Matilda
16歳の誕生日の前の週。ナマエは自室のドレッサーの前で化粧を確認しながら首筋に香水を擦り込んでいた。彼女は素っぴんでも実年齢より大人びて見える容姿であったが、今晩は舞台メイクのように濃い化粧を施した為に彼女の実際の歳より5歳以上は老けて見えた。それでも、早く大人になりたい彼女にとっては喜ばしいことだった。いつもの控えめな化粧をした自分よりもセクシーだと思い、鏡に向かって眼を瞬いてみせた。
「リゾット、大好きよ」
ナマエは長年の想い人である男の名を呼んで、うっとりとした笑顔を作った。ドレッサーの鏡の中に映る彼女の笑顔は穢れの知らない無垢なものであり、身体も未だかつて男に任せたことはなかったが、今晩の服装と日々育ちつつある肢体には、その純潔さの説得力がなかった。
ナマエが今身につけているのは、鮮やかな赤色の、柔らかなシフォン素材のベビードールと、レース素材のTバックで、15歳にしては20歳以上の成熟した大人の女性のように、色っぽく着こなしていた。
ナマエは化粧の確認を終えると、自分の宿主でもあり、保護者の立場でもあるリゾットの寝室に移動した。寝室の内装は黒と白で統一されているが、黒の割合が多い為に暗く見えるインテリアであり、それが彼女の想い人の趣向をよく表していた。
ナマエは赤色のピンヒールを履いたまま、黒のシーツの敷かれたベッドの上にのぼり、胸が大きく見えるように横向きに寝そべり、リゾットがシャワーから上がるのを待っていた。暫くすると、遠くでドライヤーの音が聞こえてきて、ナマエはいよいよ彼が来ると期待し、部屋で何度も練習した色っぽい表情を作った。
数分後。黒いナイトローブを見に纏ったリゾットが寝室に現れて、ベッドの上にいるナマエの姿を見て固まった。寝室の電気が付いていて、部屋の扉が開いていた時点で彼女がいると察していたリゾットであったが、まさかこのような卑猥な格好をしているとは思わなかったのだ。
「リゾット、大好きよ」
ナマエは事前に練習した通りの言葉と語調、表情で自分の持ちをリゾットに伝えた。
見た目や作られた表情こそ大人びてはいるが、その簡素な語彙からは、まだ己の胸を燻る感情を正確に言葉にできる程の能力を熟していない、15歳の少女らしさが垣間見える。
「……ナマエ、これは間違っている。なかったことにするから、自分の部屋へ戻れ」
きっぱりとナマエの想いを否定するリゾットの声は、抑揚が単調気味な為に些か淡々として聞こえるところはあるが、子供に優しく教え諭すような響きは確かにあった。
しかし、ナマエはリゾットを誘惑することで精一杯で、彼の言葉や表情を汲み取って返答する余裕はなかった。
「でも、眼は私に釘付けね?もっと見たくない?」
ナマエはリゾットに見せつけるように、薄い布地の上から、ハリのある乳房を片手で覆って揉んで見せた。
リゾットはそんなナマエの様子を見て、無言のまま背を向けて部屋から出て行った。彼はナマエを説得して自分の寝室から追い出す気をなくしたようだった。
ナマエは自分を無視するリゾットの背中が見えなくなると、重たい息をついてベッドの上に大の字になり、やり場のない彼への想いで溢れる胸に両手を当てた。
ナマエにとってリゾットは、謂わば親代わりのような存在だが、彼女は出会った時から彼を男として好いていた。
ストリートチルドレンだった彼女が10歳の頃、変質者に襲われそうになったところをリゾットが気まぐれに助け、その気まぐれが彼女の好意を誘発したのだった。気まぐれといっても、よくある事件とはいえ、流石に目の前で性的搾取を受けようとする子供を見過ごす程、リゾットが冷徹ではなかっただけで、リゾットにとっては何の意味もない行動であった。しかし、ナマエにとっては大いに意味があった。大人は救いの手を差し伸べてくれるどころか、自分たちを搾取する側の人間であると信じ、同じ身の上の子供で形成される狭い社会で育った彼女にとってリゾットは、初めて信頼のできる大人になり、「大人が全て悪人なわけでない」と考えるきっかけになったのだ。そして、初めて恋に落ちた相手にもなった。
リゾットに助けられて以来、ナマエはリゾットに付き纏い、勝手にリゾットの住居に侵入して住み着き、もうすぐ6年になる。ナマエが住み着き始めて最初の一週間はリゾットがどう彼女を追いだすか悩んでいたが、彼女がまた同じ目に遭うことを考えると、自分の家にいる方が安全だと結論付けて、彼女を家に置いてやることにしたのだった。
リゾットのお陰で十分な衣食住を得たナマエであったが、彼女が本当に欲しいものはリゾットの心であった。彼女はリゾットに付き纏い始めてから彼に想いを告白し続けていたが、ずっと相手にされず、つい最近、「自分が相手にされないのは、リゾットが自分を子供として見ているからよ!」と明確に気づいてからは、自分の想いを伝える為にわかりやすい行動に表すようになっていた。それでも、今夜のような過激な手法は奥の手として使ったつもりであった。それ以前はリゾットに抱きついて愛の告白をすることが彼女の精一杯の気持ちの表し方だった。
リゾットに奥の手を躱されたナマエは、自分の子供らしくない体のあちこちを手で触れ、大人というには十分な体付きであることを確認し、ため息をついた。
来週、ナマエはリゾットと合法的に結婚できる年齢を迎える為、いい加減自分を大人扱いして欲しかったのだ。手を出さないにしても、「色っぽいな」、「綺麗だ」の一言があれば、彼女の気持ちも少しは収まったはずだった。それで無視をされたものだから、気分は最悪で、深く落ち込んで何もする気が起きなくなってしまった。
ナマエは沈んだ気持ちを抱えながらベッドから降り、リゾットの寝室を出てリビングルームに移動した。
リゾットはリビングルームのソファに座っていて、間違ってもナマエを視界に入れないようにしているのか、スポーツ雑誌を顔に引き寄せて至近距離から紙面の左下にある得点表を眺めていた。
ナマエは自分を見ないようにするリゾットの意思を汲み取らず、後ろから彼に抱きついて耳元に唇を寄せた。
「リゾット、好き。大好き」
ナマエはまるでフランス語を話すように、低く、囁くような声で自分の想いを単純な言葉で伝えた。
「……言動に気をつけないと、ここから追い出すぞ」
リゾットの語調には、相変わらず子供を躾けるような響きがあり、眼はずっと紙面の左下を見ていた。
「わかったわよ……おやすみなさい」
「ここから追い出す」という、リゾットの言葉にナマエは以前から逆らえなかった。彼女が最も危惧するのは、リゾットに捨てられることだった。彼の存在を知ったその日から、ナマエにとって生きる目的は彼であり、彼から捨てられることは彼女にとって死を意味していた。それは別に大袈裟なことではなく、その時が来たら、ナマエは本気で死ぬつもりでいる。それ程彼女は狭い世界に生きていて、自分を唯一救ってくれたリゾットのことが心から好いている。
ただ諦めの悪いナマエは最後のあがきとして、リゾットに大人っぽい身体を見て欲しいが為に、わざとソファに回り込み、お尻を揺らしながらリゾットの前を通って自分の部屋に戻った。
目の前を横切る、過激なランジェリー姿のナマエにリゾットは眼を向けなかったが、彼の頭には、一度入りかけた寝室を出てからずっと、自分のベッドの上で誘惑してきた子供の姿が浮かんでいた。
リゾットにとって、ナマエは子供だった。いくら彼女が背伸びしようと、彼にはナマエが子供にしか見えない──いや、大人に見たくないという気持ちが、常に彼の中で働いている。何故彼女を大人として見たくないか、という疑問が胸の内に湧きおこる時はいつも、それを忌避するかのようにリゾットは思考を止めていた。今もナマエに対しての感情を整理するのをやめ、スポーツ雑誌の得点表を意味もなく点検するように眺めた。
*
ナマエの16歳の誕生日当日。
結婚可能な16歳を大人だと思っているナマエは、リゾットからどんなプレゼントを貰えるのかと期待に胸を膨らませながら朝の準備をしていた。
ナマエは毎年リゾットから小説や詩の本を貰っては大袈裟に喜んで見せたが、一度も本心から喜んだことはなかった。彼女は常に大人の女性が素敵な恋人から貰うようなものを欲していた。例えば、アクセサリーやランジェリーにドレス、それが叶わなくとも花束の一つでも貰えれば、自分は泣いて喜ぶと彼女は思っていた。勿論、大好きな人から貰った物を期待したものでないからといって粗末にはしなかった。それどころか、貰った本を何度も読み直して文盲を克服し、定期的に貰った本の手入れをして長く使えるような努力をした。埃を払ったり、虫干しをしたり──手入れ中は、愛おしそうに革表紙の表面を撫でたものだった。そして手入れが終わると必ず、リゾットに自分のお気に入りの詩の一文を詠ってみせた。それは古代ローマの詩人カトゥルスの『カルミナ』の一文を母国語に直したもので、詠う時は必ず彼への恋慕を込めていた。しかし、過去に一度もそれが彼の心に響いたことはなかった。というのも、リゾットはカトゥルスの詩の美しさや情熱的な文言よりも、自分が贈った本の一部を覚えて諳んじるナマエの利口さにいつも感心していたからだ。
ナマエは身支度を終えると、胸元を隠すだけの際どいトップスにミニスカート姿で部屋を出た。
ダイニングルームには去年と同様の甘い匂いが漂っていて、ナマエは自然と笑顔になった。
テーブルに着く前に、キッチンに立つリゾットのところへ彼女は立ち寄った。リゾットは彼女の無防備な恰好に眉をひそめたが、あえて何も言わずに彼女に「おめでとう」と声をかけた。
「ありがとう!パンケーキ、今年も焼いてくれたの?」
「ああ。チョコチップとメープルシロップ付きだ」
「やったあ!リゾット、大好きよ!」
ナマエが心から嬉しい時にいつも言っていた言葉だが、最近になってエスカレートしてきた彼女のアプローチに困っていた所為か、リゾットは眦を柔らかく下げることもなく、口元を緩めることもなく、彼女の言葉を聞かなかったかのように黙り込んだ。
上機嫌なナマエは特に気にせずダイニングテーブルに移動し、鼻歌を歌いながら食事が運ばれてくるのを待っていた。数分後にはミルクの入ったグラスと、クリームとバナナにバターの添えられた、チョコチップ入りパンケーキと、耐熱ガラスに移して温められたメープルシロップがテーブルの半分を占領し、見た目の豪華さに彼女は嬉しい悲鳴をあげた。
「今年も美味しそう!」
「ゆっくり噛んで食べろ」
リゾットはそう言いながらナマエにナイフとフォークを手渡した。
「子供扱いしないでよね」
ナマエはムッとして言い返したが、温めたメープルシロップをたっぷりと浸したパンケーキを一口食べれば、口内に広がる幸せに満たされて、僅かな苛立ちはあっという間になくなった。
食事のあと、リゾットは誕生日ディナーにナマエを連れて行くことを告げた。そろそろ格式高いところでナマエにテーブルマナーを教えるつもりで計画していたものだが、ナマエは「大人扱いされた!」と、何度も跳びあがる程喜び、リゾットはそれを見て、「やはり、まだ子供だ」と安堵した。
リゾットは誕生日ディナーの為に用意していたプレゼントを、今もディナーのことで小躍りするナマエに与えた。
今年のナマエへのプレゼントはグレーのロングワンピースで、ディナー用の服を持っていなかった彼女は大いにはしゃいだ。内心は、そのワンピースの色がグレーであること、鎖骨さえ出ない丸首であること、ノースリーブでも膝丈でもない、袖と裾の長い、かなり地味なデザインであることに不満はあったが、リゾットからワンピースという、女性らしい洋服を貰えたことが嬉しくて例年の何百倍も喜んだ。
ナマエが早速そのワンピースに袖を通し、リゾットの前で回って裾を膨らませて見せれば、ナマエは彼が淡く笑ってくれていることに気づいて、「今日は人生で最良の日になるわ!」と今夜のディナーを思って期待に胸を膨らませた。
*
ナマエは期待通りの素敵な誕生日ディナーをリゾットと楽しんだ。ディナー中、彼女はリゾットにお酒を飲みたいと控えめにせがみ、当然保護者としての自覚のあるリゾットにたしなめられた。ナマエはリゾットに従って、大人しく炭酸水と果実の入ったサングリア風のジュースを飲んでいたが、不貞腐れた様子は一切見受けられなかった。それもそのはずで、彼女はそもそも冗談でお酒をせがんだだけなので、「誕生日なのに要求を受け入れられなかった!」などと、腹を立てることはなかった。
ナマエは一時期リゾットに隠れてお酒を飲み、煙草も吸うことがあったが、外で見知らぬ少年に煙草を貰って一緒に吸っているところをリゾットに見られて怒られて以来、一度も口にしなかった。それはリゾットに嫌われたくないというよりは、リゾットが怖いという理由だった。その時リゾットが一緒にいた少年を殺す勢いで責めたて、まさに雷が落ちるように、少年の隣で竦む自分を激しく怒鳴ったことが恐ろしい記憶として残っていて、二度と違法になるような悪いことはしない、と心に誓っていたのだ。
ナマエはリゾットがギャングあり、法に触れる仕事をしていることは知っていた。大抵の子供は、それを盾に自身の違法性も見過ごすように反発するものだが、リゾットの凄まじい怒り様から、彼の違法な仕事より、「未成年が酒と煙草に手を出す」ことの方がナマエには悪く思えてしまったのだ。
だから16歳の誕生日にお酒が飲めなくても、ナマエは不貞腐れることもなく、子供向けの飲料を純粋に楽しめた。
ふたりが格式の高いリストランテを出て街路樹のある表通りを並んで歩いていると、道端で偶然リゾットの同業者であるプロシュートと出会った。以前からナマエはプロシュートの話をリゾットから何度か聞いていて、話通りの彼の容姿に素直に感嘆した。彼の、夜でも明るいブロンドの髪と青い瞳や、端正に整った顔立ち、実際の身長よりも高く見える抜群のスタイルに圧倒されたのだ。
「身長が少し足りなくても、顔とスタイルの補正だけでミラノコレクションのランウェイを歩けそうだわ」と、年頃の少女らしく、ナマエは頬を赤く染め上げた。勿論、彼女にとってリゾットの方がずっとハンサムに思えたが、6年近くも一緒に暮らしてきた男よりも、当然会ったばかりのプロシュートに緊張した。
「そいつが噂のナマエか?」
プロシュートはナマエの顔をジロジロと見た後、彼女の爪先までを品定めするように視線を這わせた。
ナマエはそんなプロシュートの視線に戸惑い、思わず助けを求めるようにリゾットのスーツの袖を掴んだが、プロシュートがリゾットの仕事仲間であるから好意的でありたく、にこにこと笑顔を作った。
「今日はナマエの誕生日ディナーに行ってきたところだ」
「へえ。リゾットもそんなことすんだな。ベッラは確か18歳だっけか?」
プロシュートは一度リゾットに向けた視線をナマエに戻し、彼女の緊張を感じ取ったのか、少し語調を柔らかくして実際の年齢より若く計算して聞いた。彼にとって、大人びた容姿に、顔を赤くしつつも小慣れた好意的な表情を作るナマエが20歳くらいに見えたのだ。
「16歳よ」
実年齢よりも高く答えられて内心喜びながら、ナマエは緊張で震える声で伝えた。
「年齢より大人びているな」
プロシュートの素直な感想に、ナマエはぱあっと表情を明るくさせ、綺麗に上歯を見せてプロシュートに笑いかけた。彼女は「大人びている」と、大人に言われたことが嬉しくて仕方がないのだ。
褒められたことが自信に繋がったのか、ナマエはリゾットのスーツの袖から手を離してプロシュートを真っすぐ見つめた。
「もっと大人扱いして」と、期待に煌めくナマエの瞳を、隣にいたリゾットは見逃さなかった。彼は胸の辺りに、言葉では処理できない不快な感覚を覚え、その感覚の根源に「何故だ?」という疑問を持ちながらも、ナマエを守るようにプロシュートを睨みつけた。
「だが16歳である以上、ナマエはまだ子供だ」
「どうだかな。見た目は立派な大人の女だぜ?それに利口そうだ。どうだ、ナマエ。誕生祝いにオレと飲みに行くか?」
「お酒?お酒は飲まないけど、ジュースなら付き合うわ。ねえ、リゾット。いいわよね?」
利口でありたいナマエはしっかりと理性のある条件を出し、笑顔でリゾットを見上げた。大人の男であるプロシュートにバーに連れて行ってもらい、大人の待遇を受けることを期待しているのだ。
「駄目に決まってるだろう。プロシュート、悪いがオレたちはもう帰る」
「フンッ。子飼いの狼がA5ランクの羊を護衛ってか?いつ食うんだ?」
食う、という下品な表現にリゾットがどんな反応をするのか、ナマエはドキドキしながらリゾットを見上げた。
ナマエはリゾットに常日頃から口汚い言葉を禁止されていて、違反すれば定期的に貰っていた小遣いから貯金箱に罰金を入れさせられていた。言葉の汚さによって罰金の金額は変わり、プロシュートの「食う」という卑猥な婉曲表現は「1000リラくらいね」と、ナマエは算出した。
リゾットは感情を押し殺すように無表情のまま黙ったが、それでも殺気立っているようだった。その殺気は仕事仲間に揶揄われたからなのか、それとも他に理由があるのかはわからないが、ナマエも薄らと感じ取ってハラハラしてリゾットとプロシュートの顔を交互に見やった。少なくともプロシュートにとっては日常的な、冗談めいたやり取りであったが、ナマエにとっては修羅場に思えた。
「……覚えておけ」
「ハン!図星を突いちまったァみてーだな!ベッラ、また会おうな」
「ええ!また!」
ナマエの肩を叩いて通り過ぎるプロシュートを、ナマエは振り返り、手を振った。
そんなナマエの様子をリゾットは面白くなさそうに見つめていたが、自分の中で渦巻く釈然としない苛立ちから眼を背け、今晩はナマエの誕生日恒例である映画鑑賞会でどんな映画を観るか考えるように努めた。
ナマエは上機嫌になって弾む様な足取りで街路を歩き、帰宅途中に寄ったレンタルビデオ店で恋愛映画やアクション映画を探している時も、ずっと笑っていた。
その上機嫌さが、ナマエの向こう見ずな行動を引き起こしてしまった。帰宅後、ナマエはリゾットと共にリビングルームのソファで映画を観ている時に、リゾットの方へ寄りかかって頬にキスをしてみたのだ。
「やめろ」
リゾットは怪訝そうな表情を浮かべ、頬を手の甲で拭った。突然のナマエのアプローチに、リゾットは胸の辺りにぞわぞわとした、下から駆け抜けてくるような不快さを感じ、珍しくそれがはっきりと顔に出た。
ナマエは不快そうなリゾットの表情から、自分を嫌悪している、と感じ取り、さっきまで上機嫌だったことが嘘のように、胸を痛めて深く落ち込んだ。
「頬にキスしただけで他意はないわよ……」
「……シャワーを浴びてくる」
「映画の途中よ?」
「この映画は好きではないし、吐き気がする」
リゾットは冷たく言い放つと、リビングルームから出て行ってしまった。
ナマエはどうしてリゾットが今観ている映画を「吐き気がする」とまで言ったのか、不思議に思った。映画はR12指定ではあるが、それ程悪いものにはみえなかった。
リゾットはナマエの我儘が反道徳的でなければ、できるだけ言うことを聞いてくれていた。映画も年齢制限を満たしているものなら、どんなジャンルでも観ることを許可していた。今観ていた映画でヒロインの両親のセックスシーンが薄らと出てきても、リゾットはテレビを消そうとしなかった。
ただ映画を観ているうちにナマエは少しリゾットがこの映画を嫌う理由がわかってしまった。12歳のヒロインが、自分を助けてくれた殺し屋のおじさんへの恋心を匂わすシーンがでてきたのだ。
まるで私とリゾットだ、とナマエは思い、映画にのめり込んだ。
ベッドの上でヒロインが下腹部に感じるヒーローへの恋心を打ち明けるシーンでは、同じく自分の下腹部に触れた。自分は胃の辺りよりも胸の辺りがしくしくするわ、とナマエは実感し、リゾットへの恋心を、映画のヒロインのように直接言葉で伝えたくなった。──「リゾット、あなたに恋してるみたい。胸が温かいの。じっと締め付けられるみたいだったけど、それがなくなったわ」と。しかし、リゾットに少しでもそっぽを向かれると胸を締め付けられることを感じていたナマエは、この台詞に矛盾が生じてしまう気がして、ヒロインの台詞をどううまく改変するか真剣に悩んだが、それは意味のないことだった。ヒロインの台詞は、そもそも主人公に恋する前に下腹部に痛みがあることが重要なことをナマエは理解していなかった。
ナマエは夢中になって映画を最後まで観ると、少女とおじさんの純愛(ナマエはそう思った)に共感するところがあり、その切なさにぼろぼろと膝に涙を零す程泣いた。泣きながらいい映画だと満足すると、ビデオを巻き戻してもう一度最初から再生し直した。
*
翌朝。ナマエが眼を覚ますと、ソファの上にいた。時刻は5時40分でまだ日も昇っていない。ナマエはビデオを観てそのまま寝てしまったみたいだった。彼女の体には柔らかなブランケットが掛けてあり、リゾットが自分の為にしてくれたと思い、胸の辺りが温かくなるのを感じた。
洋服も化粧もそのままだったナマエはシャワーを浴びに行こうとバスルームへ行けば、既にリゾットが浴びているところだった。
こんな時間にリゾットが起きているということは、突然真夜中に仕事が入って帰ってきたところだろうとナマエは考えた。バスルームを出ようとすると、洗濯機の上に真っ赤なブックマッチが置いてあるのを見つけ、なんとなくナマエはそれを手に取り、そこに書かれている店の名前を見て愕然とした。ブックマッチの名前の一部に「ホテル」という文字が書いてあり、そのことからリゾットは仕事へ行っていた為にシャワーを浴びているわけではなかったようだ。
「きっと、私の寝ている間に女と寝て朝帰りをしたんだわ」とナマエは思い、ぎゅうっと締め付けられる胸を押さえて、息苦しさに顔を歪めた。
──息ができない。苦しい。死にたい。
ナマエの頭にそればかりが浮かんだ。
リゾットが女性を抱くことについて、ナマエは常に理解を示そうとしていた。以前に何度かリゾットに女性の影を感じることはあったが、彼女は決してリゾットを批判しなかった。男なら当然、という考え方に努めたのだ。勿論、意中の相手に恋人ができるのは望ましくないが、気持ちのないセックスなら、性欲の処理という観点でナマエは許そうと努力し続けた。このような恋愛観は、ナマエが失恋めいたショックによる吐き気を抑えながら駆け込んだ本屋で立ち読みした恋愛本で学んだのだった。
しかし、たった今感じている胸の苦しみは今までのものと比べようがない程強く、それがどうしてなのか理由がわからなくてナマエは混乱した。
「もしかしたら、私の誕生日が終わらないうちにリゾットが家を出て女を抱いてきたから?」と、ナマエは自分の胸の、異様な息苦しさの正体を言葉で捉えようとした。そうすれば、少しは楽になると思ったからだ。
彼女が気持ちを言語化しようと必死になっているのは、今すぐナイフを突き立ててでも、痛む心臓を取り出したい程までに胸を病んでいたからだった。胸の痛みを取る為なら何でもする、とさえ思い、気持ちの言語化以外にも何か他に痛みを取る方法がないか考え、ハッと無謀過ぎる考えが頭に思い浮かんだ。
ナマエは洗濯機の上からマッチと一緒に置いてあった携帯を手に取ると、バスルームを出た。
今度はこれからしようとしている行為にドクドクと激しく脈打つ胸の鼓動を浅い呼吸で抑えながら、携帯で見慣れた名前を探してそこへ電話を掛けた。電話はすぐに繋がった。
「オレだ。これから寝ようって時に仕事とか言うなよ?」
ナマエが掛けた電話の相手はプロシュートだった。
いきなり「オレだ」と言うところが──昨日初めて会って話したばかりだが──プロシュートらしい、とナマエは思った。
「もしもし?私、ナマエよ。昨日会ったばかりだから覚えてくれてるわよね?」
「おい、リゾットの携帯だろ?これ。許可得てんのか?」
「どうでもいい。プロシュート、私を抱いて」
──リゾットへの恋を諦めて、他の男に癒してもらう。
ナマエにとって、これが胸の息苦しさを取り除く為の最適解で、それを唯一自分を大人として見てくれたプロシュートに頼もうと思ったのだった。
「は?」
何の前兆も脈絡もない、突然のナマエの申し出に、プロシュートは困惑したような声を上げた。
「今からあなたの家に行くから私を抱いて!」
ナマエはもう一度必死にお願いをした。今にも心臓が鼓動を止めてしまいそうな程激しく脈を打っていて、それが余計にナマエを焦らせていた。
「おい」
「……あ、リゾット……」
リゾットの低く、怒ったような声色に、ナマエは息を止め、恐る恐る振り返った。
髪や脚から滴を滴らせたリゾットが、バスローブを一枚羽織って真後ろに立っていた。
「寄越せ」
リゾットはナマエから携帯を奪うと、その電話相手の声に眉を潜めて「間違い電話だ」と言うと、電話を切った。
「プロシュートに何を頼んでいた?」
「リ、リゾット……わ、私……」
リゾットに問い詰められて、ナマエは言葉に詰まった。自分の言ったことをリゾットが聞いたかどうかで返答は決まっていたのだが、それを探る為の言葉がでてこなかった。しかし、言葉を詰まらせるナマエを見兼ねたリゾットは「抱いて、とはどういうことか説明できるか?」と、ナマエがプロシュートに言った言葉を聞いていたことを自ら教えてくれた。
そこでナマエは開き直れた。聞かれてしまったのなら取り繕いようがない、と。
「じゃあ、このマッチは?ホテルのマッチでしょ!」
ナマエはまるで恋人の浮気を問い詰めるように、ブックマッチをリゾットに見せた。
「それはホテルのバーのものだ。泊まらなくてもバーは利用できる。話をすり替えるな」
「バーの?本当に?」
「ああ。昨日ナマエが寝た後、プロシュートに呼ばれて飲みに行った。気になるなら、プロシュートに聞いてもいいし、その店まで連れて行ってやる」
「そう……」
リゾットのそれだけの説明でナマエはすっかり納得してしまった。プロシュートの「これから寝ようって時に仕事とか言うなよ?」という言葉を思い出し、それがリゾットの説明と繋がると思ったようだ。
ナマエは誤解が解けて少しだけ胸の辺りが温かくなるのを感じたが、胸を圧迫するような息苦しさはまだ続いていた。
「納得したのなら、プロシュートにどうして抱くことを頼んだのか答えろ」
「それは……」
ナマエは先程の行動理由について自分でもよくわかっていなかった。ただ、胸の痛みや息苦しさを解消する為なら何でもする勢いだったことは何となく感じていた。
「何故だ?昨日、あいつに惚れたのか?」
「ち、違うの!私はリゾットが好きで……!」
恋する相手に勘違いされ、ナマエは慌てて否定したが、プロシュートに抱いてもらおうとした理由を明確に表現できなく、また言葉が途切れた。
「好きで?」
じれったく言葉を途切れさせるナマエに、リゾットは言葉の続きを促す。
「リゾットが好きだけど、勘違いして、だからプロシュートに抱いてもらおうとして……!」
「……そういうものは軽々しくするものではないとわからないのか?するにしても同世代を選べ。プロシュートは……絶対に駄目だ」
リゾットは、「年齢が離れすぎている」と言うつもりであったが、何故かそれを口にすることを嫌って言葉を変えた。
「他の人なんて嫌よ!」
リゾットへ再び好意を打ち明けたにも関わらず、「同世代」の男を提案され、ナマエは憤慨した。少し前にプロシュートに抱いてもらおうとしていたことなんて彼女はもう忘れていた。目の前にいる男に自分の想いを理解してもらうこと──ナマエは今そのことに必死になっていた。他には何も考えられなくなっていた。
「大事な初めてはあなたがいいって思ってたのっ!そして最後もあなたがいいって!あなたのこと愛してるから……!そうよ!私は、あなたのことを愛してるの!」
突然自分の気持ちがスッと言葉になって口から飛び出し、それが自分の耳に入ってきて初めて、ナマエはリゾットを愛していることを自覚した。やっと、自分の胸を抑えつける感情の一部を言葉にできたことに跳びあがる程の喜びを感じ、息苦しさに顰める顔に、華やいだ笑顔を垣間見せた。
一方ナマエの突然の告白に、リゾットは戸惑っていた。彼女の言葉は、いつもの彼女から受ける恋慕の表現とは明らかに異なることを、肌で感じ取っていた。それに、今まで「ちぐはぐだ」と感覚で捉えていた、彼女の表情と言葉がたった今、「確かに一致している」と思った。彼女の瞳には自分への愛情があることに気づいていたリゾットだが、過去に彼女の口から紡ぎだされる不完全な言葉から愛を感じ取ったことは一度もなかった。そして、己の気持ちと向き合いたくがない為に、感じ取りたくもなかった。
だからこそ、真正面から愛を伝えてくる彼女の言葉から逃れたく、どう彼女を黙らせるか悩んでいた。
「何を、言っている……?」
「だから、あなたのこと愛してるのよ!心から、愛してる!愛してる!愛してる!愛してる!愛してるっ……!あなたに愛されないと、私、生きていけない!息が、できないっ……!隣にあなたがいないと、上手に息ができないの!毎日、胸が苦しいの!胸が痛くて仕方ないの!体が寒くて、あつくて、おかしくなりそう!」
ナマエは手のひらに爪が食い込む程両手をきつく握りしめ、何度もその手を振り下げながらリゾットへ想いをぶつけた。
彼女の激しい心の叫びに、リゾットは頭では「突っぱねなくては」とは思ったが、心は彼女の想いを受け止めようと働き、眼を背けてきた自分胸の内に燻る感情とついに向き合った。
──この感情は間違いなく、彼女と同じだ。
リゾットもナマエへの気持ちを、たった今、恋愛感情としての愛と捉え、その逞しい腕で彼女を強く抱き締めた。
リゾットは今まで保護者としてナマエを見てきたつもりであった。しかし、彼女が日に日に大人の女性へと変貌を遂げていくのを目にし、自分の中で時折感じる彼女への保護者としての愛情が、本当は男女の愛ではないか、と幾度も思いかけては思考を止めてきた。その思考が再び動き出し、結論が出たのは、彼女の想いの詰まった告白のお陰だった。漸く、リゾットの心に彼女の気持ちが届いた結果だった。
リゾットはナマエを抱きしめていた腕を緩め、少し身を引いて彼女を見下ろし、眼を合わせた。
「オレも……おまえを愛している」
リゾットもまた、ナマエと同様に自分の気持ちを言葉に表した。普段自分の気持ちを話さないリゾットであったが、あれ程劇的な告白を受けて何も返さない程冷めた男ではなかった。
「本当に……?」
リゾットの行動から彼の気持ちを汲み取れないナマエは信じられない、と驚いた。リゾットに抱きしめて貰えたのは自分が今にも泣きそうだから、と思っていたようだ。
「ああ。自分でもこの気持ちが保護者としてなのか、男としてなのかわからなかったが、おまえの想いを聞いて漸くわかった。オレは保護者としてではなく、ひとりの男として、ナマエを愛している」
「あ、あ、私、どうしよう……」
長年の想いが漸くリゾットに届き、それが相思相愛だと気づいたナマエは狼狽えた。自分が望んだ結果だとしても、あまりにも予想外で、人生最大の喜びといえる程の事が起き、頭の整理が追い付かなくなっていた。
「オレはナマエを愛している」
リゾットはナマエに伝える為にもう一度繰り返した。
そして、愛情の印としてナマエの唇に自身の唇を重ねた。柔らかい彼女の後ろ髪へ手を差し入れ、細い腰を抱き、深く口付けた。
何度も角度を変え、鼻先が押し潰される程深く、唇を食む様なリゾットの荒々しいキスにナマエは驚いたが、今は愛する人が自分を求めるかのような行動に心からの幸せを感じ、彼女もまた拙い、本能的なキスをリゾットへ与えた。まだ経験のない、ぎこちなさのあるそれがリゾットに興奮をもたらし、リゾットはさらに口付けを深くしていき、彼女の息を奪っていく。
「ふぅ……んぅっ……!」
ナマエは短く声を漏らしながら、今にも緊張と興奮で倒れてしまいそうな身体を、リゾットの胸にしがみ付くことで保っていた。強張った舌を彼のものへ絡め、瞼を閉じて深く、自分を抱く彼の温度や口内でまぐわうことで生じる全ての刺激を敏感に感じ取っていた。
──これが大人のキスだ、と後に彼女は振り返って思い出すのだが、今は目の前のことに夢中で、刺激を深く感受するだけで精一杯だった。
キスというものには必ず始まりがあって終わりがあるものだが、ナマエにとっては始まりを知ったばかりで、終わりというものを知らなかった。一旦リゾットを感じ始めると、それに夢中で延々とリゾットを求め続けて、この瞬間が永遠に続けばいいとさえ思っていた。その為、いざリゾットから唇を離されると、飽きられてやめられたのかと思い、不安になった。
「リゾット……?」
彼女は唇を離して自分を見下ろすリゾットを見上げた。リゾットはそんな彼女の頬を両手で柔らかく包み、彼女の瞳を見つめた。
「綺麗だ。大人になったな」
「ほ、本当?大人に見える?」
「子供に見えていたのなら、こんなことはせん」
「じゃ、じゃあ……あれ、するの……?」
ナマエは満面朱を注いだように顔を赤くさせ、今にも消え入りそうな声で聞いた。耳年増である彼女だが、初めて男性と交わしたキスは思ったよりも激しく、気を失いそうな程気持ちのいいものだった。キスであれ程凄いのなら、裸同士でする交合はどんなに激しくて凄いものなのか、と緊張と不安で心が揺さぶられているのだ。
「今すぐにするわけではないが……」
リゾットは、動揺したように瞳を大きく揺らすナマエを記憶にある先週の彼女の艶やかな姿と比べて、思わず口元を緩めた。
あんな淫らな下着姿で自分を誘っておきながら、キスだけで今にも倒れそうな程の緊張を見せていたナマエが可愛らしく思えたのだ。
「な、なんで笑うの?私、変んなこと聞いちゃった……?」
「いや。変なことではない。愛し合う男女なら行う、ごく自然なことだ。だから、自然に任せよう」
リゾットとしては、愛するナマエと今すぐにでも交わり合いたいが、彼女の様子からまだ早いことがわかり時を待つことにした。
「でも、イチャイチャしたい……!今、胸が凄くきゅんきゅんしてて、温かくて、幸せいっぱいで、どうしようもないの!お願い!ベッドの上で抱き合ってもう一度キスしたい!もっとリゾットを感じて幸せになりたいの!」
「ナマエ……」
自分の感情をはっきりと伝えてくるナマエにリゾットは困った様子を見せる。
「恐らく彼女の要望通りに動けば、自分は相当の我慢を強いられるだろう」と、頭の中でどれ程の覚悟がいるのか計算したが、それは想像で推し量れるものではなく、答えが出そうになかった。
「リゾット、お願い。ベッドの上で抱き締めてキスしてくれないと、また胸が苦しくなる……私に息をさせて、私に息をちょうだい」
自分の気持ちを明確に言葉に表す、という武器を手に入れたナマエは自覚もなくリゾットを追い詰めていた。
大人になったと思われた彼女にはまだ、相手の気持ちを正確に慮る能力が欠如していた。
リゾットもそのことを感じ取っており、それをナマエが学べる時が来るのはいつになるのだろうか、と頭を抱えた。しかし、近い未来、思ったよりもずっと早く、男女の交わりの中でナマエはそれを習得することになるのでリゾットの心配は杞憂であった。