felix req
放課後の温室でなまえが来るのを待っていた。俺がここにいるのはなまえから手紙で呼び出されたからであり、その手紙は今朝なまえと同じ学級のレオニーから貰ったものだった。レオニーには「なまえを傷つけたら許さないよ」と言われ、色恋沙汰に疎い俺でも、なんとなく恋愛絡みだと予想がついた。恐らく、これは自惚れではないだろう。ここに来てから二度ほど同じような経験があったからだ。いずれも、フラルダリウスの身代や紋章目当てだとあからさまにわかったから断ったわけだが、今回ばかりは俺もどう対処していいかはわからん。何せ相手はあのなまえだからだ。
なまえは良くも悪くもまあなんの特徴もない女だ。それでも何か特徴を一つあげろと言われれば、剣の才能があることぐらいだ。はっきりいって、俺はなまえのことはただの訓練相手としか思っていない。もしなまえから想いを告げられたとしたら俺は断るだろうが、それを期に距離を置かれるのは望んでいない。良い訓練相手であるし、なまえが目に見えて上達していく様を見るのは悪くない。要は今の関係を俺は壊したくないのだ。
しかし、遅いな。一向になまえが来る気配がない。長い間待つ気にもなれん。
痺れを切らして温室を出ると、レオニーが走ってこちらへ来るところだった。
「フェリクス!」
レオニーは俺の前で立ち止まると、屈んで膝に手をついて呼吸を整えた。相当急いで来たらしく、その慌てようから嫌な予感がする。
「なまえはどうした?」
「なまえは来れない……けど、フェリクスが来てくれよ!」
「どういうことだ?」
「なまえが魔道の訓練で暴発事故に巻き込まれたんだ」
一瞬頭が真っ白になった。レオニーの言っていることが受け入れられなかったが、間をおいて理解すると、なまえのいる医務室へ説明を聞きながら向かった。
レオニーが言うにはなまえに外傷はなく、症状は記憶喪失と倦怠感のみらしい。
「記憶喪失とはどの程度だ?」
「詳しくはわからないよ。生活には問題ない程度ってことしか……とにかく、フェリクスと話せばなまえも何か思い出せるかなって」
「だといいが」
医務室に着くと、なまえは寝台の上に上体を起こしてマヌエラ先生と何か話していた。なまえは俺とレオニーが来るのを眼に留めると、少し眉を曇らせた。
馬鹿な話だが、一瞬の間なまえがいつものように顔を輝かせるのを想像していた。期待が見事に外れて何故か胸の辺りが痞えた。酷く不快な感覚だ。
「あら、例の彼を連れてきたのね。あたくしはハンネマン先生になまえの病状を話してくるから後はよろしくね」
「例の彼って、フェリクスって人……?」
なまえはマヌエラ先生に聞くが、マヌエラ先生は微笑んでなまえの肩を軽く叩くと、俺とレオニーを寝台の傍に置いた椅子に誘導した。
なまえを近くで見ると、聞いたと通りに外傷はなく無事のようで安心はしたが、雰囲気はまるっきり変わってしまった印象を受ける。いつも元気溌剌として明るい奴だったが、今や萎れた花のように弱々しい。
嗚呼。今になってなまえがどんな奴だったか認識した。やけに明るい女。それがなまえで、こんな日陰にいるような女はなまえじゃない。
「なまえ、フェリクスを連れてきたよ」
「うん……」
なまえは俺の顔を恐る恐るといった具合で覗くように見ると、すぐに目線を外した。記憶喪失のせいだとわかってはいるが、どうにも嫌な反応だ。
「いつからの記憶がない?」
「士官学校に入って数日後くらいから……」
なまえは自分の腹の上に置いた、指を絡めあった両手を見つめながら話す。俺も人の眼を見て話すのは得意ではないが、なまえのよそよそしい態度には気分が悪くなる。
「では、レオニーやマヌエラ先生のことは覚えているが、俺のことは覚えていないのだな……」
「うん……ごめんなさい」
「謝ることはない」
「フェリクスの言う通りだよ。なまえは被害者なわけだし、そのうち記憶を取り戻すはずさ」
レオニーが明るく言うが、その言葉の裏には些かの不安が見える。
なまえもそれを感じ取ったのか、表情がまた一段と曇る。
「なまえらしくないな……以前のお前は常に笑顔で明るかった」
「ごめんなさい……」
俺はただ思ったままを言ったわけだが、それで謝られるとは思っていなくて驚いた上に苛ついた。話す程なまえが知らない女になっていくような気がする。
「勘違いするな。責めているわけではない」
「そう……」
「……倦怠感があると聞いたが?」
「うん。ちょっとだけ怠くてたまに頭痛がするかな」
「そうか……寝ていた方がいいのでは?」
「そうだね……」
「……」
「……」
「あー、なんかもう、見ていてむず痒いなあ!」
俯いて黙り込むなまえを静かに見守っていると、レオニーが椅子から立ち上がって叫んだ。
「わたしはもう出て行くから二人で好きに話すといいよ」
「だめ!レオニー、行かないで!」
「なまえがそういうならここにいるけど……いいのか?」
「レオニーに話したいことあるから、その……」
なまえは俺の名前も呼ばずに、俺に視線を一度投げかけてレオニーを見つめた。
その様子を見て、なまえがいつも俺につきまとい俺ばかりを見ていたことを思い出して、苛立ちを覚えた。
「わかった。俺は出て行く」
もう一生来てやるものか、とさえ思う程何故か苛立ちが募る一方だった。
部屋を出て暫く経ってから懐に入れた手紙を思い出して取り出して破ってやろうと思ったが、ギリギリで思いとどまってくしゃくしゃに握り潰した。
この不可解で行き場のない怒りは訓練で発散するしかない。
*
訓練場に行く途中で、修道女に本で殴られているところのシルヴァンを捕まえて剣の稽古に付き合わせた。
「フェリクス、今傷心中だから手加減してくれよーっと、あっぶねー……」
シルヴァン相手に剣を振るいながらなまえとの出会いを思い出した。
数節前になまえが突然先生に課題の手伝いに呼ばれ、俺たちの学級の遠征に加わったところで初めてあいつを認識した。
その折になまえが無鉄砲に敵に突っ込んで返り討ちにされそうになったところを俺が助けたのだが、なまえはそれ以降俺を命の恩人だの聖人だのと崇めてはつきまとってきた。
最初はそんななまえのことが邪魔くさくて鬱陶しかったが、気まぐれに剣の訓練相手をさせてみれば、意外と筋は悪くなかった。本人は槍術を鍛えてペガサスナイトの資格を取りたいらしいが、はっきりいって剣の才能の方があるように思えた。
『フェリクスくんってさ、好きな子いるの?』
あの日夕陽の差し込む訓練場で、手拭いで首筋の汗を拭き取るなまえは確かそう聞いてきた。
『くだらん話に付き合う気はない』
『くだらないかあ。ふふっ。ちょっと寂しいけど、そういうところも……』
なまえはハッとしたように瞳を大きくさせ、口元を手拭いで覆った。
「そういうところも……」の続きがなんであったかその時はわからなかったが、今はあの日のなまえの顔を赤く染め上げたのは夕陽だけではなかったと思っている。
だから、温室に呼び出した俺に何を言うつもりだったのかはわかっている。わかった上でその気持ちに応えるつもりなどないからその続きはいらない。あの日の言葉の続きも、温室で聞かされるはずだった手紙の続きも。
「わっとと……!さっきから危なげなところばっか狙うのは勘弁してくれって!」
「訓練不足の奴はやはり力の弱い女にも劣るな」
いつも俺の訓練について来ようと日々研鑽を怠らないなまえと比べると、サボりがちなシルヴァンは俺の剣戟の相手としては劣る。
あの独特な線を描く剣光や、鋭い突きを繰り出す技、剣で押し合う際に間近で俺を見つめる鋭い光の宿った瞳を思い出してから目の前の浮かれた奴を見ると、溜息がでた。
「わっ!あ、危ない危ない……あのー、フェリクス君、俺傷心中だって言ってんるんですけどー?」
「関係ない」
「そんなあ」
やはり、訓練の相手にはあいつが欲しい。
*
「だから、なまえがフェリクスにはもう会いたくないって言うんだ」
翌日、医務室の前でレオニーに入室を拒否され、昨日からの長時間の訓練で発散した怒りが一瞬にして復活した。
「どういうことだ?」
「……それが理由を教えてくれないんだよ。まあ、とにかくそういうことだからここは大人しく帰ってくれないか?」
「断る。そこをどけ」
「悪いけど、なまえが嫌がってるんだ」
「……クソッ!」
「なまえが嫌がってる」と強調して言うレオニーに悪意を感じるが、病人の友を庇うのは理解できる。
だが、俺は変わってしまったなまえの気持ちなど一々気にしてられん。
「何そんなに苛ついてるんだ?なまえはすぐに記憶を取り戻すさ。マヌエラ先生も一過性のはずだって言うし……」
そういうレオニーはやはり自信がないのか不安げだ。レオニーもなまえに対して俺と同じ気持ちを抱いてるはずだが、幾ら友のためといえど、こうも厳しく俺を拒否する理由が思い当たらん。
「だが、確実ではないだろう。俺はなまえの記憶を取り戻しに来た。俺と剣の稽古でもすれば、思い出すはずだ」
昨日、訓練場で稽古をしながら考えついた方法だった。
「どうかな。まだ本調子じゃないと思うし」
「手加減はする。悪くないだろう。なまえも好きだったことだ」
「まあ、確かになまえはいつの間にか槍術よりも剣術に入れ込んでたけどさ、その理由はあんただよ?まあ、今はその理由が消えたんだけど……」
「理由が消えた?」
「……あんたもわかってるみたいだから言うけど、なまえはあんたが好きだったことを忘れてるんだ。あんたに会うのは気まずいから、もう会いたくないんだって。来たら絶対追い返して欲しいとまで言ってるんだよ」
「なまえが俺を拒否する理由をよく知っていたではないか……」
嘘をついたレオニーには腹が立つが、それ以上になまえが俺に会う気がない聞いて、怒りが身体中を駆け巡った。更に胸の辺りが痛むし、吐き気までしてくる。
「あんたが傷つくと思って黙ってたんだよ。でも、なまえの記憶が戻れば、また元通り──」
「俺が傷つく?元通り?見当違いも甚しい。なまえに伝えとけ。記憶が戻ったとしても、お前に会う気はない、とな」
「はあ?それって……おい、フェリクスー!待てったらーっ!」
後ろでレオニーが何か言うが、もうレオニーからもなまえからも何も聞かされたくなく、その場を足早に去った。
なまえと関わることで不愉快な思いをするくらいなら、いっそ関わろうとしない方がましだ。
*
『フェリクスくん、ほら、この花の匂いを嗅ぐと元気になるの。お日様のいい香りでしょ?それに可愛いから癒される』
一節程前の記憶。
なまえがいつもより訓練場に遅れてきたと思えば、大輪の花束を持ってきた。なまえの顔よりも大きいそれは、鮮やかな黄色の花で、中央には焼けたような色の種が無数に付いている。
『可愛いか?そんな大輪をいくつも持ってると前が見えんだろ』
『きゃっ』
『おい。行ったそばから転ける奴がいるか?」
転びかけた拍子になまえの腕から落ちた花を一輪拾ってやり、なまえに差し出した。
なまえは一瞬惚けた顔をした後、満面の笑みを浮かべて礼の言葉を口にした。
「おーい、フェリクス。聞いてるかー?」
頭の中でなまえの微笑みを反芻していたら、いつの間にか目の前にシルヴァンの顔があった。
気づけば、訓練場で一人剣を持ったまま気を抜いていたようだ。
「何の用だ?」
「そんな思いっきり顔しかめんなって。なまえの話聞いたんだけどさ、大丈夫か?フェリクスと仲良かったし、課題の手伝いに二回くらい来てくれたよな?」
「女のことならなんでも覚えてるんだな」
「まあな。可愛かったし、俺の好み──いやあ、嘘嘘。冗談だって。それで、見舞いには行ったのか?」
「ああ。行ったが……」
「その様子だと、なんかあったみたいだな。昨日も上の空だったしなー……あのさ、気になる子を助けたいなら協力するぜ?女の子を見舞う時はどんな花を持ってけば喜ぶとかさ」
「……なまえは向日葵が好きだ」
「おっ。もう調査済みだったとは意外だな」
「いや、正確には好きかは知らん。前に向日葵の大輪を抱えてここに来ていた」
「へえ。ま、とりあえずなまえに向日葵を持って行って見ようぜ。なんか思い出すかもしれないし、それで記憶を失ったままでもなまえの心は向日葵のようにフェリクスだけに向く、ってな」
「なまえのことはもういい。あいつは俺に会う気がないのだからな。こっちもその気はない」
「またまたー。そんなこと言っといて、本当は好きなんだろー?」
「阿呆が」
なまえを好きだと指摘され苛立った。レオニーもそうだが、何故そうなる。俺は別になまえのことなど──
頭の中で笑顔のなまえと、医務室で俺を避けようとしたなまえの暗い表情が交互に思い出され、振り払っても消えない記憶のようにまとわりついてくる。
もし、あの笑顔が永久に見れないとしたら?もし、記憶を取り戻したなまえがあの笑顔を別の奴に向けたら?
何故かそんな考えが浮かんで、怒りで身が焼かれるような思いがした。その怒りがどうして湧き起こるのか、ふと考えた。考えたら、簡単にわかってしまった。
──我ながら気付くのが遅過ぎたようだ。
「意地でも認めないってか?んじゃあ、俺が向日葵持って参上しちゃおっかなー」
「待て。俺が行く」
ちらちらとこちらを見ながら訓練場を出て行こうとするシルヴァンを引き留めた。
向日葵でなまえが記憶を取り戻せるなら、俺がこうも晴れない気持ちを抱え続ける必要がなくなる。
レオニーにはついカッとなってああ言ってしまったが、なまえが記憶を取り戻せば、またなまえと剣の稽古がしたい。なまえのあの笑顔が見たい。なまえが俺を手紙で温室に呼び寄せた日、俺に何を言おうとしていたのか、あの夕陽の差し込む訓練場で言いかけた言葉の続きとともに打ち明けて欲しい。だが、例え記憶が戻らなくとも、剣の稽古をすることも笑顔を見せることも、また俺に同じ想いを抱くことも簡単だろう。俺が傍でなまえを支え続ければ、きっと──
*
温室で咲きかけの向日葵を、シルヴァンがアネットとメルセデスに頼んで魔力でどうにか満開にさせた。その上いらんと言ったが、茎の先に水を吸わせた紙と包みを巻きつけられ、更に黄色のリボンまで結ばれた。
大輪を付けた向日葵を一本手にして、シルヴァンに見送られながら医務室に向かった。
医務室のなまえの寝台の横にはレオニーとマヌエラ先生がいる。
「フェリクス!」
「あら、これはこれは……うふふ」
二人共驚きの声を上げるが、今はもうなまえしか目に入らなかった。
なまえは口元を手で覆いながら、瞳を大きく揺らして俺と向日葵を交互に見つめる。向日葵を見て何か思い出したのか、と逸る気持ちを抑えた。
「なまえ、お前にこれをやる……いや、待て」
なまえに向日葵を差し出し、なまえが受け取ろうとしたところで一度向日葵を引っ込めた。
まだ言いたいことがあった。
「これで何か思い出せるといいが……正直な話、思い出せなくてもいい。お前は俺に会うのを嫌がっていたようだが、そんなの知るか。俺はお前に会いたいから会う。記憶をなくしたままでも、剣の稽古ぐらいはできるだろ?俺を忘れたとしても、一緒にいるうちに新しい記憶と……俺に対する以前と同じ気持ちは作れるのではないか?明日から訓練場に来い。言っておくが、お前に拒否権はない。いい加減、まともな稽古相手のいない生活は無理だ」
事前に頭の中で考えていたことの半分も上手く表現できなかったが、これで伝わればいい。
突き出した向日葵をなまえは両手で受け取った。
「あ、ありがとう……嬉しいよ。本当にありがとう、フェリクスくん!」
眩しいばかりの笑顔を満面に浮かべるなまえを見て、漸く状況を察した。
「記憶が戻ったのか……?」
「うん……実はレオニーと温室の話をしてたら急に思い出して……それでマヌエラ先生も呼んで話してて……」
なまえは頬を赤くさせ、向日葵で顔を隠した。まるであの日夕陽に当てられた時のような赤みだった。
やはり、俺の勘違いではなかったようだ。
隣にいたレオニーとマヌエラ先生は何故か笑顔で椅子から立ち上がると、「邪魔者はいなくなるわ」とかなんとか言うと、部屋から出て行った。
「記憶が戻っていたのか……それならそうと早く言え」
「ごめんなさい……言う頃合い見失っちゃって……それにフェリクスくんがもう来ないかもって聞いたばかりなのに、フェリクスくんが私の大好きな向日葵持ってきてくれたからびっくりしちゃって」
「やはり、向日葵が好きなのか?」
「うん。だから、凄く嬉しくて……温室にあったの持ってきてくれたの?」
「ああ。温室にあったものだ……そうだ。なまえ、数日前に俺を温室に呼び出したな?」
「うん……」
「何の用で呼び出したんだ?」
「えーと……それはまだ記憶が戻ってない、かも……」
なまえならすぐに言うと思って聞いたわけだが、まさかこうしてはぐらかされるとは思っていなかった。
なまえがその気ならばこっちにも考えはある。
「なるほど。それなら、こう言えば記憶が戻るか?なまえ、好きだ」
なまえはあの日と同じように手で口元を覆い、感情を隠そうとしたが、やがて手を下ろし、真っ赤な顔を半分隠していた向日葵も横にして退けた。
「私も好きだよ……フェリクスくんのことずっと好きだったし、これからもずっとずっと好き!」
大きく張った声を出すなまえの瞳は真っ直ぐ俺だけを見つめ、俺が見つめ返しても、なまえは言い足りないとばかりに「好き」を言い続けてくるものだから、こっちが堪らなくなって忙しなく動く唇を無理やり塞いでやった。