lorentz
グロスタール伯爵領のうち、割と都会の町で育った私は畏多くもグロスタール伯爵の御子息と同じ学校の同じ学級で学ばせて頂いている。口添えを得る為に貴族にお金を払ったレオニーさんとは違い、私の場合は父がセイロス教の伝道師をやっていた所縁から特別にグロスタール伯爵から支援を頂き勉強できているのでとても運が良い。さらにグロスタール伯爵の御子息には直々に目をかけてもらっている。目をかける、と表現したけれど、それはグロスタール家領のうち、最も有名な都市の名前を穢さぬようにという名目で監視されている、と言った方がいいかもしれない。言葉遣いや講義を受ける時の姿勢、食事の際の所作等監視されているうちに、畏多くも私は彼のことが気になってしまっている。
「主よー、主よー」
「だから、腹部に力を入れなくては駄目だろう」
グロスタール伯爵の御子息、ローレンツさまは自室で私のダメダメな歌声を聴いて、髪と同じ竜胆色の細長い眉をひそめた。
私は入学後初めての合唱祭への参加と、グロスタール家の領民として恥をかかないように聖歌をマスターするようにとの命令を受け、個人練習していたものの、いざローレンツさまへ発表すると、手厳しい指摘を受けてしまった。
「申し訳ありません。腹筋を鍛えて出直します」
「それもそうだが、ちゃんと腹部を膨らませることを意識しなくては。ちょっといいかい?」
ローレンツさまは私に近寄り少し屈むと、私のお腹にそっと優しく触れた。指先から手首まで全てくっ付いているわけではなく、所々ぎりぎり触れている感覚だ。ローレンツさまの指の長い大きな手は少し筋張っていてなんとなくお腹の皮膚から硬さが伝わってくる。
普段、女性にはあまり触らないようにしているあのローレンツさまに触れられて恥ずかしくなった。
「ほら、息を吸い込んでここを膨らませてみてくれ」
屈んだ状態のローレンツさまが私の方へ顔を向けると、いつもよりあの端正なお顔立ちが近くにあり、卒倒しそうになる。
「わ、わかりました」
ローレンツさまの指の長くて大きな手を感じながら息を吸い込んだ。けど、お腹を膨らませるなんて恥ずかしくて出来ない。
「まさか、腹部を膨らませることが出来ないのか?」
「申し訳ありません……」
「ならば、僕の腹部に触ることを許可しよう。実際に触れればわかりやすいだろう」
「わ、私がローレンツさまに?そんな!触れません!」
「ああ。わかるよ。平民の君がこの貴族の僕に触ること等罪だと思っているのかな?そんなことはない。君はグロスタール領の善良な市民だ。堂々と触れるといい」
「幸甚に存じます」
ここまでローレンツさまが言う時は引くことが出来ないので大人しく触ることにした。ドキドキと胸が高鳴り、緊張する。
恐る恐るローレンツさまの腹部に触れれば、細身の長身であるローレンツさまからは想像出来ない程、筋肉質なのかとても硬い。
ローレンツさまが息をすーっと吸うと、まるでお腹の中に球体が入ったかのように大きく膨れ上がった。こんな細く引き締まったお腹がこうなるなんて信じられない。
それからお腹から息を出しながら、ローレンツさまは歌い始めた。
「主よー、主よー、フォドラの大地にー」
部屋中に響くような歌声は、本当に主へ届かんばかりに力強く、またとても美しい。
「す、凄いです!ローレンツさま!私、感動しました!」
「当然だ。合唱祭までに君もこのくらい歌えるようになりたまえ」
「はい!」
「では次は君の腹部に触れながら……」
「何やってんだおまえら?声が外まで響いてたぞ」
開け離れた部屋の出入口から、次期同盟主のクロードさんが顔を出した。
「なんだ。クロードか」
ローレンツさまは優雅な所作でクロードさんに振り向いた。ローレンツさまは所作の一つ一つが美しい。
「歌うなら部屋の扉は閉めておけよ」
「何を言っている。僕はあのグロスタール家の嫡子だぞ。扉を閉めて女性といたら、どんな噂を立てられるか……しかも、自領で最も有名な町のものだ。醜聞になる」
ズキンと胸が痛んだ。私と密室にいることが醜聞になると目の前で言われて傷ついた。でも、ローレンツさまは間違っていない。
「醜聞?思ったより酷い奴だな……」
「酷いだと?なるほど。貴族らしかぬ君には僕の思考は一生わかるまいな」
「そんなもの、わかりたくないね。なまえ、どうだ?俺の部屋で茶でもするか?勿論、部屋の扉は閉める」
「なっ!そんなこと僕は認めないぞ!」
クロードさんの提案には驚いた。とても光栄だし、私を哀れんで誘ってくださったことがとても嬉しい。でも、ローレンツさまが駄目と言った。
「クロードさん、お誘いありがとうございます。とても光栄です。ただ、私はグロスタール領の者です。リーガン家の御名に傷をつけること等出来ません」
「おお、流石グロスタール領の市民だ。しかも、その中でも君はよく教育されている」
ローレンツさまに褒められて、さっきのショックを引きずりながらも、嬉しくなった。
「教育、というか洗脳、だな。じゃあ、友達としての誘いならいいだろ?ヒルダも呼べば安心か?」
私が断ったのにも関わらず、再度誘ってくださるクロードさんには感謝しかない。彼は貴族らしくはないけれど、心の優しい人であることだけは間違いない。
「ヒルダさんもいらっしゃるなら……」
ちらりとローレンツさまを見ると、眉間に皺を寄せて何か言いたそうな顔をしていて、しまったと思った。
「じゃあ、決まりだな。先に俺の部屋に来いよ」
クロードさんが寄ってきて左腕を引っ張られたので、拒否出来ずに仕方なくついていくことにした。ローレンツさまの横を通り過ぎた瞬間、今度はローレンツさまに右腕を掴まれた。とくりと心臓が飛び跳ね、顔に熱が上っていくのを感じた。ローレンツさまが私を止めてくださっている!
「そうはさせないぞ、クロード!だいたい君はいつも……」
「おい、女性にこんなことしていいのか?大丈夫か、なまえ?」
ローレンツさまは女性に触らないようにしている信念を利用するかのようにクロードさんは茶化すように言う。ただ、クロードさんはローレンツさまに付き従う私に何故か気の毒そうに声を掛けてくださることが度々あるので、これがクロードさんの通常営業であったりする。
「だ、大丈夫です」
クロードさんもローレンツさまも腕を掴む力は優しく、気遣ってくださってるのはわかっている。でも、貴族出の……それも次期盟主と領主さまに挟まれて、どうしたらいいかわからない。非常に困る。
「なまえさん、クロードと飲む紅茶は不味いからやめておきたまえ」
「なまえ、友達として茶を飲もう」
「え、えーと……でしたら、ローレンツさまもご一緒にお茶しましょう」
私の提案に2人して渋い顔をした。それから、ローレンツさまは咳払いをして、私の腕から手を離してくださった。
「わかった。君はクロードと紅茶を飲むといい。その後僕とお茶会をすれば問題はない」
「どういう理屈だよ、それ」
クロードさんは呆れたように言う。私もどういう理屈だかわからない。でも、ローレンツさまとお茶会が出来るのなら嬉しいことに変わりはない。
*
結局、私はクロードさんと中庭でお茶会をすることになった。ローレンツさまはクロードさんとはお茶を飲みたくないの一点張りだったのが残念だ。出来ればご一緒したかった。
クロードさんと2人きりといっても、後からヒルダさんもいらっしゃるらしい。ただ、お茶会を始めてから随分と時間が経つけれど、いらっしゃる気配がない。
「……それで、ローレンツさまは私の所作一つ一つを丁寧に直して下さったお陰で、最近貴族のような所作を身につけることができるようになりました」
「んー、それについてはなんともいえないが……あいつ平民にーーまあ、俺はこういう区別をするのは好きではないがーーそういうの求めるタイプだっけか」
クロードさんは縁を金色に装飾されたカップをソーサーに置くと、悩んでいるような様子で片手で頭を抱えた。
確かにローレンツさまは平民に求めるのは貴族に敬意を払うことくらいだと言っていた気がする。貴族は平民を護る責務があるとも言っていて、ローレンツさまのこの考え方は私も素敵なことだと思う。
「とにかく、ローレンツさまは素晴らしいお方で、そんなお方に目をかけて頂けて私は大変嬉しいです」
「まあ、なまえがそう思っているならいいのか……?」
「私、何か可笑しなことを言いました?」
「いや、俺はなまえの考えを否定する気はないよ。ただ、心配なだけさ」
「心配?」
クロードさんが私を心配する要素が見つからず、困った。
「無理してないかってさ」
「心配には及びませんよ。無理なんて……」
反射的に否定したものの、実際は平民の出で10代後半になって急に貴族の所作を教え込まれたから凄く大変。今だって間違ったことをしないようにと気を張っていて、気疲れしている。私には合わない。けど、言う通りにしないとローレンツさまに嫌われてしまうし、私がどんどん変わっていくのをローレンツさまは良しとしている。
「無理してるだろ。俺の前くらい自然にしてくれ。ほら、こんなに顔が強張ってるぞ」
すっとクロードさんの手が向かい側から伸びてきて、私の頬に触れた。日焼けしたような褐色に見える肌に男性特有のごつごつした手だ。ローレンツさまよりは小さいけど、太くてしっかりしている。男らしい手の平からクロードさんの熱が伝わってきて、ドキドキする。クロードさんの顔を見て、視線が絡み合って初めて、クロードさんの瞳が翠色であることに気がついた。
「あ、あの……」
「おい、クロード!それは許さんぞ!」
庭木の陰からばっとローレンツさまが飛び出した。ローレンツさまはなんて所に隠れていたの。もしかして、私の話聞かれてたのかしら。だとしたら、恥ずかしい。
「おいおい。なんて所から出てきてんだ」
「そんなことはいいから、なまえさんから手を離したまえ」
クロードさんは手を離すと、肩を竦めた。
「まさか、リーガン家の者ともあろう者が白昼堂々と平民を口説くなんてな。自覚が足りないのではないか?」
また、だ。ローレンツさまはさらりと私の身分を落とす。その度に私の心はちくりと痛む。
「平民ねぇ。俺はそういうの拘らないからな」
「全く、野生児のような君には話が通じないみたいだな。なまえさん、行こう」
ローレンツさまは椅子に腰掛ける私の肩に触れるか触れないかぐらい、肩を抱くように手を近づけてきた。
本当はこのままクロードさんといた方が私は無理せず傷つかずに済むのかもしれない。でも、私はローレンツさまが好きで、ローレンツさまには借りがある。
仕方なく、立ち上がりローレンツさまについて行くことにした。
去り際にクロードさんを振り返れば、困ったような笑みを浮かべて片手を上げた。
中庭を出て、ローレンツさまより1、2歩下がりながら寮への道を歩いた。2階の寮への階段を上る手前まで来ると、私は立ち止まった。このまま、ローレンツさまの部屋に行くのは気が引けた。先程の発言からローレンツさまは私が平民であることをやっぱり気にしておられる。これ以上迷惑はかけれないし、私自身もローレンツさまといると傷つく気がする。
「私、部屋に戻りますね」
「いや、クロードとの茶が不味いとわかったところで、僕が口直しに美味しい紅茶を淹れてやろう。今回は特別に北から……」
「ごめんなさい!私、ローレンツさまとお茶を飲む権利もない平民なんです!」
ローレンツさまにはっきり申し上げる勇気を出すのに、スカートの裾を両手でぎゅっと握って、俯き加減に言った。ローレンツさまの反応が怖くて顔を直視できない。
「ま、待て!気にすることはないぞ。君は平民だが、特別だ。グロスタール家領の者で、君の父上はセイロス教の伝道師として活躍していて、僕の父上とも親交がある。それに君自身は気遣いのできる淑女で、熱心な勉強家だ。信仰の学問に長けているし、他の学問の成績も良ければ、その、器量も良い。と、とにかく、僕と……」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
ローレンツさまがなんと言おうと、また傷つくのが怖くて逃げ出した。はしたないけれど、自分の部屋に走って帰った。部屋の中に入ってすぐに鍵を閉め、ベッドに飛び込んで枕に抱きついた。
グロスタール家に支援頂いているのに、逃げてしまった。支援を打ち切られ、明日退学を迫られるかもしれない。そう思うと、怖くなり、さらにローレンツさまに嫌われたかもしれないという不安で胸が押しつぶされそうになる。はらはらと涙まで出てきた。
部屋の扉を叩く音がした。ローレンツさまだろう。
涙を拭って、扉の前まで行き、呼吸を整えた。
「なまえさん。部屋に入れてくれ。話がしたい」
扉越しにローレンツさまのくぐもった声が聞こえる。
「私の部屋に入ったら勘違いされますよ」
「そんなことはどうでもいい!僕は君と話す必要がある。おい、そこの者達!何をこそこそと僕を見ている!ここから去りたまえ!」
外の様子はわからないけれど、周りの生徒にでも見られているのかもしれない。そんな中、私と話そうと必死になっているローレンツさまを部屋に招かないわけにはいかなかった。
ローレンツさまを助ける意味で、部屋の鍵を開け、ローレンツさまを部屋へ入れた。
「扉を閉めたまえ。誰にも邪魔されずに君と話したい」
ちらりと部屋の外を見れば、何人かの生徒が私達を見ているのが見える。
「でも、勘違いされますよ」
「今はそんなことはどうでもいいんだ」
ローレンツさまに急かされて、言われるままに部屋の扉を閉めた。どっちにしろ、ローレンツさまは私の所為で変な噂を立てられるかもしれない。申し訳ない。
「君、その顔……」
ローレンツさまははっとした顔をした。私の目が赤いのかもしれない。誤魔化すように目をこすった。
「なんでもありません」
「……君に謝りたいことがあるが、その前に聞いてもいいかな」
「なんですか?」
「クロードと話しているのが少し聞こえてな。もしかしてだが、君は無理をしているのか?」
聞こえて、じゃなくて聞いてたのだろうけど、肯定するわけにはいかない。
「無理はしていません」
「正直に言ってくれ。君は無理してるだろ?」
ここまでしつこく聞かれると本音を言ってしまった方がいいのかもしれない。先程逃げてしまったという諦念感から、今まで隠していた本音を言ってもいいように思えた。
「……そうですね。四六時中気を張るのは疲れます。私には合わないかもしれません」
「そうか。すまなかったな。僕はいつも君に無理な要求を押し付けていたわけだ」
「無理な要求……?」
その言葉の表現に引っかかり聞き返した。
「今更貴族のような所作を教え込まれて迷惑だったのだろう。でも、聞いてくれ。先程クロードとの話を陰で聞いていて、気がついたのだ。僕が君に貴族としての所作を教えるのは……もしかしたら、無意識に僕の理想へと君を変えたかったのかもしれない」
「私をローレンツさまの理想に……一体……」
「……君の平民の血も、僕の貴族の血も変えられない。君はいつか平民と結婚し、僕は貴族と結婚する。それが貴族である、いや、グロスタール家として当然のことだ」
ローレンツさまの話している内容が急に変わり、話についていけないし、また傷つくことを言われて胸にずしりときた。
「もし、僕が君と結婚すれば、君は貴族の妻として、完璧な所作や社交界への参加を求められ、平民の出というだけで周りに虐められるだろう」
「あ、あの意味が……」
何故、私との結婚が仮定に出てくるのかがわからない。
「好きな人にそんな苦労を僕はかけたくない。君が嫌々やっていたと僕は気づけなかった。それに、僕は君を将来の花嫁候補として育てようとしていた傍ら、他の花嫁候補まで探していた」
「え、えっと……」
話から察するに、ローレンツさまは私が好きだけど、平民だから結婚出来ないと言っている気がした。とても嬉しくて、幸せなことだけど、この話の行き着く先に絶望しか見えなくて、頭が痛くなってきた。
「本当にすまなかった。僕の理想と、実際にやっていることは矛盾していた。おそらく、君とは望んでも結婚出来ないと思っていたからだ」
「じゃあ、ローレンツさまは……」
これからは将来の花嫁探しに専念するのですね、と言おうとして黙った。惨めになるようなことを自分の口から言いたくなかった。
「僕は自分の頭の固さに嫌気がさす。時間がかかるかもしれないが、平民との結婚を受け入れられるよう僕は努力する」
「へ?」
思った言葉と違い、変な声が出てしまった。
「君の父上がセイロス教の伝道師なら、伝道師に権威を与えよう。それで世間一般の君の見方も変わるかもしれない。それにいつ如何なる時も、貴族のような言動が出来るよう、僕の傍にいるといい。僕という完璧な立ち振る舞いの貴族が傍にいれば、無意識レベルまで貴族の立ち振る舞いが体に染み付くことだろう。そうすれば、いつか自然体の君が貴族のような優雅さになるだろう」
これなら無理をすることも無いだろうと、ローレンツさまは瞳をキラキラさせて言う。
「うーんと……」
ローレンツさまが私を好いてくださるという喜びと、よくわからない理論に頭がこんがらがる。
「まさに名案だ!流石は僕だ!では、君を将来の花嫁に迎えることが出来るよう、僕は思考の柔軟性を持ち、そして君の父上に権威を与えるように父上に働きかけよう。君は君で、僕の立ち振る舞いを体に覚えさせるように、常に僕の傍にいるようにしたまえ」
よくわからないけれど、ローレンツさまは私の言葉も聞かずに満足気に微笑んだ。
一方私はというと、ただ1点気がかりなことがある。
「ローレンツさま、私なんかでよろしいのですか?いつか後悔を……」
「君なんかではなく、君がいいのだよ。君は野に咲く薔薇の蕾のような女性だ。僕という太陽の光を浴びて、他のどんな花よりも美しく咲くだろう」
ローレンツさまが他の女性に言うような台詞を初めて自分に向けられて、恥ずかしいけど、とても嬉しい。諦めていたけれど、本当はずっとこんな風に扱われたかった。
「ローレンツさま、私嬉しいです」
初めてかもしれない。ローレンツさまの前で、完全な素の状態で心の底から微笑むことができたのは。
「ああ、なんと眩しい笑顔だ。もしかしたら、君こそが太陽なのかもしれないな」
ローレンツさまのこういう賛美の台詞もいつか慣れなくちゃいけないなと、また笑みが零れた。