linhardt
彼女は所謂堆書狂で、珍しい書物を集めることを趣味とし、各地を巡ってはその類いの書物を買い漁って、読みもせずに実家の書庫に厳重に保管しているらしい。その数は万にも上るというのだから、僕の趣味である紋章学の研究に役立てるものがあるかもしれないと思い、彼女の実家に僕を招待して本を読ませて欲しいと頼んだ。
彼女は底なし沼のような暗い瞳を細めて、間髪入れずに「駄目」と言い、席に着席したまま僕を追い払うようにしっしっと手を払った。
「君、自分も読まない人にも読ませないじゃあ、ただ本を腐らせてるってことに気付いてる?」
「あの、もうベレト先生来てるんですけど」
朝の始業の鐘が鳴っているのに気付いたけど、そんなことはどうでもいい。
昨晩フェルディナントから
「何万という書物──特に
まあ、問題とかその解決とかは僕には興味ないけれど、彼女の家に眠る財宝を手にするには大義名分が必要になってくるから仕方ない。
「腐らせてないし、手入れは家族が定期的にしてるから!あの、本当に帰ってくれる?あ、ベレト先生……」
先生が僕の目の前まで来て、自分の教室に帰れと言う。
「先生、お言葉ですけどこれは急を要することなんです。この人は人類の財産を実家で腐らせるという重大な罪を犯しているのにも関わらず、素知らぬ顔でこんなところで先生の講義を受けようとしてるんですよ?そんなことが許されるはずがないじゃないですか。彼女は今すぐにでも僕を実家に招待すべきとは思いませんか?」
僕の説明に先生は「言い分はわかったから、自分の教室に戻るかそこに着席してくれ」と言うから、なまえの隣に着席した。
「えっ!ちょっ、ベレト先生!他学級の人に講義を受けさせるんですか!?」
先生は「たまに他学級の潜りはいるのだから今更だ。気にはしない」と、何事もなかったかのように講義を始めた。流石先生だ。器が大きい。
なまえは小さな声で僕に文句を言いながらも、先生の言葉を羊皮紙に書き留め始めた。彼女は板書以外にも先生の話をよく聞き、覚書きをしているようだ。堆書狂と聞いたから、不真面目な人かと思えば、勉強に対しては真面目らしい。
「それで、どうしたら僕に君の家の書庫を見せてくれるの?」
一応先生の講義の邪魔にならないように声を落として聞いたつもりだったのに、彼女は僕の方を向くと、口パクで「黙って」と言って、脅すように羽ペンを僕に向けてきた。羽ペンで刺されても別に痛くはないと思うから、僕は気にしない。
「黙ってたら、実家に呼んでくれる?」
彼女は首を横に振り、また僕を追い払うように手を外側に振ってきた。
「僕は君がうんと言うまでお願いし続けるから、諦めるなら早いうちがいいよ」
「いい加減にして!」
彼女は両手で長机を叩いて、立ち上がった。集まる周りの視線も気にせず、なまえは僕の制服の袖を指先で摘む。
急に豹変した彼女の態度に流石の僕も動揺した。
「来て!ベレト先生ー!お腹痛くてちょっと外出てきます!すぐ治ると思うので、気にせず続けてください!」
先生は頷くと、本当に何事もなかったかのように講義を再開したけれど、未だに
なまえに引っ張られて教室の外に出ると、なまえは僕の制服の袖を離してくれた。
なまえは両手を腰に当てて僕と向き合うと、眉を吊り上げて僕を睨む。
「お願いだから講義の邪魔しないでくれる?あなたのせいで集中できないし、先生の話聞き漏らしちゃうの!」
「それは悪いと思ってるよ。じゃあ、君が僕を実家に連れて行って本を読ませてくれると約束してくれれば、今すぐにでも僕は
「あのねえ、人に見せてあげたい気持ちは私にもあるわよ?でも、潔癖症だから大事な本を人に触られたくないのよ」
「なるほど。でも、それなら簡単に解決するよ。君が僕の代わりに本の頁をめくればいいんだよ」
「は……?」
「だから、僕は君の本に一切触れないから──」
「言っている意味はわかるわ。でも、そういう問題じゃないのよ!」
「じゃあ、どういう問題なんだい?」
「それは……ああ!もう!面倒くさいわ!」
なまえは一瞬言葉に詰まり、それから一気に怒りを爆発させると、走って
「やれやれ」
「やれやれじゃないわよ!皇女殿下、リンハルトくんが今後私につきまとわないようにお叱りの程よろしくお願いします」
「彼が私の言うことを聞くかは約束はできないけれど、善処するわ」
「恐れ多くも講義中にわざわざいらしてくださりありがとうございます。それでは、私は失礼します」
なまえは膝丈のスカートの裾をふわりと翻して
「リンハルト、彼女につきまとう理由を聞いてもいいかしら?」
「つきまとってるつもりはないですけど、まあ、彼女が如何に罪深いことをしているか聞いてください」
エーデルガルトさんの説得は難しいかもしれないけれど、試して見る価値はある。多少面倒でも、なまえの蒐集した蔵書にはそれ程の価値があると僕は思っているから。
*
結局エーデルガルトさんは説得できなかったけれど、僕は作戦を変えて講義中以外でなまえに接触することにした。
毎日講義の始まる前とお昼の前と、夕食の前になまえを探し出してつかまえた。お昼と夕食の後は僕が眠くなるから、この時機になっている。
2週程交渉を続けたけれど、彼女は決して首を縦に振らなかった。僕の見立てでは2週以内で彼女が折れると思っていた。それが駄目になり、1週経ったくらいから考え始めていた最終手段を使うことにした。
ここ2週間で発見した彼女の好きな場所──夕陽の見える橋の前──に彼女を呼び出した。来ない可能性も考慮していたけれど、彼女は刻限通りに現れた。
彼女はそわそわと落ち着かない様子で、僕を見上げる。その瞳は初めて僕と話した時よりも、明らかに柔らかく、何かの加減で濡れて純朴な子供のそれのように輝いている。彼女の今の瞳の様相は、最近僕が彼女の瞳を綺麗と思うようになった理由の一つだった。
「大事な話があるって聞いたから来たんだけど」
「単刀直入に言うよ。僕と結婚して欲しい。君の夫なら、僕にも君の本を読む権利はあるはずだ」
「け、結婚?あなた、そこまでして、うちの本を読みたいの?」
彼女は瞳を揺らし、自分の胸に手を当てて動揺した様子だ。
彼女は僕の言葉を疑っているようだけど、僕が彼女と結婚したいのは本心だ。
今週の始まりに、僕を認めた時の彼女の瞳の輝きを知ってしまったその瞬間から、僕は彼女に好意を持ってしまった。少し変に聞こえるかもしれないけれど、それ程僕を見つめる彼女の瞳が綺麗で、幾ら見つめていても全く飽きない不思議な魅力があるのだ。
「そこまでしてというか、僕としては一石二鳥なんだ。今週の始まり頃から、僕は君のことが好きなんだ。君を手に入れるついでに、君の蒐集した本を手に入れる。潔癖症の君も夫の僕が書庫に入って、本に触る分には気にならない。完璧じゃないかな?」
「……ちょっと、待って。頭の整理が追いつかない」
彼女の眼の下には間違いなく赤みが差していて、この反応は僕に対して好意を持っているが為の生理反応か、ただ単に異性からの好意に慣れていないが為の含羞の色か、それかその両方だと思っている。僕は彼女に好意を持たれている自信はあるけれど、僕の勘違いの可能性も考えられる。
「いつまでも待つから、ゆっくりでいいよ。あ、やっぱ、陽が沈むまでに返事をお願いしたいかな」
夕寝でもして待ってる選択肢はあるけれど、僕としては返事は早い方が助かる。もし断られた場合はどうするか、全く考えていないからだ。
「待ってね……考えるから……というか、結婚って……好きになって数日しか経ってないんでしょ?それで結婚ってどうなの?しかも、私の家は同盟領よ。簡単なことではないわ」
「確かに簡単なことではないけど、君が僕を好きなら少しは簡単になるよ。まあ、難しく考えないで。僕を実家に入れたくない程汚いって思ってるなら、僕も諦めるけどね」
なまえの家の噂は色々聞いていた。一家揃って潔癖症で、居館には親族ですらなかなか入れてもらえず、来賓の場合は例外なく別館に招待しているらしい。だから、彼女の実家に入るには夫という肩書き以上のものが無いと難しい。
「リンハルトくんは汚くないわ!」
「それはよかった。今まで言われた言葉の中で一番嬉しいよ」
一応これも本心で、潔癖症のなまえがそう言ってくれるのは素直に嬉しくて口元が少しだけ綻ぶのを感じた。
「どうしよう……私、リンハルトくんのこと最近気になってて……でも、結婚は難しいかも」
「とりあえず、君が僕を好きなら問題は簡単になるよ。あとはなんとかなるからね」
「なんとかなるの……?」
「なるよ。じゃあ、来年には婚姻できるように動くから」
「え?ほ、本当に結婚するの?」
なまえは心配そうに表情を強張らせて首を傾げるけど、何を心配しているのか僕にはわからない。正直この婚姻で大変なのは僕の方のはずだから。
「君は僕に好意を持っていて、僕も君に好意を持っている。これで結婚の理由にならない?」
「ならないこともないけど……だって、最近好きになったばかりで気持ち変わっちゃうかもしれないわよ?」
驚いた。僕はとっくに彼女と一生を遂げる覚悟ができていたのに、彼女はそうじゃないみたいだ。
「君は変わるの?」
「え?私は変わらないわよ。だって、リンハルトくんだけには触れるし、触られてもいいと思ってるわ」
なまえが初めて僕の手に触れた。彼女の表情から無理をしている様子はない。本当に僕には触れるみたいだ。同性にすら触ろうとしない彼女がこんなことをするのは、触られた方の僕も驚きだ。本当に彼女には驚かされてばかりいる。読みもしない本を大量に所持したり、たった1週で僕に好意を持ったり、逆に僕に好意を持たせたり。
彼女に触れるのは僕だけ、という事実に瞬時に気づき、それがどんなに価値があるものか、それを理解できるのも僕だけであることにも気づいた。
「問題はリンハルトくんの気持ちが変わらないかよ?」
不安げに細められるなまえの瞳は変わらず潤んでいて輝くような光を湛えている。まるで水光だ。
僕と婚姻したことで彼女からこの光が消えても、僕は彼女を慕い続けられると思っている。彼女の魅力はそれだけではないのを僕だけが理解しているからだ。
「僕の気持ちは変わらないよ」
彼女の手を握れば、彼女は彼女の持ち得る最大の価値を僕に再び示してくれた。