ赤になっていることだろう。恥ずかしいのと赤い顔を見られたくないのと…とにかくいろいろな気持ちがごちゃまぜになり、咄嗟の予防策として下をむくと、上から声を押し殺したような笑い声がした。
……からかわれた。そう理解した私は、真っ赤な顔をそのままに零さんを睨みつける。


『零さんのイジワルッ!』


彼はいつもそうだ。私をいつもいつも子供扱いするし、からかうし……でも、格好良くて、看護師や女医からも人気で、医師としても期待のホープなんて言われてて、笑顔がとても素敵で―――


「いや、ゴメンゴメン。小春ちゃんって反応が素直だから可愛いくて。」


零さんはズルい人だ。その笑顔で"可愛い"なんて言われれば、怒るにも怒れない。それどころか、嬉しい…なんて思ってしまうのは、変、なのかな。サラサラと揺れる、彼の色素の薄い髪がとても綺麗に輝いて見えた。


――零さんとは、私が五歳の時に初めて出会った。私が公園で泣きじゃくっていた所を当時高校生だった彼は、私をあやして泣き止ませてくれ…挙げ句、家まで送ってくれた。その時繋いでくれていた大きくて温かな掌の感触は、今でも忘れられない。…子供ながらとても安心したし、胸が高鳴ったのを覚えている。私の初恋の人だった。もう十年間も密かに想い続けている。


私は個室のドアをノックすると、返された許可に扉を開けて中に入った。


『母さん、身体はどう?』

「大丈夫。それより小春、今日は入学式だったわね。おめでとう。制服、似合ってるわ。」

『……そう?へへへ。』

「うん、さすが母さんと父さんの娘ね。」


私はその場で一回りしてみると、母さんは満足そうに頷いていた。
母さんがここに入院してから、もう三ヶ月が経つ。今はこうやって元気そうに見えていても、母さんの身体の中には確かに病魔は潜んでいた。三ヶ月前よりは目に見えて痩せたし、一週間前よりも隈が酷く、頬がこけてやつれているようにすら思える。病衣から覗く腕は驚くほど白くて細くて、見なければ良かった…ととっさに目をそらした。


脇に控えた椅子に座りながら、嫌な予感を振り払うように今日の入学式について母さんと語り合った。担任の先生はどうだった、とか、友達できそう?、とか、校長先生の話はつまらなかった、とか本当にありきたりで、たわいのない話。けれどそんな一時が、幸せだった。


『……父さん、今日ここに顔出した?』

「え。ううん、何か用事?」


『じゃなくて、母さんが入院して一ヶ月過ぎた頃から…父さん、全然母さんに会いに来ないじゃん。薄情だなって。』

「…父さんだって忙しいのよ。他にもいっぱい患者さんがいるし…それに―――」


『それに?』


「こんな弱り切ってしまった姿、父さんに見せたくないのよ。―――美人な母さんのイメージが崩れちゃうじゃない。」


ガクリと、椅子から転げ落ちそうになる仕草をしてみせた。

母さんはこう言っているけれど、本当はずっと父さんに会いたがっていることを知っている。病室の棚や冷蔵庫には、いつ父さんが来ても良いように、父さんの好きなものが置いてあるのだから。私はそんな母さんの気持ちに、気づかないふりをすることだけしかできない。

「――――ねぇ、小春。」

『ん?』


「貴女のバイオリン、聴きたいなー。今度のコンクールは夏だっけ?」


『そうだよ。でも高校の授業も始まるし、参加しようかどうか迷ってるの。趣味としては続けたいけどね。医学部受験、考えてるから…ちゃんと勉強もしないと。』


「貴女なら大丈夫よ。両立できるわ。」


『えー、そんな簡単に言っちゃって。どこからその自信が………』


「父さんと母さんの子だからよ。」


ドヤ顔同然に言われれば、またそれ?と言って苦笑する。


「小春、自分の可能性を狭めたらダメよ。小春のやりたいことなら、母さん、全力で応援するから。」


母さんは、ピアニストだった。父さんとの結婚を期に舞台をおりて、妻として、母としてずっと家庭のサポート役に徹してきた人だった。


『母さんは………後悔してるの?もっと、続けたかった?』


私の言葉に彼女はきょとんと首を傾けてから暫く、合点したのか苦笑を零した。


「全く後悔がない人生を送れる人がもしいるのなら、是非会ってみたいものね。」


『……。』


母さんは私の腕を掴むとそっと引き寄せてくれる。


「でも、貴女に出会えない人生はとてもじゃないけど考えられない。」


身体の線が細くなってしまった母さんはとても小さく感じた。


「それに、一度落ちちゃった恋はとめられないしね!」


『..............へ?』


母さんは勢いよく私を離すと、ニコニコしながらもう何度目かと呆れるほどの両親の馴れ初めについて語り出した。


『惚気は、もう良いよ。お腹いっぱい。』

「つれないわねー。それじゃあ、貴女の恋はどうなのかしらぁ?」


ニタリと口端をあげる母さんを見て、思わず顔を引攣らせた。




『…何のこと?』




「零くん。あ、零先生ね。彼、毎日ここに来てくれてるのよね。今じゃ、私の方が貴女より仲良しさんなんだから。」


『う"』


「でも、そっかー…零くんもアレじゃあ女に困らないわよね…貴女もたーいへん。」


ニヤニヤと私を見ながら笑う母さんに、いつからバレてたの!?と驚きを隠せなかった。恐らく顔も真っ赤だろう。


「そりゃあ分かるわよ。何年貴女の母親やってきたと思ってるの?母さんをナメないでよね。」


『………恐るべし。』


それから私達は笑い合っていたのだけれど、暫くして母さんは検査に呼ばれてしまった。
私は部屋を出ていく母さんに、花瓶の水を交換して帰るとだけ伝えると私も病室を出た。


水道の蛇口を緩める。空っぽの花瓶に水を入れて、花を綺麗に生けていく。最初は慣れなかったこの作業もさすがに三ヶ月が経てば上手くもなっていて、見栄えは申し分ないほどに造れるようになっていた。


「器用だね小春ちゃん。さすが緑川先生の娘さんだ。」


振り向くとそこには零さんがいた。


『…あの人と一緒にしないで下さい。同じ病院にいるのに母さんの病室に全然顔も出さないなんて。非情にも程がある。』


私の言葉に彼は苦笑していた。所詮うちは私立…つまり個人経営だ。国から援助を受けている大学病院ですら赤字経営が多いこの世の中で、財源やスタッフの数も限られている。院長としていろいろと忙しいのは分かっているつもり。だけれど……。


「……小春ちゃん、」


零さんは私の頭をポンポンと叩いてくれた。


「…いやー、にしても小春ちゃん綺麗になったね。引く手数多だろ。俺があと七、八年若かったらなぁ。」


ドキリとした。先程の暗い雰囲気を払拭するかのように放たれた彼の言葉は、私を放心させるには充分事足りるものだった。
ドキンドキンと相変わらず心臓が早鐘のように鳴っていて、酷く煩い。


『……あ、』

「降谷先生、こちらでしたか。鈴木先生が―――」

「――ごめん小春ちゃん、じゃあ俺仕事戻るな。」


私が言葉を返す前に零さんは早口でまくし立てると、急ぎ足で去っていった。

暫くして我に返った私は花瓶を持って廊下に出る。ナースステーションの前にいた看護師さん達に一礼を返すと母さんの病室に戻ろうと歩を進めた時だった。


「え、降谷先生が結婚?」


聞こえてきた内容に思わず足を止める。


「そうなのよ。来月にね…。なんでも大学時代から付き合っていた彼女とだって。」


「本当は卒業と同時に結婚する予定だったんだけど、彼女がまだ学生だったから待ってたんだって。」

「律儀…」


その後の彼女達の残念そうな声色も好奇を含む声色も、私の耳には雑音として響き渡った。






――――――――…

ジメジメとした湿気の中、雨と土の香りが入り混じる六月。最近、母さんは高熱を出したらしく具合は良くない。それなのに、相変わらず父さんは母さんに顔も出していないようだった。
そんな日々の続いた、金曜日。この日は容赦なく朝から雨が降り注いでいた。
少しずつ慣れた学校のお昼休み、私は先生から呼び出されて…その聴かされた内容にそのまま傘もささずに学校を飛び出した。


走って走って走って…
息が乱れるのも転びそうになるのも、靴下やローファーに泥が跳ねるのも構わずに走り続けた。


『―――母さんッ!』


私は通い続けた個室の扉を開けた。
そこには、必死で母に心臓マッサージをしてくれている医師の姿−−−−零さんの姿があった。額や首元には大粒の汗が走りその周りを湿らせている。


「先生!娘さんがいらっしゃいました!」

「院長は!?」

「連絡は入ってるはずですが、まだ……」



看護師の声が遠くに聞こえる。
ふらつく足を叱咤させて横たわる彼女に恐る恐る近づいた。そして察する。
――――あぁ、もう、ダメなのだろう。
その事実を認めるのが怖かった。それでも。


『先生……もう、やめてあげて。母さんの身体は限界なんでしょ?』


出てきた言葉はそれだった。


『………母さんを楽にさせてあげたいの。私はもう充分。父さんのことも待たなくて良いから。』


私の言葉を聞き、零さんは一度悔しそうな声を上げてからゆっくりと手を止めて身体を離す。
−−−−モニターは0を指していた。


『ありがとう、私が来るまで処置を続けてくれて。』

「………、ーー時ーー分…ご臨終です。」


私は死後の処置をお願いするとそのまま病室を退室した。

−−−−…

呆然としている中で勢いよく足音が聞こえ、暫くして現れたのは―――この病院の院長……父さんだった。


『………今更、何しに来たの。』

声が震えた。


「…………」


『母さん、ずっと父さんのこと待ってたんだよ?なんで会いに来なかったの?そんなに仕事が大事?母さんよりも、他の患者の方が大事なわけ!?』


私は言い切る前にポロリと落ちてきた涙を、ぐいぐいと袖で拭う。父さんがそれでも無言で母さんに近づこうとしていたため、両手を広げてそれを阻止した。


『母さんに近寄るなっ!!』

父さんは私の言葉にピタリと動きを止めた。


『医者のくせに、どうして母さんを助けてくれなかったの?
………母さん一人救えなかったくせに、何が医者よ、何が院長よ―――この人殺しっ!大嫌い!』



「小春ちゃん!」


ずっと側に控えていた零さんが呼び止める声にも反応することなく、私は病室を飛び出した。



「―――小春ちゃん!!」


病室の中庭に出たところで、私は零さんに肩を掴みとられる。と、同時に彼の温もりに包まれていた。

降り注ぐ雨が私と零さんを濡らす中で、冷えた身体はそれでも互いの体温で暖かい。


「―――小春ちゃん。」

『――――ッ。』


零さんは静かに自嘲した。


「人殺し、か.......アレは結構効いたよ。」


『............。貴方に言ったんじゃ』


「一緒だよ。結局、君のお母さんを助けてあげられなかったんだからね。」


『...............』


否定をしたいのに、言葉が出てこなかった。



「…君は強い子だ。大丈夫。...大丈夫だよ。」


零さんの言葉と力強く抱き留められる腕に、泣きそうになる。どうして、そんなことを言うの?どうして、貴方は私を抱きしめているの?優しくしてくれるの?それなら…それならさ…


『零さんがずっと私の傍にいてください!』


私は零さんの背中に両腕を回した。もう、言葉をとめられなかった。


『本当は十年前から…傍にいて欲しかった。私を....小春を一人にしないで下さい!』


零さんが驚き息を呑む音が直に感じられる。

『……お願い…!』


零さんの腕が私の背中から落ちていく気配がした。温もりが去ったその背中は酷く虚しく感じられる。

「………ごめん……俺は……」


私は、予想していた言葉を聞く前に彼から離れた。零さんに背中を向けてゴシゴシと瞼を拭う。彼を、困らせたいわけじゃなかった。


『……嘘です。もう私のことは構わず、業務に戻って下さい。――患者さん、待ってるんじゃないですか?』

「小春ちゃ…」

『良いから行って!!......今日くらい、我儘を言っても良いでしょ?』


私はクルリと身体を振り向かせると零さんを見上げた。


『大丈夫。"私は"強いんでしょ?だから一人でも平気です………さようなら。』


私はそれだけ言うと、呆然としている零さんを置いて病院を後にした。


『……うまく、笑えていたかな?』


追いかけるほど、すり抜けていく大事なもの。どうしてこんなに物事は上手く運ばないのだろう。どうして、みんなみんないなくなってしまうのだろう。
……それが酷く寂しかった。



――夏の匂いが微かにする。
次の季節がもう目の前まで来ているはずなのに、私の記憶はそこで閉じられた。

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