riunione del destino


 
暗殺チームのメンバーたちは所謂タイムスリップというものに加え、まるで地球の軸でもズレたのかと思う程の場所へ突然転移してしまった。──時は20世紀初頭、大正時代。場所は日本の東京府であった。
一先ず彼らはあらゆる手段を尽くして母国のイタリアへ帰ろうと考えたが、現実的に厳しかった。母国はオーストリア=ハンガリーと戦争中、一方日本の商船が最近ドイツ軍により攻撃を受けたばかりで日本の外へ出るには危険な情勢であった。また、元の時代へ戻る手立てはこの日本にあると彼らは直感で感じ、そのまま身を置くことにした。







伝法院の観音堂の裏手にある林道の片面に飛びとびに据えられた長椅子に、暗殺チームのメンバーのひとりであるイルーゾォが座っていた。背もたれに片腕をかけ、脚を組み、通りを行きゆく女性をひとりひとり観察している。
彼の顔は道を歩く他の男性と比べて彫が深く、妖艶に赤く光る瞳は漆黒の睫毛に縁どられ、顔立ちの秀麗さを際立たせている。元結で五本に分けて束ねられている長髪は黒くも見えるが、林道の梢を抜けてくる赤い陽光に辺り、一部が赤茶に輝いている。体格は偉丈夫で着ている黒地の着流しはやや窮屈そうな印象を受けるが、仕立てがいいのか長身によく合い、組んだ脚が着物をはだけさせることはなかった。容貌の優れた男だが、眉がやや吊り上がり気味で、女性がひとり通り過ぎる度に、その眉の間に縦線が刻まれていく様は威圧的で、道行く人物と一度眼が会えば殴りかかりそうな雰囲気である。
そんな彼は陽が落ちかける前頃までは上野の図書館にて、元の時代の母国に戻る為の調べ物を仲間たちと共にしていた。文字の読み書きや話言葉の殆どは、歌劇の為に来日していた同胞から学んだものだが、流石に完璧とまではいかずに未だに苦労していて、調べものもそれが原因で途中で投げ出し、息抜きに女性を口説きにここに来たのだった。少し女性と話してお茶でも飲んだらまた図書館に戻るつもりである。
ただ声をかけようと思っても、道行く女性たちは皆、まず遠眼に彼の存在に気づき、その体の大きさや居住まいなどから感じられる雰囲気、威圧的態度に恐怖を覚え、道の反対側を歩いたり、たまたま近くにいた男性の少し後ろを歩いて、まるで知人のように振る舞ったりすることで彼から逃げるような態度をとった。酷いと道を引き返す者までいるのだから声のかけようがない。皆がみな自分を警戒する態度には「人種差別主義者共が」と苛立った。仕方なしに盛り場にでも行くか、と思いかけた時、長椅子に座る自分に眼もくれずに林道を急ぐ少女がいた。
その少女は白地に大判の牡丹柄の浴衣を着ていて、腰には緋色の兵児帯、足元は何故か洋靴で、緋色の布地の髪飾りを、結衣流しにした黒髪と共に揺らしながら小走りに林道を駆けていた。
彼女が眼の前を通り過ぎた瞬間、長椅子に座るイルーゾォは弾かれたように立ち上がり、その少女の後ろ姿を暫く見つめた後に、大股で歩き出した。
大股に小股、青年に少女、その他個々の人種由来の体格の差により、彼はすぐに少女に追いつき、少し後ろから声をかけた。

「なあ、何をそんなに急いでんだ?こんな時間に浴衣でどこに行く気だ?浴衣に洋靴は斬新だが、美人のキミには似合うと思うぜ?」

やや聞き取りづらい発音に、少なくとも東京府では間違った高低で発話する、低くて幅のある声──異人の男性が掛けてきた声に少女はハッと肩越しに顔を振り向け、イルーゾォを見上げた。瞬間、驚いたような、羞恥心を感じたような、なんともいえない表情を顔に滲ませた。

「家に早く帰るんです!」

急ぎ足で歩きながら少女はハキハキと答えた。

「へえ。転ばない用におれが送ってやるよ。家はどこだ?」

「知らない男性に教えることはできません!ついてこないでください!」

ぴしゃりとはねつけるように言う少女を見て、イルーゾォは少女の気の強さを気に入った。この国の女性は皆自分を怖がる傾向にあった。盛り場では女性から寄ってくることもあったが、それでも体に触れようとするとビクリと肩を揺らすのだ。控えめな女性も好きであるが、この時代、この国の文化になれてきた今は気の強い女性が新鮮で魅力的に思えた。

「おれの名前はイルーゾォだ。ほら、これで知り合いだ。キミの名前をおれが知れば、もっと深い仲だ」

「……ナマエです。礼儀として名乗っただけなのでまだ深い仲ではありません!」

「礼儀のある女はいい。おれの好みだ。可愛いナマエちゃん、茶でも一緒に飲もうぜ?いい店を知っているんだ。それが嫌なら、チト戻れば動物園に水族館があるが……それはもう閉まる頃か。伝法院の外の夜店ならもう出ている頃だな。そうだ。花の髪飾りを買ってやる。凛としたユリの花はどうだ?ナマエのその絹のような髪によく似合いそうだ」

発音や言葉の高低の付け方が奇妙な割にはほぼ正しい文法でべらべらと話すイルーゾォを見上げてナマエは眉をひそめ、それから視線を宙に泳がせるようにして思案げな顔をした。

「……独逸の方ですか?それとも仏蘭西の方ですか?」

「いや、イタリア出身だ。なんだ?おれに興味が湧いたのか?」

「……なんでもないです」

「イタリア人が不満なのか?それならナマエの為に日本人になるぜ」

「なんでそうなるんですか!もうついてこないでください!巡査さん呼びますよ!」

それなりに会話をしてくれたナマエが突然怒り出した理由がわからずにイルーゾォは困惑したが、相手をしてもらえているだけで脈があるのと同義だとも思った。本気で嫌がる女性は無視をするものだ、という考えを持つイルーゾォにとってはナマエの怒る様子は少しも不快に思わなかったし、怒る女性の顔に色気を感じることもできた。特に華奢な体躯に清廉な浴衣を着たナマエの怒る姿には惹かれるものがあった。

「わかった。今日は諦めるが、敬愛の印にその綺麗な手の甲へ口付けてもいいか?おれはナマエという運命の女に出会えた幸せを記憶に残しておきたい」

「な……!」

ナマエは顔を赤くし、突然ぴたりと足を止めて狼狽えた。その様子を見て、イルーゾォは胸のすいたような気分になり、瞳をぎらつかせた。
この国の女性は少し褒めれば、いや、眼を合わせるだけでも頬を赤らめる程の恥ずかしがりやであることは数日滞在しただけでわかったものだが、この少女も例外ではなかったようだ。大抵はそれだけで心を惹かれることはないが、気の強い女性相手は別だ。そういう女性が自分に靡く瞬間はいつも最高の気分になる。自分に気のない素振りを見せ、抵抗を見せる女性が自分に屈する時は何にも代えがたい程の愉悦を味わえるのだ。
ナマエがもっと自分に対しての態度を改めていく過程を楽しみたく、ナマエと距離を縮めた。眼を合わせたまま顔を傾け、わざと束ねた長髪を揺らし、香油の匂いを漂わせた。

「なんで伊太利亜の方は皆そうやって碌でもないことを仰るのですか!」

「おい、待て。今までイタリアの男に声を掛けられたことがあんのか?」

「さっき、帝国図書館で調べものをしていたらしつこく声を掛けられました!『その太陽のように輝く瞳で毎朝オレを目覚めさせてくれ』だの、『キミのその美しい髪を毎日オレの手で洗ってやりたい』だの、『結婚してくれ』だのしつこくて、跡を付けられないように急いでるんです!放っておいてください!」

ナマエは後ろを指さし、そこで言葉をつぐんだ。指差した方に、立ち止まってこちらを見ている洋装の男性がいることに気が付いたのだ。

「あなた!付いてきていたんですか!?まさかお父さんの差し金ではないでしょうね!?」

ナマエは洋装の男──剃りこみを入れた赤毛の坊主頭の男へ手をあげる勢いでずかずかと近づいて行くが、イルーゾォがナマエの手を掴んで引き留めた。
坊主頭の男はホルマジオといい、イルーゾォと同じくナマエに惹かれて上野の図書館から追ってきたのだが、彼女を追う理由は他にもあった。ホルマジオの片手には巾着袋があり、ホルマジオから逃げる時にナマエが置いて行ってしまったものを届けに来たのだった。

「その巾着は……!」

「忘れもんだ。いいか?落ち着いて聞けよ。今ナマエのガラス細工のような繊細で美しい手を掴んでいるのは、イルーゾォとかいうロクでもねえ男で、四六時中女のことを考えなくちゃあ生きていけねえような色ボケのアホたれだ。オレがその男から助けてやるし、この巾着も返してやるから茶でもしよう」

「私は軽々しく求婚してこない、真面目で良識のある素敵な方といつか結婚したいのでそれはできません!巾着を届けて頂いたのは嬉しいですが、お茶はしません!イルーゾォさん、離して……あ、何故、私の名を?」

ホルマジオが自分の名を知っていることに驚いた様子を見せた。恐らく、一度も彼に名乗った覚えがないのだろう。

「そりゃあ、巾着の中にあったハンカチに書いてあったからだろ。今時ってのはおかしいかもしれねえが、ハンカチに名前を書く女はいい。性癖になりそうだ」

「お?ホルマジオには名前教えなかったんだな。やっぱ、おれに気があるんじゃあねーの?」

「ち、違います……!絶対に違います!と、とにかく、ふたりとも私から離れてください!あと、変な事言うのはやめてください!」

「おいおいおい、待てよ。イルーゾォはこの子から名前を聞いたってのか?」

「そりゃあ、聞いたぜ。なんせこの子はおれにべた惚れだからな。心音がここまで聞こえてくるぜ?」

「えっ?」

ナマエは思わず胸に手を当てたが、その様子をイルーゾォがにやついた笑いを含んだ表情で見ていることに気が付いて、騙されたことを知った。

「嘘なんですか!」

「嘘じゃあねーよ。ほら、ここで脈を測ってやる」

イルーゾォはナマエの片手を掴んでまま、彼女の首筋に指を添えて頸動脈の脈拍を測った。彼女は恐らく上野の図書館からここまでの長い距離を走った為、緊張如何に関わらずに脈が速くなっているはずだが、イルーゾォは彼女を口説く為ならどんな物事も都合よく捉えることができた。

「これはおれに惚れてる脈拍の速さだ。胸が苦しいだろ?」

「ち、違います!惚れてなんかいません!」

「なら、何故こんなに速くなっている?言ってみろ」

「あ、う……」

イルーゾォの煽りにナマエは急に威勢を失い、赤い顔を俯かせた。
今彼女の心は揺れ、本当に自分は彼に気があるのかも、と身体の反応と胸に抱えている感情に向き合って考えているはずだ。
イルーゾォはナマエの態度からそう期待して、近くで事の成り行きを見守っているホルマジオに対して野良犬を追い払うような仕草でしっしっと手を振った。

「くそっ!断られねーように茶店の前まで跡をつけようとすればこれだ!この巾着はくれてやる!終わったらとっとと手伝いに来いよ!異邦人に関する記事を幾つか見つけたからな!」

ホルマジオの投げた巾着をイルーゾォは宙で受け取ると、ナマエと向き直った。
横眼でホルマジオが去ってゆくのを確認しつつ、ナマエへ巾着を差し出した。

「ほら、巾着は返してやる。今日は茶とかはいいから、安全な道に出るまで送る。家まではついて行かねえから安心しろ」

「は、はい……」

突然紳士的な優しさを見せるイルーゾォを、ナマエは不思議そうな眼で見上げながら巾着を受け取った。
押し引きの駆け引きで簡単に女が落ちることを知っているイルーゾォはナマエから手応えを感じて、あえて口説くことを控えた。この国の女性は引けば、それで終わりであろうとなんとなく感じているが、ナマエはそれで終わらないことを期待できる女である、という確信と自信があったからだ。
暫く沈黙しながら陽の落ちて暗くなっていく林道を並んで歩いた。道の端に定間隔に置かれている瓦斯灯のお陰で夜になっても歩ける道だろうが、女性ひとりで歩くには危なく思えた。遊歩道から少し離れれば広葉樹の密集した林だ。人気のなくなったところで連れ歩く女性の口を塞ぎ、ちょっと林に引き込んでやれば簡単に手篭めにできるだろう。

「いつもこの時間にこの辺にいるのか?」

「えっと、昨日来ました……観音様にお祈りしにですけど」

「ひとりでか?」

「わ、悪いですか!これでも友達は沢山いるんです!でも、何人かは結婚しちゃったし、みんな遠くにいるからもう会えないんです!」

「誰も友達がいなさそう、なんて言ってねえよ。この辺は危ねえから陽が暮れる前に帰っとけ。用心棒が欲しいなら、大体図書館や浅草近辺にいるからよ。いつでも探して声かけてくれ。安全なところまでは必ず送ってやる」

「……はい」

ナマエは瞳を丸くしてイルーゾォの顔を見上げた。まるで忠告するのが意外、とでも言うような様子だ。

「ちなみに明日は恐らく午前は聞き込み調査、それからまた図書館だ。わざわざ入場券を買ってだぜ?勉強熱心だろ?」

「聞き込みにお勉強……なんのお仕事ですか?」

「さあな。好きに想像していいぜ」

「夜は何をしていらっしゃるんですか?」

「……秘密だ。知りたかったら今度おれと夜歩きでもしねえか?」

イルーゾォは含みを持たせて答えた。自分をあしらうような冷たい態度を見せていたナマエが自分へ興味を示している今、全てを明かすつもりはなかった。秘密を作ることは自分への興味を更に引き出すことになる。それに夜はナマエには言えないことで生計を立てていた。
しかし、秘密を伏せたところで意味はなかった。ナマエは『夜歩き』という言葉を出しただけで顔を歪めて嫌悪感を示した。

「夜歩きだなんて!私にはできません!今もあなたと歩いているところを知り合いに見られたら私は……!」

「んじゃあ、誰にも見られなかったらおれと一緒にいてくれんのか?」

「それは……もしもの話に意味はありません」

ナマエは首を横に振り、俯いた。しかし、イルーゾォにとってはそれだけで十分過ぎる程の反応だ。言い淀んだ反応から、言葉とは正反対の本心が見えるからだ。

「それがもしもの話じゃあないとしたら?この伝法院の敷地にも外にも誰もいない世界があるとしたらどうする?」

「……それは真夜中ということですか?」

「いーや。朝でも昼でもだ」

「そんなことあるわけないですよ。御伽噺ではないんですから」

「それがあるんだよ。ナマエを連れていきたい場所がある」

イルーゾォは立ち止まり、ナマエに手を差し出した。ナマエは暫く躊躇ったように辺りを見渡した。イルーゾォの手を取ることの危うさを推し測っているようだ。
今いる場所の人通りはそれ程多くはないが、全く人がいないわけではないし、通りが暗いわけでもない。林の中といえど、伝法院の敷地内では定期的に巡査が徘徊している。
ナマエは迷いつつもイルーゾォの手──正確には指の先を遠慮がちに握った。

「おれを信じてくれた礼に良いものを見せてやる」

イルーゾォは唇の端を吊り上げて笑ってみせ、ナマエの指に自らの指を絡めて手を握った。
ナマエの手を引いて葉の重なる林の中へと足を踏み入れ、木々の間を縫いながら歩くと、枝の間に木枠の鏡が引っかかっている灌木を見つけた。当然鏡は自然発生したものではなく、何かあった時の為や遊びの為に、自分の行動範囲内のところどころに置いていたものだった。
イルーゾォはその鏡の引っかかっている灌木の前で歩みを止め、ナマエと向き直った。

「こんなところに鏡が……」

「これから霊妙不可思議なことが起きるが……覚悟はいいか?」

「どういうことです……えっ?」

イルーゾォは自身のスタンド能力──『マン・イン・ザ・ミラー』の能力を使い、自分とナマエを鏡の中の世界へと移動させた。
当然スタンドという、特定の生物のみ可視化のできる精神エネルギーの概念などを持たないナマエは何が起きたかはわからないというように首を傾げた。
イルーゾォのスタンド能力により、何かしら引っ張られたような感覚はあったはずだが、特に景色や体の状態に変化がないことに戸惑っている様子だ。

「今、変な感覚がしたんですけど……」

「それも霊妙不可思議なことのひとつだ。だが、こっちに出れば……」

イルーゾォは再びナマエの手を引き遊歩道に戻った。人が通る為に手入れのされた道には飛びとびに設置された長椅子と瓦斯灯が据えられていた。しかし、地面を踏みしめるのは夕焼けの作る黒く、長い無機質な影のみで、先程まで歩いていたはずの人間やその影が見当たらない。
ただ耳を澄まし、眼を細めれば、なんとなく人の足音が聞こえ、地面を踏む際に舞い上がる土埃が見える気がした。

「な、誰もいねーだろ?」

「これはいったい……?」

「これなら夜歩きし放題だ。行きたいところはあるか?」

「えっと、待ってください!これはどういうことですか……?夢なの……?」

「現実だ。確かめてみるか?」

イルーゾォは戸惑うナマエと距離を詰め、背中へ流れるように伸びる後ろ髪へと手を差し入れ、ナマエの瞳を見つめながらゆったりと梳いてみせた。

「わ、私はまだ嫁入り前です!こういうのは駄目なんです!」

「大丈夫だ。誰も見てねえから」

自分から顔を背けるナマエの首筋から頬にかけて手を添え、自分の方へと無理に顔を向けさせた。

「こんなこと駄目です!絶対、こういうのは……」

「頬ならいいだろ?」

背を屈め、両手で胸を押して抵抗するナマエの頬へと口付けた。一度目は軽く様子見程度に終わらせ、顔を離して瞳を合わせれば、ナマエは今にも泣き出しそうな程瞳を潤ませ、顔中を赤くさせている。おまけに小刻みに身体を震わせるものだから、強気な性格とは正反対な生娘らしい反応に胸を擽られる。

「いや、ですっ……」

「頬にしかしねえって。怖がらなくていい」

今度は掴むようにナマエの頭を両手で支え、反対側の頬や額、鼻先、顎先へと軽やかな音を鳴らしながら口付けていく。
ナマエは未だに体を震わせているが、暴れ出す程の抵抗は見せない。ただ怖がっているような素振りに見えた。

「唇はまだ駄目か?」

「そこは絶対、駄目です……!」

「わかった」

ナマエが本当に嫌がっているような様子を見せた為にイルーゾォはそこでやめた。
一度鏡の世界へ連れてきてしまえば、女性の身体を好き放題にでき、活殺の選択も好きに選べる。誰にも見つからないのだから、誰にも咎められない。何をしたとしても、環境によって強固に築き上げられた倫理観から自己が傷つく程の罪悪感も持たない。だから、ナマエの身体を自由にしても問題はない。
ただこの世界で、ナマエを相手にそんなことをする気は起きなかった。母国はアドリア海にて交戦中。日本は本格的に世界大戦に参戦しかねない不穏な情勢であり、去年交戦したドイツから恨みを買って攻撃を受けることがある。それでも、元居た世界よりもこの世の中が平和に見え、心の余裕がある。毎日自由を感じられている。自由に生きている。日々人種差別を受けているが、殆ど相手が怖がって避けているだけでそこまで不快ではない。自分を助けてくれる日本人だっている。悪くない生活だ。
今は純粋な気持ちでこの少女──ナマエとの恋愛を楽しみたくなっていた。

「どこに行きたい?おれが案内してやる。言っておくが、この世界で飲食は不可能だからな」

イルーゾォはナマエの手を取って聞いてみるが、恐らく初めて男性からの口付けを受けた後だからか、彼女は放心状態で口の聞けそうな様子ではなかった。

「だんまりか?なら、適当に伝法院内を歩くか」

ナマエは黙ったまま頷き、イルーゾォに誘われるようにして観音堂の方へ戻る道を歩く。

「この世界はいい。物質の音は聞こえるが生命の声はしない。耳に入るのはナマエの鈴の音のような美声とおれの為に速く脈打つ心音だけだ。おれとナマエだけの世界ってのは最高だな。この為だけに生きているような気さえしてくるぜ。ナマエがおれの生まれた意味かもしれねえ」

「……伊太利亜の方は凄いです。よくもまあ、初対面の相手に羞恥心もなくつらつらと話せますね」

「お、もう元気になったのか?それともまたキスして欲しくなったのか?あ、キスってわかるか?接吻って意味だぜ?」

「それは知ってますけど、違います!やめてください!」

イルーゾォが隣を歩くナマエの頭頂部へ口付ければ、ナマエはびくっと肩を揺らして反対側に首を傾げた。
ナマエの嫌がり方は揶揄いたくなるような可愛らしさがあった。彼女の困ったような怒り顔が愛らしいのもあるが、声の調子や体の引き方から本気で嫌がっていなく、照れているだけであることがわかるのがいい。
口頭でナマエへの口説き文句を並べたてながら歩き、池の方までたどり着いた。夕陽を吸い込んだ水面が揺らいでいる。恐らく、鏡の向こうの世界で池の中にいる鯉やその他の生物、または風によって揺れているのだろう。

「とりあえず、池を見るか?なんもねえけどよ、ナマエがいるだけで風情がでるから見る価値はある」

「……本当に人も鯉もいないんですね」

ナマエは感心したように眼を凝らして池の中を覗き込んだ。
それから、丘のようになだらかな傾斜を描く緑地へイルーゾォを引っ張って座り込むので、彼女に合わせ、イルーゾォもナマエに身を寄せ、その場に胡坐をかいた。

「浴衣、汚れんの気にしねーの?」

「しないです。浴衣は今二着しかありませんが、庭園でこんなことできるのは夢を見ている今だけなので」

「だから、夢じゃあねーって。まあ、夢ならキスしてもいいかって話になるがな」

「……それもいいかもしれません」

ナマエはどこか遠い眼をしてその場に寝転がった。走った上に締め付けの緩い兵児帯を付けているせいで浴衣がはだけ、鎖骨や膝下が露出する。突然ナマエの見せる、どこか諦めたような態度に違和感を覚え、それから男物の兵児帯を付け、浴衣に洋靴を合わせている奇妙な恰好の理由が気になった。口説いているうちに忘れていたが、改めて見るとおかしな恰好をしている。

「家出少女……か?」

「よくわかりましたね。いつから気づいていました?」

「たった今だな。友達が遠くにいってもう会えない、とか言っていたのを思い出した。逆にナマエが遠くから逃げてきたんだな?それにおれらから逃げたのは親の差し金とかなんとか言っていたな。ホルマジオはともかく、おれに連れない態度をとってんのは隣を歩かれて目立って親に見つかることを恐れた、って考えられる」

「自意識過剰なところはいただけませんが、意外と人の話を聞いてるんですね」

「ナマエの美声は頭に残るからな。んで、家に帰らなくていいのか?良家の男と将来結婚したいんだろ?」

「……それは夢の話で、本当は20も上の男性と結婚することになってしまいました」

「そりゃあ、家出するな」

イルーゾォもその場に寝転がり、夕焼けの空を見上げるナマエの方へ顔を向けた。

「わかってくれるんですか?」

「まあな。家出して正解だ。生きていく上で信じられんのは自分だけだ。自分だけを大事にして上手く生きろ」

「でも、自分を大事にし過ぎた所為で、色んな方に迷惑をかけてしまいました」

「んなの気にすんな。迷惑かけてなんぼの世の中だ」

ナマエは黙り込み、ゴロンとイルーゾォの方へ寝返りを打った。

「……私、あなたと会ったのは今日が初めてではないです。昨日あなたを見かけました」

ナマエの告白に、イルーゾォはあまり驚かなかった。イルーゾォも初めてナマエを見たのはつい先日のことだったからだ。場所は伝法院のすぐ外の夜店であった。髪を結い上げ、白地に牡丹柄の浴衣の衿まわりを大胆に抜き衣紋し、露出した彼女のうなじを人混みの中で無意識に見つめていると、彼女がこちらを振り返り、一瞬だけ眼が合った。ナマエの瞼には朱がさされ、買ったばかりの棒付き飴を含む唇は林檎より真っ赤に塗られていた。彼女は小首を傾げると、すぐに視線を他へ向け、人混みの中へ消えて行った。声をかけてみたくなり彼女の跡を追いかけたが、あまりの人の多さに間に合わなかった。今より5つ程歳をとった大人な彼女の姿がなんとなく頭の片隅に残っていて、それで今日、長椅子でナマエが自分の眼の前を通り過ぎた時、先日の女性であると気が付いた。だから、小走りで急ぐナマエをわざわざ追いかけたのだ。

「おれも覚えてるぜ?真っ赤な瞼に真っ赤な唇の女。あの棒付き飴は美味かったか?」

「覚えていてくれたんですか……?」

「ああ。人混みの中を追いかけたくらいだしな。だが、すぐにいなくなった」

「お静さん──あ、私が先日から働いている料理屋さんの女将さんのことなんですけど、はぐれていた彼女に呼ばれたので。でも、あなたのこと、少しだけ気になってました。遠くで振り返ると、人混みの中であなたの頭だけがぽこんって浮かんでて、背が高いから目立ってました」

自分のことを気にかけてくれていたのは嬉しいことだが、そのことよりも気になることがあり、そちらの方に気を取られていた。

「お静って、いや、まさかな……」

「どういうことですか?」

「その料理屋って闇料理屋のことか……?色白の女主人の店の……?」

闇料理屋とは、表向きには料理を提供し、その実同伴者との休憩や泊まりの可能な連れ込み宿のことで、暗殺チームのメンバーはたまにそこの手伝いをすることで、料理屋の離れにある従業員用の共同住宅に住まわせてもらっていた。

「知ってるんですか……?」

「そりゃあ、ここ数か月そこに住んでるからな」

「……本当ですか?」

「従業員用の共同住宅を借りてそこで寝泊まりしている。生計は他で立てているが、一応料理屋の客引きや力仕事、酷い酔っ払い客の対応をたまに手伝ってるけどよ……おい、まさかあんなところで女給として働いてんのか?客に変な事されてねーだろーな?」

「まだ昨日から始めてお化粧さえお勉強中ですよ?女給仕事といってもお食事を出したり、寝具を整える仕事しかしていないので、変なことは何も……」

「この国には夜這いって文化があるだろ?そのうちそういうことがあってもおかしくねえ。客が間違えた振りを装っておまえの部屋に入ることもある。よし、おれが毎晩ナマエの部屋にいって守ってやる」

「それを夜這いというんじゃないんですか!」

「イタリア人は皆紳士だ。まあ、ホルマジオとかいう無類の女好きのアホたれサイコ野郎もいるが、少なくともおれは紳士だろ?」

「でも、口付けをされました……」

ナマエは片手の指の先で自身の唇に触れ、長い睫毛を震わせた。

「唇にはしてねえだろ?」

「はい。でも……」

「もう一度聞く。今晩守りに行ってもいいか?嫌なら廊下で寝て守ってやる」

「そこまでしてくれるのですか?」

「惚れた女の為なら、このおれが体を張ってなんでもしてやるよ」

イルーゾォの言葉にナマエは驚いたように瞳を見開き、唇をきゅっと引き結んだ。視線を宙に泳がせて暫く考えた後に、視線をイルーゾォから逸らしたまま口を開いた。

「私の部屋は母屋の二階の一番端です。待ってます」

ナマエはすくと立ち上がると、浴衣の着崩れを直して緑の傾斜を下りていく。
どう考えても、覚悟した上での誘い文句に思えたが、現代語訳すると「部屋の外の廊下で寝てください」の可能性も考えられた。
ただどちらの意味にしても、イルーゾォは今晩ナマエを手に入れるつもりで、自分の世界を自由に移動する彼女の跡を追いかけた。


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