石化前/スタンリー恋人





「だめ、もうむり」

 今日は酷く疲れていた。“今日は”ではない、ここ最近ずっとだ。ちゃんと笑えている日もあるけど、感情の沈みというのはそういうことではない。心の奥底にどんどん溜まっていくのが感覚で分かり、今それが一番重く圧をかけてきていた。
 はぁ、と重い溜息を漏らす。けれどもそのため息に問いかけてくれる彼は今ここにはいない。というか、ほとんどいない。一応一緒に住んでいるはずのマンションではあるのだけど、彼がこの部屋に居るのなんて1年のうち何日ほどだろう。
 彼の仕事は理解している。理解しているからこそ私は文句が言えない。言いたくない。物分かりの良い女でいたいから、寂しいとは言っても彼の仕事に口を出したりは一切しなかった。死と隣り合わせで生きる彼に、私の我儘は本当にちっぽけなものだ。
 電気も付けずに帰って来たままの姿でただソファに座り込み、かすかに聴こえる時計の秒針を聴く。聴いてるというよりは耳に入れているという感じだが。
 ―――チクタク、チクタク。

「………っ」

 ぽろり。ああだめだ出てしまった。そこからは簡単にぽろぽろと溢れるように流れていき、どうして自分が今こうなっているのかさえ理解できない。何に対して流れているのだろうか。別に特別嫌なことがあったわけではない。大失敗したわけでもない。ただ、ただ………、

「!」

その時、着信音が鳴り響いた。一体こんな時間に誰だろうと携帯へ手を伸ばせば、画面に映し出された名に私はハッと飛び起きる。そしてすぐさま応答ボタンを押した。

「は、はろー?」
『ハァイ、マイハニー』
「ど、どうしたの?」
『名前の声聴きたくなった』

かけてきたのは、この家に居る事の方が少ないもう一人の住人。数週間ぶりに聴く甘い声に今すぐにでもどうにかなってしまいそうな感情を抱いてしまう。

「任務の方は大丈夫なの?」
『ああ、今なら問題ねぇ。……それよりあんた、ちょっと鼻声だな、風邪でも引いたか?』
「いや、これはっ、今丁度泣ける映画見てたの、だから…」
『ふーん、あんたが泣くってことはかなりの超大作じゃんね』
「う、うん…帰ってきたら紹介するよ」

 今のはさすがに下手だったかな。私は確かに滅多に映画で泣くなんてことはない。さすがの洞察力というか、たった一瞬のこのやり取りだけですぐ気づくなんて怖ろしい人だ。

「帰ってこれそう?」
『そう聞くってことは、俺に会いたいって思ってくれてんの?』
「なに言ってるの、勿論会いたいに決まってるじゃない」
『あんた変なとこで強がるとこあっかんね』
「そんな捻くれてないよ…」
『じゃあもっと言いなよ』
「え?」
『思う存分、言ってみ』

 甘く優しい声に、再び瞳から雫が溢れそうになる。耐えなきゃ。彼は私なんかよりも辛い環境で命を懸けて戦っているっていうのに、私がこんなんじゃ心配かけてしまう。私はゴクリと飲み込んだ。

「スタンが無事帰ってこれますよう、私は願って待ってるから」

 精一杯の言葉だった。けれど私のそんな涙を呑む言葉はあっけなく『違うね』と跳ね返されてしまう。

『ほら、言いな』

 尋問でもされているのだろうか。だとしたらあまりにも優しすぎる。私の飲み込んだものは一瞬で、外へと吐き出されてしまった。

「会いたい、スタンに今すぐに会いたい…」

 ストッパーを無くしたようにポロポロと瞳から、唇から溢れ出ていく。本当はこんなこと言ってはいけないって分かってるのに、あまりにも彼が優しいから……と、私は卑怯にも彼のせいにした。

『会ったら何してほしい?』
「抱きしめて」
『ああ、お安い御用さ。それで次は?』
「名前呼んで」
『それだけでいいの?』
「キスもして」
『幾らでもすんよ』
「あとは……あとは、」

”お願いだから、早くあなたに会いたい”
 眼を閉じるとよみがえるように彼との短い休暇で過ごした日々が流れた。昔はこんな寂しがり屋じゃなかった。いや、きっと世間の女の子達に比べたら私は強い方だろう。ただ私をこうさせるのは、彼の仕事がそうだからなのか、私をここまで夢中にさせたのが彼だけだったからなのか。考えても虚しくなるだけだというのに、その温もりを必死に思い出した。

『なら待ってな』
「それって何週間?何か月?」
『今すぐだ』
「今すぐ?え、なに、どういうこと?」
『あんたにそこまで求められたら、行かないわけにはいかねぇよな』
「え?え?」

 瞬間、家のチャイムが鳴った。
 うそ、まさかそんな――、唖然として体が完全に石になったかのように固まってしまい、再び鳴ったチャイムの音で私は急いでドアまで向かった。だってこんな時間、誰も訪ねて来やしない。だったらだったら――。私は高鳴る胸を手でおさえて、ドアを開けた。

「ただいま、マイハニー」
「………スタン、」
「なに突っ立ってんよ、おかえりのハグは?」
「うん、うん、する……おかえりなさい、スタンっ…」
「ああ、ただいま」

 彼の胸に飛び込むと、私がずっとずっと欲しがっていた温もりがからだ全体に伝わっていく。まるで夢のような、

「夢…?」
「夢オチで終わらせんなよ、今日も明日も明後日もとことん相手してもらうかんね」
「ほどほどにしてね…?」
「さあ、それはあんた次第」

 どれだけの時間抱きしめ合っていたか分からない。ただお互い顔を見つめたのはほぼ同時で、少しだけ笑った。前より髪が伸びている。かなり過酷な任務だと聞いていたけど、大きな怪我はしていないようで安心した。

「名前」
「?」
「名前」
「スタン?」

 私を真っ直ぐに見つめて名前を何度も呼ぶ。ただでさえ愛する人を久々に目の前にして心が動揺しているというのに、そんなに見つめられて名前を呼ばれたら余計どうにかなってしまいそうだ。

「あんたが呼んでほしいっつったんじゃん」
「え?あっ…」
「ほら、次はキスだぜ」
「え、待っ…」
「待つわけねーだろ」

 次の言葉を発する前に唇が塞がれるようにして合わさる。相変わらず、嫉妬するほど柔らかくてセクシーな唇だ。それが私のと合わさり、何度も何度も啄むようなキスを繰り返す。
 そうだ、これは私が彼に望んだことだ。ついさっき伝えたその星にも縋るような願いは、あっさりと叶ってしまう。

「一人でお留守番よく頑張ったな、えらいね」
「そん…な、私じゃなくて、スタンの方がっ…」
「俺は軍人だぜ、当然の事をしてるだけよ。でもあんたは違う、こんな1年のうちほとんど会えないような男を選ばない選択肢だってあったのに、俺を選んでくれて、ちゃんと待っててくれる」

 柔らかく静かな声で優しく頭を撫でれらる。こんなの不可抗力よ。私はまたぽろぽろと瞳から大きな雫を溢れさせた。

「愛してるもん、当然よ」
「ああ、俺も愛してっから、帰ってこれんよ」
「どうしよう、すき、だいすき、今日は溢れそう」
「はは、いいね、最高に可愛いじゃん」

 私は彼にとって良い子でいたかった。文句も言わず、ただ彼の帰りを静かに待ち、そして帰ってきたら過酷な任務を終えて疲れた彼を優しく包み込むような――。でもまるで反対。私はなんてダメな子なんだろう…。

「俺はあんたが願うことならどんな我儘も愛おしいよ。つーかもっと言いな、いくらでも聞くから。だからんな顔すんな」
「っ……スタンは、エスパーなの?」
「かもね、あんた限定だけど」

 本当に私は我儘でいいのだろうか、そんな子は良い子じゃないから嫌いにならない?そう思ってしまいそうになる自分の暗い思いは全てダストボックスに投げ捨てた。だって、彼がそう言ってくれるんだから、私がそれを否定したらダメじゃない。どれだけ厭世的になったって、私が彼を信じれないなんてのは、絶対にダメだから。

「俺がいなかった間のあんたのこと、色々聞かせなよ。俺の知らないあんたが居るなんて発狂すっかんね」
「スタンが発狂?見てみたいかも」
「じゃあ今すぐベッド行くか」
「え、そういうこと?どんな怖いことされるの私…」
「すっげー愛されんだよ」

 そう言って私達はやっとリビングへと足を踏み入れた。







溢れてしまう


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