人生というのは無常だし、運命というのは残酷だし。結局のところ大凡9割の人間は凡人で、凡人は結局汗水流して努力して平凡レベルの幸せを維持して生きていくしかないのだ。
 努力をして、頑張って、必死になってようやく平均値に手が届く。そういう生き方しか出来なかった私は、どうやってもそういう生き方でしか生きていけなかった。この生き様を凡人と呼ばすして何と呼ぶのだろうか。…憐れ、だろうか。憐れだろうなあ。


「やぁお疲れさま」
「ただいま帰りました…!」

 レイシフト先から帰還した藤丸くんの労を、スタッフとサーヴァントの面子がせわしなく入れ代わり立ち代わり労わる。今回のレイシフトは危険度は高くなかったものの、やたら期間が長引いたような気がする。私も人込みに紛れて一言、「お疲れ様です」と苦笑して手荷物の類を受け取り、その場を後にする。
 持ち帰った物資は後程選り分けて各部署へ、藤丸くんがが着ていた礼装もじきに洗濯と修理及びメンテナンスに回るだろう。冷たい廊下を歩きながら頭の中でパズルを組み立てるように行動をシュミレートする。あれをやってこれをやってそれからああしてこうしてつまり優先順位はいや作業効率を考えると。

「ナマエ!悪いんだけどこの後…」
「はい大丈夫です。3分後に戻れます」

 青い顔をしていた職員に二つ返事をして、廊下を駆け抜ける。今まで考えていた思考は全てゼロだ。抱えていた物資を選り分けるのは後回し。効率も関係ない。一先ずこれらは倉庫にブチ込んで睡眠不足の職員に変わってパソコンとぶっ通しで睨めっこ対決を始めなければいけないらしい。倉庫で踵を返してまた廊下を走り、管制室に滑り込む。これがこうであれがああで、引継ぎは速やかに手短に。「後はよろしく」なんて言っていた職員の背中を横目で見送れば盛大に肩骨を鳴らして伸びをしていた。

(私だって)

 眠りたいと思う。思いつく限りここの所延々と、徹夜を繰り返したせいか不眠気味で休憩を取るのも申し訳ないと思うようになった。
 休みたいと思う。走り回って体中の痛みが止まらない。制服の下は湿布とテーピングでぼろぼろだが休みを貰った所で休み方が分からない。
 笑いたいと思う。集中して作業していると口数は減り、表情筋は動き方が分からなくなる。頑張ることと引き換えに笑顔の作り方を忘れたようだ。
 私だって、私だって。

(…私より)

 エンターキーの音って仕事をしている音がする。私は髪を纏めて画面に向き直った。
 人理継続保障機関フィニス・カルデア、天才のるつぼとも言うべき其処に。本来なら私という凡人が入り込む余地はなかったのだと思う。けれど、その最たる異例が人類唯一のマスターである藤丸立香であるのだから、多分、きっと。私が此処に所属できたのもきっとその奇跡のおこぼれのようなものだろう。
 私は凡人、彼らは天才。だから凡人は天才の足元に、陰にでもいい追いつこうと努力する。
 努力して、頑張って、血反吐を吐いてようやくスタートラインに呼ばれる。エンターキーの音って仕事をしている音がする。だから私はその音を鳴らし続ける。足を出すことを躊躇ったら息が止まって死んでしまうような気がしていた。





 神経の磨り減るデスクワークを終わらせて倉庫に舞い戻り、物資を選り分け、各部署に配給し、微調整で行ったり来たりを繰り返し、また管制室に呼ばれたかと思えば子供サーヴァントたちのままごとに付き合い、図書室から資料を引っ張り出し、ついでだからと同僚の分の分も持って再度管制室に…それから、…そうして…、そうやって。
 …時間感覚が摩耗する程度だ。立っているのか座っているのかが分かる程度なら無問題。固形物を噛み砕くのが億劫なので栄養剤でもバシっと一発。

「よう、こんばんは」

 医療室に向けようとしていた足。影もないのに声がした。

「…こんばんは」

 どうやら今は夜らしい。言われてみれば薄暗いような気がするが、あまりよくは分からない。つま先を見つめていた重い頭を持ち上げてみたが、人っ子一人見つからない。なんだ、ただの幻聴か。視線をつま先に戻す、と。頭が更にがくんと重くなって、予想外の出来事にパニックにもならない。どうやら、私の膝は私を支えることを諦めたようだ。

「わり、大丈夫かい?」
「ああ、ええ、まぁ。どうも」
「…大丈夫か?」
「はい、ええ、大丈夫ですとも」

 私の声は常にか細い。自分でも聞き取れないことがあるが手間をかけてしまって申し訳ない。
 身体が誰かに支えられた感覚があって、間もなく布の音と共に空間からロビンさんが現れた。ああ、なるほど宝具で姿を隠していたのだろう。隠密行動の得意な彼らしいがカルデアの中でまで身を隠す意味はあるのだろうか。
 肩に回してくれた腕のお蔭で廊下にダイブは免れた。その腕を押すようにして再び足に力を入れる。立って、歩いて、歩かなければ。

「言い方を変える」
「は」
「アンタは"大丈夫じゃない"」

 何を言うのかと、やや驚いた。

「そんな「それが、なにか」

 今度はロビンさんが目を見開いていた。私の背丈は彼に遠く及ばないので、その垂れた眼差しが見開かれるのをぼんやりと見つめていた。「大丈夫じゃない」それが、どうしたというのだろう。あれ、そもそも何の話なんだろう。肩が少し、痛む気がする。…思考がおぼろげで、ふわふわとする。

「あのね、無理をしているなんて。ばかでもわかるのよ」
「でもね、天才じゃないの。万能じゃないの。英雄じゃないの。死に物狂じゃなくちゃ、スタートラインも見えないのよ」
「見栄を張ってるんじゃないの。正義感じゃないの。これは足手まといの、後ろめたさからくる罪滅ぼしだ」

 体が暖かかったので寝床に入っているのだと思った。春風のような良い土草の匂いがする、とんと久しぶりの外の匂いに嗚呼と思う。干したての布団に横になることが出来た子供時代を思い出して、まるで死ぬみたいだと思った。けれどもこんな幸せの中で死ねるならそれも悪く、ないだろうなあ。

「死なないで、くれ」

 引き戻されるような心地。やめて、もう、幸せの中に、膝をつかせてほしい。

「アンタを想ってる奴が、アンタの事を心から想って、心を砕いているヤツが一人居るから」

 息苦しい、けれど暖くてすり寄った。カルデアに来てからとても暖かさとは無縁だったような気がする。お風呂に入れず、布団にも入れず、冷めたコーヒーで冷たいレーションを流し込む。そうやって生きている内に心まで凍り付くようだった。久しぶりの暖かさに、ようやく呼吸が出来る気がする。ああ、これが、眠気というやつか。

「アンタは十分に頑張った、十二分に偉いさ。努力と忍耐の天才だ、だからもう」
「や」

「と、ほめて、もらえたあ」

 声に縋りつくように、安堵した。ああようやく眠気が来た。なんだそうか、私は誰かに"私"を必要として貰いたかっただけなんだ。身体が沈むような感覚がする。泥に溺れるような息苦しさじゃなく、真綿にくるまれるような心地。
 そこでやっと、私は強張った身体から力を抜いて、沈んだ。

「俺の好きな女をイジメないでやってくれ、って聞こえてねぇよなぁ…」

 小さく誰かが笑ったような、気が。



 明くる日朝が来て、ぼんやりとしている間にドクターが駆けてきた。私の熱と体調をマシュのメディカルチェック並にくまなく診察して、今日一日は絶対安静だと怒られた。それから代わる代わる人が入れ替わり立ち代わり、何故か部屋に駆け込んできたマシュが泣き出してしまって部屋は収拾がつかなくなるほど賑やかで。心配されていた筈が逆に心配する側になっていて思わず噴き出して笑ってしまった。

「ありがとう、ございます」

 枕元の花瓶には、春草のような綺麗な野花が活けてあった。