必要最低限の家具しか置かれていない一室で、いつ帰るか分からない泉さんの帰りをひとり待つのもすっかり慣れてしまった。ごめん、遅くなりそうだから先にご飯食べてて。そう泉さんからメッセージが入ってから早一時間と少し。待ってます、とすぐに返信をしたものの一向に既読はつかなかった。


 ふかふかの大きなソファーの隅っこで抱きしめたクッションに片頬を埋める。何かしていないと嫌なことばかり思い出してしまいそうなのに、沈み込んだままの心は身体まで重たくしてしまった。指先一つ動かすことさえ億劫で、適当に流しているテレビの音がどこか遠くに感じる。泉さんがいつ帰ってきてもすぐに入れるようにお湯張りの完了したお風呂と、ラップをかけた二人分の夕食。私がやるべきことといえば、「いい子にして待っててね」という朝に泉さんがお仕事に行く前に私の頭を撫でながら発した言いつけを守ることぐらいである。……それなのに、それすら守れそうにない私だから、私は泉さんにいつか捨てられてしまうのだろうか。









 玄関の方面から聞こえるわずかな物音に全神経を研ぎ澄ませ、ぴんと背筋を伸ばす。少ししてからただいま、と顔に多少の疲れを滲ませながら姿を現した恋人に、「おかえりなさい」と笑顔を向けた。


「……泉さん? どうかしましたか?」


 仕事用のバッグを置いて上着を脱いだ泉さんが私を見据えたまま立ち止まる。何か言いたげに私の顔をしばらくジッと見つめた泉さんは、「いや、何もないけど」と顔を背けた。


「ご飯、先に食べてていいって言ったのに」

「あ、どうしても泉さんと一緒に食べたくて……えと、その」


 ダイニングテーブルの上に置かれた料理を見てそう呟いた泉さんに慌てて口を挟むものの、次の言葉がうまく見つからない。そんな私を見かねてか、重く長いため息を吐いた泉さんは私の手首を掴むと歩みをすすめ、ソファーへと腰掛けると隣に私も座るようにと促した。そして流れる沈黙に、心臓がバクバクと嫌な音を立てる。……この空気は、元彼が私に別れを告げたときのものと同じだ。



 ――泉さんはなんで私なんかと付き合ってくれてるんだろう。そう思ったのは一度や二度ではなく、つい最近のことでもない。高校生の時に泉さんに告白されてお付き合いを始めたことを実感し始めた頃から、ずっと。アイドルやモデルとして世界にも進出している泉さんと、特に秀でた才能もなにもない私。泉さんの周りの方のように綺麗でも可愛くもないのに、どうして。きっとこんな私なんかいつか捨てられてしまうのだろう。それがもしかしたら明日かもしれないと内心怯えながら、泉さんの前ではそれを出さないように必死に取り繕っていた。だだっ広いワンルームで泉さんの帰りをただ待つしかできない私の世界にはただ泉さんだけがいて、彼に捨てられてしまえば私の居場所などどこにもなくなってしまう。


「……や、だ。わたしのこと、すて、すてないで、いずみさん……っ」


 付き合い始めた当初、泉さんは約束事としていくつか挙げた。あまり一人で抱え込まずに相談すること、甘えるのを怖がらないこと、隠し事をしないこと――。その他にもあったが、私はこの三つを守ることは出来なかった。聡い泉さんのことだからきっと私の作り笑いなんて既に気付いているだろう。だから泉さんは時折私を抱きしめ、「なにか俺に言いたいこととか、してほしいことはない?」と子どもを相手するようなやさしい声音で尋ねてくれた。泉さんに言いたいこと、してほしいことなんていくらでもある。でもその一つ一つを口に出して面倒くさいと泉さんに嫌われるのが怖くて、きゅっと唇を噛みしめる。大丈夫です、とかぶりを振る私を泉さんは、「そう……」と力なく笑いながら頭を撫でてくれていた。


 嗚咽をあげながら泉さんの胸元に顔を埋め、駄々っ子のように何度も嫌ですと声をあげる私に、頭上で泉さんが息を呑んだのが分かる。初めて泉さんに吐露した本音に、泉さんの言葉を聞くのが嫌で耳を塞ぎたくなった。


「なんで、俺がなまえのことを捨てると思ってるの」

「そ、れは……だって、」


 やさしい泉さんの声に顔をあげると、潤んだ視界の先で私の続きを静かに待つ泉さんを捉える。指先で目の下に溜まった涙を拭われ、それに促されるようにしてずっと心の内に秘めていたことをぜんぶ、ぜんぶ伝えた。


「私だってこんな自分のこと、面倒だって分かってます。甘え方なんてよく分からないから可愛げもないし、泉さんの周りの女の子のように顔がいいわけでもない。泉さんだってきっと、こんな私のこと……っ!」

「いくらあんたでも、俺の好きな子貶すなんて許さないから」


 いつか捨てるんでしょう? ――そう言おうとした思いは声にはならず、いつもよりもワントーン低い声で告げられたそれに一瞬息が止まる。半分やけになって叫ぶように吐き出した私の両頬を両手で挟んだ泉さんは驚いて涙の止まった私を睨み付けたまま、そのきれいな青色の目から涙を一筋流した。


「え、泉さん、なんで泣いて……」

「あんたが変なこと、言うからでしょ」


 初めてみた泉さんの涙に動揺する私。頬に添えられた片手で一瞬視界が塞がれたもののそれはすぐに離れていき、視界が明るくなった頃には泉さんの涙はどこにもなかった。


「あのね、一回しか言わないからよく聞いて。誰がなんと言おうと俺はなまえのことを世界で一番可愛いと思ってるし、健気に俺のことを待ってくれてるところとか好きだし、普段甘えてこない分たまに甘えてきたときの破壊力とかすさまじいからねえ? ああ、あと、周りから狙われてるくせに全然気付いていないなまえのことを、どう人目から避けて閉じ込めてやろうか考えてるくらいには盲目的だから。わかった?」


 うまく処理が追いつかない頭で必死に噛み砕きつつ、泉さんの圧に押されて小刻みに首を縦に振る。そんな私にふっと表情を緩めた泉さんは、おいで、と無防備に両手を広げるから心臓の奥がきゅっと痛くなった。

 大好きな泉さんの腕の中で安心する体温と匂いに包まれながら、彼の胸元に頬をすり寄せる。またいつか不安なときがきても、こうしてまた抱きしめてもらえたのならきっと平気になれるはずなのに、なぜだか今は無性に泣きたくなってしまった。





深昏睡
20200621

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