結局一睡もできなかった。いつでも出れる準備をしてベッドに腰掛けて、図書室で借りた園芸の本をぼーっと読んでいた。内容が全然頭に入ってこない。もしマルスと湖に行き、そこで何かをして、マルスが執着している何かが解決してしまえばもう彼は私に話しかけてくれなくなる。興味すらも持ってくれなくなる。そんなのは嫌。それは自分でもはっきり分かっていることだ。そう考えると、リンクを痛めつけたとはいえ、夢の中の王子様とは幾分……ううん、かなり違うとはいえ、やっぱり私は彼のことが好きみたいだ。多分。それなら湖に行きたくない。行ってしまえば彼とは話せなくなってしまう。どうしたら湖行きを拒否できるんだろう。彼のことだからきっと私を引っ張ってでも連れて行くと思う。逃げることはできない。
そんなことを頭の中でぐるぐると考えて過ごしていると、微かに扉を叩く音がした。もうそんな時間になったんだ。私は覚悟を決めて出た。部屋の前にはいつもと同じ表情のマルスがいて、剣帯していた。
「おはよ」
「ああ」
「武器って必要? 湖までの森に獣がいるの?」
「兎ぐらいならいるけど、君は持たなくていい。急ごう」
手首を捕まれ、引っ張られ私は彼の急ぎ足に合わせるように足音を立てないように早歩きでついていった。
母屋を出ると手を離された。外は暗く、日の出まで暫くはかかりそうだ。夜明け前とだけあって肌寒く暖房のある室内から外に出たので一瞬身が震えた。敷地内の街灯を頼りに歩き、沈黙のまま森に入っていった。当然森には街灯なんてないので、マルスが光を発せられる道具を使って足元を照らしてくれたのでそれを頼りに歩いた。地面は冷気で湿っていて、周りは背の高い木々に囲まれている。
ここに来る前は夜の森は怖くて必ず避けた。今は松明より明るい光に、森には兎しかいないという情報がある。そんなに怖くはない。
一本道を数十分程歩いた。段々空が明けてきた。もうすぐ夜が明ける。あとどれくらいなのか聞こうか迷っていると、遠くに湖のようなものが狭まった木々の間に見えた。マルスは灯りを消して、さっきにも増して早足になった。私も遅れないようについて行き、そして私がここに来た時のあの湖に出た。
二人で湖の側まで寄り、日が少しずつ上る様子を眺めた。
「ここで何するの?」
「湖の中に何か見えないか?」
「何かって……」
しゃがみこんで膝に手をつき、湖を覗き込んでみた。暗くてよく見えない。
突然背中を蹴られた。身体がその衝撃で前に出て、湖の中に勢いよく落ちた。湖付近も水深が深いため必死に体勢を整え、後ろを振り向いて私を蹴った犯人を睨みつけた。
「何するの!」
「時期にわかるかもしれない」
マルスは私の隣に下りるように同じく湖に入って来た。
「息を吸って」
「え?何?」
「息を吸え」
不意に冷たい湖の中に押し込められマルスも一緒に水中に入ってきた。苦しい。息が出来ない。ここに来た時と同じだ。死んじゃう。
マルスが私を押す手を振り払おうとしても、とても強い力にそれは叶わない。わけがわからない。何で私がこんな目に……!
ああ、もうだめ。死んじゃう。意識の途切れる前、最後に見えたのは彼の悲しそうな顔だった。
*
胸の圧迫感による発作で目が覚めた。反射的に身を起こすと誰かにぶつかり詰まっていた水が口から出てきた。暫く咳き込んで、息を整えるまで時間がかかった。漸く咳が止まり、周りを確認すると直ぐ近くでマルスが私をじっとみていて、ここはさっきと同じ湖の辺りであることがわかった。マルスにされたことをありありと思い出し、咳き込む口元を隠しつつ彼を睨みつけた。
「何で沈めたの?」
「僕は確認する必要があった。湖には……何もなかったことを」
「何で何かあると思ったの?」
「君はここに浮かんでいたと聞いていた。恐らく君はここを入口としてここに来たということだ」
「つまり?」
「湖の中に入れば君の世界に行けると思った」
「何で私の世界に行きたいの? 何でこんな時間に来たの?」
「……結局行けはしなかった。もう僕は君に関わらない。それ以上質問するな」
昨日とまた同じことを言われた。だけど、今日の言い方は少しだけ違う気がした。それでもショックなことには変わりなかった。
「そんな……」
「風邪を引く。早く帰ろう」
踵を返し彼は先に元来た道を歩いて行ってしまった。私はとても悲しくてよろよろと立ち上がったものの、ついて行く気にはなれず、小さくなる彼の後ろ姿を見つめていた。
彼と私の繋がりのある事柄が解決できないことが分かった、ということが解決し、彼は私に対する用がなくなったんだ。だから彼は振り返ってはくれない。私に話しかけることもない。彼に触れられてドキドキすることもなくなる。一緒の家にいても、一緒に乱闘しても、必要最低限の会話もなくなる。そんなの悲しい。
しかし、私の予想に反して彼は振り返り暫く立ち止まった。彼が戻ってくる。いつものような早歩き。段々近づいてくる。私の目の前まで来た。
「この件に関しては、僕は関わらない。それだけだ」
念を押すようにいつものような調子で言うと私の腕を掴んで引っ張った。私は遅れないように彼の後についていった。やっと彼の言葉を正しく理解できたことが分かった途端笑みが止まらなくなった。
空はもう白んですっかり明るかった。濡れて冷たくなった身体がぽかぽかとした陽気に包まれてとっても温かくなった。