ヘアメイクをしてもらうと、入れ違いでフィッターが来てドレスを着るのを手伝ってくれる。フィッターは金尾氏が宝石の採掘地である途上国の女性を雇用しているのか、肌色が異なり日本語もカタコトだったり話せないようだった。容赦なくコルセットをきつく締め上げられそうだったので、少しゆとりをもって着付けるようにお願いした。
かなり早い時間に支度が終わってしまい、すみれはドレスがシワにならないように細心の注意を払ってソファに座る。肘掛けに腕を置いて頭を預けると、すぐに眠気が襲ってきて、すみれは少しだけ、と目を閉じた。
控えめなノックの音ですみれは飛び起きた。反射的に鏡を見ると、致命的な乱れはなさそうだが、少しメイクを直したいし、重いのでまだアクセサリーをつけて着けていなかった。
「ちょ、ちょっと待って!」
すみれは大慌てでパウダーをはたいたり、アイラインのヨレを直したり、口紅を引いたりした。ジュエリーボックスを開けて、アメジストとダイヤモンドがきらめくセットをつけていく。ピアスは小粒の雫型のアメジストが控えめに揺れるデザインだ。控えめだが、ブリオレットカットで宝石の輝きが強く、決して地味ではない。ペンダントは、チェーンは細い台座にスクエアのダイアモンドが収められ、胸元側は蔓草型に変わって葉形のダイヤへと変わる。アメジストは極小の丸型がアクセントとして散らばっている。ペンダントと同じデザインのブレスレットも用意されているが、焦っているせいかペンダントの金具がうまく留められない。
「工藤くん、悪いんだけどこれ、つけてくれない?」
「お、おう…」
諦めて工藤くんを部屋へ招き入れて、ペンダントとブレスレットの入った箱を差し出す。工藤くんがブレスレットを持ったので、ジュエリーボックスを片手で持ち直して左手を差し出す。手首にブレスレットが巻かれ、一度留め具を留められずにするりと滑った。二度目はしっかりと留められたようで、その手がそのままペンダントを攫っていった。
すみれはジュエリーボックスをドレッサーの上へ置くと、工藤くんにくるりと背を向けて、ハーフアップにしている髪を避けた。静かな室内に金具を留めようとするカチ、カチ、と擦れる音と、衣擦れの音、そして遠くに聞こえる談笑の声だけがその場を支配していた。
「燕尾服、似合ってる」
工藤くんはネイビーの燕尾服に、ブルーグレーのスラックスを着ている。蝶ネクタイとジレ、燕尾服の色裏地はボルドーで、寒色に暖色を綺麗にマッチさせている。瞳の色が綺麗な青だから、青系が似合うと思っていたが、ボルドーや赤などの暖色もとても合う。昼間の服装もカジュアルフォーマルであったし、育ちの良さが滲み出て、フォーマルな装いが似合うとは思っていたが、予想以上であった。
「それは俺のセリフだってーの」
「え?なんて?」
「なんでもねーよ!ほら、着いたぞ」
「ありがとう。それじゃあ、行きましょうか」
最後の支度としてすみれがレースのグローブをはめて、手を差し出す。工藤くんはその手を取った後、腕を三角にしたので、そこへ回す。Aラインでかなりボリュームのあるドレスの裾をさばきながら、ゆっくりと廊下を進み階段を降りる。目線を落とすのは少し格好悪いが、流石に怖くて足元を注視して慎重に降りていく。
「オメーの方が似合ってるぜ」
「今そんな事言われたら、階段落ちちゃう」
「俺がいるのに、そんなドジさせっかよ」
腕に回している手に、工藤くんの反対の手が重なる。優作さんと有希子さんに似て美形の工藤くんに、そんな不意打ちを食らってドギマギする。ドレスの裾を持ち上げる指先に、無意識に力が入った。
「ようこそ、栗花落さん、工藤くん。ご両親にお会いできないのが残念だよ」
「金尾さん、この度はご招待頂きありがとうございます。両親も参加できないことを残念に思っております。プルフェ・タムールのヴァイオレットラインのチーフデザイナーとして、今夜は両親の名代を務めさせて頂きます」
「今宵お披露目する宝石は、きっと栗花落さんも驚くことでしょう。どうぞ、お楽しみに」
すみれと工藤くんが夜会を行う広間に入ると、すぐに主催者の金尾が寄ってきた。金尾は四十代後半から五十路くらいなのだが、体に気を遣っているのか細身でファッションも若く、実年齢より若く見える。すみれの手をとってキスしそうだったので、腕を組む工藤くんの半歩後ろに下がって、自然に両手を絡めてしなだれかかる。にこやかに挨拶を終えると、成宮はまた別の招待客の元へ挨拶へ向かった。バレないようにホッと一息ついて、工藤くんと会場の奥へ向かう。
ボーイからシャンメリーを受け取り、隅の方から招待客を見渡す。船で見かけた人も多いが、ちらほら知らない顔もある。
「財閥の縁者に、資産家、投資家。こりゃVIPばっかりだな…。そんなに金尾成治氏は影響力があるのか?」
「途上国の技術支援の一環で、宝石採掘とその売買で成り上がったの。一代でこれだけできるんだから、相当なやり手なんじゃないかしら」
すみれが目を細めてほんの少し唇を引き結んだのを、工藤くんは見逃さなかったようだ。相槌を打ちながら、話しの続きを促してくる。すみれは工藤くんの袖を引いて、ほんの少し背伸びをする。顔を寄せ合って、工藤くんだけにしか聞こえない低めの声で喋る。
「後ろ暗いこともかなりしているって噂よ。金銭や原石の賄賂やら、途上国での利益マージンを相当巻き上げたり。それから女癖が最悪」
「なるほど」
だから挨拶のキスをさりげなく拒否したのか、と工藤くんは納得したようだった。あのルックスなら、かなり女性にモテるのは分かる。魅力的であろうと、本人がかなり努力しているのも分かる。でも、自分の娘でもおかしくない十代の少女に向ける目にしては、ちょっと熱が篭りすぎていた。ああいう目を向けられることは少なくないが、流石に気持ち悪い。
内緒話しを終えると、ちょうど全てのゲストが揃って挨拶を終えた金尾がマイクを取って中央に進んだ。
「紳士淑女の皆様。今宵は生憎の天気ですが、お集まり頂き誠にありがとうございます」
カーテンが閉められているが、バルコニーにでるガラスドアには激しく雨が打ち付けられ、時折風に煽られてガタガタと揺れている。会場のざわめきで気づかなかったが、金尾のスピーチに耳を傾けると、時折窓の外のノイズが紛れた。
「今回のドレスコードは中世ヨーロッパの貴族。というのも、今回私が見つけたこちらの宝石を、工藤優作氏の小説から“闇の男爵”と名付けまして。それにあやかって、このような催しとさせて頂きました」
さっきフィッターを行っていた、浅黒い肌を持つ美女が、ワゴンを押して金尾氏の横に並ぶ。ワゴンのロックをかけると、かけられた黒いシルクを取り去る。
現れた宝石に、衆目は感嘆のため息を漏らした。まだ不純物のついた原石だが、一部は綺麗に研磨されシャンデリアの光を反射している。
「名付け親となった工藤氏のご子息と、かのパルフェ・タムールよりヴァイオレットラインのチーフデザイナーを務める栗花落すみれさんをゲストに迎えております!」
金尾の腕の動きに合わせて、大人数の視線がすみれと工藤くんに集まる。金尾のギラついた目に辟易しながら、すみれは鳩尾に力を入れて姿勢を正した。工藤くんが近くのウェイターに二人の飲みかけのシャンメリーを預け、すみれをエスコートして前へ進み出る。
金尾の前にやって来た二人は、それぞれ紳士淑女の礼を取った。工藤くんは片手を胸に当てて軽く片足を引く。すみれもそれに倣って、カーテシーをする。バランスを崩しそうになったが、工藤くんの腕に絡めた手に力を入れて、なんとか堪える。
「栗花落さんは鑑定に自信がありますか?」
「拝見してもよろしいでしょうか」
こんなことは何も聞いていない。しかし、宝石の鑑定には自信があるし、挑発に乗ることにする。ワゴンには鑑定用の白手袋とルーぺが置かれており、金尾の手のひらで転がされていることを悟る。
「黒い宝石はブラックトルマリンやオニキス、ヘマタイトなどがありますが、こちらには単結晶特有の金剛光沢があります。この特徴的な黒は正真正銘のブラックダイヤモンドに間違いありません。大きさや質からして、ビッグジュエルとなるでしょう」
すみれの鑑定に、人々の熱量が上がった。ビッグジュエルとなるブラックダイヤモンド。ブラックダイヤというだけで希少価値は十分であるのに、それだけで留まらない代物となると、資産価値は数段跳ね上がる。
「闇夜のような黒い高貴な宝石、まさに“闇の男爵”という訳ですね。父の優作も光栄に思うことでしょう」
工藤くんが上手く纏め上げて、観客を誘導する。周囲からは拍手がちらほらと聞こえ出し、すみれはさっさと端っこへ引っ込みたいと工藤くんの腕に手を添える。察した工藤くんが下がろうとするが、金尾は非常にしつこかった。
「栗花落さんの見事な鑑定に拍手を!そして、只今より舞踏会の開催を宣言します!」
大きな拍手がすみれに向けられ、舞台を降りることを許してくれない。しかも、今開催を宣言されてしまえば、そのままファーストダンスを踊る流れになってしまう。一般的には主催者夫婦と最も格式の高い賓客からダンスが始まるが、金尾は最近離婚しており、パートナー不在なのである。
逃げられない。スローモーションで動く世界で、金尾の手のひらがこちらへ差し出されようとしている。遠くなる耳が、ワルツが始まったことを捉えた。ダンスを断るわけにはいかない。腹を括って諦めるしかなかった。
「レディ、私にファーストダンスを踊る栄誉を与えてくださいますか?」
「工藤くん?」
隣に居たはずの工藤くんが、跪いてすみれの手を取っている。呆然とするすみれに、手に唇を寄せてリップノイズを響かせる。すみれが嫌がると思ったのか、キスはしていない。
「ぁ……もちろん、喜んで」
すみれは工藤くんの助け舟に乗ることにした。観客は自然とはけて行き、中央に工藤くんと向き合う。主催者として遅れをとるわけにも行かず、金尾は他のご婦人をダンスに誘ったようだった。
「こんなドレスを着て踊るのは初めてなの。足踏んだらごめんなさい」
「ククッ。俺の靴は鉄板入りだから、安心してくれ」
ダンスが始まって、工藤くんの左手に右手を重ね、左手を肩に置く。工藤くんの右手が腰に添えられて、心臓がドキドキと高鳴る。緊張で変な汗をかいてきた。早口に謝ると、工藤くんはイタズラっぽく笑った。
ファーストダンスらしい、王道のワルツ曲に合わせてステップを踏む。すみれのドレスは薄紫と濃い紫のオーガンジーを幾重にも重ねて、神秘的な色合いのドレスだ。ターンで翻るたびに薄いオーガンジーがふわりと舞い、軽やかで年若い初々しさを演出している。特別フリルやレース、刺繍を使っていない一見地味なドレスだが、ジュエリー・ショップの娘らしく、沢山の宝石を縫い付けており、動く度にキラキラと輝いている。今回の主役であるブラックダイヤを邪魔しないよう、ジュエリーもあえて控えめなものをつけており、上品な感性を示している。
「結婚式で踊ったダンスを思い出すな」
「あの二人、色も合わせて可愛らしいですね」
基本のステップに合わせてターンをしたり、ステップを踏む。工藤くんに背を支えられて、それに身を預けたりもした。重いドレスを着てダンスを踊ると言うのは、意外と運動量が激しく、息が上がるのにコルセットが呼吸を許してくれない。すみれが足をもつれさせると、工藤くんがすみれの腰を持って、リフトして誤魔化す。
「ちょ、工藤くん…っ」
「綺麗だぜ」
「なっ」
年相応のニッとした笑みを浮かべる工藤くんと、頬を上気させるすみれ。一見すると差し色とドレスの色を合わせたかのようなカップルが、息の合ったターンやリフトを披露する。招待客の若かりし頃の甘酸っぱい思い出を想起させる、二人の初々しいダンスに微笑ましい視線が集まる。
ワルツのテンポがゆっくりになり、音も小さくなっていく。二人はターンの後に離れて、深いお辞儀をし合う。すみれがカーテシーを終えて顔を上げると、温かな拍手が二人のダンスを賞賛していた。