始まりは突然
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――――――――…



××年××月××日




雨がザァザァ降っている。
山の中のぬかるんだ地面なんかお構いなしに、女性は走った。

そのせいで泥があちらこちらに跳ねる。

"アイツら"のものであるこの白い服が汚れていくのを見て、女性は口元を弓状にした。無理矢理着せられているだけのこの服は、洒落っ気とはかなり無縁。そんな服、どんなに汚れようとも構わなかった。


ビービービービー


背後で堂々とそびえ立つ真っ白な建物からは、脱走者を知らせる警報が鳴り響いていた。


女性の腕には012の文字。研究対象として、女性を認識するための番号。そして、彼女の腕にはまだ幼い子供が抱かれていた。その幼女の腕の周りを囲むようについてある小さな鈴がしゃんしゃんと煩く鳴る。



[012がいたぞー!]


[こっちだ!]


[撃ちますか?]


[しかし、万が一012に当たって死んでしまったら…奴が抱いてる研究体も無事じゃ済まないのでは]

[あ?死なねぇ程度なら構わねぇだろ!どうせ奴は化け物だ。撃て!]



背後からの男の声と多くの足音に容赦なく追い詰められ、彼女は内心舌打ちをした。彼女が思っていたよりも追跡の足が早い。



「ーーー最悪なストーカー共ね」



……彼女が逃げ出してきた建物。平たく言えば、女性のような能力を持つ人間の管理を含めた研究を行う政府非公認の極秘機関だった。そこは、攘夷戦争で活躍し滅んでいった志士の細胞を元に培養し、能力のある女性の卵子と顕微鏡受精をさせるといった試みがなされていた。

彼女の腕の中でスヤスヤと眠っている赤ん坊は、2年前に彼女が初めて産んだ子だった。実験は成功したのだ。自分の腹の中ですくすく育つ赤ん坊、お腹を痛めて産んだその子をその手で抱いてしまった瞬間から、彼女は赤ん坊とこの施設から逃げ出そうと決意していた。2年間、準備してきたのだ。


「ーーっ!」


もう平気だろうか、と乱れる息を整えようと女性は大きな建物の裏側に隠れる。彼女の布一枚のような服は、雨と汗でべっとりと体に着き、水分を含んでいるせいか、かなり重く走りづらそうだった。彼女は、自身の腕の中にいる子供が雨に濡れないよう気をつけながら床におろす。彼女の体力は酷く消耗していた。








パーン



空を切る音がした途端、彼女の左胸に焼けるような痛みが走り、ズザザとぬかるんだ地面に倒れる。顔や腕や脚全てが泥まみれになってしまった。だけど、そんなことも気にならないくらい、胸の痛みは激しく、女性の頭の中では"絶望"という二文字がギラギラと浮かんでいた。
彼女が地面に顔を伏せていると、先程よりもかなり近い距離に追手がいるようで、たくさんの足音がより大きく聞こえていた。


……GAMEOVER。
もう逃げられない。女性はそう悟った。ここでもし生きのびたとしてもあの地獄で一生を過ごし、そこで研究材料として扱われ続け、そして最期を迎えるのだろう。容易に想像できる自分の未来が滑稽だった。彼女は、人知れず自嘲の笑みを零す。それなら、このまま死んだ方がましだ。


悔しい…。女性は唇を僅かに噛み締めると、そっと瞳を閉じた。







「−−−お主、その傷は!!」


袈裟を身に付けている長髪の男に話しかけられ、彼女は微笑む。痛みが酷いのか、彼女は朦朧とした中でその長髪の男の衣類を握った。ビリビリと辺り一面に電流が走り始める。長髪の男は僅かに眉を寄せた。


「ーーー私には追っ手がいるの。お願い。あの子を、ほたるを助けて。私と、白夜叉って人との子......。」


「何?銀時の?それは真か!?」


高まる電流の中、その男に抱えられながら女性は子供を隠した建物を教える。それから、ポツリポツリと組織の研究内容を彼に伝えた。



「ーーあの子をお願い。私を少しの間だけでも母親にさせてくれたあの子を守って。」




彼女はそう言って、静かに瞳を閉じた。




−−−










いつも通りの万事屋。銀さんはソファーに横になりながらジャンプを呼んでるし…僕は神楽ちゃんが帰ってくるまで居間の掃除をしていた。時計を見ると四時半をすぎている。そろそろ…かな?



「ただいまアルー!」





ガラガラと玄関が音をたてると同時に神楽ちゃんの元気な声が響く。僕は掃除をしていた手を止めて玄関へとむかった。




「おかえり、神楽ちゃん!卵は……」




「卵は…忘れたけど、この子は拾ってきたネ!」





そう…神楽ちゃんが言った通りそこにはまだ歩き始めてまもないくらいの小さな女の子が神楽ちゃんと手をつないで立っていた。




「って、オィィイイ!!なんで人間お持ち帰りしてんのォォォ!!!」



いや、確かにその子が綺麗な着物を着ていて、肩まである茶色がかった髪やつぶらな瞳が…って僕は何言ってんだァァァァ!!ロリコンかぁぁ!!




「…おい!てめェら、玄関先でうっせーぞ!ギャーギャーギャーギャー喚く借金とりかコノヤロー。銀さんはなァー家賃は滞納しているが、金融に手をだしたことは…いや待て、あるな…お妙に脅されてだっけ?あのぼったくりスナック…いやいや、でもあれはちゃんと返したはずだし…」


ダルそうに頭をかきながら銀さんが来たと思ったら、何やらいきなりブツブツ言い始めた。



「銀さん、ちょっとこれ見てくださいよ。神楽ちゃんが卵の代わりに…」


銀さんは、神楽ちゃんの持つレジ袋を覗き込んだ。


「おいおい、神楽ちゃんよォ…今日が特売日だっつーのにその卵なくて、どうやってニラ&卵汁つくるってんだ?これじゃあ、ニラが単品汁になるじゃねェーか!」



銀さんが口元をヒクつかせながら神楽ちゃんの両頬を片手でつかむ。そのせいで神楽ちゃんの唇が飛びでてタコのような顔になっていた。



「何言ってるアルか…それでも一夜生きのびるには十分ネ。それよりごっさ可愛い子見つけたアル!!」


「アー…可愛い子?」


「そうですよ、銀さんこの子です。」


僕がそう言うと、ようやく銀さんは神楽ちゃんの隣にいる女の子に視線を下ろした。


「ちゃんと手紙もあったアル。貴方の子です。大切に育ててね。って。」


「そんな、犬猫じゃないんだから....」


達筆な文字で書かれた手紙を銀さんにも見せる。次の瞬間に、僕は銀さんが一瞬ハッと目を見開いたのを見たような気がしたんだけれど、それは神楽ちゃんも同じだった。



「…銀さん?」

「…銀ちゃん?」


「ぱっつぁん、幼児誘拐は立派な犯罪だぜ?」

「いや、手紙見ましたよね。誘拐じゃないです。そもそも、僕が連れてきたわけじゃありませんから。」

「へぇー...そうー」




銀さんは、いつものようなやる気のない顔に戻って居間のほうを親指で指した。


「―…まァー…なんだ?…とりあえず座って話そうや。むこうで卵の言い訳でも聞いてやっからよー」


「って、アンタは結局卵のことだけかァァ!!!」


そう思わず突っ込んでしまった。


「じゃあ、とりあえず…神楽ちゃんも靴脱いで。えーーと、君も…」

「ほたるアル。」


「じゃあ、ほたるちゃんも靴脱いで?一人で脱げる?」


ほたるちゃんがコクリと頷く。…素直で良い子だ。普段、二重三重と心が捻くれた奴らを相手にしていたせいだろうか、今はその素直さにグッと込み上げるものを感じた僕は―――


「おい、ロリコン新八。ほたるを変な目で見るんじゃねーよ。」


神楽ちゃんの毒舌に僕は我に帰るともうすでに居間に行ってしまった銀さんを見やる。慌てて僕はほたるちゃんを連れていくために彼女の腕を引いた。


『……ィ…ャ…!』



ほたるちゃんの鈴の音が鳴ったような子供独特の可愛らしい声がしたと思ったけれど、それは明らかな拒絶の言葉で…


「……え?」


僕が気付いた時にはもう遅かった。


ビリビリビリ!!!


「ギャャャャ!!!」


ほたるちゃんから流れた凄まじい電流は、僕を黒こげにする。


「新八、ほたるは男に触れられるのを極端に嫌うネ。道ばたに男共が何人も倒れてたアル。安易に触れない方がヨロシ。」


「って言うの遅ォォォ!!もう被害被ってるから!…それよりほたるちゃんは天人なの?」


「…さぁ?知らないネ。でも倒れてた天人の中には、『人間の中にもこんな貴重な人種がまだいたとはな。』って逃げていったやつもいたアル。」




「それ…“人間”って言ってるじゃん。まずいよ…神楽ちゃん、この子、悪い奴から狙われているんじゃない?」


「心配ないアル。ほたるは私がちゃんと守るネ!」


「そういう意味じゃ…」


〈おーい…何やってんだテメェら…さっさとこっちこいや―〉


銀さんが居間のほうで呼んでるので、僕たちのこの会話はそこで無理矢理終了し、神楽ちゃんはほたるちゃんと手をつないで居間にむかった。

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