チリアオ(主♀)のアオイちゃんがモブちゃんに告白されるお話
「あのね、私……アオイさんのことが好きなの。こんなにふわふわした気持ちになるの、初めてだった」
流動的で感傷的な、水面に垂らした何色もの絵の具のように滑らかに姿を変える彼女の恋心は、少しの拒絶で簡単に崩れてしまいそうで怖かった。
終業後の会議室で、視界の片隅に夕焼けが空を覆っている。純粋な瞳が私を射貫く。どうして私はこの子の素敵な恋心をめっためたに壊してしまわなければならないの。
可憐で、清らかで、美しく、自然な彼女の恋心を、私は奪ってしまったのだ。しかも初恋らしい。彼女のキラキラした目を見ているうちに、私は先日の自分を殴りたくなった。
男の子には興味がないって、そういうことじゃなかったの。そうじゃなくて、私には。
「あー……し、知ってる?私……」
「チリさんのこと?うん、もちろん知ってるよ。有名だもんね。そうじゃなくても、わたしはアオイさんのことならなんでも知ってるから」
「なら、」
「関係ないよ。わたしはアオイさんのことが好きなの。あなたが誰を好きでも、あなたが誰に好かれていても、わたしはアオイさんのことが好き」
「す、すごい、素敵……だね。ありがとう、そんなふうに、言ってくれるなんて……」
頬を赤く染めながら祈るように私を見上げる彼女。小さい頃から背が低いらしくて、職員の間では男女問わずマスコットみたいに愛されている、女の子。
すれ違った時にかるーく挨拶を交わすやり取りはあったものの、しかしせいぜいその程度の付き合いで、彼女が私を好きでいてくれたことに全く気付いていなかった。
ポケモンのことばかりで人間付き合いが疎かになりがちな私なんかよりも、彼女なら仲のいい子がたくさんいるというのに……どうしてよりにもよって私なのだろう。
「ごめんね。急に、こんなこと」
「い、いや……あの、ほら!私って、ポケモンばっかで、バトルにしか目がなくて、初めて誰かを好きに……なったのも、つい最近のことだから……不思議な感じ、だね。好きになるならともかく、好きになってくれるなんて」
「?変なことを言うんだね、チリさんとはとっくに好き合っているんじゃ」
「えっと、なんていうか……説明がむつかしいな。質問……しても、いいかな。A子ちゃんは、どうして私を好きになってくれたの……?」
「えっ?その……心の底から大好きなアオイさんからの質問なんて、答えられるものならなんでも答えたいけれど……たいした理由なんてないの。ありがちな答えでごめんね。気づいたら好きになってて」
「そっか……あは、えへへ、なんだか嬉しいなあ。こんなに嬉しいことが、あるんだね」
テンパっている。戸惑っている。普通みたいに喋れない。どうすればいいのか分からなくて、とにかく変なことを言わないように口を開いた。沈黙を迎えるよりは、マシだと思ったから。
「それって、ちなみに、いつから……」
「アオイさんがアカデミーに転入してきた時から。わたしたちの出身校の」
「そっか、……そんなに前から」
「うん。あの時、アオイさんが愉しそうにポケモンと触れ合う後ろ姿に心を奪われてしまったの」
少なくとも、片手の指では数え切れない程の年月が経過していることに、戸惑いを隠せない。そんなに、前から。私のことを?
「ひとつだけ、言っておくね」
「な、なに?」
「アオイさん、勘違いしないでね。わたしはべつにアオイさんとの関係を変えたくて想いを打ち明けたんじゃないの」
「え?」
「今までと同じでいいの。わたしはわたしの想いを知っておいて欲しかっただけだから。でも、おかしいな。今までは、遠くからでもアオイさんを見ていられたら、それだけで良かったんだけど……」
彼女は語る。嬉しそうに話す反面、どこか腑に落ちないところがあるようだった。でも不思議なことに、その笑顔の中には少しの陰りも見られなかった。
「今日のアオイさんを見ていると、なんだか想いを伝えてしまいたくなって。どうしてだろう?今までもずっと、これ以上好きになれないくらいあなたのことが好きだったはずなのに、今日また一段と、好きな気持ちが増した、というか……」
「へ、へえ……?」
「正確には、昨夜の夜中の十二時を過ぎたあたりからなんだけどね」
十二時過ぎ?十二時過ぎ、といえば
「昨日、ベッドに入ったあと。目を閉じたらアオイさんが夢に出てきたの」
私はその頃、チリさんと……
「夢の中で、アオイさんとお喋りしたんだ」
チリさんと一緒に夜更かしをした。
眠れなくなるような、ことをした。
「夢……」
「うん。好きな人が夢に出てきてくれるなんて、わたし、幸せでしょ?」
幸せ、なの?少なくとも、私からみたら、まっすぐそうだねとは言えなかった。なぜなら私には彼女の気持ちに応えるつもりなんて、全くないのだから。
「毎日が幸せなの。好きになるって、こんなに素敵なことなんだって……わたし、初めて知ったよ」
恋する彼女はとても綺麗だった。この子の心には濁りがない。純粋に私を……好きでいてくれている。さすがに心を覗くことはできないけれど、覗くまでもなく、瞳を見るだけでそれは明らかだった。
嬉しいことだ。好かれることは嬉しい。だけど、私はその気持ちに応えることができない。私はなんて残酷ないきものなのだろうか。そして、これからも、残酷でい続ける。
「わたし、アオイさんのことが好き。でもね、さっきも言ったけど、今までと同じでいいの。アオイさんとわたしは今までもこれからもただの元クラスメイトで、現同僚で、朝たまに挨拶を交わすだけの関係で、もし万が一発展することがあったとしても、せいぜい仲のいい友だちまで。アオイさんの未来を壊すなんてわたしには出来ないし、わたしは一緒の職場で働いている間だけでも、アオイさんを見守っていられたらそれでいい。だから、気にしないで。なんなら、さっきの告白も、友だちとして好きって意味に捉えてくれてもいいからね」
「そんな、私は……!」
あなたの心を蔑ろにすることなんてできないのに。したくないのに。どうして、この子は、喜んで自らを犠牲にするような言葉を並べることができるのだろう。
天使のように微笑む彼女は、厚い仮面で本心を覆い隠しているように見えて、私は途端にいたたまれなくなった。なんとか彼女を救いたくて、せめて私の思いを伝えたくて、
「私も、A子ちゃんのこと……」
好きだよ。
もちろん友だちとして。
そう、言いかけたとき。
会議室のドアが開かれた。
「あ、おった」
見ると、チリさんがほんの少し鋭い目付きで私たちを睨みつけている。睨みつけている、は言いすぎた。あれはべつに、ほんの少しだけ気を抜いた時に若干そう見えてしまうというだけで、彼女は怒っているわけではない。
その証拠に、すぐにいつもの明るい笑顔になって、優しい声色で「二人とも、おつかれさん」と声をかけてきた。
しかし、あまりに突然現れたものだから、なんだかイケナイところを見られてしまったような気がして、私は誤魔化すように自分のカバンを抱きしめた。
どうしてここに?だって、今日はチリさんと一緒には帰れない日だと分かっていたから、この子の呼び出しになんの気兼ねもなく応じたのだ。……こんな、こんな話をしている時にかぎって、いきなり。
「ち、チリさん?今日は、偉い人たちとの会食があるんじゃ、なかったっけ……?」
「バックれた」
バックれたとは何事だ。
「さすがに怒られちゃうよ……!?」
「ちゃうちゃう、どうせたいした集まりでもあらへんし、トップがどうせいてもいなくても変わらんって言うからパスしただけや。無断やないわ」
「ああ、そう……それなら」
「そないなことより、はよ帰ろうや。チリちゃん、知らんおっさんたちとのご馳走より、アオイと家でぐだぐたするんが一番やわ」
A子ちゃんは、チリさんと私の会話を、さっきまでと全く同じ表情で、にこにこと微笑んで楽しそうに聞いていた。
「……チリちゃん、表で待ってんで」
何かを、察したのだろうか。チリさんの顔を見て若干慌てる私の様子に。それとも、ただじっと、何も言わずに様子を見守るこの子の笑顔に。そんな私たちが、この会議室の隅っこで、こそこそお話をしていた状況に。
返事を待たずに行ってしまうチリさんを見て、申し訳顔で彼女の方を振り返る。
「えっと、それじゃあ……」
「うん、わたしなら平気だよ。早く追いかけてあげなよ」
にこにこ。可愛い笑顔で笑いかけられて、私はあたたかい気持ちになった。……あたたかい?これは、本当にあたたかい?
「それじゃあ……ま、また明日!」
「うん。また明日。今日は話を聞いてくれてありがとう。……アオイさん、ばいばい」
彼女は儚げな顔を垣間見せながら、やっぱり笑顔で手を振ってくれた。
あの子はこの関係のままで報われるのだろうか。無理な妥協をさせてしまったのではないか。と、人並みに心配するのは逆に彼女に対して失礼な気もする。
チリさんがタイミングよく現れてくれたおかげで、私にとっては都合のいいところで話を終わらせてしまった。逆に、チリさんがタイミング悪く現れたせいで、あの子にとっては都合の悪いところで話が終わってしまった。
これでよかったのだろうかと不安になりながらとぼとぼ歩いていると、チリさんが訊ねてきた。
「こんな時間まで何してたん?」
……言うべき?いや、言えるわけがない。口止めをされているわけではないが、あの子の名誉に関わるだろう。
「……おはなし」
「チリちゃんが、聞いてもいい話?」
「あんまり……聞かないほうがいい話」
「ふうん?」
不満げな顔。気になりはするらしい。
色々端折って、打ち明けた。
「あのね、好きな子がいるんだって。それで、話を聞いてたの」
「ああ、そうなんか。せやったら、あんまり問い詰めるんは野暮やんな。それで、アオイはなんて?」
少し、頭を捻ってうーんと考えた。
そして、チリちゃんのポケットに入ったままの手を引き抜いて、両手で大切に握りしめた。
「その、なんていうか……好きな人がいるって、キラキラしていいなって……思ったよ」
+
「『好き』って言葉、たとえ情けでも言わなくて良かったよ、絶対。その子にとっても、アオイにとっても。まあ、身内の三角関係ほど面白そうなもんないけど」
後日、相談を受けたボタンの言葉に苦笑する。おもしろそうとは。
「にしても、告白したんだ。あの子」
「……もしかして知ってたの?」
「うん。うち相談されたし」
「えっ!?」
「仲良いからって正直うちに相談されてもって感じだったけど、まあバトル厨のネモとかよりは乙女ゲーとかやってるし……いい感じに答えといた」
そういう今も、ピコピコ愉快な音を鳴らしながらスマホロトムを親指で操作している。いい感じにって、いったいなんて言ったの?
「やっぱ、笑顔で行くのが一番っしょって。あの子、いつも笑ってるからありのままがいいよって。……でも、帰ったあとは……どうなんだろうな。家ではちゃんと笑えてんのかな」
「それって、」
「うわ……うちってモブキャラに感情移入しちゃうタチなんだよね。基本アオイの味方だけど、両方から話聞いたらさすがに可哀想になってきた」
「……」
「明日、勇気出してお昼ご飯誘ってみようかな。……あの子友達たくさんいるから、……ワンチャン断られるかもだけど」
考えないようにしていたのに、あの子のその後のことは。ボタンはいい子だなあ。逆に私は曖昧で、あやふやで、足元が揺れ動いている。
「なに?その顔。アオイはアオイの好きを貫けばいいんだよ。罪悪感があるんなら、あの子のことが可哀想だと思うんなら……チリさんのことなんか捨てて告白に応じてあげればいい」
「な、そんなこと……!」
「ばか。分かりきってるんでしょ。自分が誰のことを好きなのか。それなのに迷ってどうすんの。あんたに好きな人がいるって分かっていながら、あんたに一直線なあの子のこと、少しは見習ったら?」
「……」
「それがいいって。周りのことなんか気にせず、自己中で、恋に盲目でいる方が楽しいでしょ。知らんけど」
ボタンの言葉に打ちのめされた。すごい、名言みたいなことを簡単に言ってくれるんだから。それも乙女ゲーで培った経験と知識なのだろうか。……私も今度やってみようかな。
「あのね、私……アオイさんのことが好きなの。こんなにふわふわした気持ちになるの、初めてだった」
流動的で感傷的な、水面に垂らした何色もの絵の具のように滑らかに姿を変える彼女の恋心は、少しの拒絶で簡単に崩れてしまいそうで怖かった。
終業後の会議室で、視界の片隅に夕焼けが空を覆っている。純粋な瞳が私を射貫く。どうして私はこの子の素敵な恋心をめっためたに壊してしまわなければならないの。
可憐で、清らかで、美しく、自然な彼女の恋心を、私は奪ってしまったのだ。しかも初恋らしい。彼女のキラキラした目を見ているうちに、私は先日の自分を殴りたくなった。
男の子には興味がないって、そういうことじゃなかったの。そうじゃなくて、私には。
「あー……し、知ってる?私……」
「チリさんのこと?うん、もちろん知ってるよ。有名だもんね。そうじゃなくても、わたしはアオイさんのことならなんでも知ってるから」
「なら、」
「関係ないよ。わたしはアオイさんのことが好きなの。あなたが誰を好きでも、あなたが誰に好かれていても、わたしはアオイさんのことが好き」
「す、すごい、素敵……だね。ありがとう、そんなふうに、言ってくれるなんて……」
頬を赤く染めながら祈るように私を見上げる彼女。小さい頃から背が低いらしくて、職員の間では男女問わずマスコットみたいに愛されている、女の子。
すれ違った時にかるーく挨拶を交わすやり取りはあったものの、しかしせいぜいその程度の付き合いで、彼女が私を好きでいてくれたことに全く気付いていなかった。
ポケモンのことばかりで人間付き合いが疎かになりがちな私なんかよりも、彼女なら仲のいい子がたくさんいるというのに……どうしてよりにもよって私なのだろう。
「ごめんね。急に、こんなこと」
「い、いや……あの、ほら!私って、ポケモンばっかで、バトルにしか目がなくて、初めて誰かを好きに……なったのも、つい最近のことだから……不思議な感じ、だね。好きになるならともかく、好きになってくれるなんて」
「?変なことを言うんだね、チリさんとはとっくに好き合っているんじゃ」
「えっと、なんていうか……説明がむつかしいな。質問……しても、いいかな。A子ちゃんは、どうして私を好きになってくれたの……?」
「えっ?その……心の底から大好きなアオイさんからの質問なんて、答えられるものならなんでも答えたいけれど……たいした理由なんてないの。ありがちな答えでごめんね。気づいたら好きになってて」
「そっか……あは、えへへ、なんだか嬉しいなあ。こんなに嬉しいことが、あるんだね」
テンパっている。戸惑っている。普通みたいに喋れない。どうすればいいのか分からなくて、とにかく変なことを言わないように口を開いた。沈黙を迎えるよりは、マシだと思ったから。
「それって、ちなみに、いつから……」
「アオイさんがアカデミーに転入してきた時から。わたしたちの出身校の」
「そっか、……そんなに前から」
「うん。あの時、アオイさんが愉しそうにポケモンと触れ合う後ろ姿に心を奪われてしまったの」
少なくとも、片手の指では数え切れない程の年月が経過していることに、戸惑いを隠せない。そんなに、前から。私のことを?
「ひとつだけ、言っておくね」
「な、なに?」
「アオイさん、勘違いしないでね。わたしはべつにアオイさんとの関係を変えたくて想いを打ち明けたんじゃないの」
「え?」
「今までと同じでいいの。わたしはわたしの想いを知っておいて欲しかっただけだから。でも、おかしいな。今までは、遠くからでもアオイさんを見ていられたら、それだけで良かったんだけど……」
彼女は語る。嬉しそうに話す反面、どこか腑に落ちないところがあるようだった。でも不思議なことに、その笑顔の中には少しの陰りも見られなかった。
「今日のアオイさんを見ていると、なんだか想いを伝えてしまいたくなって。どうしてだろう?今までもずっと、これ以上好きになれないくらいあなたのことが好きだったはずなのに、今日また一段と、好きな気持ちが増した、というか……」
「へ、へえ……?」
「正確には、昨夜の夜中の十二時を過ぎたあたりからなんだけどね」
十二時過ぎ?十二時過ぎ、といえば
「昨日、ベッドに入ったあと。目を閉じたらアオイさんが夢に出てきたの」
私はその頃、チリさんと……
「夢の中で、アオイさんとお喋りしたんだ」
チリさんと一緒に夜更かしをした。
眠れなくなるような、ことをした。
「夢……」
「うん。好きな人が夢に出てきてくれるなんて、わたし、幸せでしょ?」
幸せ、なの?少なくとも、私からみたら、まっすぐそうだねとは言えなかった。なぜなら私には彼女の気持ちに応えるつもりなんて、全くないのだから。
「毎日が幸せなの。好きになるって、こんなに素敵なことなんだって……わたし、初めて知ったよ」
恋する彼女はとても綺麗だった。この子の心には濁りがない。純粋に私を……好きでいてくれている。さすがに心を覗くことはできないけれど、覗くまでもなく、瞳を見るだけでそれは明らかだった。
嬉しいことだ。好かれることは嬉しい。だけど、私はその気持ちに応えることができない。私はなんて残酷ないきものなのだろうか。そして、これからも、残酷でい続ける。
「わたし、アオイさんのことが好き。でもね、さっきも言ったけど、今までと同じでいいの。アオイさんとわたしは今までもこれからもただの元クラスメイトで、現同僚で、朝たまに挨拶を交わすだけの関係で、もし万が一発展することがあったとしても、せいぜい仲のいい友だちまで。アオイさんの未来を壊すなんてわたしには出来ないし、わたしは一緒の職場で働いている間だけでも、アオイさんを見守っていられたらそれでいい。だから、気にしないで。なんなら、さっきの告白も、友だちとして好きって意味に捉えてくれてもいいからね」
「そんな、私は……!」
あなたの心を蔑ろにすることなんてできないのに。したくないのに。どうして、この子は、喜んで自らを犠牲にするような言葉を並べることができるのだろう。
天使のように微笑む彼女は、厚い仮面で本心を覆い隠しているように見えて、私は途端にいたたまれなくなった。なんとか彼女を救いたくて、せめて私の思いを伝えたくて、
「私も、A子ちゃんのこと……」
好きだよ。
もちろん友だちとして。
そう、言いかけたとき。
会議室のドアが開かれた。
「あ、おった」
見ると、チリさんがほんの少し鋭い目付きで私たちを睨みつけている。睨みつけている、は言いすぎた。あれはべつに、ほんの少しだけ気を抜いた時に若干そう見えてしまうというだけで、彼女は怒っているわけではない。
その証拠に、すぐにいつもの明るい笑顔になって、優しい声色で「二人とも、おつかれさん」と声をかけてきた。
しかし、あまりに突然現れたものだから、なんだかイケナイところを見られてしまったような気がして、私は誤魔化すように自分のカバンを抱きしめた。
どうしてここに?だって、今日はチリさんと一緒には帰れない日だと分かっていたから、この子の呼び出しになんの気兼ねもなく応じたのだ。……こんな、こんな話をしている時にかぎって、いきなり。
「ち、チリさん?今日は、偉い人たちとの会食があるんじゃ、なかったっけ……?」
「バックれた」
バックれたとは何事だ。
「さすがに怒られちゃうよ……!?」
「ちゃうちゃう、どうせたいした集まりでもあらへんし、トップがどうせいてもいなくても変わらんって言うからパスしただけや。無断やないわ」
「ああ、そう……それなら」
「そないなことより、はよ帰ろうや。チリちゃん、知らんおっさんたちとのご馳走より、アオイと家でぐだぐたするんが一番やわ」
A子ちゃんは、チリさんと私の会話を、さっきまでと全く同じ表情で、にこにこと微笑んで楽しそうに聞いていた。
「……チリちゃん、表で待ってんで」
何かを、察したのだろうか。チリさんの顔を見て若干慌てる私の様子に。それとも、ただじっと、何も言わずに様子を見守るこの子の笑顔に。そんな私たちが、この会議室の隅っこで、こそこそお話をしていた状況に。
返事を待たずに行ってしまうチリさんを見て、申し訳顔で彼女の方を振り返る。
「えっと、それじゃあ……」
「うん、わたしなら平気だよ。早く追いかけてあげなよ」
にこにこ。可愛い笑顔で笑いかけられて、私はあたたかい気持ちになった。……あたたかい?これは、本当にあたたかい?
「それじゃあ……ま、また明日!」
「うん。また明日。今日は話を聞いてくれてありがとう。……アオイさん、ばいばい」
彼女は儚げな顔を垣間見せながら、やっぱり笑顔で手を振ってくれた。
あの子はこの関係のままで報われるのだろうか。無理な妥協をさせてしまったのではないか。と、人並みに心配するのは逆に彼女に対して失礼な気もする。
チリさんがタイミングよく現れてくれたおかげで、私にとっては都合のいいところで話を終わらせてしまった。逆に、チリさんがタイミング悪く現れたせいで、あの子にとっては都合の悪いところで話が終わってしまった。
これでよかったのだろうかと不安になりながらとぼとぼ歩いていると、チリさんが訊ねてきた。
「こんな時間まで何してたん?」
……言うべき?いや、言えるわけがない。口止めをされているわけではないが、あの子の名誉に関わるだろう。
「……おはなし」
「チリちゃんが、聞いてもいい話?」
「あんまり……聞かないほうがいい話」
「ふうん?」
不満げな顔。気になりはするらしい。
色々端折って、打ち明けた。
「あのね、好きな子がいるんだって。それで、話を聞いてたの」
「ああ、そうなんか。せやったら、あんまり問い詰めるんは野暮やんな。それで、アオイはなんて?」
少し、頭を捻ってうーんと考えた。
そして、チリちゃんのポケットに入ったままの手を引き抜いて、両手で大切に握りしめた。
「その、なんていうか……好きな人がいるって、キラキラしていいなって……思ったよ」
+
「『好き』って言葉、たとえ情けでも言わなくて良かったよ、絶対。その子にとっても、アオイにとっても。まあ、身内の三角関係ほど面白そうなもんないけど」
後日、相談を受けたボタンの言葉に苦笑する。おもしろそうとは。
「にしても、告白したんだ。あの子」
「……もしかして知ってたの?」
「うん。うち相談されたし」
「えっ!?」
「仲良いからって正直うちに相談されてもって感じだったけど、まあバトル厨のネモとかよりは乙女ゲーとかやってるし……いい感じに答えといた」
そういう今も、ピコピコ愉快な音を鳴らしながらスマホロトムを親指で操作している。いい感じにって、いったいなんて言ったの?
「やっぱ、笑顔で行くのが一番っしょって。あの子、いつも笑ってるからありのままがいいよって。……でも、帰ったあとは……どうなんだろうな。家ではちゃんと笑えてんのかな」
「それって、」
「うわ……うちってモブキャラに感情移入しちゃうタチなんだよね。基本アオイの味方だけど、両方から話聞いたらさすがに可哀想になってきた」
「……」
「明日、勇気出してお昼ご飯誘ってみようかな。……あの子友達たくさんいるから、……ワンチャン断られるかもだけど」
考えないようにしていたのに、あの子のその後のことは。ボタンはいい子だなあ。逆に私は曖昧で、あやふやで、足元が揺れ動いている。
「なに?その顔。アオイはアオイの好きを貫けばいいんだよ。罪悪感があるんなら、あの子のことが可哀想だと思うんなら……チリさんのことなんか捨てて告白に応じてあげればいい」
「な、そんなこと……!」
「ばか。分かりきってるんでしょ。自分が誰のことを好きなのか。それなのに迷ってどうすんの。あんたに好きな人がいるって分かっていながら、あんたに一直線なあの子のこと、少しは見習ったら?」
「……」
「それがいいって。周りのことなんか気にせず、自己中で、恋に盲目でいる方が楽しいでしょ。知らんけど」
ボタンの言葉に打ちのめされた。すごい、名言みたいなことを簡単に言ってくれるんだから。それも乙女ゲーで培った経験と知識なのだろうか。……私も今度やってみようかな。