kopernikanische wendung (2/3)
ナマエは元来人に嫌われることを酷く恐れる傾向にあった。いつも他人の顔色を伺い、自らは強く意見しなかった。フリーの時に男に迫られれば簡単に関係を持ち、その相手に一途になった。特定の男性と付き合っている時だけは、迫ってくる男性のことは簡単に拒否できた。「他に付き合っている男性がいる」という強く断る理由があるからだ。
だから、最近自分のシフト時間の終わり頃を狙って口説きにやってくるイルーゾォという男を躱すのも簡単だった。ただ、ナマエにとってイルーゾォは迫ってくる男性客のひとりではく、男友達のような存在で、いつも彼が店に来て面白い話をしてくれることを彼女は喜んでいた。他にも自分のバイト仲間と仲良くしているところや、社交的で自由奔放に振る舞うところのあるイルーゾォのことが羨ましく、自分もそうなりたい、と尊敬もしていた。
ある時、イルーゾォに対する友達としての親しみの感情、尊敬の念を構成する要素が、何であるかに気づいたナマエの心は著しく乱れた。それはイルーゾォがバイト仲間のフランカとキスをしているのを見た時のことで、そこで初めてイルーゾォへの親しみの感情も尊敬の念も、彼への愛を伴ったものだとナマエは気づいてしまったのだ。
気づいた瞬間ナマエは狼狽え、イルーゾォに冷たくすることでなんとか自分を制していた。それでも一旦彼への愛を意識すると、彼への想いが止めどなく溢れ、遂にはナマエにとって勇気のいる行動にでることになった。──いつも彼氏から嫌われることを恐れて従順だったナマエが、自分からその彼氏に別れを告げたのだった。
その結果、激昂した彼氏がナマエに暴行を加え、初めて自分から人に意見した為に痛い目を見たナマエは酷く後悔することになった。──彼氏を振るべきではなかったと。
好きになったイルーゾォが自分を助け、家に匿ってくれている今も、彼氏が怖く、今すぐにでも彼氏に謝りにいってまた元の関係に戻りたがった。彼女は彼氏への恐怖に支配され、目の前に本当に愛している人がいることへ注意を向ける余裕もなかった。
*
彼氏への恐怖で怯えるナマエをイルーゾォは根気よく宥めながら、連日自分の衣服を着て自分のベッドでひとり眠る彼女を欲望のままに抱きたいという欲求と戦っていた。また、ナマエの彼氏への殺意の衝動も彼女の為に堪えていた。イルーゾォは彼女から、ことの成り行き(ナマエが彼氏を振った理由は聞けなかった)と、彼氏とよりを戻したがっていることを聞いていた為、彼氏を殺しはしなかった。暫く様子を見ることにしたのだ。
ナマエがイルーゾォの家に泊まり始めて3日目の夜のこと。イルーゾォはソファに座り、向かいに座るナマエの頬の傷を見ていた。ナマエはイルーゾォの、ストリート系ブランドのロゴが入ったパーカーをだらんと着て、片脚をソファの上で折りたたみ、もう片方の脚を床に投げ出していた。少しでも動けば、パーカーの裾から下着が見えてしまいそうでイルーゾォはナマエの腿の隙間が気になっていた。今ナマエが着ている下着は、昨日モールのランジェリーショップに一緒に行き、彼女が選んで買ったものであるはずだ。ショップの外にいたイルーゾォはナマエがどんな下着を買ったかは見てはいないが、ショップの囲気から派手なものを想像していた。
「アザは薄くなってきたな。痛むか?」
イルーゾォはナマエの頬に優しく触れると、ナマエは身を引いてイルーゾォから離れた。嫌がる、というよりは照れたような態度だった為にイルーゾォは気にならなかった。それどころかナマエの、わざと距離を置くような態度に胸を擽られた。
「大丈夫です……あの、そろそろ彼氏に謝り行こうかなって思ってて……」
「ここを出ていくのか?」
「はい……明日の朝に電話して会う約束をしようかなって悩んでて……イルーゾォさんにこれ以上ご迷惑をおかけできませんし……」
「だから、おれは構わねえって。問題はナマエが本当にそれでいいのかってだけだ。おれはナマエの意思を尊重したい」
イルーゾォは、ナマエが自分の意思ではなく、他人の言動に左右されて行動していることをよく理解していた為に言った言葉だった。ナマエには自らの意思で自分を選ぶことを期待していた。実際は彼女をこのまま彼氏の元へ帰す気は一切ないが。
「自分の意思……」
「おれといれば、一生ナマエを守ることを約束する。彼氏に指一本触れさせやしないぜ?だが、ナマエが彼氏を選ぶなら、おれには何もできない。参考までに、おれはナマエを愛していることだけは伝えておく。選ぶのはナマエだ」
ナマエは俯いて黙ってしまった。イルーゾォの言葉をよく考え、迷っているようだ。それがイルーゾォを焦らした。
もし彼女が宣言通り、電話に出られる状態ではない彼氏に電話すれば、今夜にでも彼女を本気で落とす必要が出てくる。ナマエが彼氏の勤務先にでも電話して、彼氏が前日から行方不明であることを知られたらまずいからだ。彼女はきっと彼氏を心配して、自分との関係に向き合えなくなるだろう。本当は彼氏の所在は心配する必要がなく、会おうと思えばすぐに会えることも知らずに──。
*
ナマエの彼氏──ジャンカルロ・ジェレッリは現在イルーゾォの家のリビングルームにいた。彼はナマエを殴り倒し、気を失わせてしまったことで、彼女が死んだと思い込み、イルーゾォに連れ去られるまでは家でひとり酒に溺れていた。
ジャンカルロは生来精神的脆さのある人間である一方で、人一倍高い自尊心を持っていた。その為に自分よりも下の者を見つけては威圧して従わせ、時には暴力を振るうこともあった。そうやって傷つきやすい自尊心を守ってきたジャンカルロにとって、自己を出さない控えめなナマエは理想の女性だった。いつも自分の顔色ばかり伺って話すナマエとの付き合いは心地よく、そのお陰で心から彼女のことを愛せた。その彼女が死んだと思った為に精神を病み、夜から昼にかけて、家にある酒を全て飲み尽くす勢いで飲んでいた。
そこを見知らぬ男に捕らえられ、暴行され、意識を失った。気づいた頃には、知らない家のリビングにいて、困り果てていた。その部屋ではあらゆる物が動かせない一方で、突然物体が宙を浮いたり、移動したりするのだ。到底現実に起こりえない光景に、彼は「ナマエを殺してしまった為に神がオレに罰を下した!」と思い込み、絶望しているところへ自分を殴ってきた相手──イルーゾォと名乗った──が、リビングルームに置いてあるスタンドミラーから姿を現して腰を抜かした。事態を飲み込めないうちに何も説明がないまま食料と水を無理やり口に突っ込まれ、更に混乱した。イルーゾォが言うには、彼しかこの世界のものを動かせないというルールがあるらしい。「何を神みたいなことを言っているんだ」と思ったジャンカルロであったが、「そこで指をくわえて見てろ」と言ってイルーゾォが消えていったスタンドミラーを見れば、彼のことを馬鹿にできなくなった。
鏡が映し出しているのは鏡像の自分ではなく、『鏡の向こう側』の世界だった。鏡の向こう側では、黒いオーバーサイズのパーカーをワンピースのように着たナマエがいて、ソファの上で膝を抱えていた。自分のいるソファのすぐ横に、人がひとり座って沈んだような形が出来るのを見た瞬間には心臓が止まりかけた。ナマエが生きていることの喜びと、同時に自分を殴ってきた男に頭では理解できない不気味な世界に閉じ込められていることへの恐怖で、精神がおかしくなりそうだった。
とにかく外へ脱出しようとしたが、閉まった扉は開くことができず、かといって扉が開いた時にその隙間を潜って移動しようとすれば、突然見えない壁に阻まれた。決まった範囲内でしか行動できないことを悟った後は、飲まず食わずでスタンドミラーを見続けた。鏡の向こう側の世界で、大切な彼女が見知らぬ男にどんなことをされるのか心配で堪らなくなっていた。自分は彼女を何度も殴って酷い目に合わせたが、それはあれだけ優しくしてやったのに突然別れを告げられたことで激昂しただけで、彼女のことは心から愛していて、生きているならやり直したかった。だから、彼女の貞操の無事を祈り続けた。
祈りは届いたのか、イルーゾォとやらは彼女に手を出す様子はなく、彼女も距離を置いている様子だった。またそれが不気味にも思えた。イルーゾォの目的が彼女をレイプし、それを自分に見せつけることでないのなら、一体自分はいつまでここに閉じ込められるのだろう、と不安と心配で気が狂いそうだった。だが、その不安も心配も長くは続かなかった。
夜、鏡の向こう側のソファの上で愛する彼女がイルーゾォへ抱きつき、キスをし始めたことにより、不安と心配は一瞬にして絶望に変わったのだった。
ふたりが戯れのようなキスから、段々濃密なキスを交わすようになり、イルーゾォの両手が彼女の腰や尻を撫で回すのを茫然として見ていた。イルーゾォがついにナマエのパーカーを脱がし、自分の知らない、ナマエの下着を目にした瞬間、叫び声が勝手に口から出ていた。スタンドミラーに掴み掛かって喉が裂けんばかりに喚いて、ふたりの行為をやめさせようとしたが、ふたりに声は全く届いていないようだった。ジャンカルロの姿は一切あちらからは見えていないようだが、時折イルーゾォが意地悪く笑ってこちらを見ていた。それだけでもジャンカルロには耐えられなかったが、スタンドミラーがソファの前に置かれ、イルーゾォに背を向けて重なるように座るナマエが真っ赤な顔をして、鏡に向かってはしたなく開脚し、その脚の間をイルーゾォの指が這った時にはもう限界だった。物質を動かせない、というこの世界のルールも忘れてスタンドミラーを殴り、蹴り、跳ね返るダメージに手も足も裂傷した。痛みに転げ回っては、彼女の身体を好き放題に荒らしていく男を殺そうと、再び立ち上がった。
これほどまでにジャンカルロを奮い立たせていたのは、彼女への愛なのか、彼女を奪われ、自尊心を傷つけられているからなのかは、自分にもわかっておらず、ただ己の内から絶えず湧き続ける衝動で暴れ回った。
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