rosso cacciatore (4/4)


 
あの日以来ナマエには直接会っていない。調べてみれば、ナマエはミラノの新人オペラ歌手だったようで、同じく有名なIT企業の社長との別居後に、一度辞めた舞台に端役として立っているらしい。別居後からすぐにカトリック御法度の離婚準備に入っていることから、余程のことがあったのだろうが、そもそもナマエが婚約解消せずに婚約者と結婚したことには納得していなかった。それで更に詳しく調べれば、亡くなった母親の借用書が移民系ギャング組織に売られていて、母が娘の知らない間に作った借金を婚約者が代わりに完済したことを知った。ナマエが婚約者に捕まったのも、ナマエがおれを追いかけて家を出たその夜中の間にトレントの実家に取り立て屋が押しかけ、婚約者まで連絡が行ったことがきっかけだったというわけだ。親の借金の肩代わりにナマエが恩義を感じて婚姻するのも理解した。
そんなナマエの様子が気になり、舞台を一度だけ観に行ったが、舞台上のナマエはおれと初めて会った日と同じくらい濃い化粧で端役として懸命に屋敷の主人の妻役を演じていた。
舞台の上のナマエはおれの知らない女だった。生き生きとしていて、自信に満ち溢れた女だった。最近のオペラ歌手は見た目でも売っていて、その中でもナマエは若くて美しく、主役の女より輝いて見えた。そりゃあ、IT企業の社長とやらも惚れるだろうと納得した。
だが、おれが惚れた女は化粧の薄い不幸顔で、隣人にわざわざマフィンの差し入れをするような品行方正で身持ちの硬い女だった。なんとなく、あの日のナマエはあの書き置きの手紙と共に消えちまった気がした。
初めて舞台の上でのナマエを観てからその数ヶ月後、何故か惹かれて付き合い始めた女の髪からいつも人工的なラズベリーの匂いがしていることに気付いた。

「ラズベリーのヘアコロン付けてんのか?」

ベッドの上で女の頭を掴んで鼻を寄せた。ラズベリーの匂いだと思うが、若干ラム酒っぽさもある。

「ラズベリー?ああ、シャンプーに入ってるギ酸エチルの匂いじゃあないの?」

「は?ギサンエチルってなんだ?いや、言わなくていいぜ。ラズベリーじゃあねーなら興味ねえ」

そういえば、こいつは理系の女だと思い出した。ナマエを知ってから女の好みが真面目系になったが、真面目だと思っていた理系女もおれと寝た途端にアホになった。女はおれとの付き合いと勉学の両立の為とか言って、長時間起きていられるようにクスリをやり始めた。

「あなたってなんでいつもそうなの?あたしに興味なさ過ぎじゃない?あなたみたいな人は天王星に行って窒息死しちゃえばいいのに」

「なんで急に天王星が出てくんだよ。ラリってんのか?とりあえず、ラズベリーマフィンが食いてえから作れ」

ラズベリーでナマエのことを思い出し、ナマエの作ったラズベリーマフィンが食いたくなった。あれは美味かった。何か生地にバター以外のものが入っていた気がしたが、それがどんな味でどんなものか思い出そうとしても思い出せなかった。

「それってギ酸エチルの入ったマフィンってこと?」

「ヤクやり過ぎて馬鹿になったか?」

「あなた冗談も通じない馬鹿なの?」

いちいち腹の立つ女だが、裸の上に直接ワンピースを羽織るように着て買い出しに行ってくれた。
1時間程して女が帰ってくると、小数点以下のグラム数まで量ってラズベリーマフィンを作り始めた。
理系女が作るなら美味いもんだと思ったが、出来上がったマフィンは鮮やかな色をしていて見た目はいい一方で、中身が生焼けでフツーに不味かった。流石の理系女もオーブンのクセを見抜けなかったようだ。レシピ本が悪いと喚いていたが、ナマエのレシピカードを見てもこの女には同じようには作れないだろう。
その日以来、なんとなく理系女とは疎遠になって月日は巡り、数年が経った。その間に何人かと付き合い、夏の間は全員にラズベリーマフィンを作らせた。最後に付き合った女は不味いマフィンをラズベリーの取れる月の所為にした上におれの顔面に失敗作を投げてきたから印象が最悪だった。
このままおれはラズベリーマフィンに取り憑かれる人生なのか、とアホみたいに悩みながら過ごす日が続いたある日、なんとなく観ていたテレビにナマエの姿が映った。ナマエは端役のオペラ歌手としてミラノで有名になったらしく、相変わらずの不幸顔でインタビュワーの質問にしっかりと受け応えていて、次のシーズンではミラノの劇場ではなくネアポリスの劇場で主役で舞台に立つと説明した。

「雑誌の記事によると、ネアポリスの劇場では元恋人であるネアポリスの男性の為に歌うらしいですね?」

「いえ、彼は恋人ではなくて……」

しっかりしていたナマエが途端に頬を赤らめてもじもじしだした。人の女になった経験を持つナマエが未だに純真さを失っていないことに驚き、おれの知っているナマエがまだこの世に存在しているという事実に気づいて、胸に熱い想いが込み上げてきた。

「──ミラノの劇場に復帰したその日からその大切な人を想って歌っていました。だから、このシーズン中に私の歌声が届けば……」

ナマエはそこで言葉を詰まらせ、放送事故を予見したのかテレビ画面が公演ポスターに差し代わった。
公演初日は三日後だ。
ナマエに会いてえ。ナマエをこの腕に抱きてえ。ナマエと一緒にいてえ。敬虔なカトリックの信徒のくせに離婚しちまった不幸なナマエを、おれが幸せにしてやりてえ。
次々と湧く欲望に胸が疼き、ナマエがおれをどんな目的で求めてるかもよく考えずに三日後の為の準備を始めた。
三日後。おれは新調したダークスーツに身を包み、受付で花束を預けて後で直接キャストに渡すことを伝えて会場に入った。
オペラなんてわかんねーし、舞台上のナマエはどうにも好きになれなかったが、悪くはなかった。
閉幕後に花束を持って楽屋に行こうとしたが、直前になってなんだか小っ恥ずかしくなってきて一旦廊下を引き返した。
こんなスーツでキメて花束なんかもって会いに来たのに、実は友人として求めていました、なんて言われた日にはおれのプライドはズタズタになるどころか、精神を病んでこのスーツを売っ払い、一つ先の路地の向こうで転がっているジャンキーに仲間入りするかもしれねえ。
廊下ですれ違うナマエの楽屋仲間らしき奴らから、すれ違うたびに視線を投げられ、居心地も悪かった。
真紅の絨毯の上を歩きながら、その辺のテーブルアートに遮られるようにして掛けてある鏡に入り込もうか思考していると、遠くでバタンという大きな扉の開閉音と共に、硬い靴音が響いてくる。

「イルーゾォさんっ……!イルーゾォさん……っ!」

痛々しい悲鳴のような呼び声に振り返った。
ドレスの裾を持ち上げながら廊下を走って迫ってくる女は、見まごうことなくナマエだった。あの日以来、初めて舞台上ではないナマエを見て胸がざわつき、その場で棒立ちになった。
ナマエは真っ直ぐおれの目の前まで走って来ると、わっと抱きついてきた。

「イルーゾォさんっ!イルーゾォさんっ!」

花束を持った手を、泣き出すナマエの背中に回し、もう片方の手でナマエの後頭部の丸みを撫でた。
舞台上にいないナマエはただの女──いや、おれにとっては最高にいい女だ。あれから結婚離婚を経て、何かしら変わっていると思っていたが、今のところ変わったと思うような雰囲気は感じられない。

「……久し振りだな」

「イルーゾォさぁん……」

必死におれの腕にしがみつき、壊れたレコードのようにおれの名前を呼び続けるナマエに、あの日の文字の途切れた書き置きを思い出して、ナマエを追いかけなかったことを今更後悔した。他にも、初めて舞台を観に行った日に楽屋に行くべきだったとか、劇場に連絡すればいつでも連絡を取れるようになったはずだとか、悔恨の念が次々に湧いてきた。

「公演、良かったぜ。明後日もやんだろ?声、大事にしねえと」

「はいっ……」

「今、ホテル暮らしか?」

「はいっ……」

「今シーズンの公演終わったら、おれの家に引っ越してこいよ。このままネアポリスの劇場に居ついちまえばいい」

「はいっ……」

「そしたら、おれにラズベリーマフィン作ってくれるか?」

「はいっ!作ります!いっぱい作って近所にも配ります!だから、もういなくならないでください!」

「それはこっちの台詞だ。つか、周りが見てるんだが……一応は有名なんだろ?」

廊下にはスタッフや演者が行き交っていて、何人かはわざわざ立ち止まっておれと泣きじゃくるナマエを見ている。その中には、「愛だ」と言って拍手しているヤツや、ハンカチで眼元を拭っているヤツまでいる。

「どうでもいいんですっ!イルーゾォさんが消えないなら、もうなんでもいいんですっ!ずっとこのままでいます!」

「おいおい。そりゃあ、困るだろ」

「もう離れたくないです!」

ナマエの我儘っぷりはスゲェ可愛いし、おれも嬉しいが周りの視線を感じて居心地が悪い。
どうしたもんか、とナマエの頭を撫でていると、ナマエの体からラズベリーとバターの甘い匂いがしてくることに気付いた。

「菓子の匂いがするが……香水か?」

「あ、えっと……多分夜通しお菓子作ってて……」

「夜通し?ホテル暮らしなのにか?」

「私がホテルの従業員の方たちに特別に歌う、という条件で厨房を快く貸してくださりました……それで夜通しお菓子を作り続けてました……」

「公演前に何やってんだよ」

「だって、イルーゾォさんがいらっしゃるかもしれないと思うと眠れなくて……ずっとラズベリーマフィン焼いてたせいで匂いが染みついちゃったんですね」

「ラズベリーマフィン?既に作ってたのか……今食えるのか?」

「はい!でも、イルーゾォさんには焼きたてを食べて欲しくて……」

「焼きたてじゃあなくてもいい。ナマエのラズベリーマフィンずっと食いたかったんだよ」

「本当ですか?嬉しいです……実は作りすぎて余っているので、食べていただけたら助かります」

ナマエに連れられて控室まで行った。中には演者に見えないスッタフらしきヤツが何人かいたが、ナマエが丁寧に出ていくように言うと、おれを胡散なものでも見るかのような眼で一瞥して出て行った。

「これです。どうぞ」

ナマエは部屋の中央にある長机の上からバスケットを持ち上げる。バスケットの中にはまだ幾つかマフィンが残っている。どれも生地は狐色に焼きあがっていて、ラズベリーはルビーのように赤く色鮮やかだ。以前と大きさや形が異なるが、見た目は相変わらず完璧だった。
手前のやつを手に取った。口元に近づけただけで甘いバターの香りが鼻孔を擽る。
口に入れると、あの日と同じ味がして、懐かしさに胸が塞がって喉が苦しくなっていく。
何年もずっと後悔していたことが山ほどある。ナマエは今おれの手の届く範囲にいるが、今更手に入れても遅すぎることもある。
ずっと取り憑かれていたラズベリーマフィンを食えたっていうのに、贅沢なことに、おれは途中で食うのをやめた。

「どうしたんですか?美味しくなかったですか……?」

「美味い。美味いが、今ナマエに言いたいことがある。これも残ってあるやつも後で全部食うから残しておいてくれ……」

テーブルの隅に置かれたバスケットに食べかけのマフィンを戻して、ナマエを見下ろした。
ナマエは舞台用の濃い化粧をしていて、泣いたせいで眼の下が多少黒くなっているが、ナマエの顔立ちにさして影響はない。おれの知っているナマエの顔だ。舞台の上では知らない女になるが、目の前にいるのは何年も前から求めていたおれのナマエだ。

「おれはずっと後悔していた。最初からナマエに会わなきゃよかったとか、惚れなきゃよかったとか、くだらねえことばかり考えていた。あの日のおまえがずっと欲しくて堪らなかったが、後悔しながらも諦めていた」

「でも、今ここにいます……会いに来てくれました……」

「ああ。今になって後悔は、ナマエがいなくなった日に追いかけなかったことに変わった。それに公演を一度観に行ったが、ナマエに会わずに帰ったことがある……会えば良かったな」

「公演いらしてくれたんですか……?」

「数年前に一度、な……今更だが、諦めて悪かったな」

「悪いのは私です!だから、そんなこと言わないでください……っ!」

またナマエが泣き始めた。さっき程酷くはないが、声が震えている。
今日はもうおれが何を言っても泣きそうだ。

「今夜にでもおれの家に来れるか?」

「今夜は駄目です……イルーゾォさんとやり直すのに、完璧な流れにしたくて」

「流れってなんだ?」

「それは聞かないでください……!」

ただでさえ泣いて赤い顔を更に赤く染め上げて言うナマエに合点がいった。顔がにやけちまい、ナマエをからかってやりたくなる。

「そうか。聞かないでおくが、おれも完璧な流れにしたいからダイニングテーブルは捨てておく。あれがあると殴られるからな」

「もう……!そういうのじゃあないんです……!」

泣きながらも眉間にシワを寄せて、怒り顔をするナマエも魅力的に思えた。ころころ変わる表情の変化を毎日見てえ。毎日この腕にナマエを抱きてえ。
欲求のままにナマエのうなじに手を当て、背をかがめて唇を重ねた。ナマエの唇に吸い付くようなキスを、角度を変えて何度も繰り返し、ナマエの熱い息遣いや、唾液のまとわりついたナマエの舌の感触や温度、おれの腕にしがみつくナマエの指先の強さを感じていた。
特に時間を気にせずナマエとのキスを情熱的に続けていたが、段々ずっと耐えてきた欲が噴き出しそうになったところで、口を離した。
蕩けたようなナマエのしまりのない顔に、かつてナマエを膝の上に乗せてした行為を思い出した。あの日もお預けを喰らい、そして今日もお預けだ。"待て"が長すぎる。

「続きは明日、だよな?」

「はい……明日です」

震える手で口許を隠しながら照れたようにおれから視線を外すナマエを見て、明日こそ何が起きても"待て"を我慢しない決心をした。
その後は何事もなかったかのように振舞い、ナマエと近況を話しながらラズベリーマフィンを全て平らげてから控室を出ると、さっき泣いていたヤツに握手を求められたり、ハグをされたり、質問責めにされてそれを躱すのがすげーめんどかったが、ナマエと触れ合った後だからか、自分でも気色悪いと思う程丁寧に対応しちまった。
翌日、ナマエは時間通りにやって来た。チャイムの音が聞こえた瞬間にドアスコープで確かめると、ナマエが軽く毛先を巻いた髪に手をやりながら、体を落ち着きなく揺らしていた。清潔そうな白いシャツに覆われた腕にはバスケットが掛けられている。あの日と同じ状況であることを思い出した。
玄関扉を開けると、ナマエは笑顔で右手を差し出してきた。

「こんにちは。初めまして、隣に住んでるナマエです」

「ああ……初めましてだな。イルーゾォだ」

これが初めて会った日のやり直しだと気づいてナマエの手を握り、そのまま引き寄せて抱き締めたいのを耐え、マフィンの入ったバスケットを受け取り、ナマエを中に入れた。
バスケットはキッチンに置いてからナマエをリビングルームに案内し、ダイニングテーブルがある方でなくローテーブルの前のソファに座らせた。
ナマエは緊張しているようで、握った手を膝に置いたままおれを見上げ、険しい表情をしている。せっかく落ち着いて話せると思っていたが、深刻そうな雰囲気が漂っている。

「本当はあの日通りの会話をしたいのですが、やっぱり、言わせてください……あの日のこと謝りたくて……黙って出て行って──」

おれの求めていないことを話そうとするナマエの顎に手を伸ばし、親指でナマエの唇を押すように蓋をした。

「言わなくていい。おれが聞きてえのは、謝罪じゃあなくてあの書き置きの続きだ」

「あ……」

最後に会った日の書き置きのことを思い出すだけで憂鬱になる程、あの書き置きが嫌な記憶として頭に残っていた。今では破り捨てるべきじゃあなかったと思っているが、文字よりも、まずはナマエの口からあの書き置きの続きの言葉を聞きたかった。

「言えるだろ?それとも、流れで言うか?」

「な、流れがいいです……」

「その流れはいつくる?」

「それはイルーゾォさんが作ってください……」

「わかった」

ナマエをソファの上で抱こうとした日のことを仔細に思い出しながらナマエを見つめ、髪や肩、腕に触れ、唇を重ねた。最初は軽く、それから深く舌を絡ませたり、舌にしゃぶりついたりを繰り返しながらナマエの体を服の上から撫で回した。
ナマエの窮屈そうなシャツのボタンを外していき、肩口からシャツをずり下ろして露出した首筋にも唇を押しつけて行くと、「愛してます」と小さな声で言われた。タイミングが思ったのと違ったが、ナマエの口から直接その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなり、ナマエのことが堪らなく愛おしくなった。

「聞こえなかった。もう一度、おれの眼を見て言ってくれよ」

ナマエの頭に手を添えて眼を合わせると、ナマエは照れくさそうに下唇を強く噛みしめてから唇を薄くと、もう一度同じ言葉をゆっくりと繰り返した。その言葉と燃えるようなナマエの熱い瞳にじわじわとおれの全身に熱が行き渡っていく。

「ナマエ、おれも愛している」

再び唇をナマエの唇に重ねた。
今日こそお預けはなく、その後の人生でラズベリーマフィンに取り憑かれることは一度もなかった。

 
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