gattino ep4 end
ついに子猫の通院が終わって、獣医さんの知り合いの伝で、子猫の里親が見つかり、子猫が私の知らない人へ獣医さん経由で引き取られてしまった。ライアン先生は引き取り先は子猫を大事にしてくれる家庭と言っていたけど、それ以上は教えてくれなかった。
それからずっと憂鬱で無気力になった。子猫がいなくなって次の日の朝、兄貴の任務について行こうとしたら、来るなと酷く怒られて、すっごく怖かった。兄貴に割り振られる任務の殆どに教育という名目で同行していたのに、拒否されたショックもあって殆どアジトで横になっていた。そんな折、ホルマジオが情報分析チームの知り合いを紹介してくれた。子猫の引き取り先を調べてくれるという。
情報はその日の夜にアジトの近くで受け渡してくれた。アジトに戻って早速書類を見ると、引き取り先とライアン先生の情報まで綴られていて、先生の家族構成にはちょっとびっくりした。結婚していて子供までいるみたいだ。
引き取り先の住所を見ると、綴られた地名には何か聞き覚えがあるような気がした。
「シカンビーアって聞いたことあるんスけど、どんなところっスか?」
居室に揃っていた皆に聞いてみると、空気が一変した。特に私が何の書類を受け取ったか知っているホルマジオは顔を曇らせている。
「なぜそんなことを聞く?その書類はなんだ?」
真っ先に兄貴に聞かれたけど、勝手に情報分析チームにお金を握らせて調べさせたことは言えない。
「シカンビーアの観光資料をもらっただけっス……」
「観光?麻薬体験とか、スリ体験のことか?」
兄貴が眉を潜めて言う。
「えっ……?」
観光と繋がらない不穏な単語に背筋が凍りついた。
「シカンビーアはオレたちでも近づかねェよ。あそこにはオレたちみてーな専門部隊はいねーから、好き放題やってるらしいな。一応組織には上納金を収めているらしいが、監督する構成員がいなくてチンピラが日々内輪揉めで殺し合ってるらしいぜ?まともな人間ならあそこにはいかねーよ。ネアポリスの暗部ってやつだ。オメーは興味を持つな」
兄貴からの情報は殆ど「らしい」という不確かなものだけど、危ない地区なのはわかって愕然とした。
「汚染地域であそこに住んでる人は他の地域に住んでる人よりガンになりやすいって聞いたことあるなあ……」
ペッシはそういえば、と青ざめた顔で言う。私もそういえば、それを聞いたことがある気がする。南部はイタリアのゴミ箱と言われていて、ギャングが北部の産業廃棄物の処理を一般の業者より安く引き受けて、南部のどこかに捨てているらしい。そのせいで汚染地域が増え、公害の発生している地域まである。ネアポリスだって、一部の街路でゴミが溢れ返っている。ゴミ問題は今や南部ではかなり深刻な状況で、それを解決しようとした議員をホルマジオが暗殺したとかなんとか聞いたことがある。確か、その時の議員の死に方が今でもトラウマだとペッシが言ってた。
「あそこにいるのは麻薬中毒者か麻薬中毒の売人だけだろ〜?ナマエよォ、あそこの観光なんてやめとけよォ〜。セコンディリャーノの方がまだマシだぜ」
「冗談抜きで銃を持っていくより、全裸で行った方が安全な地域だぜ?こっちは襲う気がないってアピールになるからな。まあ、おれなら服着て行っても生きて帰ってこれる自信はあるがな」
「落ちている注射器より動物の死骸が多いと聞いたな」
「射殺体が道端に転がっているのを見たことがある。数日おきに人が死んでいるみたいだな」
ギアッチョ、イルーゾォ、メローネ、そしてリーダーの最後の情報に心臓が抉られるような痛みを覚えた。
「あはは……皆、冗談っスよね?」
とてもじゃあないけど、信じられないし、嘘だと思いたい。でも、皆の目は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えなかった。
「ナマエ、資料を見せろ」
ホルマジオが私の隣に来て、資料を取り上げてしまった。眼を右へ下へ走らせるごとに、ホルマジオの眉間に刻まれるシワが増えていく。
「あの獣医、とんでもねえ野郎だな……」
「何がっスか?」
「引き取った動物を売っているみてえだ」
「売るって……?」
真っ先にペットショップとかブリーダーに売るのかな、と馬鹿な考えが浮かんだ。話の流れやホルマジオの反応からそんなわけがないのに。
「ナマエの子猫も金銭目的で売られたってことだろ。しかも、野良の動物もトラップゲージで捕獲して売っているみてぇだ。それに加えて注射器やフラスコ、クローブにオイゲノール、カリウム……怪しげな薬品までシカンビーアに流してるらしいな。動物実験でもするつもりか?」
動物実験という不穏な言葉にショックで何も言えなくなった。頭が締め付けられるように痛むし、胃の底から何かがこみ上げてくる感覚がするし、実際口内に酸の味が薄く染み渡った。気持ち悪い。吐き気がする。その場でしゃがみ込んで、子猫が今どこにいるのか、まだ助けられるのか考えようとしたけど、頭が回らない。
「ナマエ!」
「おい、大丈夫か?」
皆が何か言ってるけど、頭に入ってこない。最低だ。あの優しいライアン先生がそんな人だったなんて……。今頃子猫はきっと──
頭の中で、1年程前の記憶が過ぎる。白い手袋が体内へ……それから、白い手袋に巻き付くように、所々赤くぬめっとしたてかりを帯びたピンク色の蛇のようなものが体内から──
吐きそうになるのを抑えこんで、足に力を入れてなんとか立ち上がった。霞む視界の中でホルマジオから資料を無理やり取り上げて、居室を出ようとした。少しの距離のはずなのに、出入口までが酷く遠く感じるし、まっすぐ立てないし、足を1歩踏み出すのも大変だ。
「ナマエ!」
誰かに肩を抱かれて支えられた。なんとなく兄貴だと少ししてわかった。声を出すこともできず、兄貴の方を見る余裕もない。ただ体が宙を浮いて、兄貴に無理やり抱き上げられたのを理解した。抵抗する力もでなかった。
気づいたらアジトの2階の自室のベッドの上にいて、背中が濡れている感覚があることから、凄まじい量の汗をかいているのがなんとなくわかった。汗で寒気がする。
「寒い……」
「ナマエ、ようやく喋れるようになったか?」
兄貴だ。片手をポケットに突っ込んで、立ったまま私を見下ろしている。起き上がろうとすると、視界がぐるりと揺れて起き上がり損ねた。
「無理すんな。寝ていろ」
小さく頷いて体を兄貴の方に向けて兄貴を見上げた。
「兄貴、運んでくれてありがとうっス」
「礼はいい。状況はなんとなく察したが、子猫のことは諦めろ」
「……そんなの無理っス。私が助けないと」
「もう遅い」
兄貴はにべもなく、言い捨てる。
掛け時計の時間を見ると、まだ子猫と離れてから30時間くらいしか経っていない。まだ間に合うかも。
「でも、まだ間に合うかも」
「無理だ。もう助からねえ」
「でも……」
眼にじわりと涙が滲む。何もできない自分が悔しくて悲しくて情けなくて仕方ない。なんで気付かなかったんだろう。どこかにヒントがあったかもしれないのに、あの先生のことは本気で信頼してしまっていた。
「おい、泣く気か?」
「泣かないっスよ!でも、なんで気付かなかったんだろって……」
唇を噛み締めて、なんとか涙を堪えた。兄貴の前で泣くなんてできない。ペッシみたいにマンモーニって言われたくない。
「……オレだって気付かなかった。ギアッチョもホルマジオもだ。プロのオレたちでさえ気付かなかったんだぜ?オメーに落ち度はねーよ」
「……兄貴ぃ」
兄貴の優しい言葉に我慢していた涙が溢れ出てきてしまった。一度緩んだ涙腺はどうすることもできず、涙が次から次へとこぼれ落ちてくる。
「おいおい。急にどうした?ガキじゃあねーんだ。泣くんじゃあねえ」
「っく……だ、だって……!私の所為だから……!兄貴の言う通り、警戒しとけばよかった……!わ、私のせいで……私が、最初から、拾ってなかったら……も、もっと長く生きられたかもしれないのに……!」
「チィッ。泣くなっつってるだろーがよォ!いいか?オレたちは暗殺者だ。仲間がいつ死んだっておかしくねえ世界にいんのに、たかだか猫ごときで泣くんじゃあねーぞッ!猫は死んだ。それを受け入れろ」
私に優しい言葉をかけてくれた兄貴が急に怒り出して訳が分からなくなった。とりあえず、兄貴は私のことを何もわかってくれてないことだけはなんとなくわかった。
「ひ、酷いっス……!私がどれだけあの子が大事なのか兄貴はわかってないんス!それに私しか助ける人がいないんスよ!あの子の保護者は私しかいないから!」
「さっきからピイピイ泣き喚いてうるせーぞ。ったく、オメーと話してると頭がおかしくなりそうだぜ。ブッ飛ばされたくなかったら、今日は大人しく寝てろ。階下に来たら容赦なくブン殴るからな」
兄貴はそう言うと部屋を出て行ってしまった。
兄貴が急に冷たくなって頭が混乱した。私が泣いた途端にだ。もしかして、兄貴は泣く女が嫌いなのかな。そういう男の人はいっぱいいるから仕方ないのかもしれない。兄貴はいつも正しいから、泣いた私が悪いんだ。子猫を拾った私が悪い。全部が私が悪いんだ。
ぐずぐず泣いているうちに扉を叩く音がしたけど、取りあう気もなくて、壁の方を見るように寝返りを打って無視した。少し間が空いて勝手に誰かが部屋に入ってきた。口元に手を当てて嗚咽が出ないように我慢した。
「ナマエ、大丈夫か?」
リーダーの声だ。私は背を向けたまま「んー」と唸るように返事をした。
「アスピリンと水を持ってきた」
わざわざ鎮静剤にお水まで持ってきてくれるなんて感謝しかないけど、今は放っておいて欲しかった。誰とも話す気分じゃない。
「どうも……テ、テーブルの上に、お、置いてくださいっス」
嗚咽が出かかって声が震えてしまった。リーダーに泣いたのバレたかもしれない。
「ああ。ちゃんと飲むんだぞ」
「はい……」
リーダーが部屋を出て行くのを見計らって起き上がった。
テーブルに置かれた錠剤を手に取り、口に放ってペットボトルの水で流し込んだ。
頭は痛むし、気持ち悪いし、寒い。でも、今からでも子猫を助けに行かなくちゃ。兄貴はああ言ったけど、もしかしたら、間に合うかもしれない。かなり危険な場所だけど、あの子を助ける為に腹を括るしかない。だって、あの子を助けられるのは私だけだから。
シカンビーアに行くのにホルマジオの手から奪い取った資料を探した。ベッドの上からローテーブルの下まで探したけれど、どこにもなかった。もしかしたら、階下で落としたのかもしれない。
スタンドミラーの前に立って顔を見ると、瞼や鼻先、頬まで真っ赤で人前に出れるもんじゃあなかった。でも、今はそんなことを気にしている場合じゃあないし、フードを被ればなんとか眼だけでも隠せる。
フードを被って急いで部屋を出て階段を下りて居室に入ると、リーダーとイルーゾォとメローネしかいなかった。そういえば、兄貴に階下に下りたらブッ飛ばすと言われたのに兄貴も他の3人もいない。
「ナマエ、薬は飲んだのか?」
リーダーがソファから立ち上がってわざわざ私のところまで来てくれた。背丈の関係上、近くでリーダーを見上げると、泣き腫らした真っ赤な顔が見えちゃうから視線を平行にすると、リーダーの露出した肉体が目に入ってきて、これはこれで恥ずかしくて顔が赤くなりそう。
「飲んだっスよ。リーダー、シカンビーアの資料知らないっスか?」
「……プロシュートが持っている」
「兄貴はどこっスか?」
「シカンビーアに向かった」
「えっ?」
なんで兄貴がシカンビーアに行くのかわからなくて、聞き返した。兄貴は確か、シカンビーアのことをかなり悪く言っていた。「オレたちでも近づかない」って。それに子猫は死んだと言ったんだから、シカンビーアに行く目的は無いのに。
「アイツならギアッチョにホルマジオ、それにペッシまで連れて、ブチギレながら出て行ったぞ」
ソファでメローネが他人事のように膝の上に乗せたノートパソコンを弄りながら言う。
「なんで……?」
「そりゃあ、可愛い可愛い妹分を泣かされたらキレるだろーが」
メローネの隣に座るイルーゾォが当然だろと、茶化すように言ってきた。
「わ、私、泣いてないっスよ!」
「鼻先」
イルーゾォが自分の鼻先をトントン叩いた。フードからはみ出てる私の鼻先が多分赤いんだろう。
鼻先を片手で覆いながらリーダーに向き直った。どうしても兄貴たちが無事か不安になった。あの悪名高いシカンビーアに行ったのだ。能力者といえど、無事に帰ってこれるのか心配で堪らない。もう子猫は死んでるかもしれないのに、4人まで危険に晒される必要なんてない。悪いのは私だから、私ひとりで行けばよかったのに。
「シカンビーアって夜に行っても大丈夫なんスか?」
「あいつらなら大丈夫だろう。心配せずにおまえは寝ていろ。それにプロシュートに寝かせておけと言われている」
「でも、皆が心配だし、子猫のことがあって……」
「眠れねーなら、おれが添い寝してやるよ」
イルーゾォがまたきしょいことを言って来た。
「くたばれ」
いつもメローネに言うよりも元気なく呟くように言った。一々強く言い返す余力もない。
「あ〜?おれにもメローネに言うみたいに言ってくんなよ」
「ナマエ、ライアン先生とやらのDNAをくれれば、代わりに殺してやるが。あの先生の処遇はどうするんだ?」
メローネが珍しく気を利かせるようなことを言ってくれた。子猫や兄貴たちのことが心配でその先生をどうするか忘れていた。それに信じていた先生の裏切りには怒りより先にショックで心が押し潰されていた。
「そーだそーだ。女ったらしのアイルランド野郎はどーすんだ?おれが殺してやってもいいぜ?」
イルーゾォまでもメローネに乗っかって殺してくれると言うけど、どうだろう。ライアン先生には勿論何かしらの罰を与えたい。私がどれ程子猫を大事にしてたかライアン先生ならわかってたはず。それなのに、私を騙して悪いやつらに売っぱらったなんて信じらんない。
「待て。シカンビーアに薬品を流しているやつだ。組織との繋がりがあるとまずい。プロシュートたちが帰ってきて繋がりがないことを確認するまで動くな」
リーダーの言うことは最もだった。組織と繋がりのある人を殺してしまったら、ボスの逆鱗に触れる可能性がある。そうなったら、私たちは皆ボスに殺されるだろう。
そもそも、シカンビーアに乗り出した時点でまずいことなのかもしれない。私の所為で皆が死ぬかもしれないと思うと、怖くて仕方がない。
「……ホルマジオの言っていた薬品の一部を調べているが、配合次第で向精神薬の材料になるようだな」
メローネがパソコンの画面を見ながら呟く。
「こう精神薬……?」
あまり聞き慣れない大卒が使いそうな単語だけど、なんとなく違法の香りがする。
「ほぼ麻薬のことだ。あそこにいるやつらは組織に属していない、ただのゴロツキの集まりのはずだ。それでそんなもんを作ってるなら、組織に内密だろうし、遅かれ早かれ殺すことになるんじゃあないのか?組織の一番の儲けである麻薬市場の混乱になるからな」
「本当にやつらが麻薬を作っているなら、そうなるだろうな」
メローネの予想にリーダーが同調した。
確かに麻薬ビジネスは莫大な利益を生む。それなら暗黒街に住む人たちが自分たちで新たに麻薬を作ろうとしてもおかしくはない。組織が流通させているものより安価で売れば儲かるだろうし、組織のものより上物なら尚更だ。
「とりあえず、オレたちはプロシュートたちの帰りを待つしかない。それまで例の獣医を殺すかどうかは一旦保留だ」
「プロシュートのやつ、完全にブチギレてたからなァ。既にアイルランド野郎が死んでてもおかしくないぜ?」
イルーゾォが不安を煽るようなことを言う。
確かに私が泣いた後の兄貴は凄く怖かった。でも、兄貴なら冷静に対処してくれるはず。心配なのは4人とも怪我なく帰ってこれるかだ。そして、私の大事な宝物が無事でいるかどうか……。
こんなに神経過敏になってセンチメンタルな気分になると、普段より気弱になって怖いことを考えてしまう。もしシカンビーアの人たちが組織の命令で動いていたら、私たちが皆殺しにされるかもしれない、とか。
「皆、私のせいでボスの逆鱗に触れて皆殺しにされたら……ごめんなさい……私、いつも口悪くて、特にイルーゾォとメローネ、あんたたちがきしょいこと言うからって強く罵ってごめんなさい……」
もしもの時の為に事前に謝っておいた。本当はたまに言い過ぎたかなって反省する時があるから、今言えてよかったし、ふたりにはもう少し優しくしようと思う。
「うおおい、縁起でもねーこと言うんじゃあねーよッ!マジにこえーだろーがッ!」
「なんだ。情緒不安定だな。ヒスはごめんだぜ」
「オレたちは暗殺者だ。殺られる前に殺る」
イルーゾォは冗談じゃあねえとビビってる様子で、メローネはいつも通りどっかズレてて、リーダーは強気で頼もしい限りだ。リーダーの言う通り、そんな考え方もあるのかとちょこっと勇気が湧いた。
*
あれから2時間くらい経った。心配で堪らず1階と2階をうろうろしていた。リーダーには兄貴に言われたなら大人しく寝ていろとやんわり注意されたけど、皆が心配で寝れるわけがなかった。
シカンビーアまで車で30分もの距離だから、そろそろ帰ってもいいはず。1時間ちょっとを過ぎたあたりから心臓が嫌な音をたてて鼓動していた。
兄貴たちは結局2時間半後にアジトに戻ってきた。
「帰ったぜ」
居室の扉を派手な音をたてて開けて入ってきた兄貴の片手にはゲージが握られていて、中には首輪のしていない小さな黒猫が3匹詰まっていて1匹だけが鳴き続けている。
「兄貴……」
兄貴やホルマジオ、ギアッチョにペッシは無事なようで、衣服に返り血っぽい点々とした鮮やかな血はついてるけど、怪我している様子はない。
「なんだ?オメー寝てなかったのか?階下に来たらブッ飛ばすって言ったよなァ〜?ええ?」
「ご、ごめんなさい!兄貴、私の為にシーノくんを救出してきてくれたんスよね?ありがとうっス!」
「オメーの為に救出だと?シカンビーアのヤツらが組織に内密に麻薬を作っていることを知ったから懲らしめに行っただけだぜッ。勘違いすんじゃあねェよ」
兄貴はそう言うけど、リスクがあったのに、ボスの許可なくシカンビーアに乗り込んだのは他に理由が思いつかない。兄貴は私のことをわかってくれてないと思ってたけど、本当は私が子猫を大事にしてたのをきちんと理解してくれてたんだ。兄貴はやっぱり優しい。
「おい、リゾット。あのアイルランド野郎はただのカタギで女遊びする金欲しさにシカンビーアで小銭稼ぎしてただけだったみてえだ。組織との繋がりはねーよ」
「ご苦労だった。何か問題はあるか?」
「特にねえ。強いて言うなら獣医をブッ殺したから、あの動物病院がどうなるかだな。しかし、獣医が動物を女遊びの為に悪党に回してたとはなァ。アイルランド人ってのはもれなくイカれてるぜッ」
兄貴は乱雑に床にゲージを置いた。
兄貴はまだ怒ってるみたいだけど、言ってることがあまり頭に入ってこなかった。今はただシーノくんがゲージの中のどの子か見分けるのに必死だった。
「兄貴、シーノくんは……?」
「ああ、こん中のうちの1匹がナマエの子猫のはずだ。シカンビーアの悪党共を殺っちまうついでに拾ってきてやったぜ。黒猫は射撃の練習に使う予定で特になんもされてねえみてェだ。ギアッチョもホルマジオもどれかわかんねえっつーから、オメーが見分けろ」
ゲージの中にいる3匹のうちの1匹が尻尾を大きく膨張させ、震えながら、人間の声と間違うようなびっくりする程太い鳴き声で鳴き続けている。こんなシーノくんの鳴き声を聞いたことはないけれど、震え方や、耳の形、眼と鼻の周りの毛の生え方でなんとなくシーノくんだとわかった。その瞬間、安心感でまた泣きそうになって、必死で涙を堪えた。
このままゲージを開けると、シーノくんはどこかへ走って隠れてしまうだろうから、ゲージは開けないことにした。
「シーノくん、私だよ。もう大丈夫だからね。兄貴、この子がシーノくんっス!」
ゲージ越しに声をかけて落ち着かせようと思ったけど、ナァナァ野太く鳴いている。なんとか落ち着かせないと近所迷惑で通報されてしまう。
「このうるせえヤツか。無事でよかったな」
「兄貴、本当に本当にありがとうっス!感謝してもしきれないっス」
堪らず兄貴に抱きついた。兄貴が私の為に危険を冒してまで子猫を助けてくれたのが嬉しいし、頭が上がらない程感謝している。
「他の3人もありがとうっスよ〜!」
兄貴に抱きつきながら、ソファにぐったり座り込み、リーダーに現場報告をする3人にお礼を言えば、「気にするな」とか「当然だろ」とか言ってくれた。ペッシだけは顔面蒼白で震えている。余程怖い目にあったのかもしれない。
「おい、離せ」
兄貴に無理やり体を引っ剥がされてしまった。
「とりあえず、2階に持っていってシーノくんだけゲージを移し替えるっス」
「なら、オレが持っていくから先行って準備していろ」
「はい!」
急いで2階に行って、まだ置きっぱなしだったゲージの入口を開けた。膝掛け毛布を手に取って待っていると、兄貴がゲージを持ってきてくれた。
シーノくんだけを毛布に包んで取り出し、ゲージに移し替えた。
シーノくんは数日前まで馴染みのあったゲージに入ったお陰か大人しくなった。
「ナマエ、その子猫たちはどうするつもりだ?」
今回は個人に託してしまったせいで、こんなことになってしまった。そうなると、方法はもう一つしかない。
「……私が直接動物保護センターに出すっス」
「それがいい。てっきり、飼い続けるとでも言うかと思ってたが」
「ずっと面倒を見れるわけじゃあないから……」
「そうか……なあ、アイルランド野郎が死んで清々したか?」
深く考えないようにしてたけど、兄貴に言われてちゃんと考えてみた。正直ライアン先生には腹が立ったし、裏切られて悲しかった。今までどれくらいの動物たちが犠牲になったのかわからないけど、この国の司法ではまともに裁かれないだろうから、死んでくれてよかったのかもしれない。ただ、妻子持ちというのがちょっと気になる。勿論、今までのターゲットにも家族はいたから慣れてきてはいるけど。そういえば、家族写真に溢れた部屋でターゲットを殺した時なんかは最悪の気分だった覚えがある。ペッシなんかは必死に写真立てを倒して見えないようにしていた。
「本人が死んだのはよかったと思うっスよ?」
「よかった、か。ナマエ、アイルランド人って何色の血をしてるか知ってるか?」
「え?ナゾナゾっスか?」
「ちげーよ。オレは緑だと思ってたが、赤だった」
「あ、兄貴、急にサイコみたいなこと言ってどうしたんスか?」
私もアイルランドは緑のイメージだけど、血液の色まで緑なんて冗談にしては怖過ぎる。
「あのアイルランド野郎を殺ろうとした時の話をしてんだよ。よく聞けよ」
「は、はい……」
「あいつに色々吐かせる為に拷問した。つっても、訓練されたサツとか同業者相手じゃあねーから、小指1本切り落としただけですぐに吐いたぜ」
兄貴がライアン先生の小指を切り落として、「アイルランド人ってのは骨まで緑色だと思ってたぜ」と不適に笑う姿が思い浮かんだ。実際笑ってはなさそうだけど、似たようなことを言ってそうだとは思う。
「それで、組織とは関係ねーことはすぐにわかった。女と遊ぶ金欲しさっていう動機もな。だが、ヤツは獣医だ。シカンビーアに譲渡した動物が薬の実験に使われてたり、黒毛の動物が射撃の的に使われてたりしたことを伝えたら何を言いやがったかわかるか?」
想像がつかなかった。そもそも獣医なのに、動物を悪いヤツらに売ること自体がおかしくてライアン先生が何を考えてるのかすら皆目見当がつかない。
「薬の実験も射撃も可哀想だとよ。それでヤツの感性はまともで、単に動物よりも女が優先の欲望に忠実なだけかと思った。だが、違った。拷問になれてねえヤツってのは小指1本切り落としただけでお喋りになる。聞いてもいねーのに、射撃は自分の提案だと言いやがった。黒毛の殆どは皮膚まで黒いから実験に不向きで、相手側が引き取ろうとしねぇから、上手いこと何かに使えねぇか考えて提案したんだと」
「そんな……」
「わざわざてめーで治療した黒猫を売ったってことだ。最低の下衆野郎だろ?ついでに言うと、あの野郎はオメーのことをビッチって罵ってたぜ?」
「な、なんスか、それ!」
急に私に対する悪口を伝えられて、ムッとしたし、女ったらしの人にそんなこと言われたくないと思った。でも言われてみれば、私の代わりに何回かホルマジオとギアッチョに子猫を病院に届けて貰ったし、それに兄貴といる時にもライアン先生に会ってるから、先生からしたら私が色んな男と遊んでるように見えたのかも。
「ムカついてきたか?」
「まあ……」
「殺してェか?」
「それは……もう兄貴が殺したんじゃあないっスか?」
「実はまだトドメを刺してねえ」
「え?まだ生きてるんスか?」
「外に止めた車のトランクに縛って詰め込んである。ナマエ、オメーが殺してえならオメーがトドメを刺してもいい」
「……私は別に」
自分の手で殺してやりたいとか別にそういうのは思わない。もし、シーノくんがあの先生に直接殺されでもしてたら、そう思ったかもしれない。でも、奇跡的にシーノくんは無事だったから、今はあの先生のことは忘れたい。
「大事な子猫を売ったんだぜ?」
「でも、もう十分罰は受けたっスよ……遺体の遺棄なら手伝うっスけど……」
「……ナマエよォ、本当にオメーは甘っちょろいヤツだな」
兄貴はため息をつく。まるで、期待外れだと言われた気分になった。
兄貴は多分、私が「殺したい」と言うのを期待してたんだ。
兄貴は前々から私に復讐心がないことを疑問に思っていたようだったし、出世欲がないことも度々指摘してきた。今回もまた、兄貴の期待に沿うようなことを言えなかったんだ。
「私って、甘っちょろいんスか?」
「ああ。そのままだといつか大事な場面でその甘さがアダになるぜ。いいか?オレたちはやられたらやり返すし、手は抜かねぇ。徹底的に潰す。すぐに復讐出来ずとも、機会がありゃあ、いつでもやれる準備はしているし、覚悟だってしている。オメーみてえに手温いこと言ってっと、復讐云々の前にブッ殺されるぜ。そんなんじゃあ、いつまでたってもバンビーナのままだな」
子供扱いは私だって嫌だ。兄貴の望みにはできるだけ応えたいし、兄貴の為なら嫌なことも出来る。
「じゃあ……私がトドメを刺すっス」
「じゃあってなんだ?もういい。今日はもう寝とけ」
兄貴は呆れたように言い捨てると踵を返す。なんだか見捨てられた気分になって、ここは意地でも引いちゃダメだと思って兄貴を追いかけた。
「そんな!私、できるっス!」
兄貴は扉の取手に手を掛けたところで立ち止まり、振り向いてくれた。でも、その顔は険しく、私にやらせる気なんてなさそう。
「遅ェって。生きてるって話はありゃ嘘だ。アイルランド野郎は今頃魚の餌だぜ。生きたまま檻に入れて海に沈めたからな」
「ヒェッ」
あまりの酷いやり方に慄いた。ペッシが青ざめて放心状態になった理由がわかった気がする。
「オメーの大事なもんをぞんざいに扱った罰だと思えば、大したことねェだろうが」
「でも、生きたまま……いや、もう考えるのやめるっス。3匹の天使ちゃんお世話して寝るっス……」
「ああ。短い間だが、可愛がってやれ」
兄貴の優しい声かけにちょっとだけ安堵した。
兄貴が部屋から出て行った後、子猫たちに餌や水をやった。他の2匹も元は飼い猫だったのか、そこまで警戒されなくてちゃんと餌も水も摂取してくれた。
3匹とも可愛くて本当に天使みたいで、このまま飼ってあげたい。そんなことを言ったら兄貴が怒るだろうし、現実的じゃあないから言わないけど。
翌日兄貴の運転する車に乗せて貰って動物保護センターに子猫たちを預けてきた。役所の人間にお金を握らせて里親が見つかれば情報を寄越すようにお願いしたから、今度こそは大丈夫だと思いたい。
帰りの車の中、高速だけど窓を少しだけ開けて頭を窓の方へもたれた。今にも涙が溢れそうな眼を風で乾かしたいのだ。風と周りの自動車や大型トラックの走行音がよく聞こえて来るけど、子猫と別れて寂しい気持ちを埋めるような心地良さを感じる。
「ナマエ」
兄貴が窓の外から聞こえて来る雑音に負けないように声を張り上げて言う。
「あの子猫に自己投影してるか知らねえが、どちらにせよ、子猫は簡単には自分で人生を選べねえ。大抵は一生人間様に飼われるもんだ」
「自己とーえい?大卒単語は知らないっスよ」
「オレが言いてえのは、ナマエはあの子猫とはちげーってことだよ。オメーはある程度は選べるんだぜ?自分の人生を」
難しい話に涙が引っ込んだ。顔を兄貴に向ければ、兄貴は横眼で私を見ながら運転している。兄貴の運転はびっくりする程上手だけど、危ないからちゃんと前を見て欲しい。
「一生このチームで兄貴と一緒にいられれば、それが私の幸せっス」
「オメーはババアになっても暗殺家業なんてするつもりか?」
「その頃にはボスが代わって縄張りくれてるかも。カジノでホテル暮らしがいいっスね」
前のチームでやっていた裏カジノは超高レートという特性故儲かっていたけど、移動式で大体はアパートや雑居ビルを使っていて、ホテル暮らしなんて贅沢なことはできなかった。だからホテル暮らしにはかなり憧れがある。
「馬鹿言え。こんな汚ねェ仕事をするオレらにそこまでの縄張りをやる訳ねーだろ」
「私達ってやっぱ信用されないんスね?」
「ああ。殺し屋ってのはそう言うもんだ。なあ、オメーは『トニー・モンタナ』になりてェとか思わねーのか?」
トニー・モンタナ──ギャング映画『スカーフェイス』で麻薬かなんかで成り上がった主人公だ。観たことのない映画だからここまでしか知らないけど、私の周りでは、「コロンビア人をブッ殺せ」だとかなんとか言って銃を撃つ構えをしてトニー・モンタナの真似をしていたチンピラが多かったから、彼はギャングにとって憧れの対象なのかもしれない。
「コロンビア人は別に殺したいとか思わないっス。まあ、その映画観たことないんスけど」
「観たことないってマジか?名作だぜ?」
「じゃあ、兄貴の家に観に行かせてくださいっス。ビデオあるんスよね?ついでに傷心中の私を抱きしめてくださいっス」
「ついでにペッシも呼んで観せるか……オメーらはトニー・モンタナみてーに肝の据わった男になれよ」
「私、女……」
「例えの話に決まってるだろーが。いいか?トニー・モンタナはだな──」
これから映画鑑賞会だと言うのに車の中でトニー・モンタナが組織のボスをブッ殺すというネタバレを食らって観る気が削がれた。でも、私は兄貴と一緒にいられるなら抉り取られた傷だって癒えるだろうからなんでもいい。ずっとずっと兄貴と一緒にいられたらいいのにな。