パルデア四天王図鑑No.1
チリ
じめんタイプつかい
とくせい:メロメロボディ(同性にも有効)
『一見怖そうな 見た目だが 人のいい笑顔で コガネ弁を 話すギャップが 周囲の 人々を 魅了する。』
『気に入った子には とことん甘くなり 独占欲を 発揮する。たまに見せる 鋭い目つきは 牽制の 意味も 持つ。』
+
専門家である私調べによると、チリちゃんは外を歩けばすぐニンゲンの心を奪うという、なんとも罪深いとくせいの持ち主である。それだけではなく、女の子なのに女の子相手に常時メロメロを発動してるし、エンニュートとは違って同性にもフェロモンガスをばら撒きまくってる。もちろん男の子に対しても効果があるからたちが悪い。
でも本人はそれらを悪いことだとは思っておらず、周囲から視線を集めることをたぶん『いつものこと』だと思って流してる感じがする。それではとても困る。なぜならチリちゃんの素敵な笑顔に勘違いして近づいてくるニンゲンが出てくるかもしれないから。
そう、過去の私のように!
だからチリちゃんを決して一人で歩かせてはいけないのだ。外を歩く時はなるべく隣を占領して、手を繋ぐだけじゃなく腕ごとしがみついて仲良し二人組のアピールをしなければならない。チリちゃんは、私のだから!
「なまえ、あんまり体重かけんといて。腕もげそうやわ」
「これは愛の重さなの」
「そか!チリちゃんの肩最強やから、もっと寄りかかってもええんやで」
「ふふふ、チリちゃんすごーい!」
ふとした瞬間におちゃらけたことを言うチリちゃんが、かわいい。それに乗っかって、こんなふうにちょっとアホっぽい会話を交わすのがいつもの楽しみ。でも本当に腕がもげたら大変だから、少し姿勢を正して改めて手を繋ぎ直した。
そうしたら、すかさず指が絡んできてあっという間に恋人繋ぎに早変わり。視線は前に向けたまま、歩幅も変わらず、言葉もなく。チリちゃんは私の気を引くとか、気を使うとかじゃなく、素でそういうことをするからやだ。好き。大人らしいところを見せられる度に、いちいちときめいてしまう私、そろそろ胸焼けで死にそうかも。
テーブルシティのはずれ。今はチリちゃんの職場であるポケモンリーグからの帰り道。学校を卒業してから、ネモやボタンと同じようにほとんどコネのような形で入社し、いちチャンピオンランクとして各地のジムで事務仕事(ダジャレではない)をしている私だが、今日はオモダカさんからの依頼で久々にこっちに顔を出していた。
久しぶりにお仕事モードのチリちゃんが見れると思ったのに、私が来ていると分かると速攻でお仕事を片付けてアオキさんも驚く定時退社をキメるものだから、むしろ私の方が待たせることになってしまった。まあ、今がちょうど挑戦者が少なくなる時期で、業務に余裕があったというのもあるのだろうけど。
同じく同期の、オモダカさんの右腕としてバリバリ働くネモにわーきゃー絡まれたり、エンジニアとしてパソコンとにらめっこするボタンにサンドイッチの差し入れをして泣きつかれたり、新鮮な気持ちで一日出張を終えた私。
「なまえさん、ご苦労さまでした。いつもと違う現場はなかなか慣れなかったでしょう。ですが、あなたの働きで予定より早く臨時業務を終えることができました。ありがとう、感謝します」
「いえいえ、そんな」
「なまえさんは優秀ですから、今後もそばに置いておきたいという気持ちもありますが……“あなた”がその様子では、やはり職場を離して正解でしたね」
さっきから視界に映るから気になって仕方がないのだけれど、リーグの事務所前で立ち話をする私たちから少し離れたところの壁に、チリちゃんが腕を組んで寄りかかっている。仮にも上司なのに早く終わらんかなと言いたげな目でじっと会話を見守っているから、とうとうオモダカさんが反応してしまった。
(……ちゃんとオモダカさんの視界の外にいたはずなのにバレバレだなんて、今のトップは気配だけで存在を察知したのだろうか。すごすぎる。これがトップチャンピオン……。)
「いいえ、なまえさんの目の動きが分かりやすくって」
「あ、はい。すみません……」
私のせいだった……。
小声で教えてくれたことで恥ずかしくなる私。チリちゃんは存在がバレたことでもう気にする素振りもなく近寄ってきた。
「またまたぁ、オモダカさん。仕事とプライベートは割り切るタイプですから。今はもう退勤させてもろたんで、どんなもんか様子を見に来ただけです。べつに邪魔しに来たとかやないですから。なー?」
「ふふ、そうですか」
「なーじゃないよ。オモダカさん困ってるよ」
なんだか言い訳がましいこと言ってるけど、結局はただ急かしているのと変わらないチリちゃんの言葉に、優しいオモダカさんは「本日は大変助かりました」と簡単に締めくくってすぐに私を解放してくれた。
そして、帰り道に戻る。
同じパルデアリーグの上司の下で働いている以上、チリちゃんと一緒に働きたいという気持ちはもちろんあるにはあるのだが、各地の自然に囲まれながらの事務仕事も案外自分の性にあっているというか。私は現状で満足しているから文句なんてひとつもないのに、そうではない人もいるらしい。
主に、今私の隣にいる人。
四天王という役職だけでも忙しいのに、チリちゃんは私が挑戦者側だった時から変わらず、チャンピオンテストの第一関門である面接官も同時に受け持っている。そのせいで、あんまりほいほいと遠出するわけにもいかず、ほとんどの時間リーグに常駐するはめになっている。
――はずだけど、ジムの視察と称して無理やり時間を作って私に会いに来ることも多い。理由を聞けば「会いたかったから」ただそれだけが返ってくる。職権乱用。
そして「なまえもリーグにいたらわざわざ来る必要もないのに」と文句を言われる。チリちゃんはお仕事に対しては誠実で、やる時はやるし、日常的にもあまりわがままを言う人ではないから、ふとした時に零れる本音が矢のように私の心臓に突き刺さる。私はその度に、オモダカさんが言うように職場が離れていて良かった、と思う。
一緒にいたら絶対仕事にならないじゃん。
主に私が。
今日こそ、危なかった。同じ建物にいると分かっているだけで、どこかに緑髪のかっこいい人がいないかな〜と探してしまう自分がいた。最後まで気付かないふりをしてくれていたようだけど、ずっと隣にいたオモダカさんにはきっと心の中でくすくすと笑われていたかも。
チリちゃんもそうだったのかな。少しでも一緒にいたいと思ってくれているからこそ、こうして一緒に退勤して、手を繋いで家に帰っている今が嬉しいのかもしれない。チリちゃんはこころなしか楽しそうに微笑んでいる。でも大げさに喜ばないところがいじらしい。ま、今は外だからね。
「ふふへへ」
「なんやその声。気色わる」
いつ見てもかっこいい端正な横顔をばっちり視界に収めながら歩いていたら、前方の柱にぶつかりそうになるのも気づかず、繋いでいる手と反対側の手で肩を抱きとめられた。よろよろとチリちゃんの方によろける私。
「おっとっと」
「ちょお、どこ見てん」
「ん?チリちゃん見てた」
「ったく、なまえはよう余所見するから一人じゃ外歩かせられんわ」
一人で歩かせられないだって。私と同じこと言ってる。
「大丈夫だよ。私、チリちゃんがいなかったらちゃんと前見て歩くもん」
「あほ」
背を丸め、軽ーく頭突きをするような動作で私を見下ろしてくる。あほじゃないもん。チリちゃんがいちいち私の目を奪うのが悪いんだもん。そうやって抗議の目を向けていたら、今度は地面の段差に引っかかってまたバランスを崩した。
「あっ」と慌ててチリちゃんにしがみついたはいいものの、そのせいで屈んでいたチリちゃんの額に私の頭がクリティカルヒット!
ゴッ。結構鈍い音がしたような、しなかったような……。
「……。何すんねん」
「ご、ごめんなさい」
二回目、さらに実害を伴うとなるとさすがに怒る気になったのか、少し冷ややかな目線がおりてくる。チリちゃんのこういう顔はヤンキー味を感じられて結構怖いんだけど、こういう時はあまえる攻撃をするといいって図鑑説明に載ってた。
腕を伸ばしてチリちゃんの額のぶつけたところを優しく撫でながら、笑いかけてみる。なるべく申し訳なさそうな顔をするのがポイント。
「前見て歩け言うたやろ」
「うん、ごめんねチリちゃん。痛かった?」
「……チリちゃんのデコ最強やから、全然痛ない」
「あはは、チリちゃんすごーい!」
「でも許さん」
「ええっ」
むすっとした顔、かわいい。でも背筋をぴんと伸ばしてそっぽを向いてしまうから困った。身長差を利用してほんの少し向こうの方を向かれただけで、私からはもうチリちゃんのお顔が見えなくなってしまう。
なーんて、くつくつ喉を鳴らして笑っているのが聞こえてくるから、チリちゃんが本当は怒っていないことなんか丸わかりである。今のチリちゃんはたぶん構ってちゃんモードなのだ。このまま付き合ってあげることにした。
「チリちゃん、おねがい。許してよ〜」
「いやや」
「ねーえ、こっち向いてよ」
「んー……」
チリちゃんの最強の肩を引っ張って、必死に気を引く私。ますます顔の向きを変えて、ほとんど真横を向くチリちゃん。反抗期かな?こうなったらもうしょうがないから、奥の手を使うしかない。
「チリちゃん、だーいすき。チリちゃんが一番!なんでもお願い聞くから、許して?」
「よっしゃ!ゆるす」
単純すぎる。単純すぎて、何度これで乗り切ってきたか分からない。困った時はとりあえずこれを言っておけばいいみたいなとこある。これも図鑑説明に書いておこう。
テーブルシティはパルデアの中央に位置し、一番栄えているのもあって人気の居住地だ。ポケモンリーグが近いのは先述の通り、北部には私の出身校であるアカデミーがどっしり構え、ブティックや美味しいご飯屋さんも数多く賑わっている。
詳しくは知らないけど、空き家はほとんど無いと言ってもいいんじゃないかな。誰もが住みたい街No.1。つまり何が言いたいのかというと、ここにある家はだいたい家賃が高いのだ。当然のように、チリちゃんはそんなお家に住んでいる。
せっかくだからと夕食を食べていこうと適当な入ったお店の中で、注文を済ませてだらだらする私たち。お座敷席で、簡易的な個室のような間取りになっているから、ゆっくりできて最高だ。すると、さっきのやりとりでご機嫌になったチリちゃんが尋ねてきた。
「今日は泊まって行くやろ?」
「え?普通に帰るつもりだけど」
「……なんやって!?」
スマホロトムを見ながら軽〜くお断りする私に、お店中の人が振り返りそうな大声をあげるチリちゃん。そんなに驚くこと?と困惑しながら顔をあげたら、チリちゃんは世界の終わりでも目撃したかのような絶望的な顔をして目を見開いていた。え?そんなに?
「と、泊まらんの?」
「うん。そのつもり……」
「な、なんでえや!今日は泊まるん一択やろ!?チリちゃんやってそのつもりでちゃちゃっと仕事終わらしたのに……」
「でも、明日はいつも通りベイクジムでお仕事だし、そもそも急なお呼び出しで家の片付けとかしないで出てきちゃったから……」
今、私が勤務しているのはパルデアの南西に位置するベイクタウンのベイクジム。実家から通うのはあまりにも遠いから、ジムの近くの借家で気ままに一人暮らしをしている。ゆったりした雰囲気が好きで気に入っているのだ。週末はチリちゃんやネモたちが遊びに来ることもある。
「片付けとかそんなん気にせんでええ。なまえ、泊まろ。泊まってくれんとチリちゃん悲しくてたまらんわ」
「ええ」
「ほら、外見てみい!こんなに真っ暗やのになまえ一人で帰らすわけないやろ!いやや、いやや!泊まらんとこの場で大泣きすんで!」
なんか、このやりとり覚えがあるな。この前デートした帰りにもこんな感じになって、結局ずるずると流されてしまったんだっけ。あの時は次の日もお休みだったから良かったけど、残念ながら明日はいつも通りの出勤日なのだ。
私情で穴を開けて、ただでさえ本業で忙しいリップさんにご迷惑をかけるわけにはいかない。ここは鋼の心でチリちゃんを説得するしかない。いや、鋼は地面に弱いから、水か草か氷の心でチリちゃんを説得するしかない。
「無理だよ。だって、もともと朝早いのに移動時間も考えたらもっと早起きしなくちゃいけない……」
「大丈夫、チリちゃんが起こしたるから!」
「出た!そのセリフ!もー、この前それでお買い物行きそびれたの、忘れたの?」
「それはそれ、これはこれや」
「いや、それはそれこれはこれじゃないよ。全然言い返せてないよ」
このひと、何がなんでも泊まらせる気だ。普段は私のことをめいっぱい甘やかしてくれるんだけど、こうなったら強情なんだよなぁ……。
だいたい、よく考えたらチリちゃんと一緒に寝て早起き出来たことなんか、これまでに一度も無いかもしれない。だめだ、また同じことを繰り返すに決まってる。そしたら寝坊してリップさんに怒られちゃう!負けるな私!
「ここからベイクタウンまでどのくらい距離あると思ってるの?」
「そんなん、ミライドンでひとっ飛びやないか」
「寝起きで走らされるミライドンちゃんがかわいそうでしょ!」
「大丈夫大丈夫、なまえのミライドンはできる子やから。いつだってなまえの助けになってくれる」
「それはそうかもしれないけど!朝からかっとばしたら私だって強風で髪型崩れるし、砂っぽくなるし、顔面崩壊するし……!あのリップさんの前でそんな醜態晒せないよ!」
「……醜態?」
「リップさんの前では可愛い私でいたいの!」
説得するのに躍起になった私だけど、この時チリちゃんの手がピクっと動いたことにはすぐに気づいた。空気が変わったことも、なんとなく。でも今はほとんど勢いで喋っていたせいで、そんなことでは止まらなかった。止まれなかった。ええい、このまま攻めちゃえ!
「ね?チリちゃんなら分かってくれるでしょ?私、リップさんの前では綺麗でいたいの。ばっちり決めて、いっぱい褒められたいの。リップさんは私の憧れだもん。だからチリちゃんのお家に泊まってるヒマなんか――」
「……」
「いやっ、ないことないけど、今日のところはこの辺でっ」
本音がちょろっと漏れた。でも私が言いたいことはちゃんと伝わったはず……!
みんなご存知の通り、ベイクジムのジムリーダーであるリップさんは本業がメイクアップアーティストのバリバリのキャリアウーマン。目を見張るほどの美貌の持ち主であるうえに、とっても優しい。
ジムで会う度にいっつも褒めてくれるから、そのオーラに触発されて自然と自分磨きをしてしまうというか……だから、身だしなみが著しく崩れることが予想されるミライドン出勤はなるべく避けたい。そうしたい。
「……なまえ」
なんとなく熱くなってきた顔を冷やそうと両手で頬を包んだら、チリちゃんが急に立ち上がった。そして私の隣までやってきてドカッと腰を下ろすから、内心やばと冷や汗をかいた。少し調子に乗ったかも、しれない……。私はチリちゃんを怒らすのが得意なのである。
「ち、チリちゃん……?」
チリちゃんは座布団の上であぐらをかいて、私に寄りかかるように肩に腕をまわしてきた。顔を見なくてもわかる。明らかにピリピリしている。殺気立っている。本当に怖い。これは、そう、駆られる獲物の気分だ。
チリちゃんはきっとガン飛ばし大会で優勝できる。パルデアの人間で両耳ピアスに勝てる人なんかいない。これ、初対面でやられたら怖すぎて泣いてた。でも初対面じゃないから、まだ耐えられる自分がいる……。
「なまえ。今の、もっかい言うてみ」
「い、今の?えっと、……リップさん大好き」
「そこまで言うてへんやろ!!付け足すな!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
今のは本当に調子に乗りました。
「なまえ〜……?なんや自分……えらい調子ええみたいやけど、ええことでもあったん?吐け、コラ」
「あ、あはは、だって、チリちゃん怒ってるから〜……」
「から?」
「その、だからっ、場をなごませようと……ちょっとしたボケを――」
「あ゛?」
「ひっ」
私は今日で死ぬかもしれない。
チリちゃんの腕の中で。
「……あ〜、あかんあかん、よう分かってへんみたいやから教えたるけど、今の、ジョウト人に喧嘩売ってんのと変わらんで。ボケにも使いどころってもんがあるんや。こらみっちり教え込まなあかんなぁ……なまえちゃん?」
怒ってるのににこにこ笑いながら、ニャオハを可愛がるみたいに顎の下を優しく撫でてくるから背筋が凍った。怖いよママ……。このひと、元ヤンじゃなかったら嘘だよ。
私がリップさんの話ばかりするから、気に障ってしまったらしい。いやまあ、そこまではまだセーフだったろうけど、あろうことかお家に泊まってるヒマなんかないって、チリちゃんを蔑ろにするような言葉を口にしてしまったから。(あと、変なところでボケたからジョウト人の逆鱗に触れてしまったらしい。そんなの知らないよ……。)
「ようチリちゃんの前で言うたなぁ、今の」
「だって……」
「職場が違うと、こういう心配もせなあかんからダルいんよなぁ〜。目移りしたん?他の、綺麗なお姉さんに」
「ち、違うもん。チリちゃんとリップさんはべつだもん」
「何が違うんや」
「二人とも大好きだけど、リップさんは普通に憧れてるだけだから」
「チリちゃんは」
「だっ、だから……一番だいすきっていつも言ってるじゃん。わかってるくせに」
「ふ〜ん。そ」
少し納得したように相槌をうち、今度は手首や太ももを撫でてくる。密着したままちっとも離れてくれない。周囲から見えづらい席だから思う存分好きなようにされている。
「チリちゃん、熱いよ……」
「……」
無視。
は、早く料理来ないかな……と、ひたすらに思う。よりにもよってこんな時に長引くなんて、もしかして店員さん、影から様子を伺ってたりしないよね?
「なあ」
「は、はいっ」
「そんなふうに、わざと怒らせて、今どんな気持ちなん?」
「わ、わざとじゃない……です」
「はぁ?どう考えてもわざとやろ。言い訳がましい子〜やな。なまえは煽んのが上手いわぁ、ほんまに」
「……」
まあ、わざと言ってみたっていうのはちょっとある。
「うう、ごめんなさい……」
「今日のなまえ、謝ってばっかやな」
「……う」
「ったく、かわいい顔すれば許されると思ってんのやろ。小賢しい姉ちゃんや」
ついにチリちゃんの手が離れた。やっと、ようやく。離れてくれたと思って気を抜いたら、次の瞬間むちゅうと唇を奪われ、目をぱちくりさせてしまう。ほんの一瞬だったけど、確かに柔らかい感触がしたことに慌てふためく私。
「あ、あ、そ、外なのに……!」
「誰もおらんやろ」
そんなのわかんないじゃん!私は!まだ!チリちゃんみたいに大人じゃないから、外でやるのはすっごく恥ずかしいの!もーもー文句を言いながらたいあたりをする私を軽くいさめて、チリちゃんはのそのそと元の向かいの席に戻って行く。
もしかして罰のつもりだった?自分の座布団に座り直した頃には、チリちゃんはいつものチリちゃんに戻っていた。
「ま、許したる」
「……えっ、ゆるしてくれるの?」
「おん」
「ほんとに?」
「他の人の前ではどうか知らんけど、可愛い姿も、綺麗な姿も、そうじゃない姿も、チリちゃんの前では全部見せてくれてるんやから……ぜーんぜん気にせんよ。許したるわ」
「そうじゃないすがた……?」
それって、パルデアの姿や、ガラルの姿や、アローラの姿の私……ってこと!?なんちゃって。今ボケたら殴られそう。
「他の誰も知らないなまえ、チリちゃんにだけは見せてくれんねんな?」
そう言うなり、それまで放置していたお冷をぐいっと一気飲みするチリちゃん。お酒と勘違いしてない?と思うほどの豪快な呑みっぷりだ。
いくら私が他の場所で他の人にうつつを抜かそうと、あくまでアドバンテージは自分にあると言いたいらしい。そのことに正直きゅんとしてしまったけど、今は何も言葉が浮かばなくて変な顔をしてしまった。私も真似をしてお冷に口をつけた。
「もお、今の聞かされた後じゃますます帰されへんわ。なまえ、そろそろ覚悟決めや」
「な、なんの覚悟?」
「早起きする覚悟に決まっとるやろが」
「うええ〜……」
もう言い返せる隙が見当たらない。ていうか、もうどうでもよくなってきた。ここまで来てもうだうだ言う私に、チリちゃんは今までずっと付けっぱなしだったグローブを両手とも外し、私の手の上に自分の手を重ねてくる。
「頼むわ」
情に訴えかける作戦かっ!もう、そんなまっすぐな目で見ないで欲しいよね……。
「なんでもお願い聞くって言うたやろ」
「い、言ったっけな〜……?」
「こらこら、しらばっくれてもムダやで。ええ子のなまえちゃんは自分で言うたことはちゃあんと覚えとるし、チリちゃんの言うことなんでも聞いてくれるんや」
「……」
はい。その通りです。
カンカンカン。ゲームセット。今日も勝てなかった……。今日もお泊まりすることが決定してしまった。まあ、心の奥底ではどうせこうなるんだろうなと思っていたから、なんでもいいんだけど。いやよくないんだけど!
「もーやだ。やんなっちゃう」
両手で頬杖をついてふてくされたところ、ちょうど待ちに待った料理が運ばれてきた。明るい笑顔で次々にお皿をテーブルに移していく店員さん。チリちゃんはさっきまでの元ヤン感を微塵も感じさせない朗らかな笑顔で、「おおきに」と言った。
+
「夜更かし、しないからね」
「まあ明日はチリちゃんも早起きやし」
「先にお風呂入ってもいい?」
「はいよー。今沸かす」
夕食を終え、帰宅。当然、チリちゃんの家に。
もう何回も遊びに来たことがあるから間取りの把握はばっちり。玄関で戸締りの確認をするチリちゃんを放置して、勝手に電気を付けて廊下を進む。うーん、今日は比較的片付いているようだ。なんて適当な感想を抱きながら、荷物とポケモンたちが入ったボールをソファーのうえに並べた。
落ち着いた色味の家具が置かれた、どこもかしこもチリちゃんの匂いがするお部屋。もう今更こんなことでどきどきなんてしないけど、ここに来たからにはどうせ今日もまた“そういうこと”になるんだろうなぁと頭の片隅で考えてしまうから、困ったものだ。さて、今日は素直に寝かせてくれるのだろうか。
「はーあ、お腹いっぱいだー……」
レンガで囲われたガラス窓を開けて、テーブルシティの夜景を眺めた。数年前、 母と引っ越して来た時に初めて見たこの綺麗な光景は、今後も忘れることはないだろう。
当時の宝探しの中で出会ったたくさんの人々。その中にチリちゃんがいて良かった、本当に。でなければ、今こんなにパルデアに愛着が湧くことはなかったかもしれない。いや、私ネモやペパーやボタンのことも同じくらい大好きだから、そんなことはないか。あはは。なんてことを考えていたら、後ろからお風呂が湧いたことを知らせる声が聞こえてきた。
「なまえ、もう一緒に入ろうや。その方がお互い早く寝れるし」
「……はあーい、しょうがないなあ」
「ちょっと嫌そうな顔すな」
「べつに、嫌じゃないよ。ツンデレなだけ」
「自分で言うん?それ」
窓を閉めてから脱衣場へ向かうと、ちょうどチリちゃんが服を脱ぐところで。あまりの準備の良さに、最初から一緒に入るつもりだったんじゃ?という憶測が脳内に浮かびつつ。後ろ手に引き戸を閉めながら、その様子につい目を奪われてしまう。やだ。今日も色気むんむんだ、このひと。やだ。もー。
「あ、こら。汚れちゃう」
チリちゃんが床に捨てようとしたシャツをすかさず空中でキャッチし、洗濯かごに投げ入れる。自分の家かつ私が一緒にいる時は、急に雑になるんだよなぁ、このひと。それがいつもしっかりしているチリちゃんなりの甘えなのかもしれない。かわいいけど正直めんどくさい。空気を読んだのか、残りの服は自分でかごに入れてくれた。
「じゃ、お先〜」
「あー!私が先って言ったのに!」
「はよ脱いでこっち来や、湯船に浸かって待っとるで〜」
長ーい髪の毛をまとめるゴムをすうっと解いて、お風呂場に消えていくチリちゃん。なんだかふざけているように見えるけど、未だに好きな人の前で服を脱ぐことへの羞恥心が残っている私に、さりげなく気を使ってくれたのかも。配慮の鬼かな?むしろ助かったと思いながら、自分も服を脱いでお風呂場に続く。
「お、おまたせ」
胸元を腕で隠し、背を丸めながらたどたどしい足取りで中に入る。女の子同士だけどまだ恥ずかしい気持ちが健在なのは、むしろ健全な証だと思いたい。と、気を紛らわすようなことを考えていたら、中で待ち構えていたチリちゃんにいきなりドバーッとお湯をかけられた。
「!?」
強制的に目が閉ざされ、なにがなんだか分からずに「わー!」と叫んでぶんぶんと首を振ることしかできない私。すぐ近くから大きな笑い声が聞こえてくるからすごくムカつく。
「なっはっは!」
「なに!?なにするの!」
逃げるように湯船に入るチリちゃんを追いかけ、勢いよく飛び込む。まるでイタズラ成功!と言わんばかりの笑顔をして、いたずらに笑って。なんかもう、やってることが子供くさくありませんこと!?
大きく波打ち、零れゆく湯なんて微塵も気にせず、わーわーと数秒間取っ組み合いの喧嘩をするうちに、恥ずかしさなんてまっさらに消え去っていく。心の底から楽しそうなチリちゃんの笑顔に完全に毒気を抜かれてしまった。急遽決まったお泊まり会がそんなに嬉しいらしい。
「あー楽しい!サイコー!なははははは」
「もーなんなのこのひと……やばいよこのひと……」
子供みたいに一人で勝手に笑い出して止まらないから、怖くなってしまう。もしかして毎日のお仕事で疲れが溜まっているのかもしれない。そう思うとなんだか可哀想になってきた。
二人して騒いだら急に落ち着いてきて、仲良く湯船の中で座り込んだ。チリちゃんに背中を預けたら、お腹に腕をまわされ大事に大事に抱きしめてくれる。素肌のチリちゃん、あったかい。
「今日も一日お疲れさん」
「うううー……ほんとにつかれた」
チリちゃんの肩に後頭部を預けてぐでーっと力を抜く。このひとは隙がないので有名なので、途端に後ろからやさしくやさしく鷲掴みされた。
「ん〜、また大きくなったんとちゃう?」
「おまわりさ〜〜んっ」
「やめれ」
頬をむにゅっと挟まれた。いきなりセクハラしてくるチリちゃんが悪いのに。
「でも、確かに言われてみれば最近またサイズ合わなくなってきたかも」
「成長期いつ止むん?」
「知らなーい」
「今度ショッピングでも行こか。ハッコウシティとか、どうや?」
「え、行く行く!ナンジャモちゃんに会いに行く!」
「ま〜た女目当てかい。このっ」
「だから、そういうんじゃないってばもー!」
軽く羽交い締めにされたから、バシャバシャ音を立てながら水の中で抵抗して、なんとかしてチリちゃんの腕を捕まえた。ふんっ、こうすれば何もできないだろう。
でも、本当に違うんだよ。私はみんなのことが大好きなだけだから、そう言葉にしてしまうだけで、べつにチリちゃんを困らせたくていちいちこんな発言をしているわけではないのだ。
顔を見られないこの体勢は都合がいい。この機会に、ちゃんと分からせてあげないと。
「あのね、私、誰かのことを好きになったのチリちゃんが初めてだよ。チリちゃんだけが特別なの。他の人なんか全然及びもつかないくらい」
「ふーん」
「チリちゃん以外の人はみんな、ただのライクでしかないもん。だから、ミーハーな私にいちいち嫉妬する必要なんかないんだよ。そんなんじゃ疲れるでしょ?」
とか言いながら、よく女の子の視線を集めるチリちゃんのことで嫉妬しているのは自分の方なんだけど。……だから、わざとチリちゃんの気を引きたくて、わざと同じように嫉妬させたくて、言う必要のないことまでを言ってしまうのかな、自分は。なんだか嫌なやつみたい。
そのまま黙り込んでいたら、よしよしと頭を撫でられた。
「チリちゃんはな、嫉妬することを楽しんでる時もあるから、あんまり心配せんでええよ」
「へー……?どえむなの?」
「ちゃうわ。大人の余裕ってやつや」
変な楽しみ方をしているなぁ。
「あと、嫉妬させるようなことしたなまえを問い詰めるのが楽しいってのもあるな」
「へ、へー……。どえすなの?」
「んーまあ、どっちかというと?」
そうだね、チリちゃんは元ヤンだもんね……(勝手に言ってるだけだけど)。
「なまえのこと、本気で疑ってかかったことなんて一度もないしな」
うーん、さっきのリップさんの時は本気で怒っているように見えたけど、あれ実は手加減してたの?怖。
「なまえがチリちゃんのこと大好きなんは、チリちゃんにはよう分かっとる。そんで、チリちゃんもなまえのこと、大好きや。一番な」
ぽんぽんと頭を撫でられ、これ以上ないってくらい優しい声色で言うから、耐えきれなくなってお湯の中に体を沈めた。ぶくぶく。幸せすぎて、このまま楽になりたい。
代わる代わる体を洗って、お風呂を済ませた私たち。お互いの髪を乾かしてから、面倒くさがるチリちゃんの長ーい髪の毛を丁寧に丁寧にブラシで通してあげて。規則正しく、日付が変わる前にベッドに入ることに成功した。
よし、とても順調だ。このまましっかり寝られたらしっかり早起きできるはず。チリちゃんの匂いのするTシャツに頬を緩めながら、スマホロトムをいじる私。なんかお腹にへんなのが抱きついてるけど、気にしない。
「なあ、ほんまに明日には帰るんか……?」
「うん。帰る」
「いやや〜〜〜〜!!!」
この様子、ポピーちゃんに見せてあげたい。いや、あの子は「甘えたさんのお年頃なんですね」ってかわいいがってくれると思うけど、アオキさんやオモダカさんにはドン引きされそう。それくらい外用のチリちゃんからは考えられないギャップがある。
「職場はまだ我慢きくけどなぁ〜。ハァ〜、どないして別々の家に住まなあかんねん!意味わからん、なんでなん」
「だってチリちゃん、私と一緒に暮らしたらダメになっちゃうもん」
「どういう意味や」
「そのままだよ」
言葉通り、そのまま。さっきだって床に服捨てようとしてたし。自分で髪の毛とかそうとしないし。
分かってるよ、チリちゃんは私がいないところではちゃんとお片付けして、髪のお手入れもちゃんと自分でするってことは。急なお泊まりだったのにお部屋はきちんと整理整頓されてたし、髪の毛はいつもうねりのないサラッサラッのストレート。思わず触りたくなっちゃう。
でも、私がいるとダメなのだ。チリちゃんは何もしなくなる。それは言い過ぎかもしれないけど、例えば朝起きれなくなるくらいには、ダメになるのだ。何回もお泊まりしたからもう分かっちゃった。
「そんなに酷くないやろ、さすがに」
「どうかなぁ。ていうか、チリちゃんだけじゃなくて私の方もダメになっちゃう」
「なまえも?」
「うん。チリちゃんと一緒じゃなきゃダメなからだになっちゃう!」
一緒に住んだらそれが当たり前になってしまうから。ドツボにはまって自堕落な生活になりそうで怖い。怖すぎ。そうやってオーバーリアクションぎみに言ってみると、どっちかというとツッコミ待ちだったのに返ってきたのは静かな声だった。
「そんなん……チリちゃんはもうなっとるで。なまえと一緒じゃなきゃ生きていけんわ」
チリちゃん、今にも泣きそう。どうせ嘘泣きだろうけど。私は騙されないぞ。でも無視するのは可哀想だから、スマホを置いて肩まで一緒に布団にもぐる。
「じゃあ、このまま別々に暮らしてたら死んじゃうの?」
「せやな」
「チリちゃん、生きて」
「なら一緒に住も。ええやろ?」
「……んん」
一緒に住む。つまり、同棲するということ。
「まだ悩むんか」
「えっ、えっと、なんていうか……」
これまで何回も寝泊まりを繰り返しているのに、一緒に住んでるところを想像したら急に照れくさくなってしまった。
本音を言えば、このまま二つ返事で頷くのもいいんだけど……チリちゃんが調子に乗っちゃうからまずは色々確認しないと。
「ねえ、一緒に住んだら、ちゃんと毎朝起こしてくれる?」
「なはは。チリちゃん、これでも朝苦手やねん。知っとるやろ」
「美味しいごはんとか、作ってくれる?」
「どーやろな。サンドイッチ作るんは自分のがうまいやろ?チリちゃんなまえのあれ好きや」
「お掃除とか、お洗濯とか、家事とか……」
「人並みには頑張るけどなぁ。正直、サボる日も結構多いで。忙しいとなーんもやる気せぇへんもん」
「へー。一緒に暮らす気ある?」
「ある!!!!!」
なんかダメかもしれない。二人してダメになる光景がもう想像できた。
「ていうか、家はどこにするの?」
「ここ」
「ミライドンちゃんに毎朝走らせる気……?」
「せや」
「そんなのやだ!無責任なこと言うチリちゃんはチリちゃんじゃない!」
ダメだ、ますますダメに思えてきた。チリちゃんはあんまりわがまま言わないって言ったけど、あれは間違いでした。普通に言う。それも私が折れるまで。
「少なくとも、私がベイクジムにいる限り不可能だね。爆走ミライドン出勤問題を解決しないと。そらとぶタクシーだって、毎日はさすがにもったいないし……」
「ベイクジムでなきゃ、ええんやな?」
「ん?」
「よっしゃ!チリちゃんがオモダカさんに話つけたる」
「えっ?」
チリちゃん、急に元気になった。
って、なに?もしかして私を転勤させようとしてる?
「なまえの言い分もあるんや、リーグには無理やり連れ込んだりせんようにする」
「まあ、チリちゃんがいる限りリーグでは働けないな〜って今日改めて思ったね。オモダカさんも認めてくれないだろうし」
「はいはい、ひどいひどい。んー、こっから近いセルクルジムなら今より断然楽になるやろ。どうや?ミライドンも毎朝の散歩なら大歓迎やないの?」
チリちゃんの提案に、ソファーの上のボールがゆらゆら揺れる。ボール越しに「アギャ」と返事が聞こえた気がした。ミライドンもチリちゃんに味方している。
「そりゃ、カエデさんのスイーツも捨て難いけど……。えー、せっかくリップさんと仲良くなれたところなのになー」
「んなこと言う子には、あそこで働かせたないわ」
「それ……オモダカさんに言うの?」
「言わん言わん。でも数々の面接をこなしてきたチリちゃんなら、本当のことを言わずとも言葉巧みに説得すんのなんか御茶の子さいさいや!」
ああ、チリちゃんなら本当にやってのけそう。私より断然お喋り得意だし、地味にポーカーフェイスなとこあるし、人の懐に入り込むの上手だし。
もうこんなにも話が進んだら転勤なんて決まったようなものだ。そして、同棲の話も。はぁ〜チリちゃんの愛が重たくて、重たくて、なんて心地よいのだろう。自分も相当頭がやられているらしい。恋愛脳ってやばすぎ。
「チリちゃん、じゃあさ……一緒に住んだら、いっぱい構ってくれる?」
「言うまでもないな」
言うまでもないか。私も、チリちゃんの構ってちゃんにいっぱい構ってあげなきゃ。
+
あの後、チリちゃんが変な気を起こして襲われるようなことは何もなかった。それについては本当に有難かったのだけど、逆に私の方が自分では気づかないうちに心のどこかで期待していた部分があったようで、そわそわしすぎて眠れなかった。最悪だよ。我慢してくれたチリちゃんに顔向けできない。
そのせいでちゃんと寝坊して、ちゃんと遅刻しそうになって、今からタクシーを呼ぶ時間ももったいないからと、ミライドンに謝りながら結局爆走ミライドン出勤をすることになった。
服や荷物はきちんと夜のうちに用意していたから自宅には戻らず、直行で、なんとかギリギリのところでジムに到着。髪も顔面も心も、何もかもが乱れているのに、朝一番に出迎えてくれたリップさんは私を見るなりこう言った。
「あら?今日のなまえちゃんは、随分と輝いているのね?」
「え?」
「ハッピーなことでもあったのかな〜?昨日一日好きピと会えて、はしゃいじゃったのかしら?やーん!リップ、嫉妬しちゃうわ。今度リーグからのお呼び出しがあっても、お断りしちゃおうかしら?」
「えっ」
なんか思ってた反応とちがう。
「でも私、遅刻しそうになって慌てて出てきたから……。髪の毛ボサボサだし、顔も寝起きで……ひどいですよね、あはは」
「とってもカワイイのに?」
私のどこを見て言っているんだろう、リップさんは……。
彼女は自らも広告塔を務めるモデルでもある。お化粧やヘアセットが崩れたところを見たことが無いし、お洋服だってシワひとつない。きっと毎朝早起きするのは当たり前で、私が思うよりもずっと大変な努力を積み重ねてきたのだろう。そんなリップさんが、今のこの状態をカワイイだって?
「今は私しかいないから、それでいいのよ」
「えっと、?」
「ほら、そろそろ始業時間になっちゃう。メイクルームに行ってきちんと襟元を正しておいでなさいな。そうしたら、見せたくない自分もバッチリ隠れるから安心ね。バッチグーよ」
パチッとウィンクしながらサムズアップをして、リップさんは今日のお仕事現場に向かうために廊下を進んでいってしまった。そうだ、早くお色直ししないと。急いでメイクルームに向かう私。
「……あー」
襟元を正す、というのは単なる比喩表現かと思って気にもとめなかったけれど……鏡の前に立ったことでようやくリップさんの言った言葉の意味を正しく理解した。
鏡からギリギリ見える位置。小さなリップマークが、確かにそこにあったから。
「チリちゃん!見えるところにしないでよ!リップさんが教えてくれなかったら、私そのまま気づかなかったよ、たぶん!」
お昼休憩になった瞬間、外に出て周りに誰もいないことを確認してからスマホロトムに向かって叫んだ。チリちゃんもチリちゃんで遅刻しそうになったはずだけど、私よりかは余裕があったから、今日もバッチグーなイケメン具合で画面越しに微笑んでいる。
『あの人が見たんなら、それでええ』
「……」
それが狙いでした、と。
はい。完敗です。一度も私を疑ったことがないと言いながら、疑わしい相手にこんなふうに見せつけるようなことをして、満足気なチリちゃんが、かわいい。世界で一番かわいい。すき。でも許可なくキスマークをつけたことはゆるさない!
チリ
じめんタイプつかい
とくせい:メロメロボディ(同性にも有効)
『一見怖そうな 見た目だが 人のいい笑顔で コガネ弁を 話すギャップが 周囲の 人々を 魅了する。』
『気に入った子には とことん甘くなり 独占欲を 発揮する。たまに見せる 鋭い目つきは 牽制の 意味も 持つ。』
+
専門家である私調べによると、チリちゃんは外を歩けばすぐニンゲンの心を奪うという、なんとも罪深いとくせいの持ち主である。それだけではなく、女の子なのに女の子相手に常時メロメロを発動してるし、エンニュートとは違って同性にもフェロモンガスをばら撒きまくってる。もちろん男の子に対しても効果があるからたちが悪い。
でも本人はそれらを悪いことだとは思っておらず、周囲から視線を集めることをたぶん『いつものこと』だと思って流してる感じがする。それではとても困る。なぜならチリちゃんの素敵な笑顔に勘違いして近づいてくるニンゲンが出てくるかもしれないから。
そう、過去の私のように!
だからチリちゃんを決して一人で歩かせてはいけないのだ。外を歩く時はなるべく隣を占領して、手を繋ぐだけじゃなく腕ごとしがみついて仲良し二人組のアピールをしなければならない。チリちゃんは、私のだから!
「なまえ、あんまり体重かけんといて。腕もげそうやわ」
「これは愛の重さなの」
「そか!チリちゃんの肩最強やから、もっと寄りかかってもええんやで」
「ふふふ、チリちゃんすごーい!」
ふとした瞬間におちゃらけたことを言うチリちゃんが、かわいい。それに乗っかって、こんなふうにちょっとアホっぽい会話を交わすのがいつもの楽しみ。でも本当に腕がもげたら大変だから、少し姿勢を正して改めて手を繋ぎ直した。
そうしたら、すかさず指が絡んできてあっという間に恋人繋ぎに早変わり。視線は前に向けたまま、歩幅も変わらず、言葉もなく。チリちゃんは私の気を引くとか、気を使うとかじゃなく、素でそういうことをするからやだ。好き。大人らしいところを見せられる度に、いちいちときめいてしまう私、そろそろ胸焼けで死にそうかも。
テーブルシティのはずれ。今はチリちゃんの職場であるポケモンリーグからの帰り道。学校を卒業してから、ネモやボタンと同じようにほとんどコネのような形で入社し、いちチャンピオンランクとして各地のジムで事務仕事(ダジャレではない)をしている私だが、今日はオモダカさんからの依頼で久々にこっちに顔を出していた。
久しぶりにお仕事モードのチリちゃんが見れると思ったのに、私が来ていると分かると速攻でお仕事を片付けてアオキさんも驚く定時退社をキメるものだから、むしろ私の方が待たせることになってしまった。まあ、今がちょうど挑戦者が少なくなる時期で、業務に余裕があったというのもあるのだろうけど。
同じく同期の、オモダカさんの右腕としてバリバリ働くネモにわーきゃー絡まれたり、エンジニアとしてパソコンとにらめっこするボタンにサンドイッチの差し入れをして泣きつかれたり、新鮮な気持ちで一日出張を終えた私。
「なまえさん、ご苦労さまでした。いつもと違う現場はなかなか慣れなかったでしょう。ですが、あなたの働きで予定より早く臨時業務を終えることができました。ありがとう、感謝します」
「いえいえ、そんな」
「なまえさんは優秀ですから、今後もそばに置いておきたいという気持ちもありますが……“あなた”がその様子では、やはり職場を離して正解でしたね」
さっきから視界に映るから気になって仕方がないのだけれど、リーグの事務所前で立ち話をする私たちから少し離れたところの壁に、チリちゃんが腕を組んで寄りかかっている。仮にも上司なのに早く終わらんかなと言いたげな目でじっと会話を見守っているから、とうとうオモダカさんが反応してしまった。
(……ちゃんとオモダカさんの視界の外にいたはずなのにバレバレだなんて、今のトップは気配だけで存在を察知したのだろうか。すごすぎる。これがトップチャンピオン……。)
「いいえ、なまえさんの目の動きが分かりやすくって」
「あ、はい。すみません……」
私のせいだった……。
小声で教えてくれたことで恥ずかしくなる私。チリちゃんは存在がバレたことでもう気にする素振りもなく近寄ってきた。
「またまたぁ、オモダカさん。仕事とプライベートは割り切るタイプですから。今はもう退勤させてもろたんで、どんなもんか様子を見に来ただけです。べつに邪魔しに来たとかやないですから。なー?」
「ふふ、そうですか」
「なーじゃないよ。オモダカさん困ってるよ」
なんだか言い訳がましいこと言ってるけど、結局はただ急かしているのと変わらないチリちゃんの言葉に、優しいオモダカさんは「本日は大変助かりました」と簡単に締めくくってすぐに私を解放してくれた。
そして、帰り道に戻る。
同じパルデアリーグの上司の下で働いている以上、チリちゃんと一緒に働きたいという気持ちはもちろんあるにはあるのだが、各地の自然に囲まれながらの事務仕事も案外自分の性にあっているというか。私は現状で満足しているから文句なんてひとつもないのに、そうではない人もいるらしい。
主に、今私の隣にいる人。
四天王という役職だけでも忙しいのに、チリちゃんは私が挑戦者側だった時から変わらず、チャンピオンテストの第一関門である面接官も同時に受け持っている。そのせいで、あんまりほいほいと遠出するわけにもいかず、ほとんどの時間リーグに常駐するはめになっている。
――はずだけど、ジムの視察と称して無理やり時間を作って私に会いに来ることも多い。理由を聞けば「会いたかったから」ただそれだけが返ってくる。職権乱用。
そして「なまえもリーグにいたらわざわざ来る必要もないのに」と文句を言われる。チリちゃんはお仕事に対しては誠実で、やる時はやるし、日常的にもあまりわがままを言う人ではないから、ふとした時に零れる本音が矢のように私の心臓に突き刺さる。私はその度に、オモダカさんが言うように職場が離れていて良かった、と思う。
一緒にいたら絶対仕事にならないじゃん。
主に私が。
今日こそ、危なかった。同じ建物にいると分かっているだけで、どこかに緑髪のかっこいい人がいないかな〜と探してしまう自分がいた。最後まで気付かないふりをしてくれていたようだけど、ずっと隣にいたオモダカさんにはきっと心の中でくすくすと笑われていたかも。
チリちゃんもそうだったのかな。少しでも一緒にいたいと思ってくれているからこそ、こうして一緒に退勤して、手を繋いで家に帰っている今が嬉しいのかもしれない。チリちゃんはこころなしか楽しそうに微笑んでいる。でも大げさに喜ばないところがいじらしい。ま、今は外だからね。
「ふふへへ」
「なんやその声。気色わる」
いつ見てもかっこいい端正な横顔をばっちり視界に収めながら歩いていたら、前方の柱にぶつかりそうになるのも気づかず、繋いでいる手と反対側の手で肩を抱きとめられた。よろよろとチリちゃんの方によろける私。
「おっとっと」
「ちょお、どこ見てん」
「ん?チリちゃん見てた」
「ったく、なまえはよう余所見するから一人じゃ外歩かせられんわ」
一人で歩かせられないだって。私と同じこと言ってる。
「大丈夫だよ。私、チリちゃんがいなかったらちゃんと前見て歩くもん」
「あほ」
背を丸め、軽ーく頭突きをするような動作で私を見下ろしてくる。あほじゃないもん。チリちゃんがいちいち私の目を奪うのが悪いんだもん。そうやって抗議の目を向けていたら、今度は地面の段差に引っかかってまたバランスを崩した。
「あっ」と慌ててチリちゃんにしがみついたはいいものの、そのせいで屈んでいたチリちゃんの額に私の頭がクリティカルヒット!
ゴッ。結構鈍い音がしたような、しなかったような……。
「……。何すんねん」
「ご、ごめんなさい」
二回目、さらに実害を伴うとなるとさすがに怒る気になったのか、少し冷ややかな目線がおりてくる。チリちゃんのこういう顔はヤンキー味を感じられて結構怖いんだけど、こういう時はあまえる攻撃をするといいって図鑑説明に載ってた。
腕を伸ばしてチリちゃんの額のぶつけたところを優しく撫でながら、笑いかけてみる。なるべく申し訳なさそうな顔をするのがポイント。
「前見て歩け言うたやろ」
「うん、ごめんねチリちゃん。痛かった?」
「……チリちゃんのデコ最強やから、全然痛ない」
「あはは、チリちゃんすごーい!」
「でも許さん」
「ええっ」
むすっとした顔、かわいい。でも背筋をぴんと伸ばしてそっぽを向いてしまうから困った。身長差を利用してほんの少し向こうの方を向かれただけで、私からはもうチリちゃんのお顔が見えなくなってしまう。
なーんて、くつくつ喉を鳴らして笑っているのが聞こえてくるから、チリちゃんが本当は怒っていないことなんか丸わかりである。今のチリちゃんはたぶん構ってちゃんモードなのだ。このまま付き合ってあげることにした。
「チリちゃん、おねがい。許してよ〜」
「いやや」
「ねーえ、こっち向いてよ」
「んー……」
チリちゃんの最強の肩を引っ張って、必死に気を引く私。ますます顔の向きを変えて、ほとんど真横を向くチリちゃん。反抗期かな?こうなったらもうしょうがないから、奥の手を使うしかない。
「チリちゃん、だーいすき。チリちゃんが一番!なんでもお願い聞くから、許して?」
「よっしゃ!ゆるす」
単純すぎる。単純すぎて、何度これで乗り切ってきたか分からない。困った時はとりあえずこれを言っておけばいいみたいなとこある。これも図鑑説明に書いておこう。
テーブルシティはパルデアの中央に位置し、一番栄えているのもあって人気の居住地だ。ポケモンリーグが近いのは先述の通り、北部には私の出身校であるアカデミーがどっしり構え、ブティックや美味しいご飯屋さんも数多く賑わっている。
詳しくは知らないけど、空き家はほとんど無いと言ってもいいんじゃないかな。誰もが住みたい街No.1。つまり何が言いたいのかというと、ここにある家はだいたい家賃が高いのだ。当然のように、チリちゃんはそんなお家に住んでいる。
せっかくだからと夕食を食べていこうと適当な入ったお店の中で、注文を済ませてだらだらする私たち。お座敷席で、簡易的な個室のような間取りになっているから、ゆっくりできて最高だ。すると、さっきのやりとりでご機嫌になったチリちゃんが尋ねてきた。
「今日は泊まって行くやろ?」
「え?普通に帰るつもりだけど」
「……なんやって!?」
スマホロトムを見ながら軽〜くお断りする私に、お店中の人が振り返りそうな大声をあげるチリちゃん。そんなに驚くこと?と困惑しながら顔をあげたら、チリちゃんは世界の終わりでも目撃したかのような絶望的な顔をして目を見開いていた。え?そんなに?
「と、泊まらんの?」
「うん。そのつもり……」
「な、なんでえや!今日は泊まるん一択やろ!?チリちゃんやってそのつもりでちゃちゃっと仕事終わらしたのに……」
「でも、明日はいつも通りベイクジムでお仕事だし、そもそも急なお呼び出しで家の片付けとかしないで出てきちゃったから……」
今、私が勤務しているのはパルデアの南西に位置するベイクタウンのベイクジム。実家から通うのはあまりにも遠いから、ジムの近くの借家で気ままに一人暮らしをしている。ゆったりした雰囲気が好きで気に入っているのだ。週末はチリちゃんやネモたちが遊びに来ることもある。
「片付けとかそんなん気にせんでええ。なまえ、泊まろ。泊まってくれんとチリちゃん悲しくてたまらんわ」
「ええ」
「ほら、外見てみい!こんなに真っ暗やのになまえ一人で帰らすわけないやろ!いやや、いやや!泊まらんとこの場で大泣きすんで!」
なんか、このやりとり覚えがあるな。この前デートした帰りにもこんな感じになって、結局ずるずると流されてしまったんだっけ。あの時は次の日もお休みだったから良かったけど、残念ながら明日はいつも通りの出勤日なのだ。
私情で穴を開けて、ただでさえ本業で忙しいリップさんにご迷惑をかけるわけにはいかない。ここは鋼の心でチリちゃんを説得するしかない。いや、鋼は地面に弱いから、水か草か氷の心でチリちゃんを説得するしかない。
「無理だよ。だって、もともと朝早いのに移動時間も考えたらもっと早起きしなくちゃいけない……」
「大丈夫、チリちゃんが起こしたるから!」
「出た!そのセリフ!もー、この前それでお買い物行きそびれたの、忘れたの?」
「それはそれ、これはこれや」
「いや、それはそれこれはこれじゃないよ。全然言い返せてないよ」
このひと、何がなんでも泊まらせる気だ。普段は私のことをめいっぱい甘やかしてくれるんだけど、こうなったら強情なんだよなぁ……。
だいたい、よく考えたらチリちゃんと一緒に寝て早起き出来たことなんか、これまでに一度も無いかもしれない。だめだ、また同じことを繰り返すに決まってる。そしたら寝坊してリップさんに怒られちゃう!負けるな私!
「ここからベイクタウンまでどのくらい距離あると思ってるの?」
「そんなん、ミライドンでひとっ飛びやないか」
「寝起きで走らされるミライドンちゃんがかわいそうでしょ!」
「大丈夫大丈夫、なまえのミライドンはできる子やから。いつだってなまえの助けになってくれる」
「それはそうかもしれないけど!朝からかっとばしたら私だって強風で髪型崩れるし、砂っぽくなるし、顔面崩壊するし……!あのリップさんの前でそんな醜態晒せないよ!」
「……醜態?」
「リップさんの前では可愛い私でいたいの!」
説得するのに躍起になった私だけど、この時チリちゃんの手がピクっと動いたことにはすぐに気づいた。空気が変わったことも、なんとなく。でも今はほとんど勢いで喋っていたせいで、そんなことでは止まらなかった。止まれなかった。ええい、このまま攻めちゃえ!
「ね?チリちゃんなら分かってくれるでしょ?私、リップさんの前では綺麗でいたいの。ばっちり決めて、いっぱい褒められたいの。リップさんは私の憧れだもん。だからチリちゃんのお家に泊まってるヒマなんか――」
「……」
「いやっ、ないことないけど、今日のところはこの辺でっ」
本音がちょろっと漏れた。でも私が言いたいことはちゃんと伝わったはず……!
みんなご存知の通り、ベイクジムのジムリーダーであるリップさんは本業がメイクアップアーティストのバリバリのキャリアウーマン。目を見張るほどの美貌の持ち主であるうえに、とっても優しい。
ジムで会う度にいっつも褒めてくれるから、そのオーラに触発されて自然と自分磨きをしてしまうというか……だから、身だしなみが著しく崩れることが予想されるミライドン出勤はなるべく避けたい。そうしたい。
「……なまえ」
なんとなく熱くなってきた顔を冷やそうと両手で頬を包んだら、チリちゃんが急に立ち上がった。そして私の隣までやってきてドカッと腰を下ろすから、内心やばと冷や汗をかいた。少し調子に乗ったかも、しれない……。私はチリちゃんを怒らすのが得意なのである。
「ち、チリちゃん……?」
チリちゃんは座布団の上であぐらをかいて、私に寄りかかるように肩に腕をまわしてきた。顔を見なくてもわかる。明らかにピリピリしている。殺気立っている。本当に怖い。これは、そう、駆られる獲物の気分だ。
チリちゃんはきっとガン飛ばし大会で優勝できる。パルデアの人間で両耳ピアスに勝てる人なんかいない。これ、初対面でやられたら怖すぎて泣いてた。でも初対面じゃないから、まだ耐えられる自分がいる……。
「なまえ。今の、もっかい言うてみ」
「い、今の?えっと、……リップさん大好き」
「そこまで言うてへんやろ!!付け足すな!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
今のは本当に調子に乗りました。
「なまえ〜……?なんや自分……えらい調子ええみたいやけど、ええことでもあったん?吐け、コラ」
「あ、あはは、だって、チリちゃん怒ってるから〜……」
「から?」
「その、だからっ、場をなごませようと……ちょっとしたボケを――」
「あ゛?」
「ひっ」
私は今日で死ぬかもしれない。
チリちゃんの腕の中で。
「……あ〜、あかんあかん、よう分かってへんみたいやから教えたるけど、今の、ジョウト人に喧嘩売ってんのと変わらんで。ボケにも使いどころってもんがあるんや。こらみっちり教え込まなあかんなぁ……なまえちゃん?」
怒ってるのににこにこ笑いながら、ニャオハを可愛がるみたいに顎の下を優しく撫でてくるから背筋が凍った。怖いよママ……。このひと、元ヤンじゃなかったら嘘だよ。
私がリップさんの話ばかりするから、気に障ってしまったらしい。いやまあ、そこまではまだセーフだったろうけど、あろうことかお家に泊まってるヒマなんかないって、チリちゃんを蔑ろにするような言葉を口にしてしまったから。(あと、変なところでボケたからジョウト人の逆鱗に触れてしまったらしい。そんなの知らないよ……。)
「ようチリちゃんの前で言うたなぁ、今の」
「だって……」
「職場が違うと、こういう心配もせなあかんからダルいんよなぁ〜。目移りしたん?他の、綺麗なお姉さんに」
「ち、違うもん。チリちゃんとリップさんはべつだもん」
「何が違うんや」
「二人とも大好きだけど、リップさんは普通に憧れてるだけだから」
「チリちゃんは」
「だっ、だから……一番だいすきっていつも言ってるじゃん。わかってるくせに」
「ふ〜ん。そ」
少し納得したように相槌をうち、今度は手首や太ももを撫でてくる。密着したままちっとも離れてくれない。周囲から見えづらい席だから思う存分好きなようにされている。
「チリちゃん、熱いよ……」
「……」
無視。
は、早く料理来ないかな……と、ひたすらに思う。よりにもよってこんな時に長引くなんて、もしかして店員さん、影から様子を伺ってたりしないよね?
「なあ」
「は、はいっ」
「そんなふうに、わざと怒らせて、今どんな気持ちなん?」
「わ、わざとじゃない……です」
「はぁ?どう考えてもわざとやろ。言い訳がましい子〜やな。なまえは煽んのが上手いわぁ、ほんまに」
「……」
まあ、わざと言ってみたっていうのはちょっとある。
「うう、ごめんなさい……」
「今日のなまえ、謝ってばっかやな」
「……う」
「ったく、かわいい顔すれば許されると思ってんのやろ。小賢しい姉ちゃんや」
ついにチリちゃんの手が離れた。やっと、ようやく。離れてくれたと思って気を抜いたら、次の瞬間むちゅうと唇を奪われ、目をぱちくりさせてしまう。ほんの一瞬だったけど、確かに柔らかい感触がしたことに慌てふためく私。
「あ、あ、そ、外なのに……!」
「誰もおらんやろ」
そんなのわかんないじゃん!私は!まだ!チリちゃんみたいに大人じゃないから、外でやるのはすっごく恥ずかしいの!もーもー文句を言いながらたいあたりをする私を軽くいさめて、チリちゃんはのそのそと元の向かいの席に戻って行く。
もしかして罰のつもりだった?自分の座布団に座り直した頃には、チリちゃんはいつものチリちゃんに戻っていた。
「ま、許したる」
「……えっ、ゆるしてくれるの?」
「おん」
「ほんとに?」
「他の人の前ではどうか知らんけど、可愛い姿も、綺麗な姿も、そうじゃない姿も、チリちゃんの前では全部見せてくれてるんやから……ぜーんぜん気にせんよ。許したるわ」
「そうじゃないすがた……?」
それって、パルデアの姿や、ガラルの姿や、アローラの姿の私……ってこと!?なんちゃって。今ボケたら殴られそう。
「他の誰も知らないなまえ、チリちゃんにだけは見せてくれんねんな?」
そう言うなり、それまで放置していたお冷をぐいっと一気飲みするチリちゃん。お酒と勘違いしてない?と思うほどの豪快な呑みっぷりだ。
いくら私が他の場所で他の人にうつつを抜かそうと、あくまでアドバンテージは自分にあると言いたいらしい。そのことに正直きゅんとしてしまったけど、今は何も言葉が浮かばなくて変な顔をしてしまった。私も真似をしてお冷に口をつけた。
「もお、今の聞かされた後じゃますます帰されへんわ。なまえ、そろそろ覚悟決めや」
「な、なんの覚悟?」
「早起きする覚悟に決まっとるやろが」
「うええ〜……」
もう言い返せる隙が見当たらない。ていうか、もうどうでもよくなってきた。ここまで来てもうだうだ言う私に、チリちゃんは今までずっと付けっぱなしだったグローブを両手とも外し、私の手の上に自分の手を重ねてくる。
「頼むわ」
情に訴えかける作戦かっ!もう、そんなまっすぐな目で見ないで欲しいよね……。
「なんでもお願い聞くって言うたやろ」
「い、言ったっけな〜……?」
「こらこら、しらばっくれてもムダやで。ええ子のなまえちゃんは自分で言うたことはちゃあんと覚えとるし、チリちゃんの言うことなんでも聞いてくれるんや」
「……」
はい。その通りです。
カンカンカン。ゲームセット。今日も勝てなかった……。今日もお泊まりすることが決定してしまった。まあ、心の奥底ではどうせこうなるんだろうなと思っていたから、なんでもいいんだけど。いやよくないんだけど!
「もーやだ。やんなっちゃう」
両手で頬杖をついてふてくされたところ、ちょうど待ちに待った料理が運ばれてきた。明るい笑顔で次々にお皿をテーブルに移していく店員さん。チリちゃんはさっきまでの元ヤン感を微塵も感じさせない朗らかな笑顔で、「おおきに」と言った。
+
「夜更かし、しないからね」
「まあ明日はチリちゃんも早起きやし」
「先にお風呂入ってもいい?」
「はいよー。今沸かす」
夕食を終え、帰宅。当然、チリちゃんの家に。
もう何回も遊びに来たことがあるから間取りの把握はばっちり。玄関で戸締りの確認をするチリちゃんを放置して、勝手に電気を付けて廊下を進む。うーん、今日は比較的片付いているようだ。なんて適当な感想を抱きながら、荷物とポケモンたちが入ったボールをソファーのうえに並べた。
落ち着いた色味の家具が置かれた、どこもかしこもチリちゃんの匂いがするお部屋。もう今更こんなことでどきどきなんてしないけど、ここに来たからにはどうせ今日もまた“そういうこと”になるんだろうなぁと頭の片隅で考えてしまうから、困ったものだ。さて、今日は素直に寝かせてくれるのだろうか。
「はーあ、お腹いっぱいだー……」
レンガで囲われたガラス窓を開けて、テーブルシティの夜景を眺めた。数年前、 母と引っ越して来た時に初めて見たこの綺麗な光景は、今後も忘れることはないだろう。
当時の宝探しの中で出会ったたくさんの人々。その中にチリちゃんがいて良かった、本当に。でなければ、今こんなにパルデアに愛着が湧くことはなかったかもしれない。いや、私ネモやペパーやボタンのことも同じくらい大好きだから、そんなことはないか。あはは。なんてことを考えていたら、後ろからお風呂が湧いたことを知らせる声が聞こえてきた。
「なまえ、もう一緒に入ろうや。その方がお互い早く寝れるし」
「……はあーい、しょうがないなあ」
「ちょっと嫌そうな顔すな」
「べつに、嫌じゃないよ。ツンデレなだけ」
「自分で言うん?それ」
窓を閉めてから脱衣場へ向かうと、ちょうどチリちゃんが服を脱ぐところで。あまりの準備の良さに、最初から一緒に入るつもりだったんじゃ?という憶測が脳内に浮かびつつ。後ろ手に引き戸を閉めながら、その様子につい目を奪われてしまう。やだ。今日も色気むんむんだ、このひと。やだ。もー。
「あ、こら。汚れちゃう」
チリちゃんが床に捨てようとしたシャツをすかさず空中でキャッチし、洗濯かごに投げ入れる。自分の家かつ私が一緒にいる時は、急に雑になるんだよなぁ、このひと。それがいつもしっかりしているチリちゃんなりの甘えなのかもしれない。かわいいけど正直めんどくさい。空気を読んだのか、残りの服は自分でかごに入れてくれた。
「じゃ、お先〜」
「あー!私が先って言ったのに!」
「はよ脱いでこっち来や、湯船に浸かって待っとるで〜」
長ーい髪の毛をまとめるゴムをすうっと解いて、お風呂場に消えていくチリちゃん。なんだかふざけているように見えるけど、未だに好きな人の前で服を脱ぐことへの羞恥心が残っている私に、さりげなく気を使ってくれたのかも。配慮の鬼かな?むしろ助かったと思いながら、自分も服を脱いでお風呂場に続く。
「お、おまたせ」
胸元を腕で隠し、背を丸めながらたどたどしい足取りで中に入る。女の子同士だけどまだ恥ずかしい気持ちが健在なのは、むしろ健全な証だと思いたい。と、気を紛らわすようなことを考えていたら、中で待ち構えていたチリちゃんにいきなりドバーッとお湯をかけられた。
「!?」
強制的に目が閉ざされ、なにがなんだか分からずに「わー!」と叫んでぶんぶんと首を振ることしかできない私。すぐ近くから大きな笑い声が聞こえてくるからすごくムカつく。
「なっはっは!」
「なに!?なにするの!」
逃げるように湯船に入るチリちゃんを追いかけ、勢いよく飛び込む。まるでイタズラ成功!と言わんばかりの笑顔をして、いたずらに笑って。なんかもう、やってることが子供くさくありませんこと!?
大きく波打ち、零れゆく湯なんて微塵も気にせず、わーわーと数秒間取っ組み合いの喧嘩をするうちに、恥ずかしさなんてまっさらに消え去っていく。心の底から楽しそうなチリちゃんの笑顔に完全に毒気を抜かれてしまった。急遽決まったお泊まり会がそんなに嬉しいらしい。
「あー楽しい!サイコー!なははははは」
「もーなんなのこのひと……やばいよこのひと……」
子供みたいに一人で勝手に笑い出して止まらないから、怖くなってしまう。もしかして毎日のお仕事で疲れが溜まっているのかもしれない。そう思うとなんだか可哀想になってきた。
二人して騒いだら急に落ち着いてきて、仲良く湯船の中で座り込んだ。チリちゃんに背中を預けたら、お腹に腕をまわされ大事に大事に抱きしめてくれる。素肌のチリちゃん、あったかい。
「今日も一日お疲れさん」
「うううー……ほんとにつかれた」
チリちゃんの肩に後頭部を預けてぐでーっと力を抜く。このひとは隙がないので有名なので、途端に後ろからやさしくやさしく鷲掴みされた。
「ん〜、また大きくなったんとちゃう?」
「おまわりさ〜〜んっ」
「やめれ」
頬をむにゅっと挟まれた。いきなりセクハラしてくるチリちゃんが悪いのに。
「でも、確かに言われてみれば最近またサイズ合わなくなってきたかも」
「成長期いつ止むん?」
「知らなーい」
「今度ショッピングでも行こか。ハッコウシティとか、どうや?」
「え、行く行く!ナンジャモちゃんに会いに行く!」
「ま〜た女目当てかい。このっ」
「だから、そういうんじゃないってばもー!」
軽く羽交い締めにされたから、バシャバシャ音を立てながら水の中で抵抗して、なんとかしてチリちゃんの腕を捕まえた。ふんっ、こうすれば何もできないだろう。
でも、本当に違うんだよ。私はみんなのことが大好きなだけだから、そう言葉にしてしまうだけで、べつにチリちゃんを困らせたくていちいちこんな発言をしているわけではないのだ。
顔を見られないこの体勢は都合がいい。この機会に、ちゃんと分からせてあげないと。
「あのね、私、誰かのことを好きになったのチリちゃんが初めてだよ。チリちゃんだけが特別なの。他の人なんか全然及びもつかないくらい」
「ふーん」
「チリちゃん以外の人はみんな、ただのライクでしかないもん。だから、ミーハーな私にいちいち嫉妬する必要なんかないんだよ。そんなんじゃ疲れるでしょ?」
とか言いながら、よく女の子の視線を集めるチリちゃんのことで嫉妬しているのは自分の方なんだけど。……だから、わざとチリちゃんの気を引きたくて、わざと同じように嫉妬させたくて、言う必要のないことまでを言ってしまうのかな、自分は。なんだか嫌なやつみたい。
そのまま黙り込んでいたら、よしよしと頭を撫でられた。
「チリちゃんはな、嫉妬することを楽しんでる時もあるから、あんまり心配せんでええよ」
「へー……?どえむなの?」
「ちゃうわ。大人の余裕ってやつや」
変な楽しみ方をしているなぁ。
「あと、嫉妬させるようなことしたなまえを問い詰めるのが楽しいってのもあるな」
「へ、へー……。どえすなの?」
「んーまあ、どっちかというと?」
そうだね、チリちゃんは元ヤンだもんね……(勝手に言ってるだけだけど)。
「なまえのこと、本気で疑ってかかったことなんて一度もないしな」
うーん、さっきのリップさんの時は本気で怒っているように見えたけど、あれ実は手加減してたの?怖。
「なまえがチリちゃんのこと大好きなんは、チリちゃんにはよう分かっとる。そんで、チリちゃんもなまえのこと、大好きや。一番な」
ぽんぽんと頭を撫でられ、これ以上ないってくらい優しい声色で言うから、耐えきれなくなってお湯の中に体を沈めた。ぶくぶく。幸せすぎて、このまま楽になりたい。
代わる代わる体を洗って、お風呂を済ませた私たち。お互いの髪を乾かしてから、面倒くさがるチリちゃんの長ーい髪の毛を丁寧に丁寧にブラシで通してあげて。規則正しく、日付が変わる前にベッドに入ることに成功した。
よし、とても順調だ。このまましっかり寝られたらしっかり早起きできるはず。チリちゃんの匂いのするTシャツに頬を緩めながら、スマホロトムをいじる私。なんかお腹にへんなのが抱きついてるけど、気にしない。
「なあ、ほんまに明日には帰るんか……?」
「うん。帰る」
「いやや〜〜〜〜!!!」
この様子、ポピーちゃんに見せてあげたい。いや、あの子は「甘えたさんのお年頃なんですね」ってかわいいがってくれると思うけど、アオキさんやオモダカさんにはドン引きされそう。それくらい外用のチリちゃんからは考えられないギャップがある。
「職場はまだ我慢きくけどなぁ〜。ハァ〜、どないして別々の家に住まなあかんねん!意味わからん、なんでなん」
「だってチリちゃん、私と一緒に暮らしたらダメになっちゃうもん」
「どういう意味や」
「そのままだよ」
言葉通り、そのまま。さっきだって床に服捨てようとしてたし。自分で髪の毛とかそうとしないし。
分かってるよ、チリちゃんは私がいないところではちゃんとお片付けして、髪のお手入れもちゃんと自分でするってことは。急なお泊まりだったのにお部屋はきちんと整理整頓されてたし、髪の毛はいつもうねりのないサラッサラッのストレート。思わず触りたくなっちゃう。
でも、私がいるとダメなのだ。チリちゃんは何もしなくなる。それは言い過ぎかもしれないけど、例えば朝起きれなくなるくらいには、ダメになるのだ。何回もお泊まりしたからもう分かっちゃった。
「そんなに酷くないやろ、さすがに」
「どうかなぁ。ていうか、チリちゃんだけじゃなくて私の方もダメになっちゃう」
「なまえも?」
「うん。チリちゃんと一緒じゃなきゃダメなからだになっちゃう!」
一緒に住んだらそれが当たり前になってしまうから。ドツボにはまって自堕落な生活になりそうで怖い。怖すぎ。そうやってオーバーリアクションぎみに言ってみると、どっちかというとツッコミ待ちだったのに返ってきたのは静かな声だった。
「そんなん……チリちゃんはもうなっとるで。なまえと一緒じゃなきゃ生きていけんわ」
チリちゃん、今にも泣きそう。どうせ嘘泣きだろうけど。私は騙されないぞ。でも無視するのは可哀想だから、スマホを置いて肩まで一緒に布団にもぐる。
「じゃあ、このまま別々に暮らしてたら死んじゃうの?」
「せやな」
「チリちゃん、生きて」
「なら一緒に住も。ええやろ?」
「……んん」
一緒に住む。つまり、同棲するということ。
「まだ悩むんか」
「えっ、えっと、なんていうか……」
これまで何回も寝泊まりを繰り返しているのに、一緒に住んでるところを想像したら急に照れくさくなってしまった。
本音を言えば、このまま二つ返事で頷くのもいいんだけど……チリちゃんが調子に乗っちゃうからまずは色々確認しないと。
「ねえ、一緒に住んだら、ちゃんと毎朝起こしてくれる?」
「なはは。チリちゃん、これでも朝苦手やねん。知っとるやろ」
「美味しいごはんとか、作ってくれる?」
「どーやろな。サンドイッチ作るんは自分のがうまいやろ?チリちゃんなまえのあれ好きや」
「お掃除とか、お洗濯とか、家事とか……」
「人並みには頑張るけどなぁ。正直、サボる日も結構多いで。忙しいとなーんもやる気せぇへんもん」
「へー。一緒に暮らす気ある?」
「ある!!!!!」
なんかダメかもしれない。二人してダメになる光景がもう想像できた。
「ていうか、家はどこにするの?」
「ここ」
「ミライドンちゃんに毎朝走らせる気……?」
「せや」
「そんなのやだ!無責任なこと言うチリちゃんはチリちゃんじゃない!」
ダメだ、ますますダメに思えてきた。チリちゃんはあんまりわがまま言わないって言ったけど、あれは間違いでした。普通に言う。それも私が折れるまで。
「少なくとも、私がベイクジムにいる限り不可能だね。爆走ミライドン出勤問題を解決しないと。そらとぶタクシーだって、毎日はさすがにもったいないし……」
「ベイクジムでなきゃ、ええんやな?」
「ん?」
「よっしゃ!チリちゃんがオモダカさんに話つけたる」
「えっ?」
チリちゃん、急に元気になった。
って、なに?もしかして私を転勤させようとしてる?
「なまえの言い分もあるんや、リーグには無理やり連れ込んだりせんようにする」
「まあ、チリちゃんがいる限りリーグでは働けないな〜って今日改めて思ったね。オモダカさんも認めてくれないだろうし」
「はいはい、ひどいひどい。んー、こっから近いセルクルジムなら今より断然楽になるやろ。どうや?ミライドンも毎朝の散歩なら大歓迎やないの?」
チリちゃんの提案に、ソファーの上のボールがゆらゆら揺れる。ボール越しに「アギャ」と返事が聞こえた気がした。ミライドンもチリちゃんに味方している。
「そりゃ、カエデさんのスイーツも捨て難いけど……。えー、せっかくリップさんと仲良くなれたところなのになー」
「んなこと言う子には、あそこで働かせたないわ」
「それ……オモダカさんに言うの?」
「言わん言わん。でも数々の面接をこなしてきたチリちゃんなら、本当のことを言わずとも言葉巧みに説得すんのなんか御茶の子さいさいや!」
ああ、チリちゃんなら本当にやってのけそう。私より断然お喋り得意だし、地味にポーカーフェイスなとこあるし、人の懐に入り込むの上手だし。
もうこんなにも話が進んだら転勤なんて決まったようなものだ。そして、同棲の話も。はぁ〜チリちゃんの愛が重たくて、重たくて、なんて心地よいのだろう。自分も相当頭がやられているらしい。恋愛脳ってやばすぎ。
「チリちゃん、じゃあさ……一緒に住んだら、いっぱい構ってくれる?」
「言うまでもないな」
言うまでもないか。私も、チリちゃんの構ってちゃんにいっぱい構ってあげなきゃ。
+
あの後、チリちゃんが変な気を起こして襲われるようなことは何もなかった。それについては本当に有難かったのだけど、逆に私の方が自分では気づかないうちに心のどこかで期待していた部分があったようで、そわそわしすぎて眠れなかった。最悪だよ。我慢してくれたチリちゃんに顔向けできない。
そのせいでちゃんと寝坊して、ちゃんと遅刻しそうになって、今からタクシーを呼ぶ時間ももったいないからと、ミライドンに謝りながら結局爆走ミライドン出勤をすることになった。
服や荷物はきちんと夜のうちに用意していたから自宅には戻らず、直行で、なんとかギリギリのところでジムに到着。髪も顔面も心も、何もかもが乱れているのに、朝一番に出迎えてくれたリップさんは私を見るなりこう言った。
「あら?今日のなまえちゃんは、随分と輝いているのね?」
「え?」
「ハッピーなことでもあったのかな〜?昨日一日好きピと会えて、はしゃいじゃったのかしら?やーん!リップ、嫉妬しちゃうわ。今度リーグからのお呼び出しがあっても、お断りしちゃおうかしら?」
「えっ」
なんか思ってた反応とちがう。
「でも私、遅刻しそうになって慌てて出てきたから……。髪の毛ボサボサだし、顔も寝起きで……ひどいですよね、あはは」
「とってもカワイイのに?」
私のどこを見て言っているんだろう、リップさんは……。
彼女は自らも広告塔を務めるモデルでもある。お化粧やヘアセットが崩れたところを見たことが無いし、お洋服だってシワひとつない。きっと毎朝早起きするのは当たり前で、私が思うよりもずっと大変な努力を積み重ねてきたのだろう。そんなリップさんが、今のこの状態をカワイイだって?
「今は私しかいないから、それでいいのよ」
「えっと、?」
「ほら、そろそろ始業時間になっちゃう。メイクルームに行ってきちんと襟元を正しておいでなさいな。そうしたら、見せたくない自分もバッチリ隠れるから安心ね。バッチグーよ」
パチッとウィンクしながらサムズアップをして、リップさんは今日のお仕事現場に向かうために廊下を進んでいってしまった。そうだ、早くお色直ししないと。急いでメイクルームに向かう私。
「……あー」
襟元を正す、というのは単なる比喩表現かと思って気にもとめなかったけれど……鏡の前に立ったことでようやくリップさんの言った言葉の意味を正しく理解した。
鏡からギリギリ見える位置。小さなリップマークが、確かにそこにあったから。
「チリちゃん!見えるところにしないでよ!リップさんが教えてくれなかったら、私そのまま気づかなかったよ、たぶん!」
お昼休憩になった瞬間、外に出て周りに誰もいないことを確認してからスマホロトムに向かって叫んだ。チリちゃんもチリちゃんで遅刻しそうになったはずだけど、私よりかは余裕があったから、今日もバッチグーなイケメン具合で画面越しに微笑んでいる。
『あの人が見たんなら、それでええ』
「……」
それが狙いでした、と。
はい。完敗です。一度も私を疑ったことがないと言いながら、疑わしい相手にこんなふうに見せつけるようなことをして、満足気なチリちゃんが、かわいい。世界で一番かわいい。すき。でも許可なくキスマークをつけたことはゆるさない!