待ち望んだ日常
―――――――…

ヒカリは驚きで目を見開いていた。なぜなら、自分が今いるところは黒曜ランドでも沢田瑩の部屋でもなく、正真正銘【芥川瑩】のベッドの中にいたのだから。

『僕は確かに骸と対面していたはず…』


あの、クフフという独特の声も確かに記憶していた。ぼろい建物に、縛られた感覚、犬の煩わしい声もしっかりと覚えている。だけど、どう考えてもここはそんなものとは一切無関係な場所。


「すーすー…」


すぐ隣で僕を抱きしめて気持ち良さそうに寝ているのは僕の兄。芥川慈郎。自慢の兄貴。彼の存在が、ますます僕の頭を混乱させた。一体これはどういうことなんだろう。

〜♪

丁度その時、まるでタイミングを見計らったように僕の携帯が鳴った。ハッとしてすぐに思考を止めると、隣にある携帯(これもリボーンの世界で買ってもらった物ではなく、元の世界の僕自身が持っていた機種)のディスプレイを見る。着信は……ツカサちゃん。考えたのは一瞬。少しだけ警戒しながらも僕はすぐに通話ボタンを押した。


『………もしもし?』

[お、ヒカリが十コール以内で起きるなんて珍しいな。はよ。]

僕がよく知っている声。高くもなく低くもない心地好い音。僕に対する気さくな言葉。紛れも無く彼女自身の声だった。それが分かった今、ゆっくりと携帯を持ち直す。一つ息を吐き出した後に、僕は口を開いた。


『……おはよ〜
ねね、それよりホントにツカサちゃん?現在の技術をフルに使った偽物とかじゃないよね?』

念には念を、だ。

[………やっぱまだ寝ぼけてるみたいだな。そして詰めが甘い。相手を疑っているのなら素直にその旨を伝えるべきじゃねー。意味ないだろ。そもそも、こんな朝っぱらからお前の携帯にわざわざ電話をして起こしてやっている時点で優しい優しい俺しかいないだろーが。ったく、感謝しろよ。……あ、そうそう、あと30分くらいでそっち行くから慈郎共々学校と朝練の用意しておくように。]

『…………』


やっぱり電話の相手はツカサちゃんのようで、僕はようやく警戒を解いた。


[おーい、ヒカリ?………まさか俺との電話中に寝てるなんてことはねーだろうな。]


『……あ、うん。それは大丈夫。…えっと……あのさ、ツカサちゃん。』

[…………なんだ?]


『えっと……ごめん……何言おうとしてたのか忘れた。じゃあツカサちゃんのこと、待ってるね。』


[………そうか。じゃあまたな。二度寝すんなよ。]


『イエス、サー。』


そして電話は切られた。僕、本当はさっきツカサちゃんに聞こうとしていた。
ここは現実?
それとも夢なの?と。
だけど、なんの脈絡もないこの会話は、もし前者が正解なのだとしたらツカサちゃんを困らせるだけだし、後者だとしても……いや後者だったらそれこそ尚更、それを夢の中の彼女に聞いてもあまり意味がないように思われた。
そもそも、仮にあちらの世界から僕やツカサちゃんが何らかの理由によってこちらに帰されたとするならばツカサちゃんがそれ相応の言葉を言ってくるはずだ。だけど、先程の会話からみても、そんなそぶりは一度も見られなかった。

『………ハァ。』

僕は、深々とため息をはく。結局は僕自身で判断するしかないのだ。リボーンの世界にいた沢田瑩としての僕。今この世界にいる芥川瑩としての僕。今の僕はリボーンの世界にいる僕の夢の幻影なのか、それとも、リボーンの世界にいたっていうあの数年間は、全部が全部――――



『……僕の夢、だったのかなぁ?まー、こっちの線の方が今の所は濃厚だよね。』


それはそれでなんだか悔しいような気がしなくもないが(夢だったのならば、もっと気楽に行動して、それこそエンジョイしておけば良かった……)、だとするならば、とてもとても長く、そして不思議な夢だった。僕らが漫画の世界に行くなんていう、それこそ正に夢のような夢。


『あ、ジロ兄を起こさなきゃ…。』

隣を見れば、僕と同じく柔らかそうな金髪。気持ち良さそうに上下するかけ布団。

『………ジロ兄、朝だよー。起きてよー。ツカサちゃん達が迎えにくるよー。跡部が待ってるよー。』


僕はユサユサと布団ごと兄貴を揺らした。


「んーヒカリー…?おは……スヤスヤ。」


少し身じろぎ、言葉を発してくれたものの………やっぱり僕の兄貴だけある。そのまま、すぐに夢へと帰省してしまった。うん、一筋縄じゃいかない。

『ジロ兄ー』


もう一度揺らそうとした途端、僕の腕は兄貴に引っ張られて…そのまま布団の中にインすることになった。


「……んー…ヒカリー…ねね、もうちょっとだけ寝よー?」


優しく包んでくれる兄貴の体温のおかげで、布団の中はぬくぬくと暖かい。…暖かいからこそ、感じざるをえないリアル。久しぶりに味わった、兄貴の甘い香りや温もりに気が抜けてしまった僕の瞼は、呼吸するごとに重くなっていく。

「やっばり瑩も眠いんだねー。かっわEーッ。ねね…ちょっとだけ…もうちょっとだけ寝よー」



甘い甘い兄貴の囁き。
どうしよっか?
ホントにどうしよう。ツカサちゃんとの時間は、あと十分弱しかない。でも、瞼は重いし、身体も麻痺したように動いてくれない。なにより、僕自身がこの温もりの持続を求めていた。

うーん
うーん
うーん………

少しくらいなら…いいかな?いいよね?うん、きっといいはずだ。

『やっぱり僕も寝るー。おやすみ…ジロ兄。』


「おやすみ、ヒカリー…」


「………じゃねぇよ、アホ羊ども。」


僕らのぬくぬくぽかぽかの布団は引きはがされた。それはもう口元を引き攣らせたツカサちゃんによって。


――――――――…
しくしくしくしく

「ヒカリー泣かないで?」

僕と兄貴は今、跡部家のリムジンの中で正座をさせられています。ちなみに、ツカサちゃんのお説教付きで。兄貴は僕を宥めてくれているけど、生憎怒られている内容が内容なだけにあまり効力を発揮していません。でも、それを兄貴は理解していないようでした。

「慈郎」


「え?」


「……言っとくがお前もだ。つーか、元凶はお前だろ。」


眉間にシワを寄せた跡部の容赦のない言葉にも関わらず、兄貴はニコニコと笑っていた。


「跡部もツカサも、そんなに眉間にしわ寄せたら、せっかく美人顔が台なしだCー。」


兄貴お得意の、母性本能をくすぐる悩殺向日葵スマイル。この無垢な笑顔で一体何人の女の子が落ちたことだろうか。兄貴のマイペースな一言にツカサちゃんと跡部は深ーく、それはもう谷よりも深ーい、ほとんど諦めを含んだ溜息をはいたのだった。


『ったく、俺が早めに出てきて正解だったな。すっかりこいつらの悪循環を忘れてたぜ。』


ツカサちゃんが言う僕らの悪循環とはつまり…ツカサちゃんが携帯で僕を起こす→ついでに兄貴を起こすように頼まれる→僕が兄貴を起す→兄貴の甘い誘惑→一緒にスヤスヤ夢の中ということである。いや…だって仕方ないよ…兄貴がすっごく気持ち良さそうに寝てるから、ついついつられちゃうんだ。

そんなこんなしているうちに氷帝学園中等部の門の前に着いた。


周りは朝練のために早めに登校する生徒で溢れかえっている。そんな時に登場したこのリムジン。目立つのは必須だ。跡部がまず車から降りて、その次にツカサちゃん、そして最後に僕ら兄妹が続いた。ここからが氷帝学園のすごいところだろう。モーセのナンチャラのように荒波がザザーと引いて道を造りだすがごとく、登校中の生徒たちはすぐに静まりかえり立ち止まると、皆僕らの通れる道を造ってくれた。これを初めてみた人なら十人が十人驚くだろう。

パチン。と、跡部が放った指の音に、辺りの空気は変わった。途端に沸き起こる黄色い声援。それは、もう男女問わず。


「きゃー、跡部様よ!」


「今日のツカサ様も見目麗しい!目の保養だ。」


「ヒカリちゃーん、好きだー!つき合ってくれー!」


「ジロちゃーん、こっちむいてー!」



氷帝男子テニス部レギュラー陣プラス僕たちにはファンクラブがある。だから、跡部兄妹のことも僕ら兄妹のことも大部分の生徒に知られていた。僕ら自身も、この光景に慣れているから笑顔で手を振かす。そうするとさ、ますます声援があがるんだ。


『おい…さっきどさくさにまぎれて、お前告白されてなかったか?』


コソリと呟かれたツカサちゃんの言葉。


『あー、確かにそうかも。』


たまに、というよりしばしば公衆の場にも関わらず堂々と告白してくる人がいる。今日はたまたま僕だったものの、それはツカサちゃんにだって頻繁に起こることだ。もっとも、それは皆が騒ぎ立てるという興奮の中でついつい調子に乗ってしまったという理由もあるだろうが、何より人垣に隠れられるといった利点が生み出された結果だろう。



「跡部、さっきヒカリに告った奴って誰?マジマジムカつくんだけど。俺のヒカリなのに。」


「アーン?こんな人垣で分かるわけねぇだろ。つーか、ツカサのこと目の保養とか言ってた奴、明らかに厭らしいこと考えてやがった。俺様のツカサにんな妄想を抱くなんざ良い度胸してんじゃねぇか。」




ギラギラと目を光らせる兄貴たち。これも、いつもの光景だった。なぜなら、彼らは自他共に認める極度のシスコン。僕とツカサちゃんは、そんな兄貴たちのピリピリした雰囲気に苦笑をもらした。


そんな騒がしいギャラリーを過ぎ去ると、何分か後にはテニスコートに辿り着く。僕らは女子だけど、女テニでは僕とツカサちゃんの相手にはならないということで、入学当初から男子テニス部の練習にまぜてもらっていた。


「着替えたらテニスコートに集合だ。さっさと着替えてこい。それからスコートははいてくんじゃねぇぞ。」


『……一々うるっせぇよ馬鹿兄貴。なんで、テメェーに服装まで指図されなきゃなんないわけ?んなのは俺たちの勝手だろーが。』


跡部の言葉に不機嫌になるツカサちゃん。


「……ツカサ、俺様のことはお兄様と呼べといつも言ってるだろーが、アーン?大体そんなもんはいてコート上を走り回れば、無駄に悪い虫が増えるのは明らかだろ。」


『馬鹿じゃねぇの?断固拒否だ。何がお兄様だ、このナルシスト野郎。しかも変な言い掛かりつけやがって。あー寒気がする。ヒカリさっさと着替えしに行こうぜ。…もちろんスコート持ってきただろ?』


「オイ。」


『勿論だよ!ツカサちゃん!…ってかてか跡部も懲りないね。じゃ、ジロ兄またねー。』


「また後でねーヒカリー!」



僕はフフンと跡部に失笑してから兄貴と笑顔でバイバイすると、ツカサちゃんと一緒に更衣室へとむかった。


………あ・の・クソガキっ!俺様を鼻で笑いやがった!おい、慈郎!テメ、ちゃんと妹の躾ぐらいしておけ!」


「えー…そこがヒカリの可愛いところだCー…大体ツカサだって跡部に対しては相当酷かったじゃん。」


「…フン……ツカサはいいんだよ。俺様の妹なんだ、少しくらい気の強い方があいつの美しさがより引き立つ。それにアイツのは照れ隠しだ。」



なんだかんだ言ってシスコンなお兄様Sにはかわりなかった。



『ねねツカサちゃん、今日も髪結ってくれる?』

『仕方ねぇな、ポニーでいいんだろ?』


『うん!』


穏やかに流れる時間。それは一時の幸せ。つかぬ間の平和。
崩れ去るのは実か虚か…

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