港に停泊したサニー号のキッチンは、
まだ陽の高い時間帯にしては珍しく静かだった。
食器完璧に洗われていて、床もテーブルもぴかぴか。
ひとり分の気配だけがゆるりと漂う静寂の中で、
サンジはテーブルリネンを整えていた。
「どうしたんだい、NAMEちゃん」
空気の入れ替えのために開け放たれていたキッチンの入り口に立っていた私に、サンジが尋ねた。
振り向いたサンジの表情はいつも通りの顔。
でも、少しだけ力の抜けた顔をしていた。
「よく気付いたね」
音を立てずに気配をできる限り消して近づいたはずなのに
数秒とたたず私の存在に気がついたサンジに、私は驚いて目を開いた。
「もちろんさ」
サンジは小さく息を吐きながら軽く微笑んで、
胸元から取り出した携帯灰皿に咥えていたタバコを押し付けて消した。
意識して見ていないと気がつかないほどに、スムーズな動きだった。
「マドモアゼル、どうぞ。お茶をお淹れしますよ」
いつの間にか私の隣に立っていたサンジはさりげなく私の腰に手を回し、にこりと微笑んだ。
もう、完璧にいつもの見慣れたサンジの顔だった。
「いらない」
「えっ?」
おそらく予想外だったであろう、私の返事を聞くが否や
サンジは目を丸くして固まった。
その表情がなんとも言えず可愛くて、私は笑った。
「せっかくこんなに綺麗に片付けてあるし、それに−−」
隣に立っていたサンジの方へと体を向き直して、サンジの顔を見上げた。
「今日はサンジに、お休みしてもらおうと思って」
「お休み?」
「そう!せっかく私とサンジが船番でサニーに残ってるでしょ。
なんかできることないかな〜って思ったの!」
普段新しい島についた時には
食料の買い出しで出て行くことが多いサンジが
船番として残っているのは珍しいことだった。
本当は食料の片付けや下拵えや朝食の片付けを手伝いたかったけど
サンジの邪魔をしてしまいそうで、このタイミングになってしまった。
「それは…すごく嬉しいけど」
そう言いつつも困ったような戸惑ったような表情のサンジは
再び新しいタバコに火をつけて、
口に咥えたあとぽりぽりと頭を掻いた。
いつまでも遠慮をしていて埒が開かないサンジを無理やりテーブルに座らせて
私は紅茶を淹れようとキッチンに向かった。
本格的にキッチン内に足を踏み入れたのはほぼほぼ初めてだった。
そこで改めて、やかんの場所すらまともに知らないことに気がついた。
「左から2番目の下段の戸棚にあるよ」
キッチンの中をきょろきょろと見渡してる私の様子に目敏く気付いて、
サンジが椅子から立ち上がって声をかけてきた。
「いいから!サンジは座ってて!!」
私が焦ってそう言うと、はいはいと軽く笑い両手を上げたサンジは
おとなしくもう一度、椅子に腰掛けた。
サンジに言われた通りの場所を開けると、やかんがあった。
そこにはいくつもの調理器具が収納されていて
そのどれもがきちんと手入れをされているのが見てわかった。
胸がじんと熱くなるのを感じていると、背後から声がかかった。
「紅茶は右側のラックの3段目に…」
さっきまでテーブルに座っていたはずのサンジが
カウンターの向こう側に立っていて
上からこちらを覗き込んでいた。
「サンジ!もう!」
私は立ち上がって、サンジの立っているカウンターへと向かい、
ばんっと天板を叩いた。
「ごめん、ごめん、なんだかじっとしていられなくて」
サンジは笑っていた。
困ったように眉毛を下げていたけれど、
最初の頃のような戸惑いは見られなかった。
「火の付け方はわかる?」
これは半分からかっているなと思ったので、
わかります!と強く返したら、サンジはさらに笑っていた。
本当はちょっと自信がなかったけど、悔しいから言わなかった。
その後も、何度もサンジはカウンター越しに覗いてきて
火傷しないでねだの、茶葉の量がどうのだの色々と口を出してきた。
「サンジ」
私がため息混じりに名前を呼ぶと、
サンジは叱られた犬のようにしゅんとした。
もしかしたら大切なキッチンを荒らされたくないのかもと思い尋ねたが
そんなことはない、とサンジは慌てて手を振った。
「…落ち着かないんだ。何かしてねェと」
「どうして?」
私が尋ねると、サンジはどうしてだろうなあ、と
煙を吐いて頬杖をついた。
「私、サンジが何もしてないところって、見たことないなあって思ったの」
「…うん」
サンジは静かに私の言葉を聞いてくれた。
「いつもみんなのために料理を作ってくれて、守ってくれて、気遣ってくれて。
でもね、ふと考えてみたんだ」
恥ずかしくて、サンジの顔は見れなかった。
その代わり、カウンターに置かれたサンジの手を見た。
ダイニングの小窓から差し込む光が陰影を作り出して
想像よりもごつごつした、男の人の手をしていた。
「私、何にもしてないサンジでも、好きだなって」
その瞬間、サンジの指先がわずかに動いた。
それから、サンジの顔をゆっくりと見上げた。
視線が交差した先のサンジの瞳は、
少し熱を帯びていて私の胸は高鳴った。
その瞬間、やかんのお湯が沸く音がした。
私は心の中で軽く舌打ちをして、
コンロへと向かいやかんの火を止めた。
「…そういうこと、あまり言わない方がいいよ」
少し距離の離れたサンジから発せられたその声は、強くなかった。
「…どうして?」
茶葉をセッティングしたティーポットの蓋を開けて
勢いよくお湯を注いだ。
お湯の中で、茶葉たちが綺麗にジャンピングして、まるで踊っているみたいだ。
「困るんだ」
サンジは答えた。本当に、困ったような
少し、弱々しい声をしていた。
「理由もなく、もらうのに慣れてない」
私はティーポットにそっと蓋をした。
「理由ならあるよ」
「…教えてくれるかい?」
やかんに残ったお湯をティーカップに入れて、
ティーカップを温める。
さっき、お湯を沸かしてる間にサンジが教えてくれたから。
「サンジがここにいてくれること」
サンジの眉毛がぴくりと動く。
「それだけじゃ、だめ?」
少しの間、沈黙が訪れた。
私は、さらさらと落ちる砂時計をじっと見つめた。
それからまた少しして、
ティーソーサーと砂時計をサンジの座るカウンターに置いた。
引いた私の手の上に、そっとサンジの手が触れた。
私の手を全て覆い隠してしまいそうな、大きな手。
「…ずるいな」
小さくて、短い言葉だった。
それでもサンジの声はすんなりと耳へと届く。
「何が?」
サンジは言葉に詰まっていた。
弁が立つサンジにしては珍しくて、心がきゅっとあたたかく締め付けられた。
「もうわかってるとは思うけど…」
私は手のひらを裏返して、私の手の上に優しく覆い被さっていた
サンジの指に、自分の指をさらりと絡ませた。
「私は、サンジのことが好きだよ。」
できるだけ自然に聞こえるように、声のトーンを下げた。
ちゃんと、うまく笑えてるかな。
本当は心臓が口から飛び出しそうなくらい、
激しく脈を打っている。
砂時計の砂が、全て落ち切った。
私はサンジの手から自分の手を抜き取って、
ティーポットを手繰り寄せた。
スプーンでゆっくりとティーポットの中をかき混ぜた。
ポットを少し持ち上げて琥珀色の中で優雅に泳ぐ茶葉たちを
光に透かしたらきらきら光ってとても綺麗だった。
茶漉しで漉しながら、できるだけ丁寧に
ティーカップに注いでサンジの元へと運んだ。
お盆の上でかたかたと揺れるティーカップを見ながら
スムーズな配膳捌きをするサンジのことを思った。
「どうぞ。うまくできたかわからないけど」
「ありがとう、NAMEちゃん。その…」
サンジは、何かを言おうと口を開いたけれど、
うまく言葉が出てこないようだった。
「いいから飲んでよ」
私が笑うと、こくりと頷いて、
サンジはそっとティーカップに口をつけた。
私の入れた紅茶がティーカップを伝ってサンジの唇から口の中に入り、
少し間を開けて喉仏が上下に動く様をじっと見つめていたら
そんなに見つめないでよ、とサンジはおどけて見せた。
「うまい」
ゆっくりと瞬きして、サンジは言った。
それから一息ついて、また一口飲んで、
もう1度、同じ言葉をつぶやいた。
「ほんと?よかったぁ。サンジの助言のおかげで」
私も少し、おどけていうと「すまねェ」と少しだけ気まずそうにサンジが笑った。
「NAMEちゃん」
サンジが私の名前を呼んだ。
「おれは…無条件に愛される矢印が、
自分に向くことがどうも、信じられねェんだ。
慣れてねェというか…」
私は、自分用に注いだ紅茶を一口飲んだ。
アールグレイの爽やかで、でも華やかな花の香りが鼻をすり抜けた。
「でも、この一味に入って、少しは変わったんだぜ?」
サンジは笑った。柔らかくて、控えめな笑顔だった。
「うん」
「でももっと…君が言うなら、受け入れられそうだ」
そう言って、サンジはこちらへと手を伸ばした。
小さな声で、来て、と言った。
私はティーカップを持ったままカウンターを回った。
そしてカウンターを背にするサンジの前に立った。
サンジは私の手からそっとティーカップを受け取り、カウンターへと置いた。
「…触ってもいい?」
「どうぞ」
照れ隠しなのか、目線を下にずらしながら尋ねるサンジが可愛かった。
サンジは私の手を取り、左手の上に乗せた。
そして右手をさらにその上に重ねた。
私の手を挟むサンジの両手はすごく熱くて手のひらがが少し固かった。
「ゆっくりでいいかな。」
女に手が早いサンジからは考えられない言葉のようだけれど
でも不思議なくらい、心に馴染んだ。
「もちろん」
私はそう言って笑った。
少しの間そうやって、手を重ねあっていた。
無言の時間が、心地よかった。
しばらくして、私の手からそっとサンジの手が離れて私の腰へと回された。
そのまま引き寄せられてサンジとの距離がゼロになる。
サンジの右手が私の前髪に触れる。
咄嗟に私が目を瞑るとサンジは私の髪の毛を耳にかけて
そのまま親指で私のこめかみをそっと撫でた。
「…ゆっくりじゃなかったの」
私は顔を上げて、サンジの顔を見た。
私の頭の先が少しだけ、サンジの顎に軽くぶつかった。
それとこれとは少し別かな、と
小さくつぶやいたサンジの表情には
ちょっとずついつもの色が戻ってきていた。
「嫌ならやめるけど」
そう言ってサンジは両手で私の頬を挟んだ。
全く、やめそうな気配はなくて。
「嫌なわけないでしょ」
少しむくれてそう言った私の左頬を、
サンジの指がゆっくりと撫ぜるのを合図に私は目を閉じた。
唇が触れるその瞬間、「ありがとう」とサンジが言った。
その声は少し掠れていて優しくて、目の奥がきゅっと熱くなった。
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