中学二年生の頃、わたしはお父さんを大嫌いになったことがある。それは夏の夕立のように前触れもなく降りかかり、でも嫌いだと感じる点については前々から心の奥底で閉じ込めていたようで、必死にそれらしい言い訳をかき集めることもなくポロポロと落ちてきた。


私のお父さんはとても無口だ。あまり話さないし、キョロキョロと大きくて黒目がちな目を落ち着きなくぱちくりさせている。それを見てわたしは、なんだか鳥みたいだなあと思う。言葉少ななくせに、お母さんがケラケラとなにか明るい話をすると決まって「キモ」と言う。せっかくお母さんが気を遣って話を振ってあげているのに、きもいと両断するお父さんが嫌いだった。わたしが話をする時も、たとえば公園なんかで転んだりするそんな失敗を見ても「キモ」というお父さんが嫌だった。お母さんも、そんなこと言われてるのになんで笑っていられるのか意味不明だった。だいだい、きもいというなら、お父さんの身体も相当だ。ものすごく背が高いくせにものすごく痩せている。腕なんて、比喩じゃなくほんとうに針金のようで、子どもながらにこの人の腕に全力でしがみついたりなんかしたら、きっとあっさりと折れてしまうだろうと思っていた。だからかわからないけど、お父さんの腕にしがみついたり抱き上げられた記憶は殆ど無い。

一度、お母さんに、お父さんを太らせたほうがいいと言ったことがある。大嫌いの種が生まれたきっかけになった出来事があったのだ。
お父さんが授業参観に来た。来たといっても、お母さんのように教室の後ろのほうでニコニコしながら私を見ていたわけではなくて、というより、私もお父さんの姿をこの目で見たわけじゃないのだけど、その授業が終わった時に廊下側に座っていたクラスの男の子が「なんかすげーでかくてひょろい幽霊みたいなおっさんが見てきたー。マジこえーんですけど!」と、面白おかしくざわめきだした。クラスのみんなは一瞬笑っただけで(真っ昼間に幽霊なんているわけないし、だれかの父親というのはわかっていたから)みんなそれぞれ自分の保護者の元になにか話したりして、ひょろい幽霊みたいなおっさんの話は流れていった。けれどわたしは、自分の耳が燃えるように熱くなって席から動けなくなっていた。幽霊は、まちがいなく、うちのお父さんだ。責めるようにお母さんをジロリと見ると、彼女ももうそこには居なくなっていた。最初から、誰も来てなかったんだと思うようにした。右耳だけがずっと熱かった。



「なんで今日来たん。お父さんのせいで、うち恥ずかしい思いをしたんやで」


家に帰って、夜ご飯も食べないで部屋にいて、お父さんが仕事から帰ってきていの一番にそういった。なんで他のお父さんみたいに、変に白すぎる肌じゃなくて、背も高すぎなくて、身体もひょろひょろしてなくて、なんでお父さんはそうなの、なんで、わたしとちゃんと目合わせて話してくれないの。ちょっとヒステリック気味に制服姿のままぶつけた。どうせいつもみたいに顔をじっと見て「キモ」というんだろうと、そう来るんならお父さんなんか大嫌いやとトドメを刺してやろうと思っていたのに、そうならなかった。彼は、その零れ落ちそうな黒目に涙をためて、ただ一言「すまんな」と言った。怒りもせず、いつもみたいにきもいとも言わず、葉っぱについた雨だれがつるんと落ちるように静かに、謝った。
その瞬間、わたしの視界は一気にぶれて、だんっと鈍い音がした。何が起こったのかわからなくて、しばらくわたしの視界はフローリングでいっぱいになった。あ、これ昔わたしがコップを落として割ってつけた傷だ、とか、全然関係ないことを思った。


「あんたいきなり何いうの!! なにお父さんに言うてんの!!」


お母さんが、明日世界が終わる勢いで泣きながら怒っていた。右手をあげていたので、ああぶたれたんだなとそこで思考が追いついた。わたしは、その時のわたしは子どもだったからそれはもう、ほっぺたの痛さとか、お母さんに初めてぶたれたショックとかで、わたしはなんてかわいそうなんだ、こんな家出てってやる! と鼻水が垂れそうになるのも放っといて自室に走ったのだった。家出をするにあたり何をもってたらいいのかわからないので、財布とタオルとうさぎのぬいぐるみをかばんに詰めて玄関に向かう途中、お父さんが泣きじゃくるお母さんを抱き寄せながら、彼女の頭をゆっくりゆっくり撫でているのを見た。お父さんはお母さんに延々と「あのこは悪くないんよ。ボクが悪いねん、すまんな」と言いながら、かつて見たこと無いほどとてつもなく優しい手でお母さんの背をぽんぽんとあやしているのを見て、わたしはなんてひどいことを言ってしまったのだろうと涙が溢れてきた。でもふたりの間に入ることはできなくて、とぼとぼと自室に戻って、うわーんうわーんとばかみたいに泣いた。お父さんの横顔があんなにも優しいなんて知らなかった。


ご飯も食べないで、ほとんど泣きつかれて寝入ったからまだ暗いうちに起きてしまった。どんな顔してなんて切り出したらいいかわからないのに、人体というのは残酷なもので、腹が空いたという主張に負けてキッチンに行った。いつもどおり、お父さんのお弁当とわたしたちの朝ごはんを作るためにすでにそこにはお母さんが居て、湯気が出ている鍋から視線をこちらに向けると、いつもどおりにわたしにおはようと言うので、わけもわからず涙が出ておかーさんごめんなさいと何回も謝った。制服がくしゃくしゃやないの、とお母さんは笑った。


「あんたにな、話したろうと思うの。お父さんには言うなて言われてんねんけどな」
「なにを?」


普段よりだいぶ早い朝ごはんをふたりで食べていると、お母さんがそう言った。お父さんがわたしに口止めすることってなんだろうか、純粋に興味をもった。


「お父さんはとんでもない変わりもんでな、学生の頃からああいう外見やったし、性格も今よりずっと捻くれてはったから、一緒になるんはそらもう大変やったんよ。強情っ張りで、口も悪くて、人を素直に褒められへんし、そもそも素直になるのが何より苦手な人で……。でもね、ああこの人と結婚してほんとうによかったと思ったのは、」
「? なに? はよ言うてよ、気になるやん」


食べるのが早いお母さんは机の上で手を組んで、向かいに座るわたしを見てふふふと笑う。焦らさないで早く言って欲しいんだけど、お父さん起きてきちゃうかもしれないのに。ちょっといらっとしながらオムレツを口に運ぶと、あんたが、と続けた。


「あんたが生まれた時、お父さんまるで赤ん坊みたいにわんわん泣いて、ボクの子や、この子はボクの宝物や言うて、なんでかわからんけど看護師さんにめっちゃお礼言うとったんよ。ほらこれ、ユキちゃんが撮ってくれてたその時の写真や」


エプロンのポケットからのぺっとした、フィルム型で現像したらしい写真を取り出すとわたしに見せてくれた。四角の中で、あのひょろながい、感情があるのかよくわからない無表情のお父さんが、声まで聞こえてきそうなほどに号泣していた。抱きかかえている、くちゃくちゃの赤っぽい生き物はわたしなのだろう。なんだ、わたし、ちゃんとお父さんに抱っこされたことあるじゃないか。ちゃんと、愛されて生まれてるじゃないか。


「お父さんには両親がおらんの。あの人が小さい頃に、お義母さんも亡くなられはって。けれどあんたが生まれて、外に出してもいい言われたらすぐに、お義母さんのお墓にあんた連れて挨拶しに行ったし、どこ行くんも必ず自分が抱っこしとったんよ。あんた、お父さん太らせて言うてたけど、あの人あれでめっちゃ筋肉質やし力もあるの知らんやろ」
「えー……」


今までなぜわたしがお父さんを煙たがっていたのか、はっきりわかった。家族を大事にしていないお父さんが嫌いだったのだとわかった。でも実際そんなことはなくって、ただわたしがガキくさくふてくされていただけで、お父さんは最初から何も変わらずうちのお父さんだったのだと、わかったよ。 ―――だけど、だけどさ。


「けどうちどうしても許せないとこあんねん。なんでお父さん、お母さんと話してる時すぐキモキモ言うん? ああいうん良くないと思うで」
「あー……あれな、ふふ」
「? なんで笑うん?」


その時のお母さんのちょっと困ったような照れた笑顔をわたしは今でもはっきりと覚えている。なぜへらへらと笑うのかまるでわからないわたしに、世間を揺るがすような重大な秘密でも教えるように身体を前のめりにして母は小さく囁いた。



… … …



「なんや、帰ってきとったんか」
「あ、お父さん」


朝早くに実家について、道中買ったサンドイッチとコーヒーで朝食を取っていると、パジャマ姿のお父さんがリビングに現れた。今さっきまで記憶をさかのぼっていた内容を思い出して、つい思い出し笑いをしてしまう。お父さんは何を勘違いしたのか、しゃあないやろ寝起きやねんから。と寝ぐせのついた後ろ髪を撫で付けていた。お父さんが大嫌いだった十四歳のわたしは人と同じように歳を取り、半年以内には御堂筋の苗字を抜けることになっている。
いつかわたしがお母さんになって、わたしの恋人がお父さんになる時、きっと今日みたいに思い出すのだろう。御堂筋家はかけ違う時もあったけれど、無償の愛に溢れてとても幸福であったこと。お父さんほど癖のある恋人ではないけど、もしかして似ているところはあるのかもしれないよ。


「お父さん、大好きやで」
「キモ」


そうやってすぐ、照れ隠しするところも、きっと。




奇跡/くるり
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