憂鬱な終演

無事に譜和さんの犯行は止められたのだろう、堂本さんの演奏が終わっても会場が爆発することはなく、客席に避難指示が出され始めている。警察の方から事情を聞いた秋庭さんと堂本さんが譜和さんの待つ応接室へと向かう中で、部外者である私は静かにステージを後にした。


「ーーーー緑川さん」


声をかけてくれたのは山根さんだった。リハーサル時と比べて頬が大分痩けていたが、それでも彼女の瞳は活き活きとしている。



『山根さん達の演奏を邪魔してしまい、すみませんでした。』


頭を下げれば、彼女は慌てたように首を横に振った。堂本さんのソロの演奏が終わる前に、どうやらある程度の事情は秋庭さんから聞いていたらしい。


「緑川さんのアドリブ、とても素敵でした。」



彼女に微笑まれた。思わず演奏を止めてしまいましたよ、と続けられる。
彼女はそう言うが、あのアドリブは下策だった。確かに時間自体は稼げたかもしれない。けれど、私のあのアドリブのせいで堂本さんの音楽家としてのプライドを刺激してしまった可能性があった。ラストのアドリブがそれだ。結果としては爆発は起きなかったが......それでも一歩間違えれば大惨事になっていただろう。



「それに、久しぶりに音楽を楽しむという感覚を取り戻せたような気がします。緑川さんのお陰です。ありがとうございました。」


彼女の言葉にゆっくりと首を振った。


『.........私は何もしてないですよ。』


この短期間でストラディバリウスの音色を引き出せたのは、彼女自身の才能と努力があったからこそだろう。私の言葉は、ただのきっかけに過ぎなかった。









避難が少しずつ進んでいく中で、閑散とした廊下に私はいた。対面するのは、先程譜和さんと共にいたコナン君だ。山根さんと別れ、快斗君と合流しようと廊下を移動している時にどこからともなくコナン君がやって来たのだった。



彼の話しによると、一連の事件の犯人であった譜和さんは、あの銃声の後に警察に逮捕されたらしい。チャリティーコンサートでの事故も、事務所への脅迫状も、絶対音感を持つと言った私を会場に近づけさせないために彼が行ったことだった。


「無関係な君を巻き込んで、すまなかったって。」


『.......そう。』



犯行に至った動機としては、彼のご子息を事故死させた者への復讐、及び専属ピアノ調律師としての役目を奪った堂本さんへの怨恨だった。そして私と千秋が感じていた第一の爆破事件におけるグランドピアノの音の狂いは......加齢に伴って音感が狂ってしまった譜和さんの調律のため。譜和さんはその事に無自覚だったようだが、堂本さんは予てから気づいていたらしい。だからこそ、彼はピアニストとしての幕を閉じた。新たにオルガン奏者となることで、長年の友の調律師としてのプライドを守ろうとしたのだ。そしてその結果、皮肉な事に、自体は益々悪い方向に進んでしまった。






「ーー小春さん。そのバイオリン、少しの間だけ貸して欲しいんだ。」


どうしても、演奏を聴かせたい相手がいるらしい。チャリティーコンサートの事件のことでコナン君の演奏機会を奪ってしまった負い目もあったため、私は自身のバイオリン一式を彼に手渡した。



『.......良いけど、このバイオリンは分数じゃないよ?』


「うん、大丈夫。」



すぐ返すね、と言って彼は走り去っていった。彼の姿が見えなくなるのを認めれば、その場にしゃがみこむ。



「小春!」



馴染みの声と、駆けぬける足音が廊下に反響した。



「ーーーー小春、ナイスな時間稼ぎだった........ってもしかして具合が悪いのか?」


背後から聞こえた快斗君の声に首を横に振る。コナン君の話を聞いた私はちょっとした自己嫌悪と後悔に陥っていた。どうしてあの時、私は音の狂いをもっと突き詰めていなかったのだろう。あの違和感をもっと深く追及していれば、被害を最小限に抑えることができたんじゃないか、と。けれども、今更嘆いたとしてもその全てが手遅れだった。一度大きく溜息を吐き出すと、一気に立ち上がる。



『ーーちょっと気が抜けちゃっただけだよ。快斗君も無事で良かった。』


「.......ああ。」




その時だった。快斗君のスマホの着信音が鳴る。どうやら彼は、通話の相手との至急の用事ができてしまったらしい。ホテルまで送る、と最後まで粘っていた快斗君だったけれど、私を狙っていた人物が譜和さんであることがわかり、彼が逮捕された今、ボディーガードも必要ないだろうと無理矢理納得させたのだった。







「ーーーー此方のカウンター席にどうぞ。」


ホテルに戻る前に、少しだけ遅い夕飯を食べにsundayrinoに寄ることにした。席に着き、料理を選んでいる中でふと背後に位置したテーブル席の話し声が耳に入る。二人組の女性だ。




「カナコ、幸せそうだったね。」


「良い式だったよね。カナパパが男泣きした時さ、思わずもらい泣きしちゃった。」


「そりゃ泣くっしょ。男手一つで育てた一人娘が嫁ぐんだから。」



どうやら披露宴に出席した女性達が、飲み直しているらしい。ドレスを身に纏った彼女達は陽気に笑っている。



「いや、まさかカナコとアツシが結婚するとはね。私はてっきり.....。」


「まー、何が起こるか分からないのが人生ってもんでしょ。あー!私も早く結婚したーい!!」


「はいはい。まずは彼氏を見つけようね。」


「くっそー!!今度こそは絶対に良い男見つけてやるぅぅ!!」


そう叫んだ彼女に彼女の友人が笑った。


「ーーーー知ってる?父親の存在が、実は恋愛に大きな影響を与えているらしいよ。」


彼女の言葉が聞こえた瞬間に、思わずメニューを眺める手を止める。なになに、どういう事?と好奇な声色が背後から襲ってきた。


「幼い頃、実父からのスキンシップが多かった女の子の方が良い男を見つけやすいんだってさ。」


えー、なんでなんでとブーイングが湧き起こった。


「さぁ。本当に愛されてるっていう感覚を、その身をもって学習するからじゃない?一種の判断基準が出来るっていうか。」


本当かどうかは知らないけどね、と同時に笑い声が漂い流れる。









『........父親、か。』


ポツリと呟いた言葉は誰に聞かれる事もなく、店内のBGMに紛れて霧散した。











ホテルに戻ってからドレスを脱いで普段着に着替えると、充電中のスマホを置いて部屋を出た。向かった先は秀一さんの部屋の前。彼の部屋の扉に背を預けると、静かに溜息を零した。訪ねる約束をしていない今夜、この時間に押しかけるのは少々不躾かもしれない。そう思い直した私は元来た廊下を戻ろうと背を離した。




「..........小春?」



かけられた声は秀一さんのものだ。振り返れば、彼はコンビニの袋を手に持っていた。


『........あ......あの.....』



秀一さんは静かに私を見下ろした後に、部屋の鍵を開け始める。そのまま開け放たれた部屋を指し示すように、彼は短く首を振った。






『.......アポもなしにごめんなさい。』


「別に構わない。」




互いに、向かい合わせのソファーに落ち着けば、テーブルの上に置かれた袋を見下ろす。今から夕飯?と訊ねれば、彼は頷いた。君は?と問いかけられため、既に済ませてある事を伝える。



『......あの、私に構わず食べて?』



そう言えば、彼は暫く逡巡した後にそっと手招きをしてくれる。私は瞼を何度か開閉させた後についに我慢ができなくなってしまい、彼の首元に抱きつきに行った。頼もしくも受け止めてくれた秀一さんの喉が、くつくつと笑っている。彼の両腕が私の背中に回った。



「........今日は一段としおらしいな。何かあったのか?」


私は彼の首元に顔を埋めこんだままに呟く。秀一さんが、私のお父さんだったら良かったのにと。それを聞いた彼は、盛大に苦笑した。



「おいおい。幾ら何でも高校生の娘を持つ歳ではないつもりなんだが。」


『..........私が娘じゃ、秀一さんは嫌?』


「...........嫌だと言ったら?」



からかい混じりの声が静かに囁く。彼の肩に掴まる自身の手に、力を込めた。



『だったら私.........秀一さんとスキンシップしたい。』



珍しくも、先に固まったのは秀一さんだった。彼は長い沈黙の後に私の両肩をゆるりと離せば、視線と視線が交じり合う。彼の透き通るようなエメラルドに、困惑の色が僅かに滲んでいた。



「..........スキンシップはこれでも取ってる方だと思うが。」


『違うの。もっと、大人のやつを.......私に、教えて欲しい。』


「......大人のやつ?」




『......うん。お願い、秀一さん。』



「............。初めてだな。」


『.............え?』


「初めて、君の考えていることが分からなくなった。」


『........私の考えていることなんて、今言った言葉の通りだと思うけど?』



「................。」





秀一さんは徐に左手を私の額に押し当ててくる。熱は、ないなと言う彼の落ち着いた声色が聞こえた。それから秀一さんは大きな溜息をつくと、あっという間に私の背に片手を回して横抱きにする。突然の浮遊感に慌てて彼の首元に抱きつけば、静かに傍のベッドに降ろされた。上掛けを整えられて、頭を優しく撫でられる。




「今日はこのまま寝た方が良い。随分と君は疲れているようだ。」





胸元で規則正しく刻むリズムに、徐々に瞼が重くなっていく。最後に見えた秀一さんの表情は−−−先程の戸惑いが綺麗に無くなりどこか安堵した様子を見せていた。






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安室さん寄りの作品だった筈が......。
カナコとアツシとその女友達二人はバイナリービートの最初にモブキャラとしてチラッと出てきたり....。少しだけ大人になって、再登場。

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