踊り場のアーチ型の窓から滲む光を背に僕らは階段の途中にいた。
『なまえ、早くおいで』
『今いくよ』
彼女は淡く微笑んで、僕がいる段の十段程下から階段を一つ上った。その瞬間彼女は突然現れた男に腕を掴まれたかと思うと彼女のいた足場が崩れた。彼女は男と共に深い闇に落ちていった。僕が動く間もなかった。助けることは出来なかった。なのに全てがゆっくりに見えた。ゆっくり、とてもゆっくりと彼女が落ちていく。まるで動画がスローモーションで再生されるみたいに事細かに全てが見えた。彼女の驚いた瞳、上に向かって伸ばした手とその後ろに見える男の顔。
そして長い絶叫が続いた。助けを呼んでいるのは彼女のはず。なのに誰の声なんだろうという疑問が浮かんだ。
「ロイ! 大丈夫か!? ロイ!!!」
「な、何?」
体が大きく揺すられていた。ここはどこだろう。今はいつで、僕の体は誰に揺すられているんだろう。
「大丈夫かい?」
「今何時?」
「まだ夜明け前だけど、寝ぼけてるのか?」
ぼーっとしていた頭が段々はっきりしてきて、呼吸が乱れているのに気がついた。僕は夢を見ていたみたいだ。それもとっても悪い夢を。起こしてくれたのは同室のルフレだった。
ルフレが僕らのベッドの間にあるチェスト上のテーブルランプを付け、水差しからガラスのコップに水を注いでくれた。僕はそれを受け取り水を一杯飲んだ。頭が大分すっきりして、からからになった喉が潤った。
「ありがとう」
「大丈夫か? 何があったんだい?」
「もしかして僕暴れてた?」
「いや、暴れてたというか叫んでいたよ。僕、それで目が覚めて……」
「今何時かな?」
「5時前だよ」
「途中で起こしちゃったね。ごめん」
「いや、気にしないでくれ。殺人があったのかとびっくりしただけだよ」
本気で言っているのか冗談で言ってるのか、薄明かりの中だとわからなかった。ルフレは割とブラックジョークを言うから後者の方かもしれない。
「悪夢でも見たのかい?」
「あー、うん。悪夢だった。覚えていないけど」
嘘だった。僕は今見た夢の内容をはっきり覚えていた。シチュエーションもその時の感情も脳に刻まれたように仔細にだ。
悪夢を見るのは久しぶりだった。春以来かもしれない。
この世界に来たばかりの頃、僕は毎日のように悪夢にうなされていた。悪夢はいつも決まって崖から落ちる夢でパターンは二つある。暗い空間を仲間達と共に進み、突然でて来た巨大な竜の炎に包まれて火達磨になって落ちるか、炎を避けて落ちるかのどちらかだ。
夢は訓練によって操れるようになるらしい。なんとなくフォックスに悪夢を見ることがあるか聞いてみたら、彼は悪夢を見ることがよくあったらしく、図書室で借りた本を参考に、夢を見る度に本の内容を実践していい夢に変えることができたらしい。例えば夢の中で借金取りに追われた時に念じたら借金をその場で返済できたと、嬉しそうに語っていた。
それから僕はフォックスに聞いた通りに毎日夢を操れるように意識したり、夢日記を書いて見たりした。結局何も良くならないまま、いくつもの季節を過ごした。
ちょうど寒さも落ち着いた春頃、悪夢は見ることがなくなった。理由は分からないけど、もしかしたら人に夢の内容を話したのが良かったのかもしれない。それから毎日気持ちよく眠れるようになったというのに、何故今こんな夢を見たのだろう。それもなまえがあんなことになる夢なんて……。理由は少しわかる気がしたけれど僕はそれについて考えたくなかった。
「寝れそうかい?」
「ううん。もう起きて外に散歩に行ってくるよ」
「じゃあ僕はもう一眠りしようかな」
ルフレが欠伸をしながら布団に入った。僕はポールハンガーからガウンをとって羽織り、ストールを肩にかけた上からマフラーぐるぐると首に巻きつけた。外はかなり寒いだろうけど、このくらいが今の僕にはちょうどいい気がした。
廊下を出て折り返し階段を下り、踊り場に出ると階下になまえがいて階段を上ろうとしているところだった。嫌でも先程の夢の光景がまざまざと頭に浮かんだ。僕は足早に階段を駆け下りながらなまえに声をかけた。階下は既に外の冷気を含んでいて寒い。
「なまえ、おはよう」
「おはよ。早いね」
「途中で起きちゃってね。なまえは?」
「私も目が覚めちゃって。マフラー巻いてるけど外出るの?」
「うん」
「さっき外出たけど、凄く寒いからやめた方がいいよ。玄関も内鍵閉めちゃったし」
「僕は大丈夫だよ。寒いくらいがちょうどいいよ」
「大丈夫?」
「え?何が?」
じっと顔を覗き込まれるように見られた。あまりにも唐突な質問に僕は聞き返すしかなかった。
「なんか変だよ?」
「変?僕はいつも通りのはずだけど」
僕には思い当たる節がなかった。目覚めが悪いとはいえいつもと変わったところはない気がした。口元もマフラーで隠れているし。
「それならい……ふぇっくしゅ!」
「体冷えてるみたいだから、早くベッドに入った方がいいよ」
「そうするね。じゃあおやすみ、って言うのも何か変か。じゃあまた後で」
「うん。また後で」
なまえが踊り場まで階段を上り切るのを確認してから外に出た。玄関の時点で肌寒かったけど、外はもっと肌を刺すような寒さだった。夜明け前で外は夜のように真っ暗で、街灯がなければ何も見えないくらいだ。
街灯に照らされている、外門に沿って植えられたヒイラギを見つめた。冬になり赤い実をつけたそれを見て直ぐになまえが食べられるのかな、等と言っていたことを思い出して一人で笑ってしまった。そんな彼女は今頃は暖かなベッドの中に潜って寝ているだろう。僕にとって、そ れ は 何 よ り 大 事 な こ と で 何 よ り も 優 先 さ れ る べ き ことだ。
「ロイ!」
後ろから呼ばれ振り返った。アイボリーのガウンを羽織り、ストールを肩に掛けたなまえが玄関の扉の陰から体を半分出していた。体を押し付けて扉を支えているみたいだ。
「扉重くない?」
急いで扉を開けると訳が分かった。なまえはマグを両手に持っていた。
「ティーラテ作ったんだけど、飲まない?」
「ありがとう。いただくよ」
玄関両扉の片側だけを180度開いてから(ここまで開くと自動で止まる)、僕は彼女からマグを1つ受け取った。容器がとても暖かくて、中から立ち上る湯気とともにいい匂いがした。
なまえがここに来た春から随分進歩しているなと思った。彼女がピーチと一緒に初めて作ったという紅茶は何故か香りが飛んでいてお湯の味しかしなかった。でも彼女がにこにこと笑っているのを見ると何故かそれは美味しく感じた。彼女には何かそういう力があるようだ。
「ミルクで煮出したから、冷ましてから飲んで」
いつの間にかミルクで煮出すという技術も身につけたらしい。
「気をつけるよ」
僕はマグを両手で持ち、じんわりと手のひらに伝わる温かさを堪能した。
「外寒いでしょ?」
彼女は玄関の内側から出てこないまま、外側から来る冷気に体を震わせながら聞いてきた。
「けど、とても温かいよ」
僕がマグを少し上に上げると彼女は笑った。
ティーラテに息を吹きかけてから飲むととても甘くて美味しかった。少しジンジャーが入っているみたいで喉に少しの刺激と体にぽかぽかとした温かさをもたらした。
「美味しい。いつの間にこんなの作れるようになったの?」
「内緒!」
彼女は口元に人差し指を立てた手を持ってきて言った。
秘密の特訓でもしたのかな。
「そろそろ中入ったら?」
「まだいいかな。なまえはもう部屋に戻りなよ。そこも寒いよね?」
「ここ暖房の風があたってるから大丈夫」
外からの風も当たるけど、となまえは笑ってマグに口をつけた。僕はそんな彼女を見て、当分はそちらに行く気になれなかった。ただちょっとなまえの風よけになればと少し動いた。
「君はエトルリアの人みたいだ」
「エトルレア?」
「エトルリア。僕がいた大陸一番の大都市の子みたいだ」
「そんなおしゃれにみえるの?」
「ううん。そういう意味じゃなくて、君はなんというかとても……」
言葉が詰まった。たった三文字の言葉なのに言えば今の状態が変わってしまう。そんな気がした。
僕にとってこのままの位置関係が一番好ましい。何も変えたくはない。
「大都市ってことは冷たいとか?」
「あはは。良いことを言おうとしたんだけど、忘れちゃったよ。まだ寝ぼけてるみたいだ」
「外にいるのに?」
「寒い風に慣れてるんだ。これ飲みながら散歩して目覚ましてくるよ」
「じゃあ寒い風に慣れてない私は上あがろうかな」
「それがいいと思う。じゃあまた後で。ラテありがとう」
「いーえ。体冷やしすぎないようにね」
彼女はまたあの魅力的な微笑みを湛えて手を振ると背を向けて奥へと行った。僕はマグに両手を当て、その温かみを感じながら庭を当てもなく歩いた。