Julien Sorel -giaccio side-
※bssこじらせてる
※もやもや傾向
「もう18時か」
「なんだってェェ〜?」
仕事を終えてアジトに戻る道中、メローネのなんとなしと言った具合に呟いた言葉に焦って手首を確認すれば、腕時計の時刻は17時55分と、秒針が今2の辺りを指している。あと約5分で近くにある教会の鐘の音が鳴り始めちまう。この時間にこの場所でその音を聞いたり、この辺りで音が鳴るだろうっつー予感だけであの日の苦い思い出が蘇りやがンだよ、チクショォオオ。今いる通りからでればいい話だが、距離的に無理がある上にこの通りには10箇所くらい教会がありやがる。きっと移動しても防音対策してねえ教会の鐘の音がうるさく聞こえてくるだろうな。いや、そもそもここからわざわざ離れるのも逃げてるみてえになっちまうのがムカつくからそれはしねー。ったくよォォォ、どうでもいいはずなのによォ〜。どうしたって思い出しちまうんだよ。あの日の記憶をよォ〜。
***
あくまで興味の無いフリをして、念の入ったあくびをしながらいつもの時間帯にいつものバールに入店した。それと同時に近くから、リンゴンと重たい鐘の音が聞こえてくる。
バールはつい先日、侍者のガキにミサ用ワインを飲ませて悪戯して逮捕された神父のいる教会の隣の隣にあった。そこから毎夕に5分程鳴り響く鐘の音がバールの中まで聞こえてくる。更に言うなら遠く離れた複数の教会からも鐘の音が遅れて聞こえてくる。鐘の音がうざってェはずだが、こうもほぼ毎日この時間に通ってれば、この音も延々と一つのアルバムを繰り返し流す店内BGMみてえに馴染みのあるもんだ。
「あ、こんばんは!今日は眠そうですね!」
レジカウンターには目的の女──ナマエがいて、いつもの如くオレの眼を眩しいばかりの笑顔で見つめてくる。可愛いじゃあねェかチクショォォォォ。
ナマエのあまりの可愛さに、頭ン中で昨日のプロシュートの言葉を思い出す。
「可愛い茶店の店員は漏れなく売約済みだ。デート相手すらいないっつーヤツは嘘をついてる。気ィ付けろよ」
オレが女の為にここに通い続けてることを、メローネの野郎がプロシュートにバラした時に言われたもんだった。余計な世話だし、その店員を売約してるのはプロシュートみてえな男ばかりだと思うと気が滅入るってもんだ。だが、そん時はナマエに限ってはそれはないっつー自信はあった。ナマエには男の影がまるでなかった上に、三日前にナマエがいない時に店に寄って行ったら男の店員から「ナマエちゃんは今フリーだよ。狙うなら今だよ」とか、聞いてもねーのに情報を寄越してきた。
だが、本当にナマエに男がいないって信じられるか?今になって急に不安になってきたぜ。だって、この容姿にこの愛嬌だ。他の男客もナマエには鼻の下を伸ばしてやがる。
ナマエをデートに誘うなら、あの男店員のことを信じてナマエがフリーなうちに誘うべきだ。放っておいたらプロシュートみてえな男に取られるだろうからな。ッしゃあァッ!鐘の音が鳴り終わらないうちにオレはナマエをデートに誘うぜ。誘わなかったらスタンダールの小説の主人公よろしく自分の脳天をブチ抜くつもりで行く。オレなら女を誘うくらい余裕なんだよォ〜。容姿は置いといてよォ、身長は南部では平均近くあるし筋肉はそれなりにあって体は引き締まってる。職は所謂危険職種だが、組織持ちの保険には入れてるし、積み立てもしている。まあ死亡時の受け取り先が何故か組織固定になってるのは納得いかねーがしゃーねえ。そんでもって、毎月車の支払いに頭を悩ませてはいるが、この歳で外車のスポーツカー持ちだ。スポーツカーを持ってるってだけで女が寄ってくることだってある。ン。待てよ。外車スポーツカー持ちはアピールすべきか?いや、ナマエはそんなもんで釣られる女じゃあねーな。そんなアピールはいらないな。
「あの……まさか立ったまま寝てるんですか?」
ナマエの言葉に思考世界から意識が現実に引き戻された。そういや、ナマエの可愛い面を拝んでるだけで挨拶がまだだったな。
「ああァ?ンなワケねーだろ。節穴かてめー?」
思ってもいない言葉が反射的に出ちまった。クソッ!クソッ!オレは何を言ってんだ!
「ご、ごめんなさい。あくびしてらしたので……いつもの作りますね。お会計しててください」
眉を落として悲しそうな顔をするナマエにオレまで嫌な気分になっちまった。好きな女を傷つけるなんてオレは悪い男だぜ。つい癖で酷いことを言っちまった。ったくよォ、ガキの頃から相手がジャンキーや娼婦でも、女には優しくっつー国で育ってきたってのによォ、なんでこうなっちまうんだ。逆に女のジャンキーと娼婦には厳しくって方針なら他の女には優しく出来たんじゃあねーか?あァー。クソッ。だったら、この国が悪ィじゃあねーかよォ〜。チクショォォオオ〜。
ンなことより、鐘が鳴り止んじまう。店内の時計の秒針は12を過ぎ、長針はどんどん1に近づいていく。鐘が鳴り止んだら、オレは氷柱を作ってそれに頭から飛び込んでやるぜ。その覚悟でオレはナマエを誘う。ジュリアン・ソレルのようにオレは自ら課題を課してやってやるぜェェ。
男店員にコーヒー代を払って立ち飲みカウンターに着いた。そこで、ナマエが一生懸命オレの為だけにコーヒーを作る様子を眺めながら、横眼で時計を見る。
あー、また秒針が12を過ぎた。鐘の音はまだ鳴り止まないが、止みそうな気配を孕んだ予感だけが常に続く。ナマエがコーヒーを運んできたらその場で誘う。ぜってー誘う。
「あの、お待たせしました」
オレの余命があと1分ってところで、オレの目の前のカウンターにガラス容器に入ったコーヒーが置かれる。
ナマエの顔を見る。眼尻を下げて唇を横に引き、くっきりとした笑顔を作っている。オレの為に。こんな至近距離で。可愛過ぎんだろーがよォ。
「あ、ありがとな。お、おまえの作るコーヒーが一番美味いからな。また来てやるよ!」
「あ……は、はい!嬉しいです!また来てください!」
「あとよォ……」
引き留める為の繋ぎを口にすれば、ナマエは首を傾げた。言葉の続きを待ってくれている。時計はもう眼にはいらねえ。鐘の音が鳴り止みそうな予感だけが胸に残る。
言うんだ。今しかねえ。オレはジュリアン・ソレルだ。時間通りにやる男。
「お、おまえはよォ……」
「はい……?」
「く、車好きか……?」
「車……?あんまり乗らないのでなんとも……」
ナマエは酷く困った様子で首を、今度は反対側へ傾けた。ちょうどその時、鐘の音が途切れ、店内BGMが息を吹き返したように流れ始める。そして、ナマエは他の店員に呼ばれて戻っちまった。気づいたら、店はそれなりに混んでいた。
震える手でコーヒーを一口飲んだ。苦ェェェ。かっこつけて、ヘーゼルナッツのリキュールしか入れてもらってねえから、砂糖とミルクなしじゃあ苦過ぎる。
オレは結局言えなかったし、自殺もしなかった。やっぱ、覚悟ってそういうもんなんだな。
「覚悟ってのは宣言みてえなもんだ。必ず言葉や思い通りになるもんじゃあねえ」
いつかどっかの色男が、どっかの口先ばかりの弟分にそんなことを言っていた気がする。
ズズとコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、ナマエの表情が華やいだ、という事実に気付いてまた現実に意識が引き戻された。
オレはナマエを知らねーうちに見ていて、そのナマエが何かを見て瞳を大きく冴えさせ、小綺麗にまとめた髪を直すように触れた。誰かに教えてもらわなくたって、これだけはオレにもわかる。──女が気のある男に見せる態度だ。
ナマエの視線の先にはちょうどレジで会計している男がいる。北部の白人みてえな巻き毛のブロンド男だ。
男の顔を身を乗り出してよく見た。中性的な顔立ちで瞳の色はまるでイギリス野郎みてーだ。
「お客さん」
「なんだてめー?」
三日前にナマエがフリーであることをわざわざ教えてきた男店員がヌッと横に現れて声をかけてきやがった。
「ナマエちゃん、二日前からあの新しい客とデートしてるよ。諦めな」
言葉を失った。怒りのあまりブチ切れそうになって、それから胸が抉られるように痛んで、吐き気までしてきやがった。いっそ吐いちまおうと思ってコーヒーを一気飲みした。死ぬ程まじィィィ。最初からここのコーヒーの味は苦くて嫌いだった。一生来ねェェよ、こんなとこはよォッ!
***
そーいや、あれから三週間経ったが、あんな女はどうでもいいと今は落ち着いている。オレの方が先に好きでアプローチしていたのに、後から来た見た目がいいだけの男を選んだ女だ。もっと早くデートに誘ってればとか後悔したり、あのまま好きでい続けたり、あの男から奪ってやろう、なんて思う価値すらない女だ。クソ女としてオレの記憶に残り続けるだけだ。だがいずれ、クソ女のことをオレは忘れるだろうな。
ただ今みてえにあの女が働いてたバールのある通りを歩いたり、この通りの教会の鐘の音を聞いたら、あの日の不快感を鮮明に思い出しちまうし、あのクソまずいコーヒーの味だって口の中に再現される。こうなると、いずれじゃあなくて今すぐ忘れてえな。
「メローネェ、オレは行ってくるぜッ!必ず17時59分と59秒までに仕留めてくっからよォ!」
「ん?どういう意味だ?」
「オレはジュリアン・ソレルになるんだよ!」
「バール店員はやめて、人妻を狙うのか?」
「ンなわけあるか!クソがッ!」
メローネに一々説明している暇はねえ。
まずは近くの教会に突っ走って聖堂を走り抜け、鐘楼を氷漬けにした。他の9つの鐘楼も全部凍らせて時を止めてやる。時間を巻き戻せなくても、オレには静止した世界が作れる。18時からたった5分止めるだけだ。射程距離がキツいがオレならやれる。
教会の中庭を横切って聖堂の中を通って外に出ようとしたところ、ナマエがすぐ横の告解室から出てきて、不思議なことに鐘の音を止めてぇっつー衝動がスッと収まった。
ナマエは当たり前だが、制服ではなく裾の長いワンピースを着ていた。髪型はいつも通り清潔にまとめられていて、相変わらず可愛い面をしていやがるが、表情が曇っている。
ナマエはオレを認めると、笑顔を浮かべたが、眉は歪んでいて、口元はぎこちない緩み方をしている。今にも泣きそうな顔にも見える。
正直今の今までどうでもいい女と言いつつムカついていたが、ナマエに対する怒りはその顔を見た瞬間に全て消えた。その代わりにいつも完璧な笑顔でオレに給仕していた記憶が蘇り、仕事のない時はナマエに会いたくてバールに通っていた時の気持ちを思い出した。
「こんばんは。こんなところでお客さんと会えるなんてびっくりです……あの、いつも18時ごろにいらしてくれていた方ですよね?」
「あ、ああ……ギアッチョだ」
そーいや、まともに話したことがねーから名前すら知られていなかったことを思い出して名乗った。
「あ、私はナマエです……最近、お店いらしてないですよね?」
「まあ、仕事が忙しくてよォ……」
いつもの時間にこんなところにいるわけだが、他に言い訳を思いつかなかった。
「そうですか……また、時間ができたらいらしてくださいね」
「ああ……」
ナマエはまた苦しそうな笑顔を作った。そんな顔見ちまったら、何があって告解室なんかにいたのか気になって仕方ねえ。
「ギアッチョさんも告解ですか?」
「いや、たまたま用があって……おまえはどうしたんだ?告解ってなんか悪いことでもしたのかァ?」
「ええ……悪いことをしましたが、全てを精算したのでその報告に来ただけです」
なんの話かはわからねえが、精算って言い方に引っかかる。
「精算ってどーいう意味だァ?」
「……お客さんと不倫してました」
「はァ?」
ナマエの口から到底出てくるはずのない単語に一瞬理解ができなかったが、少し置いて、あのブロンド野郎のことだとわかった。あの野郎、結婚してんのにナマエをオレから奪ったってことかァ?だとしたら、許せねェェ。
「勿論、もう別れました……奥さんがいるって知らなくて……知らなかったとはいえ、私は許されないことをしましたし、一瞬、ほんの一瞬だけ奥さんから旦那さんを奪おうと考えてしまいました……本当に私は最低な人間です……」
ナマエが泣き出すのと同時に遠くからリンドン、リンゴンと細波のように複数の鐘の音が聞こえてきた。
18時だ。そして、この通りではあと5分間鳴り続ける。
今オレの頭ン中にあんのは、ナマエが笑顔でオレに話しかけながら給仕していた時の記憶だ。そればかりが延々と脳内を駆け巡る。それから、学校で読まされた他国の小説の主人公ジュリアン・ソレルが鐘の音を合図に人妻にしたことと、自分の仲間がよく口にしている不言実行を意味する言葉が過った。
正直ナマエが一瞬でも不倫願望を抱くような女だとは思っていなかった。オレの知ってるナマエはバールの店員のナマエだ。明るくていつも笑顔で、顔が可愛い女。そして、見てくれのいい既婚ブロンド男に惹かれる女。オレは綺麗な記憶がこれ以上汚れないようにナマエのことを深く知りたくねえって思う一方で、今がチャンスだと、目の前で泣きじゃくるナマエを抱きしめて慰めてやりたいと思っちまってる。二つのことを同時に思っちまったらどっちを取ればいいんだァ?
すぐ近くで大きな鐘の音が鳴った。気づけば自分でも知らねーうちに能力を解除していたみたいだ。
オレはその鐘の音に突き動かされるように咄嗟にナマエの手を握り、体を引き寄せて抱きしめた。
※もやもや傾向
「もう18時か」
「なんだってェェ〜?」
仕事を終えてアジトに戻る道中、メローネのなんとなしと言った具合に呟いた言葉に焦って手首を確認すれば、腕時計の時刻は17時55分と、秒針が今2の辺りを指している。あと約5分で近くにある教会の鐘の音が鳴り始めちまう。この時間にこの場所でその音を聞いたり、この辺りで音が鳴るだろうっつー予感だけであの日の苦い思い出が蘇りやがンだよ、チクショォオオ。今いる通りからでればいい話だが、距離的に無理がある上にこの通りには10箇所くらい教会がありやがる。きっと移動しても防音対策してねえ教会の鐘の音がうるさく聞こえてくるだろうな。いや、そもそもここからわざわざ離れるのも逃げてるみてえになっちまうのがムカつくからそれはしねー。ったくよォォォ、どうでもいいはずなのによォ〜。どうしたって思い出しちまうんだよ。あの日の記憶をよォ〜。
***
あくまで興味の無いフリをして、念の入ったあくびをしながらいつもの時間帯にいつものバールに入店した。それと同時に近くから、リンゴンと重たい鐘の音が聞こえてくる。
バールはつい先日、侍者のガキにミサ用ワインを飲ませて悪戯して逮捕された神父のいる教会の隣の隣にあった。そこから毎夕に5分程鳴り響く鐘の音がバールの中まで聞こえてくる。更に言うなら遠く離れた複数の教会からも鐘の音が遅れて聞こえてくる。鐘の音がうざってェはずだが、こうもほぼ毎日この時間に通ってれば、この音も延々と一つのアルバムを繰り返し流す店内BGMみてえに馴染みのあるもんだ。
「あ、こんばんは!今日は眠そうですね!」
レジカウンターには目的の女──ナマエがいて、いつもの如くオレの眼を眩しいばかりの笑顔で見つめてくる。可愛いじゃあねェかチクショォォォォ。
ナマエのあまりの可愛さに、頭ン中で昨日のプロシュートの言葉を思い出す。
「可愛い茶店の店員は漏れなく売約済みだ。デート相手すらいないっつーヤツは嘘をついてる。気ィ付けろよ」
オレが女の為にここに通い続けてることを、メローネの野郎がプロシュートにバラした時に言われたもんだった。余計な世話だし、その店員を売約してるのはプロシュートみてえな男ばかりだと思うと気が滅入るってもんだ。だが、そん時はナマエに限ってはそれはないっつー自信はあった。ナマエには男の影がまるでなかった上に、三日前にナマエがいない時に店に寄って行ったら男の店員から「ナマエちゃんは今フリーだよ。狙うなら今だよ」とか、聞いてもねーのに情報を寄越してきた。
だが、本当にナマエに男がいないって信じられるか?今になって急に不安になってきたぜ。だって、この容姿にこの愛嬌だ。他の男客もナマエには鼻の下を伸ばしてやがる。
ナマエをデートに誘うなら、あの男店員のことを信じてナマエがフリーなうちに誘うべきだ。放っておいたらプロシュートみてえな男に取られるだろうからな。ッしゃあァッ!鐘の音が鳴り終わらないうちにオレはナマエをデートに誘うぜ。誘わなかったらスタンダールの小説の主人公よろしく自分の脳天をブチ抜くつもりで行く。オレなら女を誘うくらい余裕なんだよォ〜。容姿は置いといてよォ、身長は南部では平均近くあるし筋肉はそれなりにあって体は引き締まってる。職は所謂危険職種だが、組織持ちの保険には入れてるし、積み立てもしている。まあ死亡時の受け取り先が何故か組織固定になってるのは納得いかねーがしゃーねえ。そんでもって、毎月車の支払いに頭を悩ませてはいるが、この歳で外車のスポーツカー持ちだ。スポーツカーを持ってるってだけで女が寄ってくることだってある。ン。待てよ。外車スポーツカー持ちはアピールすべきか?いや、ナマエはそんなもんで釣られる女じゃあねーな。そんなアピールはいらないな。
「あの……まさか立ったまま寝てるんですか?」
ナマエの言葉に思考世界から意識が現実に引き戻された。そういや、ナマエの可愛い面を拝んでるだけで挨拶がまだだったな。
「ああァ?ンなワケねーだろ。節穴かてめー?」
思ってもいない言葉が反射的に出ちまった。クソッ!クソッ!オレは何を言ってんだ!
「ご、ごめんなさい。あくびしてらしたので……いつもの作りますね。お会計しててください」
眉を落として悲しそうな顔をするナマエにオレまで嫌な気分になっちまった。好きな女を傷つけるなんてオレは悪い男だぜ。つい癖で酷いことを言っちまった。ったくよォ、ガキの頃から相手がジャンキーや娼婦でも、女には優しくっつー国で育ってきたってのによォ、なんでこうなっちまうんだ。逆に女のジャンキーと娼婦には厳しくって方針なら他の女には優しく出来たんじゃあねーか?あァー。クソッ。だったら、この国が悪ィじゃあねーかよォ〜。チクショォォオオ〜。
ンなことより、鐘が鳴り止んじまう。店内の時計の秒針は12を過ぎ、長針はどんどん1に近づいていく。鐘が鳴り止んだら、オレは氷柱を作ってそれに頭から飛び込んでやるぜ。その覚悟でオレはナマエを誘う。ジュリアン・ソレルのようにオレは自ら課題を課してやってやるぜェェ。
男店員にコーヒー代を払って立ち飲みカウンターに着いた。そこで、ナマエが一生懸命オレの為だけにコーヒーを作る様子を眺めながら、横眼で時計を見る。
あー、また秒針が12を過ぎた。鐘の音はまだ鳴り止まないが、止みそうな気配を孕んだ予感だけが常に続く。ナマエがコーヒーを運んできたらその場で誘う。ぜってー誘う。
「あの、お待たせしました」
オレの余命があと1分ってところで、オレの目の前のカウンターにガラス容器に入ったコーヒーが置かれる。
ナマエの顔を見る。眼尻を下げて唇を横に引き、くっきりとした笑顔を作っている。オレの為に。こんな至近距離で。可愛過ぎんだろーがよォ。
「あ、ありがとな。お、おまえの作るコーヒーが一番美味いからな。また来てやるよ!」
「あ……は、はい!嬉しいです!また来てください!」
「あとよォ……」
引き留める為の繋ぎを口にすれば、ナマエは首を傾げた。言葉の続きを待ってくれている。時計はもう眼にはいらねえ。鐘の音が鳴り止みそうな予感だけが胸に残る。
言うんだ。今しかねえ。オレはジュリアン・ソレルだ。時間通りにやる男。
「お、おまえはよォ……」
「はい……?」
「く、車好きか……?」
「車……?あんまり乗らないのでなんとも……」
ナマエは酷く困った様子で首を、今度は反対側へ傾けた。ちょうどその時、鐘の音が途切れ、店内BGMが息を吹き返したように流れ始める。そして、ナマエは他の店員に呼ばれて戻っちまった。気づいたら、店はそれなりに混んでいた。
震える手でコーヒーを一口飲んだ。苦ェェェ。かっこつけて、ヘーゼルナッツのリキュールしか入れてもらってねえから、砂糖とミルクなしじゃあ苦過ぎる。
オレは結局言えなかったし、自殺もしなかった。やっぱ、覚悟ってそういうもんなんだな。
「覚悟ってのは宣言みてえなもんだ。必ず言葉や思い通りになるもんじゃあねえ」
いつかどっかの色男が、どっかの口先ばかりの弟分にそんなことを言っていた気がする。
ズズとコーヒーを飲みながらぼんやりしていると、ナマエの表情が華やいだ、という事実に気付いてまた現実に意識が引き戻された。
オレはナマエを知らねーうちに見ていて、そのナマエが何かを見て瞳を大きく冴えさせ、小綺麗にまとめた髪を直すように触れた。誰かに教えてもらわなくたって、これだけはオレにもわかる。──女が気のある男に見せる態度だ。
ナマエの視線の先にはちょうどレジで会計している男がいる。北部の白人みてえな巻き毛のブロンド男だ。
男の顔を身を乗り出してよく見た。中性的な顔立ちで瞳の色はまるでイギリス野郎みてーだ。
「お客さん」
「なんだてめー?」
三日前にナマエがフリーであることをわざわざ教えてきた男店員がヌッと横に現れて声をかけてきやがった。
「ナマエちゃん、二日前からあの新しい客とデートしてるよ。諦めな」
言葉を失った。怒りのあまりブチ切れそうになって、それから胸が抉られるように痛んで、吐き気までしてきやがった。いっそ吐いちまおうと思ってコーヒーを一気飲みした。死ぬ程まじィィィ。最初からここのコーヒーの味は苦くて嫌いだった。一生来ねェェよ、こんなとこはよォッ!
***
そーいや、あれから三週間経ったが、あんな女はどうでもいいと今は落ち着いている。オレの方が先に好きでアプローチしていたのに、後から来た見た目がいいだけの男を選んだ女だ。もっと早くデートに誘ってればとか後悔したり、あのまま好きでい続けたり、あの男から奪ってやろう、なんて思う価値すらない女だ。クソ女としてオレの記憶に残り続けるだけだ。だがいずれ、クソ女のことをオレは忘れるだろうな。
ただ今みてえにあの女が働いてたバールのある通りを歩いたり、この通りの教会の鐘の音を聞いたら、あの日の不快感を鮮明に思い出しちまうし、あのクソまずいコーヒーの味だって口の中に再現される。こうなると、いずれじゃあなくて今すぐ忘れてえな。
「メローネェ、オレは行ってくるぜッ!必ず17時59分と59秒までに仕留めてくっからよォ!」
「ん?どういう意味だ?」
「オレはジュリアン・ソレルになるんだよ!」
「バール店員はやめて、人妻を狙うのか?」
「ンなわけあるか!クソがッ!」
メローネに一々説明している暇はねえ。
まずは近くの教会に突っ走って聖堂を走り抜け、鐘楼を氷漬けにした。他の9つの鐘楼も全部凍らせて時を止めてやる。時間を巻き戻せなくても、オレには静止した世界が作れる。18時からたった5分止めるだけだ。射程距離がキツいがオレならやれる。
教会の中庭を横切って聖堂の中を通って外に出ようとしたところ、ナマエがすぐ横の告解室から出てきて、不思議なことに鐘の音を止めてぇっつー衝動がスッと収まった。
ナマエは当たり前だが、制服ではなく裾の長いワンピースを着ていた。髪型はいつも通り清潔にまとめられていて、相変わらず可愛い面をしていやがるが、表情が曇っている。
ナマエはオレを認めると、笑顔を浮かべたが、眉は歪んでいて、口元はぎこちない緩み方をしている。今にも泣きそうな顔にも見える。
正直今の今までどうでもいい女と言いつつムカついていたが、ナマエに対する怒りはその顔を見た瞬間に全て消えた。その代わりにいつも完璧な笑顔でオレに給仕していた記憶が蘇り、仕事のない時はナマエに会いたくてバールに通っていた時の気持ちを思い出した。
「こんばんは。こんなところでお客さんと会えるなんてびっくりです……あの、いつも18時ごろにいらしてくれていた方ですよね?」
「あ、ああ……ギアッチョだ」
そーいや、まともに話したことがねーから名前すら知られていなかったことを思い出して名乗った。
「あ、私はナマエです……最近、お店いらしてないですよね?」
「まあ、仕事が忙しくてよォ……」
いつもの時間にこんなところにいるわけだが、他に言い訳を思いつかなかった。
「そうですか……また、時間ができたらいらしてくださいね」
「ああ……」
ナマエはまた苦しそうな笑顔を作った。そんな顔見ちまったら、何があって告解室なんかにいたのか気になって仕方ねえ。
「ギアッチョさんも告解ですか?」
「いや、たまたま用があって……おまえはどうしたんだ?告解ってなんか悪いことでもしたのかァ?」
「ええ……悪いことをしましたが、全てを精算したのでその報告に来ただけです」
なんの話かはわからねえが、精算って言い方に引っかかる。
「精算ってどーいう意味だァ?」
「……お客さんと不倫してました」
「はァ?」
ナマエの口から到底出てくるはずのない単語に一瞬理解ができなかったが、少し置いて、あのブロンド野郎のことだとわかった。あの野郎、結婚してんのにナマエをオレから奪ったってことかァ?だとしたら、許せねェェ。
「勿論、もう別れました……奥さんがいるって知らなくて……知らなかったとはいえ、私は許されないことをしましたし、一瞬、ほんの一瞬だけ奥さんから旦那さんを奪おうと考えてしまいました……本当に私は最低な人間です……」
ナマエが泣き出すのと同時に遠くからリンドン、リンゴンと細波のように複数の鐘の音が聞こえてきた。
18時だ。そして、この通りではあと5分間鳴り続ける。
今オレの頭ン中にあんのは、ナマエが笑顔でオレに話しかけながら給仕していた時の記憶だ。そればかりが延々と脳内を駆け巡る。それから、学校で読まされた他国の小説の主人公ジュリアン・ソレルが鐘の音を合図に人妻にしたことと、自分の仲間がよく口にしている不言実行を意味する言葉が過った。
正直ナマエが一瞬でも不倫願望を抱くような女だとは思っていなかった。オレの知ってるナマエはバールの店員のナマエだ。明るくていつも笑顔で、顔が可愛い女。そして、見てくれのいい既婚ブロンド男に惹かれる女。オレは綺麗な記憶がこれ以上汚れないようにナマエのことを深く知りたくねえって思う一方で、今がチャンスだと、目の前で泣きじゃくるナマエを抱きしめて慰めてやりたいと思っちまってる。二つのことを同時に思っちまったらどっちを取ればいいんだァ?
すぐ近くで大きな鐘の音が鳴った。気づけば自分でも知らねーうちに能力を解除していたみたいだ。
オレはその鐘の音に突き動かされるように咄嗟にナマエの手を握り、体を引き寄せて抱きしめた。