夢と現実の狭間

<安室さんがポアロで働き始めた頃>






夢を見た。母さんが元気でまだ零さんを身近に感じることができていた頃。免許を取りたての彼にドライブに連れて行ってもらったことがあった。目的地は、東京から高速を使って約二時間弱の所にあるオルゴール博物館。其処は、以前から行ってみたいと思っていた所だった。


「ーーー着いたよ、小春ちゃん。」


助手席のドアを開けてもらい、手を取って支えてくれる彼に存分に甘やかされていた私はーーーさながら王子にエスコートをしてもらっているお姫様の気分だっただろう。普段は毎日背負っているランドセルも今日は自宅でお留守番。代わりに母さんから無断で拝借したネックレスとポーチを身につけて私は精一杯の背伸びをしていた。


『.....ねぇ、今日はずっと手を繋いでても良い?』


幼い私がそう言えば、彼はニッコリと笑ってその大きな掌で私の手を握ってくれる。彼と歩くこの道、彼が傍にいるだけでふわふわと心が暖かくて、子供ながらこれが幸せなんだな、と感じていた。


「ーーー小春ちゃん、このオルゴールなんてどうだい?」


彼が手にした白い卵型のオルゴール。宝石を模したキラキラの石がはめ込まれたそれは、とても綺麗だった。


『ーーーなんだか、零さんみたいだね。』


そう呟いたら、彼は大きく目を見開いていた。それから彼はニッコリと笑って、卵の蓋を開けてネジを回し始める。暫くして、耳に心地よいオルゴール音が辺りに鳴り響いた。


『........この曲、なんて曲?』


「これはねーーーーーーって曲だよ。小春ちゃんにぴったりだろ?」


俺にとってはこの曲は君そのものだよ、と彼は言う。


『ーーー?どういう意味、』


「あぁ、君にはまだ早いかもしれないけど、これはねーーーー」


君の成長が楽しみだな、と言って彼は私の頭をそっと撫でてくれた。





その時だ。撫でられる心地良さに酔いしれていると、景色がまるでマドラーでゆっくりとかき混ぜられたように歪み始める。


『ーーーえ、』




「ーーー降谷ーー生ーーー婚するーーーって」


あの時の看護師達の言葉がまるでエコーがかったかのようにあたりに反響していた。


「ーーー小春ちゃん!」


土砂降りの雨の中で、私は目の前の零さんに抱きついている。忘れもしない、母さんが死んだ日。これは、まさしくあの日の場面だった。



『本当は十年前から…傍にいて欲しかった。』



零さんが驚き息を呑む音が直に感じられた。
私はズルい子だ。彼は、最初からちゃんと私の傍にいてくれていたじゃないか。幼い私は彼に早く追いつきたくて、これまで沢山背伸びをしてきたけれど、彼からしたらそれは大分滑稽な姿だったのかもしれない。それでも、彼は面倒がらずにいつも優しくしてくれていた。



『私を....小春を一人にしないで下さい!お願い....。』



私のこの想いは叶わない......彼には届かないという明白な答えをちゃんと知っていたのに。どうして私は自身の不幸を盾に彼に縋り付いてしまったのだろう。どうして、そんな卑怯なことをしてしまったのだろう。



呆然としている零さんから、静かに離れる。あの日、あの時、私は優しい彼を傷つけてしまっただろうか。でも、もう、そんな彼にいつまでも甘えている駄々っ子のままではいられない。そんな子供のままでいたくない。
ーーー今日は、今日だけは少しだけ大人になりたい。








『貴方の事が本当に....本当に大好きでした.......』


零さんの瞳が大きく見開かれる。



『ーーーでも、貴方と同じ世界を見るのは、私じゃない。貴方の大切な人と、ぜーったい、幸せになってね。』




精一杯の強がりを滲ませながらそう伝えれば、彼は少しだけ泣きそうな顔で笑ってくれたような気がした。その笑顔を見た時、あの時の卑怯な行動をとってしまった羞恥と、咄嗟に嘘だと恋心を否定してしまった.......その矛盾した後悔が少しだけ薄れていく。



『ーーーバイバイ、零さん。』



大丈夫。そうしたら後は.......この恋心を忘れるだけ。今すぐには無理でも、いつかはきっと....忘れないと、いけない。



『ーーーっ!』


カチャリと食器がぶつかる音がして瞼を開ければ、目の前のテーブルには楽譜が散らばっていた。



「ーーーおや、すみません。起こしてしまいましたか?」



ここは喫茶店ポアロだ。隣の席を片付けていたらしい安室さんは、申し訳なさそうな顔をしていた。



『ーーーや、こちらこそごめんなさい。いつの間にか寝ちゃったみたいで。』



「ーーー........。きっとお疲れなんでしょうね。」


彼はそう言いながら、右手を私の左頬に寄せてくる。そのまま長く骨張った親指で、目尻を掬われた。
その皮膚の感触に呆然とする。



『ーーーもしかして、私、泣いてました?』


「ーーーいいえ、きっと僕の手が汗ばんでいたんでしょう。今日は少しだけ暑いですから。」



安室さんはそう言うけれど、ポアロの空調管理はいつも完璧だ。暑いも寒いもある訳がない。気遣われていることにすぐに気づけば、苦笑を零した。





拝見、降谷零様。私は貴方と違う道を確かに歩き出した筈なのですが、まだ暫くは貴方のことを忘れられそうにありません。だって.......。




『貴方の顔も声も.......その全てにおけるソックリさんが、今目の前にいるんだもの。』




そうポツリと呟けば、洗い物を持ってカウンターに向かっていた安室さんが「ーーー呼びましたか?」と振り返ってくれる。


私は首を横に降ると、何でもないですと言って安室さんに笑顔を送った。

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