⚠️特記事項
・R-18G
(軽い性描写、流血、グロ、反社会的描写あり)
・登場人物《全員》ヤバい
・一応溺愛ものになる予定
※このシリーズにおけるグロテスク描写は、ほとんどの場合モブさんが酷い目に遭うだけですので、夢主ちゃんが痛い思いをするのは、ほんのちょっぴりだけです。
……と前回は書きましたが、すみません、二話目にして夢主ちゃんが痛い目に遭います。愛の鞭というやつ。
[newpage]
地獄の底を知る前に、
楽に死ねるものだと思っていた。
「……、……?」
目覚めた私を待ち受けていたのは、恥辱だった。目を開けてすぐに自分の体にとてつもない違和感を覚えた。だから、天井が家の壊れかけた照明と違って明るいこととか、床の感触がいつもと違ってふかふかで柔らかいことなどは少しも気にならない。
それより、目の前で緑髪の人が私の体を挟み込むようにベッドの上に膝立ちして、半ば覆い被さるように手や脚を持ち上げ丁寧に観察しているのは、どういうことなのだろう。理解が及ばない。
「……あ、の、」
私は眠たい頭に鞭を打って、枕に頭を沈めたまま自分の体に視線をやった。その時目にした光景があまりにも信じ難く、夢と現実の境が曖昧だ。
あの日……といってもあれからどれくらいの時間が経過したかは見当もつかないけれど、あの日、浴びた返り血は綺麗さっぱりなくなっているようだ。確認するために服をめくるまでもない。
なぜなら、今の私は服を何一つ身につけていなかったから。
緑髪の――たしか、そう、殺し屋さん、だったっけ――は目蓋を開けた私にいち早く気づき、何食わぬ顔で言った。
「いい夢見れた?おはようさん」
「な、な、なに、して、……っ」
「取り調べ……ちゃう、身体検査?これもなんか違うな。健康観察?みたいなもんや」
自分で自分の行動に首を傾げている。なんだ、それ。私の方が意味分からなくて混乱しているのに、この人は私の反応など無視して、体中のあられもないところを舐め回すように見ている。普段は絶対に人に見せられないところまで。手や脚を持ち上げて、手袋越しに、乱雑に握ったりして感触を探っている。
「ふ、服は……」
「すぐ終わるんやから我慢せえ」
「……ぅ、……」
抵抗しようと試みるも、自分の意思に反して体があまり動かない。寝起きのせいで運動機能が低下しているのだ。……ああ、それだけが理由ではない気がする。意識を手放す前に、薬品のような何かを嗅がされたような……朧気な記憶が、ある、ような。当然私にはそっち系の知識などないから、あれがなんだったのかは想像もつかない。
でも、マフィアの人なら普段からそういった危ないものを持ち歩いていても特におかしいことはないのだろう。……そうなのか?知らない。適当に言った。
とにかく私はプライバシーのへったくれもない健康観察もどきをされながら、早く時間が過ぎるのを待った。
「本当はな、うちの優秀なミモザ先生に診てもらいたいとこなんやけど、今勤務先の高校が春休みの時期でな。久々の旅行や〜!!!って組織のことなんかほっぽってどっか遠いとこおんねん。あの子ギャルなとこあるから、こ〜れは、しばらく帰って来おへんで」
「……は、?」
世間話?のようなものを一方的に聞かされたところで、その人は持っていた私の腕をその辺に放り投げて、膝立ちのまま後ずさった。
「ん。報告通り傷なしアザなし。んで、ここは……」
手が離れたからようやく終わるかと思ったけれど、どうやら本番はここからだったようだ。殺し屋さんは私の了承などは当然得ないまま、両膝に手を置いて、当たり前のように脚を左右に開いて、そこをガン見し始めた。
「えっ、や、……っ」
もしやと思ったけど、本当に隅々まで観察するつもりなんだ、と悟る。それどころか、当たり前のようにそこに手を伸ばしてくるから頭を振った。
「……や、……やだ……っ」
「動くな。ええやん、女の子同士なんやから」
そういう問題ではないが。
だいたい動くなと言われても、それは無理な話だった。自分でも普段触ることの無いその部分……なんでか知らないけれど少し触られるだけで体が動いてしまうのだ。絶対触っちゃいけないところなのに、なんで、なんのために、そこまでする必要があるのだろう。死ぬほど嫌なはずなのに、頭が動かなくて、むしろ意識が正常じゃない時でよかったとすら思う。いや、そういう問題じゃない。
足は固定されて閉じられないから、せめてもの思いで、動かせる両腕で顔を覆い隠す。しかし視界を閉ざしても感触で分かってしまう。指の先で、あそこを触られている。触られる反応を見られている。
「肉付きは悪いけど傷一つない新品やな。ハァ惜しいわぁ、もう少し若けりゃもっと良い値がついたのに」
「……」
その発言でようやく少し理解できたかもしれない。なんだ、この人は私を売ろうとしているのだ。たぶん人身売買というやつ。マフィアならそういった危ないことも日常的に行っているのだろう。そうなのかな。知らない、適当に言った。
「にしてもあの家で暮らしててよう自分保てたなぁ。自傷のひとつくらいはあるかと思っとったけど……その代わりの“他傷”ってわけ。やっぱり大物やんな」
ただ事じゃないことをしながら、さも普段通りみたいな様子でひとりごとを言っている。騒いだら殺されそうな雰囲気だから、私は静かに涙を流した。嗚咽をこらえ、心を無にしてこの地獄のような時間を耐えていたら、殺し屋さんはようやく私の体から手を離して、ベッドから飛び降りた。学校で行われるそれとは随分と踏み込んだ健康観察とやらが終わったらしい。
「……ぁ、……う、う」
しばらく呆然としてから、ふと我に返ってベッドの端に避けられていた掛け布団を必死にたぐりよせる私。どうしてあんな嫌なタイミングで目覚めてしまったのだろう……もう少し遅ければまだマシだったのに……。いや、そういう問題じゃない……。
最低限隠せるところを隠しながら死体のふりをして小さくなっていたら、どこからか持って着たらしい、白い死装束のような着物を投げ渡された。
「これ、やるわ」
「……」
とてもふわふわな死装束だ。
「これはな、バスローブって言うんやで。今リップさんにあんたに似合う服を見繕ってもろてるんやけど、その間着るもんないと嫌やろ。それで我慢し」
「……バス、ロー……」
「返事は」
「はっ、は、い……」
寝起きのせいで、もしくは薬品のせいで、はたまた恥辱を受けたショックのせいで、耳に入ってくる声が脳内で響いてよく聞き取れなかったのだ、という言い訳をしたら殺されそうな目を向けられた。怖い。
急いで返事をして、ありがとうございますと小さく礼を言うと、その人は「ん」と片手をあげて向こうにある一人がけのソファーに腰を下ろした。
「……」
私の制服、どこ。あの日着ていた、私のなけなしの服。貧乏なのに母がどこかから調達してきてくれた、高校のお古の制服。ほとんどゴミしかない家で母の形見を着る思いで大切にしていたのだが、周囲のどこにも見当たらないようだ。ていうか、ここ、どこ。
少し時間を置いたら気分は少し落ち着いた。周りを見回そうとベッドから起き上がったところでようやく、ここがどこか知らない場所であるということをはっきりと認識した。とりあえず、拘置所ではないことに安堵する。あの窮屈な家のように、狭くて、暗くて、息の詰まる場所で目覚めるのは懲り懲りなのだ。バスローブなるものに袖を通しながら、こっそり頭を動かす。
この一部屋で私の家全体の三倍くらいあるような、とてつもなく大きな部屋だ。今私がいるベッドと、テーブルと、ソファー諸々が適度な位置関係で置いてある。なんというか、高級そうな……どこかに傷一つ付けたら殺されそうな、お金持ちが住んでいるような部屋だ。
「……え」
ふと、右側の方にある天井から床まである大きな窓を見た時、ぎょっとした。ここ、雲が目の前にある。人生の中で学校の四階より空に近づいたことがないから、思わず身が竦んだ。そんなにも高い建物にいるのか、私は。
「ああ、ここがどこか気になるん?」
あの日。突然家にやってきたこの……謎の陽気な殺し屋さんに、私は何故か気に入られて、運良く殺されずに済んだ……というところまでは覚えている。ていうか、今思い出した。けれどそれ以降が分からない。あれからどうなったんだっけ。
そもそも『気に入られた』という状況がまずいまいち理解出来ていないのだが。まあそれは一旦置いておくとして……(はたして置いといていいのかどうかもさておき)。
あの家はどうなったのか。あの“ゴミ”たちはどうなったのか。どういう経緯でここまで私が運ばれたのか。聞きたいことは山ほどある。何から聞こうかを考えながら、ようやく体を動かせそうになったので、試しにベッドからおりてみる。
バスローブの前が開かないように手で押さえながら、あの人のいるソファーのところまで裸足のまま近寄ろうとしたら、
「履けや」
「えっ、あ……」
ベッドのそばを指さされた。ビクリと肩を震わせ視線をやると、そこにはスリッパが落ちていた。
「ご、めんなさい」
お家の中でスリッパを履くという常識がなかったのだ、という言い訳をしたら殺されそうな空気である。そういう殺し屋さんは部屋の中なのに靴を履いていて……なんなんだ、この違い。慌ててそれに足を通していたら、またあの人の声がした。
「あのアパートなら一晩のうちに全焼したったで」
「……え?」
急に衝撃的なことを。
「存在そのものが害やろあんなボロ屋……ってなわけで、部下に処理させたわ。ゴミも一緒に処分できるんやから一石二鳥やろ。死体とか、住民関係のことは気にせんでええ。うちらお巡りさんとも仲良しファミリーやから」
「……そう、なんですか」
あの家、燃えてなくなってしまったらしい。あんなボロ屋でも家は家だから、少し寂しいような。……いや、でも毎日のように早く家を出たいと強く願っていたから、なくなったところでどうでもよかった。
顎で座れと言われたから、向かいのソファーに慎重に腰をおろす。思っていたよりも深く沈んで腰を抜かすかと思った。こんなにも座り心地のいい椅子に座ったのは初めてだ。さっき触られたところの感覚が気になるが、気にしてもしょうがない。あれはもう忘れてしまおう。……はい、忘れた。もう忘れた。
「んで、このビルディングは表向きにはうちのボスの会社が持ってるもんなんやけど、自分の家を持たない人はこの居住専用フロアで暮らしてる人も多いんや。ま、ホテルみたいな感覚やな」
「……そう、なんですね」
ホテルというものに行ったことがないから、よく分からない例えだった。まだ漠然としか理解できていないが、ひとまず相槌をうつ。何か言わないとすぐ返事を催促されそうだから。
「上から下まで組織の人間しかおらんから、あんま気張らんでもええよ」
「……そ、それは、ここには危ないマフィアのひとしか、いないってことじゃ、……」
「違う。ここには幹部の持ち物なんかに手ぇ出す愚か者は一人もおらんってことや。堂々と歩けるで」
幹部、というのがこの人のことを指しているのだとすれば、今の私はこの人の所有物という扱いらしい。幹部……か。この人は、組織?の中でもどのへんの立場にいる人なのだろう。他の組織の人をまったく見かけないから、全然わからない。分からないけれど、なんだか偉そうな感じはする。
部屋のソファーに深く座り込んで、新聞を眺める緑の殺し屋さん。そういえば、名前を聞いてないな。なんだったっけ、私の家に来た時に何か電話をしていたことは覚えているが、内容までは覚えていない。あの時はそれどころではなかったし。
「にしてもあんた、ほんまに無傷やねんな。父親に暴力振るわれてたわけやなかったんか?」
「……暴力?なんのおはなし、ですか」
「ふーん。あの死体、見るからに人殴りそうな顔しとったのに、自分の娘は大事大事にしてたんやな」
「……大事?誰の、おはなしですか」
「あーな。なんとなく分かった」
あさっての方向を見ながら、新聞を空中でゆらゆら揺らす殺し屋さん。
「放置寄りのネグレクトやったんやな。最低限の住む場所と最低限の食いもん与えるだけで、父親面しとったんやろ。可哀想に」
とても可哀想だと思っているようには見えない。至極どうでもよさそうな顔をしている。
「にしても、あの殺し方は……ちと不可解なところがあると思うんよね」
「……不可解?」
「まあええわ。もう終わったことやし」
そう言うなり、殺し屋さんは新聞紙をテーブルの上に音を立てずに置いた。立ち上がって、なにやら黒い上着のようなものを羽織るから、どこかへ行くつもりなのだろう。
……言葉は砕けているけれど、振る舞いがいちいち育ちのいい人間という感じがする。まあ、私に比べたら、というだけかもしれない。
殺し屋さんは、言う。
「殺意が芽生えて、それを実行した時点であんたはもう立派な殺人鬼や。普通には生きられへんと思っとった方がええ」
それは、そうだ。それより、どっちかというとまだ生きている事実のほうがまず疑問なのですが。
「腹減ったやろ?今からうちのシェフ寄越すから、それまで適当に過ごしてや。少し出るわ」
「……はい」
名前、聞きそびれてしまった。
あの人が出ていってから、丸24時間待たされた。
その間、シェフ?さんが現れるようなことは特になく、再び眠りについたり、いつもするように洗面台の水を手のひらで掬ってちびちび水分補給をしながら過ごしていたら、例の緑の殺し屋さんが真っ赤になって帰ってきた。
「……」
顔や、服や、髪が、真っ赤に。
「すまんなぁ、立て続けに仕事が舞い込んでしもうて、ボスったら人使いが荒いったらないわ」
「……おかえり、なさい」
この人、本当に殺し屋さんなんだなぁ。昨日出ていってから、あの日の私みたいに豪快に返り血を浴びるようなことをして来たのだろう。本業の人ならもっとスマートに、返り血のひとつも浴びずにさらっとこなすものだと思っていたけれど、それは偏見だったのかな。
それとも、私のような一般人……いや、殺人初心者にはとても想像もできないような殺し方をするのかもしれない。
「じゃ、サワロさん。頼みますわ。置くだけ置いて帰ったってください」
「了解いたした」
そのまま風呂場へ直行するのを目だけで見送る。バスローブ姿のままソファーで小さくなっている私をよそに、一緒に入ってきた謎の大きな男の人はテキパキと何かをテーブルの上に並べ始めた。この人がシェフさんなのだろうか。他の組織の人、初めて見た。
正直、お腹がすき過ぎることには慣れているから、あと一日くらいは水だけあればなんとか過ごせるのだけれど……目の前に並べられた食器類から漂う美味しそうな匂いを嗅いだ途端に、お腹がきゅるきゅると反応してしまった。
まるで、そう、レストランに来たみたい。でも一度も行ったことがないから想像でしかない。テーブルの端と端、おそらく二人分の料理を鏡のように対照的に並べたあと、シェフさんはぺこりとお辞儀をして部屋を出ていってしまった。
「……ぐぅ」
腹の虫が鳴る。
「なんや、待たんでもよかったのに」
「……え、えと……その、」
私の家では全然そんなことないけど……食事というものは、普通の家では人が揃ってから始めるものだと思っていた。でも実際のところはそういうわけでもないのかもしれない。常識というものがよく分からない。
お風呂場から出てきた殺し屋さんは、24時間前のように向かいのソファーに座ってノータイムで手を合わせ、食事を始めてしまった。
「うま〜」
「……」
髪をおろすと普通に女性に見える。それともお風呂上がりだからだろうか。じっと様子を見守る私。食べて、いいのかな。
「あんたも食べ。腹減ったやろ?」
「……は、はい」
許可をくれたのはいいものの、ようやくありつけた食事はほとんど胃に入らなかった。昨日から何も食べていないことに気を使ってか、スープ系など胃に優しいものばかりなのに、そもそも胃が小石くらいの大きさになっているから関係なかった。
「残すにしてももう少し食べや。次いつ食べられるか分からんで」
「…………え、」
そんなことを言われたら頑張って食べるしかなくなる。単なる脅しにしても効果は絶大だった。そうか、私は既に生活の全てをこの人に握られてしまっているのだ。見よう見まねでスプーンを握ってスープを口に運ぶ。味があって、美味しすぎて、吐くかと思った。
「……げほ、げほ」
「……」
「……?」
ふと前を向けば、殺し屋さんが何か言いたげにこちらに視線を向けている。私が食べる様子をじっと見られている……。
「食器の持ち方から教え込まなあかん」
何か、呆れさせてしまったようだ。
「殺し屋さん、おかえりなさい」
「なんやその呼び方。チリって名前があんねんけど」
「……チリさん」
殺し屋さんの名前は、チリさん、というらしい。七日目にしてようやく知ることができた。食事をする以外は部屋を出ていってしまうから、会話がほとんどなかったのだ。
顔と名前を覚えるのが大の不得意なので、これ以降二度と訊ねることのないように、頭の中でチリさん、チリさん、チリさんとぶつぶつ復唱する。だって一度聞いたことを再び質問すれば殺されそうな感じするから、こちらとしては必死なのだ。
この数日の間、これまで微塵も覚えることのなかった正しいテーブルマナーを直に叩き込まれるうちに、彼女の厳しい一面はなんとなく理解した。
「あの、聞きそびれた、ことが」
「なんや?」
「わ、私の服……どこですか」
その代わり。一度も聞いたことがないことや、私が知る由もないことは別に質問しても嫌な顔をされない、ということも分かった。だから今までずっと気になっていた、私の制服の在処を訊ねてみることにした。
今日もまた、ひと仕事を終え帰ってきた殺し屋さん……じゃなく、チリさん。大胆な返り血を浴びてきたのは二日目だけで、今日は昨日までと同じように綺麗なままの格好だ。やっぱりあの日だけはイレギュラーだったのかもしれない……というたぶん無意味な考察をしつつ、ソファーに座る。チリさんも今日はお風呂場には向かわず、そのまま食事の時間が始まった。
「服?何のことや」
「……制服です。**高校の」
「ああ。あー?あー……」
チリさんは、私の唐突な質問にものすごく頭を悩ませている。そんなに変なことを聞いたかな。
今私が着ているのは、三日ほど前にチリさんが持ってきてくれたお洋服のひとつ。たぶん、安物じゃない。穴は開いていないし、拙い縫い目も汚れもない。とても着やすい。普通の人はこんな服を着ているんだ、と感動したものだ。
しかし、元々着ていた制服がどうなったのか、私はどうしても気になっていた。でもチリさんにとっては些細なことなのだろう。気にもとめてなかったようだ。
「たしか……あんたが着てた制服なら、汚れてたから捨てといたで。高校もう行かんやろ?」
「……」
勝手に捨てられてしまったらしい。確かに、返り血がたくさんついていたから、もうあれを着て外を歩くことは出来なかったろうけど。
でも、あれは。あれは母の……形見というか、まあ、考えてみればそこまで大事なものでもなかった気もする。どっちだったっけ。
「そういえば、言われてみれば変やな。世間は今春休みの時期やろ?せやからミモザ先生留守なんやし。なんで家ん中で制服着てたん」
「……私の服、あれと中学の制服と、ジャージだけなので」
「ふーん。ミニマリストやな」
貧乏だっただけですが。
「それももう、あのゴミ屋敷と一緒に燃えてしもうたからなぁ。これからはチリちゃんが好きなもん買ったるさかい、欲しいもんあったら遠慮せずに言うんやで」
「……?」
ち、チリちゃん……?
「返事は」
「はっ、はい……」
「ええ子」
チリさんはそう言って、何事もなかったかのように黙々と食事を進める。
何が目的なんだろう、この人。
私のことを殺さなかったのもそうだし。前の家に比べたら天国のような快適過ぎる部屋で、着るものも、食べ物も、寝る場所も全て与えてくれる。乱暴こそ初日のあれ以降何もされていないし。テーブルマナーとか、お行儀のことまで面倒を見てくれる。感謝しなければいけないことなのだろうけど……。
それもこれも人身売買に関係があるのだろうか。一通りしつけてから売りに出す方が、価値が上がるとかそういう話?肉付きがどうとか言っていた。じゃあ、今の私は肥やされている段階なのだろうか。いつかは、売られる?
「なんか用か」
「ひ」
食事を終え、今日もチリさんが出ていってしまう前に、今後のことを聞いてみようと思った。何か言われてしまわないよう、スリッパをきちんと履いて、着させてもらっているお洋服を綺麗に整えて、背筋を正してそろりそろりと近寄る私だったけど、声をかける前に振り返るからびっくりして後ずさった。この人、後ろにも目がついてる。
「なんや。さっきからそわそわしよって」
「い、いえ……その……」
「はよ言わんかい」
怪訝そうな顔でじっと見下ろされている。笑顔を見たのは初対面の一度だけだ。視線ひとつで人を殺せそうな目をする人。
思わず怯んでしまったけれど、何も言わないとますます睨まれてしまいそうなので、意を決して口を開く。
「私、これから、どうなるのですか……」
言葉通り、私はこれからどうなるのだろう。何をすればいいのだろう。殺されるにしても売りに出されるにしても、自分の今後のことはちゃんと知っておきたかった。
チリさんはシャツの袖をまくりながら、ふむと目を閉じた。
「せやな。いつまでもタダ飯食わせとくわけにはいかん。そろそろ……。ああ、でも今は、そか、どないしよ」
鏡の前で身支度を整えながら、ひとりごとのように何かを唱えている。私は三歩くらい距離を置いたところでじっとして、言葉の続きを待った。
「靴箱」
「……え?」
「あんたの靴、サイズぴったりやと思うから履いて待ってて」
チリさんはそう言って部屋の奥へ戻ってしまった。あそこは私が入っちゃいけないところだ。とりあえず、靴を履けばいい……のかな。もしかして、私も部屋の外へ?
わかんないけど、チリさんが入った扉に向かって「わかりました」と返事をして、玄関の方へ向かう。あんまり触っちゃだめかと思って一度も開けたことのない、大きな扉を開けてみると、そこには一足の黒い靴が収まっていた。これ、だろうか。
おそるおそる手に取って、扉を閉める。高校に行かなくなって何ヶ月も外に出ていなかったから、靴を履くのなんて久しぶりだ。下に置いて、その場に座り込んで、せっせと足を通す。紐の結び方……わかんなくなっちゃった。てきとうでいいかな……思い出しながらわたわた靴を履いていたら、準備を終えたチリさんに後ろから足でどつかれた。
「もたもたすな」
「は、はいっ」
「あと、邪魔やからどいてな」
あっ、とすぐに端っこに寄る私。チリさんは手に持っていた茶色のブーツを少し遠くの方に置いて、立ったまま靴を履いた。二秒もかかっていなかった。どうしてそんなにスムーズに履けるんだろう。才能かな。
「おっそ。はよ歩け」
「……そんなこと、言われても」
どこへ向かうのだろうか。部屋を出るなり、さっさと廊下を歩き出すチリさんの後ろを頑張ってついていく私。歩幅も歩く速さもまるで違うようだ。引きこもりだったからしょうがないとはいえ、置いてけぼりにされる勢いでずんずん進んでいくものだから、さっそく泣きたくなってしまう。はあはあ息を切らしながら小走りで必死についていく。
「ど、どこへ?」
「ボスのとこ」
「えっ?」
「――って言いたいとこなんやけど、ボスはボスでやることぎょうさんあって、面会する暇なんかあらへん。せやから、せめてハッサクさんのとこにでも行っとこか思て」
ボスに会いに行くと聞いて耳を疑ったけれど、どうやら今日は大丈夫と聞いて少し安心した。まあハッサクさんという人がどういう人なのかは全然知らないけど。
エレベーターの前に来た。待っている間、チリさんの斜め後ろできょろきょろ辺りを見回してみる。私たちが出てきたのと同じような扉がいくつも並んでいる。廊下には今のところ人が一人もいないようだ。他にも住んでる人がいる、という話だったけど、たまたま見かけないだけだろうか。
エレベーターに乗り込んで「ひえっ」と驚いた。ここは53階らしい。とてつもない数字だ……こんなに高くて風とかで倒れたりしないのかな……よく平気で寝泊まりしていたな、私。
「53……」
「ん?」
そういえば、思い出したことがひとつ。もう質問するのには怖くなくなってきたから、暇つぶしついでに斜め後ろから問いかけた。
「あの……その、父には3653万円程の借金がありました。私が把握してる限りでは……」
「ボタンによると6500万らしいで」
倍に増えた。
「それがなんや?」
「え、えっと、よく知らないんですけど……死んだら借金はなくなるものなんですか?そんなこと、考えずにころしちゃって……」
「遺族が背負うんやないの、普通」
「……え?」
じゃあ今、私には6500万円の借金があるということに?うわ。殺さなきゃよかった。と、ここで初めて後悔しかけた私だが、次のチリさんの言葉でその後悔は消え去った。
「あんたの借金なら全部組織が立て替えたから、気にする必要あらへんで」
「え?そ、そうなんですか」
「おん」
「なんで、組織のひとが、立て替えなんて」
「立て替えっちゅうか、取り立てる側の闇金融を解体させたから、なかったことになったんや。ボスは汚いものが嫌いでな。ネズミみたいにちょこまか動くあいつらが目障りでしゃあない言うから、この数日間幹部が駆り出されてたんよ」
闇金融を解体?それがいったいどういうことなのか、詳細に知る必要はないのだろう。チリさんは教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上問いかけても適当にあしらわれるだけだ。
とにかく私の借金がなくなったらしいことに安堵する私。そもそもマフィアという組織のお仕事について想像もできないから、考えたところで仕方がない。って、また感謝しなければいけないことが増えていないか?新たな気づきを得たところで、目的の階に到着。
おりたところで、ようやく人の姿を見かけた。しかし信じられない光景だったのが、そこにいた人たちがみんな、同じ角度でお辞儀をしていること。え?と立ち尽くしてエレベーターの中に取り残されそうになったのを、慌てて飛び出た。
私のことなんて気にせずズンズン進んでいくチリさんの後ろを、今度こそ置いていかれないように歩く私。周囲の人たちの視線が何故かこちらに集まっている。そして、一人も欠かさず挨拶を投げかけてくる。返事代わりに片手をあげるチリさん。
「ハッサクさんおる?」
「はい。在室しておられます」
「そ」
あ、もしかして、この人がいるから……みんな挨拶して、お辞儀して。やっぱり偉い人なんだ、このひと。みんな敬語だし……。
私はまるで空気になった気持ちでその様子を見ていた。
+
なんというか、優しそうではあるけれど、変な人だった……。
「あなたのお名前は?」
通された部屋には金髪の男性がいた。この人がハッサクさん……らしいのだけれど、案内するなりチリさんが「じゃあまた後ほど」という言葉を残して行ってしまうから、二人きりで残された私はド緊張状態でソファーに座らされるのだった。
まるで学校のカウンセラーさんのように色々と質問を投げかけられて、生い立ちやら何やらを事細かに話していたら、父と母に関する話題で突然人が変わったようにおいそれと泣き出してしまって、私のほうが泣きたくなった。なにこれ、どうすればいいの……。
「ああ、失礼。大変な人生を送られて来たのですね。しかしもう安心ですよ。我々組織に属する者は“規則さえ守れば”衣食住と娯楽が保障されているのです」
「……規則?」
「なあに、難しいことはありません。規則とは、“上司に刃向かわないこと”。これ一般常識。社会人にとって極当たり前のルールです。いいですか?」
「はあ……」
「ルールを守る人こそが、ルールに守られているのです。逆に、規則を破ればその身の安全はないものと思いなさい。その点で言えば、チリは優しい方ではありますがね」
チリさんは優しい方らしい。いいことを聞いた。
私はどうやら『組織に新たに属することになった人間』、また『四幹部であるチリさんが統括する構成員のうちの一人』という扱いになるらしかった。
ハッサクさんは規則のこと以外にも、この建物での過ごし方、組織の構成員の大まかな関係性や、どのようなことをして普段仕事をこなしているのかなど、必要なことをまとめて教えてくれた。
マフィアといっても、普通の会社のようにかなりシステムが整った組織のように思えた。ボスがいて、その下に樹形図のように構成員が順番に配属されていて……私が通っていた学校の誰よりも分かりやすい説明だったから、私でも簡単に理解することができた。こんな先生だったなら授業も楽だったのだろうな……。
チリさんの部下と名乗るスーツの人に案内されて部屋に戻ると、そこには既に夕食が並べられていた。出来たての温かいごはんを食べられるだけで幸せな気持ちになれる。それを一日に三度も。前に比べたら断然、天国のような場所だ、ここは。
今回の食事は一人分だけのようだから、チリさんはどこか他の場所で食べてくるのだろう。さっそくテーブルについて「いただきます」と手を合わせた。
「……」
温かい。
涙がでてきた。初日の食事の際にこうならなかったのは、実感が湧かなかったからだ。食器を置いて手で顔を覆う。
「……ひぐ、……っうえ」
いつか、お礼をしなくちゃ。私以外に誰もいないから、好きなだけ涙を流した。その日、私は出された食事を初めて完食することができた。
・R-18G
(軽い性描写、流血、グロ、反社会的描写あり)
・登場人物《全員》ヤバい
・一応溺愛ものになる予定
※このシリーズにおけるグロテスク描写は、ほとんどの場合モブさんが酷い目に遭うだけですので、夢主ちゃんが痛い思いをするのは、ほんのちょっぴりだけです。
……と前回は書きましたが、すみません、二話目にして夢主ちゃんが痛い目に遭います。愛の鞭というやつ。
[newpage]
地獄の底を知る前に、
楽に死ねるものだと思っていた。
「……、……?」
目覚めた私を待ち受けていたのは、恥辱だった。目を開けてすぐに自分の体にとてつもない違和感を覚えた。だから、天井が家の壊れかけた照明と違って明るいこととか、床の感触がいつもと違ってふかふかで柔らかいことなどは少しも気にならない。
それより、目の前で緑髪の人が私の体を挟み込むようにベッドの上に膝立ちして、半ば覆い被さるように手や脚を持ち上げ丁寧に観察しているのは、どういうことなのだろう。理解が及ばない。
「……あ、の、」
私は眠たい頭に鞭を打って、枕に頭を沈めたまま自分の体に視線をやった。その時目にした光景があまりにも信じ難く、夢と現実の境が曖昧だ。
あの日……といってもあれからどれくらいの時間が経過したかは見当もつかないけれど、あの日、浴びた返り血は綺麗さっぱりなくなっているようだ。確認するために服をめくるまでもない。
なぜなら、今の私は服を何一つ身につけていなかったから。
緑髪の――たしか、そう、殺し屋さん、だったっけ――は目蓋を開けた私にいち早く気づき、何食わぬ顔で言った。
「いい夢見れた?おはようさん」
「な、な、なに、して、……っ」
「取り調べ……ちゃう、身体検査?これもなんか違うな。健康観察?みたいなもんや」
自分で自分の行動に首を傾げている。なんだ、それ。私の方が意味分からなくて混乱しているのに、この人は私の反応など無視して、体中のあられもないところを舐め回すように見ている。普段は絶対に人に見せられないところまで。手や脚を持ち上げて、手袋越しに、乱雑に握ったりして感触を探っている。
「ふ、服は……」
「すぐ終わるんやから我慢せえ」
「……ぅ、……」
抵抗しようと試みるも、自分の意思に反して体があまり動かない。寝起きのせいで運動機能が低下しているのだ。……ああ、それだけが理由ではない気がする。意識を手放す前に、薬品のような何かを嗅がされたような……朧気な記憶が、ある、ような。当然私にはそっち系の知識などないから、あれがなんだったのかは想像もつかない。
でも、マフィアの人なら普段からそういった危ないものを持ち歩いていても特におかしいことはないのだろう。……そうなのか?知らない。適当に言った。
とにかく私はプライバシーのへったくれもない健康観察もどきをされながら、早く時間が過ぎるのを待った。
「本当はな、うちの優秀なミモザ先生に診てもらいたいとこなんやけど、今勤務先の高校が春休みの時期でな。久々の旅行や〜!!!って組織のことなんかほっぽってどっか遠いとこおんねん。あの子ギャルなとこあるから、こ〜れは、しばらく帰って来おへんで」
「……は、?」
世間話?のようなものを一方的に聞かされたところで、その人は持っていた私の腕をその辺に放り投げて、膝立ちのまま後ずさった。
「ん。報告通り傷なしアザなし。んで、ここは……」
手が離れたからようやく終わるかと思ったけれど、どうやら本番はここからだったようだ。殺し屋さんは私の了承などは当然得ないまま、両膝に手を置いて、当たり前のように脚を左右に開いて、そこをガン見し始めた。
「えっ、や、……っ」
もしやと思ったけど、本当に隅々まで観察するつもりなんだ、と悟る。それどころか、当たり前のようにそこに手を伸ばしてくるから頭を振った。
「……や、……やだ……っ」
「動くな。ええやん、女の子同士なんやから」
そういう問題ではないが。
だいたい動くなと言われても、それは無理な話だった。自分でも普段触ることの無いその部分……なんでか知らないけれど少し触られるだけで体が動いてしまうのだ。絶対触っちゃいけないところなのに、なんで、なんのために、そこまでする必要があるのだろう。死ぬほど嫌なはずなのに、頭が動かなくて、むしろ意識が正常じゃない時でよかったとすら思う。いや、そういう問題じゃない。
足は固定されて閉じられないから、せめてもの思いで、動かせる両腕で顔を覆い隠す。しかし視界を閉ざしても感触で分かってしまう。指の先で、あそこを触られている。触られる反応を見られている。
「肉付きは悪いけど傷一つない新品やな。ハァ惜しいわぁ、もう少し若けりゃもっと良い値がついたのに」
「……」
その発言でようやく少し理解できたかもしれない。なんだ、この人は私を売ろうとしているのだ。たぶん人身売買というやつ。マフィアならそういった危ないことも日常的に行っているのだろう。そうなのかな。知らない、適当に言った。
「にしてもあの家で暮らしててよう自分保てたなぁ。自傷のひとつくらいはあるかと思っとったけど……その代わりの“他傷”ってわけ。やっぱり大物やんな」
ただ事じゃないことをしながら、さも普段通りみたいな様子でひとりごとを言っている。騒いだら殺されそうな雰囲気だから、私は静かに涙を流した。嗚咽をこらえ、心を無にしてこの地獄のような時間を耐えていたら、殺し屋さんはようやく私の体から手を離して、ベッドから飛び降りた。学校で行われるそれとは随分と踏み込んだ健康観察とやらが終わったらしい。
「……ぁ、……う、う」
しばらく呆然としてから、ふと我に返ってベッドの端に避けられていた掛け布団を必死にたぐりよせる私。どうしてあんな嫌なタイミングで目覚めてしまったのだろう……もう少し遅ければまだマシだったのに……。いや、そういう問題じゃない……。
最低限隠せるところを隠しながら死体のふりをして小さくなっていたら、どこからか持って着たらしい、白い死装束のような着物を投げ渡された。
「これ、やるわ」
「……」
とてもふわふわな死装束だ。
「これはな、バスローブって言うんやで。今リップさんにあんたに似合う服を見繕ってもろてるんやけど、その間着るもんないと嫌やろ。それで我慢し」
「……バス、ロー……」
「返事は」
「はっ、は、い……」
寝起きのせいで、もしくは薬品のせいで、はたまた恥辱を受けたショックのせいで、耳に入ってくる声が脳内で響いてよく聞き取れなかったのだ、という言い訳をしたら殺されそうな目を向けられた。怖い。
急いで返事をして、ありがとうございますと小さく礼を言うと、その人は「ん」と片手をあげて向こうにある一人がけのソファーに腰を下ろした。
「……」
私の制服、どこ。あの日着ていた、私のなけなしの服。貧乏なのに母がどこかから調達してきてくれた、高校のお古の制服。ほとんどゴミしかない家で母の形見を着る思いで大切にしていたのだが、周囲のどこにも見当たらないようだ。ていうか、ここ、どこ。
少し時間を置いたら気分は少し落ち着いた。周りを見回そうとベッドから起き上がったところでようやく、ここがどこか知らない場所であるということをはっきりと認識した。とりあえず、拘置所ではないことに安堵する。あの窮屈な家のように、狭くて、暗くて、息の詰まる場所で目覚めるのは懲り懲りなのだ。バスローブなるものに袖を通しながら、こっそり頭を動かす。
この一部屋で私の家全体の三倍くらいあるような、とてつもなく大きな部屋だ。今私がいるベッドと、テーブルと、ソファー諸々が適度な位置関係で置いてある。なんというか、高級そうな……どこかに傷一つ付けたら殺されそうな、お金持ちが住んでいるような部屋だ。
「……え」
ふと、右側の方にある天井から床まである大きな窓を見た時、ぎょっとした。ここ、雲が目の前にある。人生の中で学校の四階より空に近づいたことがないから、思わず身が竦んだ。そんなにも高い建物にいるのか、私は。
「ああ、ここがどこか気になるん?」
あの日。突然家にやってきたこの……謎の陽気な殺し屋さんに、私は何故か気に入られて、運良く殺されずに済んだ……というところまでは覚えている。ていうか、今思い出した。けれどそれ以降が分からない。あれからどうなったんだっけ。
そもそも『気に入られた』という状況がまずいまいち理解出来ていないのだが。まあそれは一旦置いておくとして……(はたして置いといていいのかどうかもさておき)。
あの家はどうなったのか。あの“ゴミ”たちはどうなったのか。どういう経緯でここまで私が運ばれたのか。聞きたいことは山ほどある。何から聞こうかを考えながら、ようやく体を動かせそうになったので、試しにベッドからおりてみる。
バスローブの前が開かないように手で押さえながら、あの人のいるソファーのところまで裸足のまま近寄ろうとしたら、
「履けや」
「えっ、あ……」
ベッドのそばを指さされた。ビクリと肩を震わせ視線をやると、そこにはスリッパが落ちていた。
「ご、めんなさい」
お家の中でスリッパを履くという常識がなかったのだ、という言い訳をしたら殺されそうな空気である。そういう殺し屋さんは部屋の中なのに靴を履いていて……なんなんだ、この違い。慌ててそれに足を通していたら、またあの人の声がした。
「あのアパートなら一晩のうちに全焼したったで」
「……え?」
急に衝撃的なことを。
「存在そのものが害やろあんなボロ屋……ってなわけで、部下に処理させたわ。ゴミも一緒に処分できるんやから一石二鳥やろ。死体とか、住民関係のことは気にせんでええ。うちらお巡りさんとも仲良しファミリーやから」
「……そう、なんですか」
あの家、燃えてなくなってしまったらしい。あんなボロ屋でも家は家だから、少し寂しいような。……いや、でも毎日のように早く家を出たいと強く願っていたから、なくなったところでどうでもよかった。
顎で座れと言われたから、向かいのソファーに慎重に腰をおろす。思っていたよりも深く沈んで腰を抜かすかと思った。こんなにも座り心地のいい椅子に座ったのは初めてだ。さっき触られたところの感覚が気になるが、気にしてもしょうがない。あれはもう忘れてしまおう。……はい、忘れた。もう忘れた。
「んで、このビルディングは表向きにはうちのボスの会社が持ってるもんなんやけど、自分の家を持たない人はこの居住専用フロアで暮らしてる人も多いんや。ま、ホテルみたいな感覚やな」
「……そう、なんですね」
ホテルというものに行ったことがないから、よく分からない例えだった。まだ漠然としか理解できていないが、ひとまず相槌をうつ。何か言わないとすぐ返事を催促されそうだから。
「上から下まで組織の人間しかおらんから、あんま気張らんでもええよ」
「……そ、それは、ここには危ないマフィアのひとしか、いないってことじゃ、……」
「違う。ここには幹部の持ち物なんかに手ぇ出す愚か者は一人もおらんってことや。堂々と歩けるで」
幹部、というのがこの人のことを指しているのだとすれば、今の私はこの人の所有物という扱いらしい。幹部……か。この人は、組織?の中でもどのへんの立場にいる人なのだろう。他の組織の人をまったく見かけないから、全然わからない。分からないけれど、なんだか偉そうな感じはする。
部屋のソファーに深く座り込んで、新聞を眺める緑の殺し屋さん。そういえば、名前を聞いてないな。なんだったっけ、私の家に来た時に何か電話をしていたことは覚えているが、内容までは覚えていない。あの時はそれどころではなかったし。
「にしてもあんた、ほんまに無傷やねんな。父親に暴力振るわれてたわけやなかったんか?」
「……暴力?なんのおはなし、ですか」
「ふーん。あの死体、見るからに人殴りそうな顔しとったのに、自分の娘は大事大事にしてたんやな」
「……大事?誰の、おはなしですか」
「あーな。なんとなく分かった」
あさっての方向を見ながら、新聞を空中でゆらゆら揺らす殺し屋さん。
「放置寄りのネグレクトやったんやな。最低限の住む場所と最低限の食いもん与えるだけで、父親面しとったんやろ。可哀想に」
とても可哀想だと思っているようには見えない。至極どうでもよさそうな顔をしている。
「にしても、あの殺し方は……ちと不可解なところがあると思うんよね」
「……不可解?」
「まあええわ。もう終わったことやし」
そう言うなり、殺し屋さんは新聞紙をテーブルの上に音を立てずに置いた。立ち上がって、なにやら黒い上着のようなものを羽織るから、どこかへ行くつもりなのだろう。
……言葉は砕けているけれど、振る舞いがいちいち育ちのいい人間という感じがする。まあ、私に比べたら、というだけかもしれない。
殺し屋さんは、言う。
「殺意が芽生えて、それを実行した時点であんたはもう立派な殺人鬼や。普通には生きられへんと思っとった方がええ」
それは、そうだ。それより、どっちかというとまだ生きている事実のほうがまず疑問なのですが。
「腹減ったやろ?今からうちのシェフ寄越すから、それまで適当に過ごしてや。少し出るわ」
「……はい」
名前、聞きそびれてしまった。
あの人が出ていってから、丸24時間待たされた。
その間、シェフ?さんが現れるようなことは特になく、再び眠りについたり、いつもするように洗面台の水を手のひらで掬ってちびちび水分補給をしながら過ごしていたら、例の緑の殺し屋さんが真っ赤になって帰ってきた。
「……」
顔や、服や、髪が、真っ赤に。
「すまんなぁ、立て続けに仕事が舞い込んでしもうて、ボスったら人使いが荒いったらないわ」
「……おかえり、なさい」
この人、本当に殺し屋さんなんだなぁ。昨日出ていってから、あの日の私みたいに豪快に返り血を浴びるようなことをして来たのだろう。本業の人ならもっとスマートに、返り血のひとつも浴びずにさらっとこなすものだと思っていたけれど、それは偏見だったのかな。
それとも、私のような一般人……いや、殺人初心者にはとても想像もできないような殺し方をするのかもしれない。
「じゃ、サワロさん。頼みますわ。置くだけ置いて帰ったってください」
「了解いたした」
そのまま風呂場へ直行するのを目だけで見送る。バスローブ姿のままソファーで小さくなっている私をよそに、一緒に入ってきた謎の大きな男の人はテキパキと何かをテーブルの上に並べ始めた。この人がシェフさんなのだろうか。他の組織の人、初めて見た。
正直、お腹がすき過ぎることには慣れているから、あと一日くらいは水だけあればなんとか過ごせるのだけれど……目の前に並べられた食器類から漂う美味しそうな匂いを嗅いだ途端に、お腹がきゅるきゅると反応してしまった。
まるで、そう、レストランに来たみたい。でも一度も行ったことがないから想像でしかない。テーブルの端と端、おそらく二人分の料理を鏡のように対照的に並べたあと、シェフさんはぺこりとお辞儀をして部屋を出ていってしまった。
「……ぐぅ」
腹の虫が鳴る。
「なんや、待たんでもよかったのに」
「……え、えと……その、」
私の家では全然そんなことないけど……食事というものは、普通の家では人が揃ってから始めるものだと思っていた。でも実際のところはそういうわけでもないのかもしれない。常識というものがよく分からない。
お風呂場から出てきた殺し屋さんは、24時間前のように向かいのソファーに座ってノータイムで手を合わせ、食事を始めてしまった。
「うま〜」
「……」
髪をおろすと普通に女性に見える。それともお風呂上がりだからだろうか。じっと様子を見守る私。食べて、いいのかな。
「あんたも食べ。腹減ったやろ?」
「……は、はい」
許可をくれたのはいいものの、ようやくありつけた食事はほとんど胃に入らなかった。昨日から何も食べていないことに気を使ってか、スープ系など胃に優しいものばかりなのに、そもそも胃が小石くらいの大きさになっているから関係なかった。
「残すにしてももう少し食べや。次いつ食べられるか分からんで」
「…………え、」
そんなことを言われたら頑張って食べるしかなくなる。単なる脅しにしても効果は絶大だった。そうか、私は既に生活の全てをこの人に握られてしまっているのだ。見よう見まねでスプーンを握ってスープを口に運ぶ。味があって、美味しすぎて、吐くかと思った。
「……げほ、げほ」
「……」
「……?」
ふと前を向けば、殺し屋さんが何か言いたげにこちらに視線を向けている。私が食べる様子をじっと見られている……。
「食器の持ち方から教え込まなあかん」
何か、呆れさせてしまったようだ。
「殺し屋さん、おかえりなさい」
「なんやその呼び方。チリって名前があんねんけど」
「……チリさん」
殺し屋さんの名前は、チリさん、というらしい。七日目にしてようやく知ることができた。食事をする以外は部屋を出ていってしまうから、会話がほとんどなかったのだ。
顔と名前を覚えるのが大の不得意なので、これ以降二度と訊ねることのないように、頭の中でチリさん、チリさん、チリさんとぶつぶつ復唱する。だって一度聞いたことを再び質問すれば殺されそうな感じするから、こちらとしては必死なのだ。
この数日の間、これまで微塵も覚えることのなかった正しいテーブルマナーを直に叩き込まれるうちに、彼女の厳しい一面はなんとなく理解した。
「あの、聞きそびれた、ことが」
「なんや?」
「わ、私の服……どこですか」
その代わり。一度も聞いたことがないことや、私が知る由もないことは別に質問しても嫌な顔をされない、ということも分かった。だから今までずっと気になっていた、私の制服の在処を訊ねてみることにした。
今日もまた、ひと仕事を終え帰ってきた殺し屋さん……じゃなく、チリさん。大胆な返り血を浴びてきたのは二日目だけで、今日は昨日までと同じように綺麗なままの格好だ。やっぱりあの日だけはイレギュラーだったのかもしれない……というたぶん無意味な考察をしつつ、ソファーに座る。チリさんも今日はお風呂場には向かわず、そのまま食事の時間が始まった。
「服?何のことや」
「……制服です。**高校の」
「ああ。あー?あー……」
チリさんは、私の唐突な質問にものすごく頭を悩ませている。そんなに変なことを聞いたかな。
今私が着ているのは、三日ほど前にチリさんが持ってきてくれたお洋服のひとつ。たぶん、安物じゃない。穴は開いていないし、拙い縫い目も汚れもない。とても着やすい。普通の人はこんな服を着ているんだ、と感動したものだ。
しかし、元々着ていた制服がどうなったのか、私はどうしても気になっていた。でもチリさんにとっては些細なことなのだろう。気にもとめてなかったようだ。
「たしか……あんたが着てた制服なら、汚れてたから捨てといたで。高校もう行かんやろ?」
「……」
勝手に捨てられてしまったらしい。確かに、返り血がたくさんついていたから、もうあれを着て外を歩くことは出来なかったろうけど。
でも、あれは。あれは母の……形見というか、まあ、考えてみればそこまで大事なものでもなかった気もする。どっちだったっけ。
「そういえば、言われてみれば変やな。世間は今春休みの時期やろ?せやからミモザ先生留守なんやし。なんで家ん中で制服着てたん」
「……私の服、あれと中学の制服と、ジャージだけなので」
「ふーん。ミニマリストやな」
貧乏だっただけですが。
「それももう、あのゴミ屋敷と一緒に燃えてしもうたからなぁ。これからはチリちゃんが好きなもん買ったるさかい、欲しいもんあったら遠慮せずに言うんやで」
「……?」
ち、チリちゃん……?
「返事は」
「はっ、はい……」
「ええ子」
チリさんはそう言って、何事もなかったかのように黙々と食事を進める。
何が目的なんだろう、この人。
私のことを殺さなかったのもそうだし。前の家に比べたら天国のような快適過ぎる部屋で、着るものも、食べ物も、寝る場所も全て与えてくれる。乱暴こそ初日のあれ以降何もされていないし。テーブルマナーとか、お行儀のことまで面倒を見てくれる。感謝しなければいけないことなのだろうけど……。
それもこれも人身売買に関係があるのだろうか。一通りしつけてから売りに出す方が、価値が上がるとかそういう話?肉付きがどうとか言っていた。じゃあ、今の私は肥やされている段階なのだろうか。いつかは、売られる?
「なんか用か」
「ひ」
食事を終え、今日もチリさんが出ていってしまう前に、今後のことを聞いてみようと思った。何か言われてしまわないよう、スリッパをきちんと履いて、着させてもらっているお洋服を綺麗に整えて、背筋を正してそろりそろりと近寄る私だったけど、声をかける前に振り返るからびっくりして後ずさった。この人、後ろにも目がついてる。
「なんや。さっきからそわそわしよって」
「い、いえ……その……」
「はよ言わんかい」
怪訝そうな顔でじっと見下ろされている。笑顔を見たのは初対面の一度だけだ。視線ひとつで人を殺せそうな目をする人。
思わず怯んでしまったけれど、何も言わないとますます睨まれてしまいそうなので、意を決して口を開く。
「私、これから、どうなるのですか……」
言葉通り、私はこれからどうなるのだろう。何をすればいいのだろう。殺されるにしても売りに出されるにしても、自分の今後のことはちゃんと知っておきたかった。
チリさんはシャツの袖をまくりながら、ふむと目を閉じた。
「せやな。いつまでもタダ飯食わせとくわけにはいかん。そろそろ……。ああ、でも今は、そか、どないしよ」
鏡の前で身支度を整えながら、ひとりごとのように何かを唱えている。私は三歩くらい距離を置いたところでじっとして、言葉の続きを待った。
「靴箱」
「……え?」
「あんたの靴、サイズぴったりやと思うから履いて待ってて」
チリさんはそう言って部屋の奥へ戻ってしまった。あそこは私が入っちゃいけないところだ。とりあえず、靴を履けばいい……のかな。もしかして、私も部屋の外へ?
わかんないけど、チリさんが入った扉に向かって「わかりました」と返事をして、玄関の方へ向かう。あんまり触っちゃだめかと思って一度も開けたことのない、大きな扉を開けてみると、そこには一足の黒い靴が収まっていた。これ、だろうか。
おそるおそる手に取って、扉を閉める。高校に行かなくなって何ヶ月も外に出ていなかったから、靴を履くのなんて久しぶりだ。下に置いて、その場に座り込んで、せっせと足を通す。紐の結び方……わかんなくなっちゃった。てきとうでいいかな……思い出しながらわたわた靴を履いていたら、準備を終えたチリさんに後ろから足でどつかれた。
「もたもたすな」
「は、はいっ」
「あと、邪魔やからどいてな」
あっ、とすぐに端っこに寄る私。チリさんは手に持っていた茶色のブーツを少し遠くの方に置いて、立ったまま靴を履いた。二秒もかかっていなかった。どうしてそんなにスムーズに履けるんだろう。才能かな。
「おっそ。はよ歩け」
「……そんなこと、言われても」
どこへ向かうのだろうか。部屋を出るなり、さっさと廊下を歩き出すチリさんの後ろを頑張ってついていく私。歩幅も歩く速さもまるで違うようだ。引きこもりだったからしょうがないとはいえ、置いてけぼりにされる勢いでずんずん進んでいくものだから、さっそく泣きたくなってしまう。はあはあ息を切らしながら小走りで必死についていく。
「ど、どこへ?」
「ボスのとこ」
「えっ?」
「――って言いたいとこなんやけど、ボスはボスでやることぎょうさんあって、面会する暇なんかあらへん。せやから、せめてハッサクさんのとこにでも行っとこか思て」
ボスに会いに行くと聞いて耳を疑ったけれど、どうやら今日は大丈夫と聞いて少し安心した。まあハッサクさんという人がどういう人なのかは全然知らないけど。
エレベーターの前に来た。待っている間、チリさんの斜め後ろできょろきょろ辺りを見回してみる。私たちが出てきたのと同じような扉がいくつも並んでいる。廊下には今のところ人が一人もいないようだ。他にも住んでる人がいる、という話だったけど、たまたま見かけないだけだろうか。
エレベーターに乗り込んで「ひえっ」と驚いた。ここは53階らしい。とてつもない数字だ……こんなに高くて風とかで倒れたりしないのかな……よく平気で寝泊まりしていたな、私。
「53……」
「ん?」
そういえば、思い出したことがひとつ。もう質問するのには怖くなくなってきたから、暇つぶしついでに斜め後ろから問いかけた。
「あの……その、父には3653万円程の借金がありました。私が把握してる限りでは……」
「ボタンによると6500万らしいで」
倍に増えた。
「それがなんや?」
「え、えっと、よく知らないんですけど……死んだら借金はなくなるものなんですか?そんなこと、考えずにころしちゃって……」
「遺族が背負うんやないの、普通」
「……え?」
じゃあ今、私には6500万円の借金があるということに?うわ。殺さなきゃよかった。と、ここで初めて後悔しかけた私だが、次のチリさんの言葉でその後悔は消え去った。
「あんたの借金なら全部組織が立て替えたから、気にする必要あらへんで」
「え?そ、そうなんですか」
「おん」
「なんで、組織のひとが、立て替えなんて」
「立て替えっちゅうか、取り立てる側の闇金融を解体させたから、なかったことになったんや。ボスは汚いものが嫌いでな。ネズミみたいにちょこまか動くあいつらが目障りでしゃあない言うから、この数日間幹部が駆り出されてたんよ」
闇金融を解体?それがいったいどういうことなのか、詳細に知る必要はないのだろう。チリさんは教えてくれることは勝手に喋ってくれるから、これ以上問いかけても適当にあしらわれるだけだ。
とにかく私の借金がなくなったらしいことに安堵する私。そもそもマフィアという組織のお仕事について想像もできないから、考えたところで仕方がない。って、また感謝しなければいけないことが増えていないか?新たな気づきを得たところで、目的の階に到着。
おりたところで、ようやく人の姿を見かけた。しかし信じられない光景だったのが、そこにいた人たちがみんな、同じ角度でお辞儀をしていること。え?と立ち尽くしてエレベーターの中に取り残されそうになったのを、慌てて飛び出た。
私のことなんて気にせずズンズン進んでいくチリさんの後ろを、今度こそ置いていかれないように歩く私。周囲の人たちの視線が何故かこちらに集まっている。そして、一人も欠かさず挨拶を投げかけてくる。返事代わりに片手をあげるチリさん。
「ハッサクさんおる?」
「はい。在室しておられます」
「そ」
あ、もしかして、この人がいるから……みんな挨拶して、お辞儀して。やっぱり偉い人なんだ、このひと。みんな敬語だし……。
私はまるで空気になった気持ちでその様子を見ていた。
+
なんというか、優しそうではあるけれど、変な人だった……。
「あなたのお名前は?」
通された部屋には金髪の男性がいた。この人がハッサクさん……らしいのだけれど、案内するなりチリさんが「じゃあまた後ほど」という言葉を残して行ってしまうから、二人きりで残された私はド緊張状態でソファーに座らされるのだった。
まるで学校のカウンセラーさんのように色々と質問を投げかけられて、生い立ちやら何やらを事細かに話していたら、父と母に関する話題で突然人が変わったようにおいそれと泣き出してしまって、私のほうが泣きたくなった。なにこれ、どうすればいいの……。
「ああ、失礼。大変な人生を送られて来たのですね。しかしもう安心ですよ。我々組織に属する者は“規則さえ守れば”衣食住と娯楽が保障されているのです」
「……規則?」
「なあに、難しいことはありません。規則とは、“上司に刃向かわないこと”。これ一般常識。社会人にとって極当たり前のルールです。いいですか?」
「はあ……」
「ルールを守る人こそが、ルールに守られているのです。逆に、規則を破ればその身の安全はないものと思いなさい。その点で言えば、チリは優しい方ではありますがね」
チリさんは優しい方らしい。いいことを聞いた。
私はどうやら『組織に新たに属することになった人間』、また『四幹部であるチリさんが統括する構成員のうちの一人』という扱いになるらしかった。
ハッサクさんは規則のこと以外にも、この建物での過ごし方、組織の構成員の大まかな関係性や、どのようなことをして普段仕事をこなしているのかなど、必要なことをまとめて教えてくれた。
マフィアといっても、普通の会社のようにかなりシステムが整った組織のように思えた。ボスがいて、その下に樹形図のように構成員が順番に配属されていて……私が通っていた学校の誰よりも分かりやすい説明だったから、私でも簡単に理解することができた。こんな先生だったなら授業も楽だったのだろうな……。
チリさんの部下と名乗るスーツの人に案内されて部屋に戻ると、そこには既に夕食が並べられていた。出来たての温かいごはんを食べられるだけで幸せな気持ちになれる。それを一日に三度も。前に比べたら断然、天国のような場所だ、ここは。
今回の食事は一人分だけのようだから、チリさんはどこか他の場所で食べてくるのだろう。さっそくテーブルについて「いただきます」と手を合わせた。
「……」
温かい。
涙がでてきた。初日の食事の際にこうならなかったのは、実感が湧かなかったからだ。食器を置いて手で顔を覆う。
「……ひぐ、……っうえ」
いつか、お礼をしなくちゃ。私以外に誰もいないから、好きなだけ涙を流した。その日、私は出された食事を初めて完食することができた。