空は、ずっと夕方だった。
沈みきらない太陽が、海の縁に引っかかったまま橙と紫の間で揺れている。
影は長く伸びて、足元に絡みつくようにまとわりついてくる。
この島に来てから、何度も同じことを思った。
−−−時間が、止まってるみたいだ。
ううん、違う。
止まってるんじゃなくて、終わらない。
「…変な島」
小さく呟いて、路地へと足を踏み入れる。
港の喧騒から少し離れただけで、急に静かになる。
古びた石造りの高い壁に均等に並んだ錆びた街灯たちの灯りは既に点き始めていて、ランプの光が冷たい石畳を照らしながらゆらゆらと揺れていた。
その時ふと、暗闇の奥の方から、微かな血の匂いがした。
私は咄嗟に息を殺した。
つま先が地面にくっついて、離れない感覚。
それでも、なぜか、意識はその方向から離れてくれなくて、私は一歩前へと進んだ。
そしてさらに、奥へと。
石畳の影の中に、横たわる大きな何かの塊が見えた。
ランプの炎がゆらめいて、その塊の輪郭を一瞬だけ映し出した。
それは明らかに、人間だった。
私は咄嗟に駆け寄り、その場にしゃがみ込み覗き込んだ。
倒れていたのは30代くらいの男だった。
服は荒れていて、呼吸は浅い。
出血は−−多い。
「…」
一瞬、躊躇って、すぐに手を出すことができなかった。
少しだけ、目を瞑って、息を吸い込み、そして吐いた。
「…まだ、大丈夫かも」
誰かが言いそうな言葉が、頭に浮かんだ。
でも−−−
その"まだ"が、どれくらいなのかは、見ればわかる。
「…大丈夫じゃない」
胸の中の空気を搾り出すように、呟いた途端、
さっきまで固まって全く動かなかった手が、自然と動いた。
ひときわ血の色の濃い、男の胸元を大きくひらき傷口を確認する。
止血が必要だ。
まずは、傷口を洗わなきゃ。
鞄の中から水筒を出して蓋を開けようと試みるが
手が震えて、なかなかうまくいかなかった。
−−あの時みたいだ。
「…っ」
私はまた息を吐いて、そして思いっきり吸った。
迷うな。判断しろ。
「−−−きみ」
突然、声が落ちてきた。
私は、はっとして顔を上げた。
集中していたからか、相手が手強いからなのか、
全く気配に気が付かなかった。
目の前に立っていたのは、白いシャツに黒いスーツ姿の男。
逆光で、顔ははっきり見えないけれど
煙草の先のオレンジ色だけが、わずかに光っていた。
「ソイツのこと、助けるのかい?」
逆光の向こうで、男がわずかに目を細めたのがわかった。
どう反応するのが正しいのか判断しかねて返答ができない私に気がついたのか
男は口にしていた煙草を地面に落とし、踏みつけた。
「いや、君みたいな綺麗な子が、血まみれの路地にいるもんだから、驚いてね」
「…は?」
その男は、片目だけ隠れた金髪の髪に無精髭を携えて
すらっと伸びた長身にスーツを着こなし、明らかに軟派な雰囲気を醸し出していた。
ただでさえ足元に転がる血まみれの男に警戒して神経がピリついてる時に
突然現れた謎の男に、あまりにも場違いな言葉を投げかけられ、私は不快を隠さず睨みつけた。
「見ればわかるでしょ」
あっちに行って、と言わんばかりの冷たい声色で私は言い放った。
「そうだね」
スーツの男はそう言って小さく笑い、私の冷たい態度など全く目に入ってないような顔をして
男を挟んで私の向かい側にしゃがみ込んだ。
動きに無駄がなく自然で、距離の詰め方も妙に静かだった。
「出血が多いな」
怪我人から視線を離さず、スーツの男は言った。
この目の前の不審な軟派男には早く立ち去って欲しかったが
優先すべきはこの怪我人だ、と思い直した私は視線を元へ戻した。
「急いで止血しないといけない」
止血をしようとしていたことを思い出した私は急いでカバンからタオルを取り出した。
「止めるよ」
スーツの男はそう言って、私の手にある重ねられたタオルの1枚目を取った。
手伝ってくれるのか、そう思って、私は咄嗟に男の顔を見た。
スーツの男も怪我をした男から視線を私へと動かし、にこりと笑った。
落ち着いたはずのいらだちがまた顔を出したので
男の笑顔は無視してそのまま足元の怪我人へと視線を動かした。
「持ち上げるよ」
私の冷たい態度は意にも介さない様子で男は言い、
怪我をした男の体の下に腕を滑り込ませた。
確かにこの体格の男の体を私一人で持ち上げるのは難しかった。
軟派男の力を借りるの癪だったが、この際そうも言っていられない。
「…うん。ゆっくり」
男を追い払うことは一旦諦め、私もそのまま怪我人へと意識を集中させた。
呼吸を合わせて、ゆっくりと持ち上げる。
その時、ふと触れた男の手が思ったよりも暖かかった。
私は怪我人の処置に集中した。最後に圧をかけて、位置を調整する。
「その巻き方…すごいね」
「…別に、普通だと思うけど」
私が終始冷たい反応をしているにも関わらず金髪の男は本当に感心しているような声色で言った。
「普通じゃないさ。医者かい?」
「…元、ね」
「そっか」
それ以上、話はしなかった。
私は怪我男の処置に集中し、金髪男はそれを黙って見ていたし
たまに、的確に手を貸してくれた。
勘がいい人なんだろうと、話さなくても伝わる動きだった。
「…持つと思う」
言葉を発したのは自分なのに、その瞬間、ほっと心が緩んだのを感じた。
「ありがとう」
私は、金髪男の顔を見てそう言った。
無事、応急処置を終えることができたのは、この軟派男の協力があってのことなのは、紛れもない事実だった。
男は少し驚いた顔をして、肩をすくめて静かに笑った。
「きみさ」
男は、少しだけ首を傾けた。
「迷ったよね」
その言葉に、私は固まった。
私は、ちがう、と言いかけた口を閉じて、少し呼吸を置いて、息を吐いた。
「…迷ったよ」
私は正直に答えた。
名前も知らない男に、言い訳する必要もなかったから。
「でも、勝手に手が動いてた」
怪我人の周りに散らばった道具を鞄にしまいながら答えた。
男と、目を合わせることはできなかった。
「そっか」
その声には、どんな色が含まれてるのか、わからなかった。
私は顔を上げて、男の顔を見た。
男の瞳は、優しい色をしていた。
「サンジ」
「へっ?」
男の言ってる言葉の意味が咄嗟にわからず、私は間抜けな声を出した。
男は、少し笑いながら答えた。
「おれの名前。サンジって言うんだ。きみの名前は?」
少しだけ間を置いて、私は答えた。
「…#NAME#。」
「綺麗な名前だ」
男…もとい、サンジはそう言って、立ち上がった。
照れも、作りも感じない言葉だった。
「こいつ、医者のところに連れて行くだろう?」
サンジはまだ床に寝たままの怪我人の男を顎でしゃくって指す。
「あ…うん。少し離れたところに診療所があるからそこに…」
「手伝うよ」
間をあけずにそう言ったサンジは、私の返事を待たず、怪我男の隣に膝をついた。
「こんな汚ねェ男と、君のようなレディを二人っきりにさせるわけにはいかないからね」
サンジは男を担ぎ上げながら、私に軽くウィンクをしてみせた。
「…ありがとう」
あまりにも場違いなウインクに、私は、肩の力が抜けたのを感じた。
もう、不思議といらつきは感じなかった。
明らかに自分よりも大きな男をいとも簡単に担ぎ上げ、悠長に歩き出そうとするサンジに驚きを隠せないまま、私はサンジの隣に立った。
「案内するね」
そう言って歩き出した私と、隣に並ぶ、大きな男をかかえるサンジの影が
ますます深まるオレンジ色に照らされて長く長く伸びていた。
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