……あれっ、どこに置いたのだろう。そもそも、置き忘れたのかすら曖昧だ。けれどそんなに慌てていないのは、誰とも約束していないささやかな一人旅だからである。(一人旅とか言いたい年頃なのだ。実際ただのサイクリングとしても)

とはいえ、それを実行するにあたって必要不可欠な、自転車の鍵が見当たらない。家の中を右往左往していると、お母さんに話し掛けられる。なにしてんの。探し物。自転車の鍵? そう、見た?
エプロンのポケットから見覚えのあるキーホルダーがついた鍵を取り出して、母が言った。

「たいせつなものなんだから、どこかに置き忘れたりしないように」







シャコー、シャコーとペダルが回るのと同じに車輪も廻る。

この町は、あまり都会じゃない。好きか嫌いかで言ったら、正直わたしの場合は後者になるだろう。
汽車もあまりなくて、田んぼばかりで虫も多い、気軽に入れるファミレスも無いし、近所の人たちは遠慮なく話し掛けてくる。都会の人が眉を潜めるラインナップだと思う。
つらつら並べてみた表向きの理由が16歳の女の子らしいあれこれとして、しかしわたしがもういい加減この町を嫌いになりかけているわけは、誰にも話していない本当の理由は、この町に松岡凛が存在していないからである。
わたしは彼が好きだ。だれかに恋をするのは初めてではなかったが、終わらない恋は初めてであった。
松岡凛は、その姿を海を越えた土地に隠したとしても、わたしの目蓋の裏からは消えなかった。上がり気味の目尻や、ギザギザした歯を剥き出しにして笑う姿や、ふいに見せる無表情だって、すべて。
元々外見は整っている方だし、話せば面白いと松岡凛が人気者になるのは遠くなかった。それに比例して、彼を好きになる女の子もちらほら居たが、松岡凛が同じ中学に通わず一人海を泳いでいる間に彼女たちはきっと、彼を忘れて他のだれかを好きになっていったに違いない。それが良かったとか酷いとかは思わない。人間は忘れていく生き物だと、昔の人も言っている。

たいして関わりのなかった男に何年も恋してどうすんの。

いつだか友達に言われた台詞を心の中でなぞった。確かにわたしと彼の間には、特別に名称づけられた糸が繋がれていたわけではない。彼の友人の橘くんとは、中学に上がってもちらほら関わることはあったが、橘くんは、松岡凛ではない。名前を呼ばれたかった、あの彼ではない。橘くんがわたしの稚拙な恋心に気付いていたかはわからないけど、彼はいつだって優しかった。この人をすきになれたら良かったのになあ、冬になるとすこし、思った。




「はあー」

溜め息とも深呼吸ともつかないそれを吐き出す。わたしはもうすぐ、高校二年生になる。一年生のときは周りに馴染むのがやっとで、松岡凛を目蓋の裏から引きずり下ろしてくれる男の子に出会わなかった。二年生になれば、もしかしたら、わたしも中学のときの女の子たちと同じように、だれかに恋をして彼のことも忘れられるかも知れない。忘れたいわけじゃないけど、どこかに置き去りにしたいのだ。この行き場のない恋心を。


――そのとき、


キキッ!
止まらなければ良かったのに、あんまりにも記憶の中と変わらないものだから、風を切って擦れ違うことが出来なかった。突然に自転車がブレーキの悲鳴をあげたから、わたしの視線を絡め取ったその人が振り返る。それはスローモーションのように見えた。


「え、っと、」


なんて言ったら正解だったのだろう。久しぶり、元気だった?
というより、人間はすごく、すごく驚くとなんにも考えられないのだと知った。松岡凛がそこにいた。小学生のときと変わらない、目尻の上がった真っ直ぐの瞳、つるんと外に跳ねた髪、背は伸びて身体も細くなく成長したようで、すっかり男の子になった松岡凛は、しかし傍目でもわかるくらい疑問符を浮かべわたしを見ていた。その視線でわたしは頭の先から爪先まで、水を被ったようにすうっと理解した。
あなたはわたしを、覚えていない。たぶんあなたは、呼ばれたかったわたしの名前を紡ぐことはできない。あなたの中に、わたしが存在していた事はきっと無い。
わかっていた事だけど、真正面からその事実にぶつかると、お門違いと思っていても涙が出てしまいそうだ。そんなことをしたら『見知らぬ人』の彼は困るだけだから、声も出せずに堪えていたら。


「あー、っと、あれだよな。小学校んとき、同じクラスだった」


……ごめん名前、思い出せないんだけどさ。
ばつが悪そうに松岡凛は視線をわたしの足元にずらした。そのあと彼は、こっちに帰ってきたんだと付け加えると、すこしだけ笑って背を向けた。あの鮫を思い出させるギザギザした歯は確かにそこにあって、わたしは、とにかくなにか叫びたくてたまらなかったけど、彼も、田んぼのおじさんも近くにいたから、去り歩く彼の背中に振り絞った「またね」を投げ掛けたら、自転車に股がりデタラメに漕ぎ出す。

――松岡凛が、わたしを覚えていたんだよ。名前を忘れられていたことなんてどうでも良くなるくらい。強く吹く向かい風が前髪をぐしゃぐしゃにしても、なんだって良かった。いちばん好きな人が自分の存在を記憶していた、それは他の人にとってはちっぽけな事かも知れないけど、それでも、


「よっしゃあぁぁぁあ!!!」


ちょうどなだらかな坂道になり、わたしは自転車のペダルに乗せていた両足を外側に投げ出す。漕がずとも風景が次々に変わっていく中で、花びらが舞い上がっているように世界が華やいで見えた。
松岡凛がこの町に存在しているとわかったそれだけで、わたしはこの小さな町が世界でいちばん素晴らしいところに思える。現金なやつだと言われるだろうが、心のどこかでわたしはちゃんと知っていたのだ。この町が、とても優しいことを。

14才のわたしが、橘くんをすきにならなくって本当に良かったと思った。松岡凛への感情を、もういやだと言ってどこかへ置き去りにしないで本当に良かった。彼がわたしを見て、僅かに笑った。ただそれだけでわたしはこんなにも、嬉しい。






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