おはよう、と凛月のやわらかい声に私の意識はゆるやかに夢の中から現実へと引き戻される。ゆっくりと目を開けると、ぼんやりとした視界の中でふふっと上品に笑う凛月を捉えた。ちらりと横目で見た時計の針はもうすぐ天辺を指そうとしていて、おはようの時間にしては遅い気がする。
「俺これからお仕事に行ってくるね。ご飯用意してあるから、食べられそうだったら食べて」
ベッドの縁に腰掛けて私の髪を愛おしそうに梳く凛月がそう言って私の額に唇を落し、寝室から出て行く。ありがとう、と小さく発した声はぱたりと閉まったドアに消えていった。
重たい身体をなんとかベッドから抜け出して一通り――顔を洗ったり、服を着替えたりして――準備を済ませた後リビングに向かうと、部屋の主はとうにいなくなっていた。テーブルに置かれた軽めの昼食と思われる一人分の食事の隣には、「今日は早めに帰れると思うけど、遅くなっても無理して起きてなくてもいいから」という達筆な文字で書かれたメモ。一人だと寂しくてあまり眠れないんですう、とメモに向かって反論をしつつ、「いただきます」と箸を手に取った。
食事を終えて、食器もすべて食洗機の中に押し込んでスイッチを押す。胃がぎゅうぎゅうに詰め込まれて眠気もくるようになり、ふらふらとしながらソファーに倒れ込むようにして横になった。かちかちという時計の音だけが鼓膜に響く。このまま惰眠を貪ってしまおうか。そう思った私の目にとまったのは、ライトが緑色に点滅する自身のスマホだった。
「あ、泉からだ。……えっと、まだくまくんの家に住んでるの、って。泉も世話焼きだなあ」
つい独り言が多くなってしまうのは寂しさからなのか。そうだよ、と返すとすぐに既読がついた。そして軽快な音とともに画面が切り替わり、泉からの着信を告げる。
「泉から電話なんて珍しいね、どうしたの?」
「どうしたの……って、別に気になったことがあるから電話しただけ」
いま平気? とたずねる泉に、私はいつでも平気だよー、と笑って返す。あっそう、と言う泉の声は呆れの他になにか含まれていた気がする。
「……で、本題なんだけど」
数分ほどお互いの近況について話した後、急に神妙なトーンで話を切り出す泉に生唾を飲み込む。なに? と問いかけた声はすこしだけ震えてしまったように思える。
「いつまでくまくんの家に居座る気? もしなまえさえよければ、うちん家に来てもいいけど」
「……泉の家にお邪魔したら、なんか凛月以上に甘やかされてダメダメにされちゃいそうだね」
最初の泉の問いかけにはわざと答えずに返答をすると、別に甘やかさないけどぉ、とある意味予想通りの返しに思わず笑ってしまった。そう言いつつ、何だかんだで世話を焼いてくれるのだ、きっと。
「でも泉には嫌われたくないから、お世話になりたくはないなあ」
「何それ。別にあんたのこと今さら嫌いになるわけないでしょぉ。って、それってくまくんはいいわけ?」
「うん、凛月は何をしても許されるって確信してるから。なんというか、すべてを受け入れてくれるというか」
「へぇ。随分とくまくんにご執心してるみたいじゃん」
なんて言えばいいか分からなくて、とりあえず笑ってみせた。もしかすると泉は私が凛月のことを恋愛対象として好きなのかもしれないと鎌をかけたつもりだろうけれど、私が凛月をそういった目で見たことは一度もない。ペットと似たような感覚で置いてもらえたらそれでいい。ご主人様の言うことなら何でも聞くし、甘受する。凛月がこの家から出て行ってほしいと一言伝えてくれば何も言わずにすぐに出て行くし、身体を求められれば受け入れる。それくらいの対価は充分過ぎるほどもらっているのだ。
「……まぁ俺はしばらくこっちにいるから、何かあればいつでもこっちに来な。なまえを一人迎え入れるぐらいの余裕はあるし」
「うん、ありがとう泉。じゃあまたね」
逃げるようにそそくさと通話を切り、スマホを視界に映らない遠くの方へ放り投げた。時刻はまだおやつを食べるには少し早い時間。すっかりどこかへいってしまった眠気を無理矢理引き込むようにして、ぎゅっと目を瞑った。夢の中だけが寂しい時間を紛らわせてくれる。夕方になったらお買い物に行って、凛月の好きなものがたくさんの夕食を作ろう。そう決めて意識を手放した。
「おはよう、起きて」
自分の名前を呼ぶ声と、頭を撫でられる感触に目を覚ます。すっかり真っ暗になっていた外に、部屋の明かりがまぶしく思える。そういえば朝もこんな感じだったような……、と思いながらご主人様を見つめた。
「おかえりなさい、凛月」
「うん、ただいま。……帰る前にメッセージいれたんだけど、その様子だと寝てて気付かなかった?」
にこやかにはい、と渡されたスマホには確かに凛月から通知があり、「もうすぐ帰るけど、何が食べたい?」とある。メッセージが送られたのは一時間ほど前で、私が起きようと予定していた時間だった。
「あぁ、ごめん……今気付いたや」
「そんなことだろうと思った。ねえ、せっかくだから今日は外食しよっか」
微笑む凛月に、はい起きて、と両腕を引っ張られて身体を起こされる。寝起きでぼさぼさになってしまった髪も、凛月は何も言わずに綺麗に整えてくれた。
「大丈夫だよ、俺はいきなりなまえを放り出したりしないから。そんな無責任なことはしないよ。……なまえがここに居たい限り、ずっと居て」
突拍子もない凛月の言葉に目を丸くする。きっと泉が気をきかせて凛月になにか耳打ちでもしてくれたのだろうけれど、この胸の奥につっかえる釈然としない、わだかまりは何だろう。
「ありがとう、凛月。だいすきだよ」
「……ん、俺も大好き」
一瞬だけ泣きそうに揺らいだ凛月の赤い双眸はすぐに瞼に隠され、彼に抱きしめられたことによってその真意を確かめることは出来なかった。とくんとくん、と一定のリズムを刻む凛月の鼓動が心地よく感じられ、ぬるま湯に浸っている感覚に陥る。どこまでもやさしさに溢れた凛月のぬくもりに、いつか、その時がくるまでは包まれていたい。
陽だまりの死を
20200907