一転した世界

気がついた時には、世界が変わっていた。



ーーーーーーー

緑川小春。名前は変わらない。
けれど、何故か私は中学三年の春に逆戻りしていた。
父の職業も変わらない。けれど、父は緑川病院ではなく、杯戸中央病院の院長になっていた。母は10年前に既に亡くなっていて、私は父の妹である叔母に育てられた、らしい。

そして、現在は......中三の冬。時折粉雪が降り始め、しっとりした、雪特有の匂いが辺り一面に香り始める。高校受験を二ヶ月後に控えたこの時期、普通の中学生ならば受験勉強の真っ只中である。

漢文の授業中に先生と目があって、次に当てられる、と即座に思った。というよりも、むしろ当ててほしくて、私はずっと先生の視線を捉えようと追いかけていたのだけれど。

「じゃあ、緑川さん。五行目から和訳してみて。」

『はい。』

私は、教科書を持ちながら椅子を引いて立ち上がった。これでも昨日はきちんと予習をしてきたんだ。自信は上々。

『君子は言う。「太古より各々の国を治める―――」』


そこまで訳した時だった。教室のドアをノックする音がして、返事を待たずに誰かがドアを開けたのである。

「―――小春、もう出ないと間に合わないのよ。すぐ仕度して!」


嘘でしょ.....と小さく溜息を吐いた。


『………今は授業中ですよ。』


そこに立っていたのはスーツ姿の叔母だった。クラスの皆は物珍しそうに、私と私の叔母の間で視線を行ったり来たりしている。とても恥ずかしくて、顔から火がでてきそうだった。

「あの…緑川小春さんのお母様ですか?」

漢文の女性教師はようやく驚きから醒めたのか、おずおずと話し始めた。

「叔母です。」

「失礼しました。しかし、あの、今は授業中で―――」


「そんなことは分かっています。けれど、この子は今夜、バイオリンのリサイタルがあるんです。飛行機で行かないといけないんです。今出てもギリギリなんですよ!」

「小春さんがバイオリンの演奏家だということは承知しています。しかし、今は授業中で―――」

「何もご存知ないのですね。」


叔母はまだ二十代の若い先生を小馬鹿にするような目で眺めながら言葉を続ける。


「この私立中学に小春を入学させるときに、こちらの学園長の方とお話しして、この子の場合、特例として授業を抜けることを認めて下さることになってるんです。」


「……。その話は初めて伺いましたわ。」

「お疑いでしたら、学園長先生にお確かめ下さい。小春、何やってるの!」


叔母から飛んできた怒鳴り声に、私は気まずい沈黙の中、教科書を閉じると、手早く鞄へしまい、先生の方へ一礼してから席を離れた。


「急ぐのよ。車が待っているから。」

叔母はブレザーの制服姿の私を押し出すようにして先に行かせると、一度振り返り「お邪魔しました」と言うと静かにドアを閉めた。


――――――…

校舎を出ると、待っていたワゴン車に乗り込む。後部座席の左側にはすでに私の愛用するバイオリンがハードケースに入って丁寧に置かれていた。運転席でハンドルを握っている、二十代半ばの男性マネージャーは叔母の合図と共に車を発進させた。光に弱いということで常にかけているサングラスは、顔立ちの良い彼にとてもよく似合っている。


「文和(ふみかず)さん。飛行機間に合うかしら?」

「間に合わせます。」


ミラー越しに彼のサングラスの奥の視線と合った。文和さんがそう言ってしまえば、本当に間に合ってしまうから時々私は彼が魔法使いではないかと思うことがある。実際、今日もいつもなら大渋滞の羽田へ向かう高速道路が信じられないほど空いていて、空港に着いてみれば、30分近くも時間があったのだ。きびきびとよく働く私のマネージャーは叔母から(もちろん私もだけれど)信頼されていた。


「何か軽く食べておきます?コンサートが終わるまでは食べられないでしょうし。」


文和さんに言われて、少し考える。今はまだお腹はすいていない。けれど、演奏中にお腹がグーッっと鳴るっていうのは……なんと言うか、惨めだ。結局私は、文和さんにお握りを買ってきてもらうことにした。


『啓太さんは?』


鈴木啓太さん。初老の男性だ。私のコンサートで、いつも伴奏をしてくれるピアニストである。


「たまたま、今日の会場の近くでコンサートがあって、向こうのホールで待っているって。リハの時間が取れるといいけど。」

『大丈夫だよ。』


叔母の言葉に私は、少し肩の力を落とした。もし飛行機が遅れたりすると、リハーサルなしでいきなり本番なんていうことも起こる。けれど、そんな時、いつも組んでいる啓太さんとなら、私のテンポも癖もすべて飲み込んでいるので楽なのだ。


「はい。梅お握りで良かったですか?―――本当はできたら会場には前の日にいつも入ってもらえると、無理のないスケジュールが組めるんですけどね。」


文和さんからお握りを受け取りつつも、私は抗議した。


『義務教育中の学生だよ?受験を控えた中学三年生にとっては、今でも充分無理です。』


「何言ってるのよ。貴女は、もう高校決まってるじゃない。」

『叔母様……。』


私と叔母の会話を横目で見つつも、文和さんはそれ以上何も言わなかった。


「緑川小春よ。」


周囲から小さく囁く声が聞こえる。
緑川小春。小学生で、すでにバイオリンの天才少女と呼ばれ、TVや新聞、雑誌に顔を出していたらしい。
この世界に来て、バイオリンを握った時ーー今まで以上に高揚感が溢れて、身体が独りでに動いた。
母さんの病気や医師の家系ということもあり、どちらかというと、一番に勉強、その次にバイオリンとしていた私としては驚くべきテクニックが既に備わっているのを感じていた。

母さんを失ったあの確かな悲しみも、零さんと離れた寂しさも未だに癒えないし、その記憶も鮮明に覚えてはいる。けれど、"この世界"にその痕跡が一切残っていないことを知ってしまえば、この気持ちを発散させるのにバイオリンは丁度良かった。


クラシック音楽の世界ではスターと言っても、東京ドームを満員にするわけではないけれど、私は今、1500〜1600くらいのホールなら、充分に満員にすることができた。そして、私の場合、不本意ながらその容姿も人気の理由の一つだった。宣伝文句として"美少女バイオリンニスト"なんて書かれてしまうのも常だ。
けれど、クラシック音楽の世界では、どんな美少女でも実力が伴わなければ、すぐに飽きられてしまう。私はそれを母さんの話しで既に知っていたし、自分が実力ではなく顔で評価されることが嫌だった。だから、宣伝チラシにも、わざと写りのよくない写真を使うのも常だった。


"自分の可能性を狭めないで"


母さんのあの言葉が私の支えで、母さんが見てきた世界を私も見てみたいーーーーーーそう考えたら、私の行動は一つだった。


――――――…


ニ曲めのアンコールが終わって、私と啓太さんはステージの袖へ戻ってきた。


「ご苦労様です。」


文和さんが私と啓太さんに冷たいタオルを渡してくれる。私は叔母にバイオリンを預けて、タオルで手を拭った。顔を拭いてしまうと化粧が落ちてしまうため、軽くタオルを当てるだけにしておく。


「どうする?」

啓太さんに聞かれる。意味はもちろん、アンコールの三曲めをやるか?ということだ。


『トロイメライ〈夢〉を』


「すぐ弾くのも変ですし、もう一度出てからにしませんか?」


文和さんの申し出に啓太さんは首を横にふった。


「早く出たい。車で今夜中に大阪に行っておきたいんだ。」


『じゃあ、弾きましょう。けど、その前に調弦させてね。』


熱演が続いて、弦が少し緩んできている。私は、客の前で長々と調弦するのは好きではなかったため、舞台の袖で弦を張った。



『―――OK。』

私は啓太さんに頷いてみせてから、バイオリンを手にステージへ出ていくと、客席を埋めた客はまだほとんど帰っていなかった。ステージの中央へ出て、深くお辞儀をする。赤いドレスを着た私は到底中学生とは思えないほどに見た目だけは大人びてしまっている。このドレスを選んだのは、もちろん叔母だった。


私がバイオリンを構えると、拍手は一段と高まった。啓太さんがピアノに向かう。譜面は必要なかった。


『では、最後に―――シューマンの〈トロイメライ〔夢〕〉を。』

拍手が一気にホールを揺るがし、すぐに静まった。弓を右手に、目を閉じた。弓が弦に当てられてバイオリンは朗々と鳴り出す。

シューマンのトロイメライは〈子供の情景作品15〉の中の一曲である。演奏技巧的には決して高度なものではない。しかしだからといってこの曲集は曲目通りの子供のための曲ということではなく、むしろ年をとった人のために意図されて書かれたらしい。


『(―――私はプロのバイオリニストへの道を歩き出した。それは自覚している。実績もそれなりにあるため、もう無理に医学部を強要されることもないだろう。)』


高校だって、一流の音楽家の卵が集まる私立の音高に内定をもらっていた。きっと私はプロとして生き、母さんが目指していた世界を経験していくのだろう。


だけど。それで本当に良いのだろうか。



音楽は好きだ。バイオリンを弾くのも好き。だから毎日の練習、コンクール、練習、コンサート…その繰り返しだったとしても、苦ではなかった。忙しさは嫌なことを忘れさせてくれる、というのは本当だったようで、この怒涛の数ヶ月に少なくとも私は救われた。必要なことだった。



〈子供の情景〉に関して、もう一つ。シューマンは婚約者であるクララに対し「平和に満ち、柔和で幸福であり。貴女の将来のようです。」という手紙を送っている。
クララと結婚し、子供を持ち、平凡で平和な家庭を築くという将来の夢がシューマンの根底に潜んでいたのかもしれない。




今の私には到底想像できない未来だ。




――――最後の音の余韻がたっぷりと鳴り渡ってから拍手が起こった。小さな波から、一気に大波が盛り上がるように、拍手はホールの空間を埋めた。私と啓太さんは、並んで客席に深々と頭を下げる。袖に戻ると文和さんがホールの人へ客席の明かりをつけるように指示をしていた。

客席が明るくなるにつれて、客も帰り始める。


「じゃ、僕はこれで。」

啓太さんは小走りで楽屋へ行ってしまった。私たちはここのホテルに止まるので、慌てることもない。


「サインはどうする?」

『受けます。』


楽屋には必ず何人か、サインを求めるファンがいる。私はバイオリンを片手に楽屋へと戻っていった。

「今夜は客席に市長さんがみえていたそうです。」

文和さんの言葉に叔母は眉をつりあげる。

「ご招待?買ってくれてるの?」


『叔母様!』

私の場合、文和さんがマネージャーをしてくれているが、それは例外中の例外だ。TVなどにでるタレントには必ず一人に一人ずつマネージャーがついていて、何でも手配してくれるが、クラシック音楽の演奏家はそうはいかない。コンサートの日にちを決めたり仕事をとってくれたりはするけれど、文和さんのようにこうして着いて回ることはしない。けれど、今の私の場合それだけ所属事務所にとっては大切なスターであり、マネージャーひとり、かかりきりになるだけの収入も上げているわけだ。


「丁度良い機会ですから、ご相談したいことが。」

『.........次のコンサート?』


「いえ、CD録音のことです。」


『…え?高校生になるまで待つって。』


「でも、このところ、十五、六歳のアーティストはどんどん出てきています。正直、小春ちゃんよりずっと落ちる子もCD出して、結構売れてるんです。」


「そうなのよ!この間聴いた子――何ていったかしら?ピアノの…………。ほらアルベニスとか録れた。ひどかったわ。あれじゃあ、ピアノ教室の発表会レベルよ。」

「それで三社から話がきているんです。うちの社長も乗り気で。ぜひ小春ちゃんの気持ちを聞いてくれって。」


『……でも、レコーディングって大変なんじゃ。平日は学校行きたいし、休みにやるにしても……』


出来れば、勉強も疎かにしたくはない。出席もどうにかしたい。私なら、両立できると言ってくれた母さんの言葉を証明したいと思っていた。


「いいじゃない!三社が競っているなら、有利な条件が出せるし。ね、小春!」


叔母の断定的な言い方に頭が痛くなる。すっかりその気になっているのが分かった。


「エス社が一番大手で、他にシー社とエフ社。エス社以外は名曲集を、って注文で。」


『.........名曲集はちょっと.....今じゃなくても。』


「そういうと思いました。エス社は宣伝も上手ですし、悪くはないと思うんですが。」


『………何を録れるんですか?』

「室内オケを借りて、協奏曲を。」

『!!』

「願ってもない話だわ!小春やりましょう!」

『ちなみに日取りは?』

「S社は再来週の土日のどちらかを希望してます。他は......平日ですね。」

『そうですか....少し考えさせてください。』


商売上手な会社だと感心した。若手アーティストの心を上手くくすぐる方法を心得ている。とりあえず一晩考えてみることを伝え、文和さんにルームキーを貰い先に休むことにした。

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