Please… 










 










 眉間にしわを刻みながら約束をしていた人物を魔導院中探している最中、こちらに背を向ける立ち位置で談笑しているエミナを見掛けた。

 声を掛けようとすると、対面にいた女子が先にクラサメに気付きエミナに振り向くようこちらを指差す。

 その女子はクラサメが近づくと教科書を引き上げ何故か喜声を上げた。


「あらクラサメ君。珍しい服装ね。今日はオフ?」

「ああ」


 いつもの隊服ではないクラサメの格好を、顎に手を当て眺めるエミナ。

 白いシャツに黒のパンツ。ジャケットを持っているがクラサメらしくない装いだ。


「○○知らないか」


 そのクラサメの眉間に一瞬だけ、名前を言う際に深くしわが刻まれる。


 ……今度は何したのかしらあの子。


「見てないわよ? 今日は……ああ、そっか。出掛けるの?」

「まぁな。……ロビーで待ってたんだが肝心のあいつが来ない」


 時計の長針は真下を過ぎた頃。

 切りよい時間の待ち合わせだったとして、30分は待ったらしい。

 ……1時間半かもしれないが。


 ○○は時間にルーズだ。


「リフレッシュルームとかは?」

「いなかった」


 食事処もいないとなると。


「寝てるのかも。部屋行ってみたら?」

「やっぱりそうか……」


 邪魔したな。


 溜め息を残してクラサメは踵を返した。


 魔法陣に消えたのを見届けてから、ほぅと大事そうに吐き出された息。


「カッコイイね〜。しかも私服! レアなもの見ちゃった!」

「そうね。レアかも」


 確かに私服は珍しい。


 しかしカッコイイというよりは。


「可愛い、かな?」


 格好よく見せようと頑張っている恋する男の子。

 端から見ているエミナとしてはからかい甲斐があって可愛いくて仕方ない。


 恋人であったときとは違う部類の、同じレベルの愛情すら沸いている。


「クラサメくんを可愛いなんて言うの、エミナくらいだよ」

「ふふ。そう?」


 エミナもクラサメが消えた魔法陣を見る。


 全く報われてない様が、また可愛かったりするのだ。
















 ノックをしてしばらく経つ。

 壁に寄り掛かって待っているが中の気配は薄かった。


 仕方ないか。


 溜め息をついて教えられているナンバーを端末に打ち込む。居れば結構。居なければ他を探さねばならない。

 ロックが解除されたのでドアを押し開け室内を確認すると、やはりベッドの上が山なりになっていた。


 扉を閉めベッドに近づくと、頭だけを覗かせてすやすやと眠る○○が目に入る。


 大変健やかな寝顔である。


 椅子を引き寄せ頬杖をついてしばらく眺めているも、一向に起きる気配はない。


 ……無防備すぎやしないか。


 部屋のキーナンバーだって手軽に教えている。

 どの程度までに教えているのかは知らないが、要するに今こうやってクラサメは寝顔を眺めているわけで。

 手を伸ばせばこうして簡単に触れる事も出来る。

 周りの人間は皆善人だと信じ込んでいる、このめでたい考えは早々に払拭願いたい。

 善人なんかではない。


 少なくとも、俺は。


「○○」


 昼、過ぎたぞ。


 目に掛かっている前髪を払ってやると、眉根を寄せて唸りながらも○○は薄目を開けた。

 緩慢な瞬きを繰り返し、さ迷っていた瞳はやがてクラサメの顔で定まる。


「……あれぇクラサメ?」

「ああ」


 ぉはよう。

 とろりと溶けそうな緩い笑みで朝のあいさつ。


 前にもあったか。

 眠いときの○○に接するのは理性が必要だ。

 これが恋人間なら何も言う事はないのだが無差別なのは問題だ。

 クラサメは溜め息をついた。


「もう昼だがな」


 ひるすぎ……。

 もぞりと布団を引き上げながら口の中で呟く。


「いまなんじ?」

「一四〇〇になるところだ」


 交わされるローテンポの会話。


 目が覚めて、まず俺がいる事への突っ込みはないのか。


 ぅ〜……ごめん。


 小さく謝罪をして○○は再び目を閉じた。


「ちょっと待て。なんの謝罪だ? 起きるんじゃないのか。寝るな。出掛けるぞ」


 身体を揺すってみるが煩わしそうに眉根を寄せただけだった。


「ねむぃんですよぅ……」

「起きろ。一回身体を起こせ」


「あかるい〜……」

「だから昼過ぎだって」


「お出かけ……またこんど……」

「今度? 今度って来年か? 言っておくがもうしないからな。いいから起きろ」


 一日を寝て過ごす気か?


 動かない○○にクラサメはだんだんいらついてきた。

 頬をつついている指も次第に乱雑になってゆく。


「起きろ。布団剥がすぞ」


「ん〜……」


 それは返事なのか?


「いいから起きてさっさと支度」


 掛け布団を剥がしたクラサメだったが目を見開いて固まった。

 そして一瞬の後に布団は再び○○の上に戻される。


「てめぇッ何、考えて……ッ!」


 頭まで布団を被らされた○○のくぐもった声がする。


 思わず立ち上がっていたクラサメは口元のマスクに手を当てながら布団のあちこちが伸びるのを見下ろしていた。


 何すんのって、お前が何してんだ!


 しばらくもがいていた○○はやがて自ら布団をはがし上体を起こした。


「そ、のまま起きるんじゃねぇよ!」


 クラサメは勢いよく身体を反転させた。


「なによー……起きろっつったのクラサメじゃんか」


 頭をかく音がクラサメの耳に届く。


 言ったが。

 まさかそんな格好だとは思っていない。


「おはよう」


 そしてそんな格好の○○は気にする事なくベッドから降りてクラサメの視界内にある冷蔵庫に向かった。


「お前……恥じらいとか持ち合わせていないのか」


 ○○が視界に入らないようにしているわけではなく、クラサメが視界に入れないようにしているこの状態。


 普通は男女逆である。


「あるよ? 当たり前じゃん」


 ペットボトルから口を離して肩口からクラサメを覗き込む。


「そんな睨まれるコト? キャミにショーパンなんていつもじゃん。珍しくもない」


 人の寝間着に口出さないでくださいー。


 言いながらペットボトルに口をつける。


「てかクラサメ思ったより普通の格好だね。私もシャワー浴びて着替えよーっと」


 本でも読んでてよと、言いながら隣室へ消える○○。


 扉が閉じられクラサメは溜め息をついて顔を上げた。


 キャミソールにショートパンツ姿ならまだ良かった。

 眉間にしわが寄る露出の多さではあるが、それをルームウェアとしているのも知っているし見たこともある。


 だが更に着込んでいた羽織りがよろしくなかった。


 ユカタ……とかいったか……?


 蒼龍発祥の、蒼龍人が着ているキモノを更に簡略化したバスローブのような衣装で、蒼龍産の物を愛用していたカオンからのプレゼント。


 ……と、日記に書いてあった気がする。


 その下に、ユカタ滅びろ、とも。


 読み返したときにはなんの事かわけがわからなかったが、成る程。

 クラサメは眉間を揉みほぐした。


 先程の寝姿は殺人的だった。


 はだけた胸元。

 乱れた裾衣。


 そもそも寝相が悪いらしい○○が寝間着にユカタをチョイスする事からして間違っている。

 蒼龍人は国民性として寝相がいいのだろうか。


 布量は多いのに全くもって衣装としての役目を果たしていなかった。


 ……むしろ、アレが役目なのか?


 誘っているとしか思えないあれがユカタ本来の使い方だったらどうしよう。

 なんて代物を贈答してくれたんだ。


 ナニかが切れる前に怒鳴るへシフトした自分の鉄の理性を褒めたい。


 ルームウェアの上に着ていてくれて良かった。本当に。切実に。

 アレ一枚でなんて想像するだに恐ろしい。

 全く、本当になんて代物を。


 頭の中を払拭するためにクラサメは本棚に向かった。

 そして適当に本を抜き取り、表紙をめくったのと扉が開いたのは同時だった。


「……早くないか?」

「そ?」


 髪から滴る水滴をタオルで拭いつつ椅子に座った○○からは、特別急いだ風も感じられない。


 そんなに思考を飛ばしていたつもりもないんだが。

 選びとるまでに時間を要したとはいえ、まだ目次だ。


 時計を見るとあまり針は進んでいなかった。

 やはり○○のシャワーと着替えが早いのだ。


「随分、ラフだな」


 取り出したばかりの本を戻して、出て来た○○を見る。

 パステルイエローのシャツにダンガリーのショート丈の上着、ベルボトムのパンツにスニーカーだ。


「いいじゃん。クラサメだって白シャツに黒パンだし」

「院を出たら羽織るぞ」


 指差されたのはソファーに置かれた上着。


「ジャケ? 燕尾?」

「ではないが。礼服だ。あと眼鏡も」

「え?」


 眼鏡?

 上着のポケットから無造作に取り出されたのは黒縁の眼鏡。


「なんで持ってんの? あんた目いいじゃん。伊達?」


 やっぱり聞かれるよな。


 想定内の質問をされ、クラサメは手の平にある眼鏡に視線を落とした。


 どうして持っているのか自分でも詳しくわからなかったりする。


 眼鏡を必要としない視力な上、伊達眼鏡を購入するような性格でもない。贈られた記憶もない。

 多分部屋に来た友人の忘れ物なのだろうが、誰も何も言ってこないし取りにも来ないまま、なんとなく捨てられずに3年程経った。

 誰がしていたのかクラサメも覚えていない。


 恐らくもう、持ち主は。


「クラサメ?」


 思考に沈んだクラサメに○○は首を傾げた。


「視力が落ちたわけじゃない。理由は割愛」


 ○○に話す必要はない事だ。

 わざわざテンションを下げる事もない。


「ふ〜ん?」


 特に気にした風もない返事の後、顎で差されたので希望通りかけてみる。


「……自分で買った? プレゼント?」

「……贈り物だ」


 実際にはどっちでもないのだが。

 手間なので濁す。


「ん〜……見慣れないからかな?」

「似合わないか」


 でも執事度は上がったよ。


 首を捻っていた○○だが、幅の広いストールを巻きながらクラサメを振り仰いだときには満足そうに笑った。


 結構。そのための小道具だ。

 置き忘れられるような眼鏡なので、度入りではあるが視界が歪むには至らない。


「では参りましょうか」


 お嬢様。


 ジャケットとベストを手に取り腰を折るクラサメ。

 その所作に、○○もツンと顎を上げた。


「ふふ。よくってよ? それで今日はどこに連れていってくれるのかしら?」


 カジュアルな格好のくせに澄まして歩く○○に、クラサメは恭しく扉を開けた。
















 移動は飛空艇だった。

 ミィコウまで乗りつけ、そこからチョコボで南下する。


 ミィコウ行きの飛空艇に乗ったときに思ったが、行き先はやっぱりキザイアだった。


「クラサメのマスクお願いしに来た以来かなぁ」


 伸びをしながら街の入り口に向かう○○。


 一度に仲間を失ったあの日、共に任務についていたクラサメも重度の傷を負った。

 幸いな事に後遺症はなかったものの、口元の火傷だけは最後まで残った。


 ○○が振り返るとその当人はマスクを外していたところだった。

 あらわになったその口元は、常人と変わらない普通のもの。火傷痕はない。


 治療したのは○○だ。


 他の重傷より治りが遅かったのもクラサメの意思が作用していたのかもしれないが、しかし痕を消したのもまた自分の意思。


 眼鏡を掛け、ベストとジャケットを羽織ったクラサメは視線を感じて首を傾げた。


「なんでしょう?」


 口元から視線を外し改まって全体像を見てみると、なかなか執事然としていて様になっている。

 格好だけではなく、振る舞いや言動も。


「なんでも?」


 部屋では優雅な礼をしてみせたものの、さすがに生活圏である魔導院ではいつも通りだった。

 しかし飛空艇を降りミィコウを出た辺りからどうやら切り替わったらしい。


 意外な事だが、クラサメはまず形から入るタイプなのだ。

 知り合って割と早々に知った事実。


 自分の思考の中だけで笑む○○に、クラサメの表情は怪訝なものに変わった。


「いや? カッコイイなあ〜って思って。みんなが騒ぐのもちょっとわかるよ」


 強くて頭もいい、沈着冷静なクラサメ。

 一見冷たそうな印象を受けるが、恋人にはちゃんと優しい事はエミナのときから知っている。


「ホントはキレやすくてすぐ怒鳴る小姑なのになー。みんな騙されてるんだ」

「お言葉ですがお嬢様。私に大声を出させている要因はお嬢様です」


 それも自覚はある。

 冷静沈着でクールな表面しか知らない友達が、任務などでクラサメの大声を聞くと大抵驚愕する。


 あんなに大きな声出るんだ。


 それはもう、心底意外そうに。


 出るんですよ。

 ってか私にはデフォルトなんだけど。


 どっちが表でどっちが裏なのか。

 全部がクラサメといってしまえばそれまでなのだが、○○にはわからない。

 一緒にいる事で無理をさせてしまっているような気もしなくもない。


 ○○はそれで発散出来ているが、それがストレスになる人間もいる。

 そしてクラサメは恐らく後者だ。クラサメの癖だと思っていた溜め息も○○はよく目にする。


 よく目にするという事は○○の前で溜め息をつく回数が多いという事で。

 溜め息をつかせているのは、自分なのではないか。


 考えたことがないわけではない。





 見るからにテンションが下がった○○。

 俯いているその頬を軽くつまむと○○はゆっくりとクラサメを見た。


「……ぁにすんのよ」


 頬はつままれたままだ。


 執事仕様の自分を見て、みんなが騒ぐのもわかると言った。

 みんな騙されてるんだと笑っていたのはついさっき。


 それから何故沈むに至ったのかクラサメにはわからない。

 独特の思考回路で曲がりくねった細い道を進んだ結果なのだろうが。


「何か、余計な事をお考えでは?」


 恐らく今考える必要はない事で○○はヘコんでいる。


 今日はそういう道に進む○○を止めるのもクラサメの役目。


「いつも怒鳴らせてごめん。今日はおとなしく過ごすいたたたた!」


 何すんのよ痛いじゃない!


 つまむからつねるにアップグレードした手を振りほどき、○○はクラサメから距離を取った。


「その殊勝なお考えは後日から実行願いましょう。本日に限り、思うままに振る舞いくださいませ」

「でも」


 いいんですか?


 開けられた距離を一気に詰め、耳元で囁く。


「本日はお嬢様の誕生日です。年に一度の特別な日。そしてこの私を執事に指名しておいてですよ?」


 一生に一度のこの機会を逃すおつもりですか?


 耳元から口を離し伏せていた睫毛を上げると、○○は何かを堪えているように顔が赤かった。


「……命令しまくっていいわけ」

「お望みとあらば」

「最終的に怒鳴り合いになるかもよ?」

「慣れております」

「わがまま言っていい?」

「その心積もりです」

「びっくりする程疲れる一日になるかも」

「お嬢様の寝姿以上の驚きは無いかと」

「……まだ言うか」

「生憎と根に持つ性格でして」

「知ってるわよ」


 ねちっこいもんね。


 腰に手を当て顎を上げてクラサメを見る。

 小気味よく続いたラリーに、半眼ながらも○○の口角は上がっていた。


 無自覚にクラサメのツボをついてくる○○だが、クラサメとて○○の上がるツボは心得ている。


 何も奇貨を取られっぱなしでいるわけではない。


「じゃあわがままその1! 私レッドクローバーのケーキ食べたい!」


 言われた自称わがままは普段の言動と変わらないものだった。


「元よりそのつもりにございます。他に何かございませんか?」


 いつもならちょっと待てと首根っこを掴ませるような発言をするのに、○○は腕を組んで思案し始めた。


 こちらから聞けば無いのか。


「わがままその2! 小腹が空いたからなんか食べたい!」

「……飛空艇で食事を摂られたはずでは?」


 起きてすぐに部屋を出たため、○○の最初の食事は飛空艇内でとなった。

 クラサメは相席していなかったが、通常メニューを腹に入れたのでは。


「食べたけど……だっていい匂い〜」


 確かに入口に近付くに連れ、漂う匂いは濃くなっていた。


 出店でも出ているのだろうか。


「では参りましょうか」


 それを了承の返事と解釈した○○は喜色を示し、同時に、○○の腹の虫も喜声を上げた。
















 色気より食い気。

 まさに○○がそれだ。


「ここで食べよ」


 日の当たるベンチに座り、クラサメから紙袋を受け取る。


 街に入ってすぐ、ケータリングカーがファンシーな看板を掲げていた。

 売られていたのは匂いの元だったドーナツ。


 しかし○○が取り出したのはサンドイッチだった。


 普通、甘い匂いが漂えば胃袋もそのモードにシフトすると思うのだが。


「お嬢様。ケチャップが付いてます」

「おっと」


 クラサメの手を煩わせる事なく、器用に舌先で舐め上げる。


「取れた?」

「ええ……」


 拭ってやるような展開にはならないのが○○だ。

 本当に、色気より食い気。


「クラサメも食べたら?」


 買ってたよね? と紙袋を覗き込みドーナツとおぼしき包み紙を渡す。

 そして自らは2つ目を手に取った。


 どれにしようか迷っていた○○だったが購入個数に迷いはなかった。


 3つ。


「その身体の、一体どこに収まるんでしょうね」


 いつもの事だが、量が凄まじくても相変わらず美味しそうに食べる○○。


 人一倍量を食べてはいるが、戦闘職種に付いている人間の中では人一倍小柄だ。


「こんなの、朝飯後よ」

「常套句としては通常、朝飯前、ですが」


 だからといって朝飯前に食べ朝飯を食べられても同じ事なのだが。


「なんで身長伸びないのかなあ……。こんなに食べてんのに」


 十分過ぎる程摂取している栄養は身長を伸ばすに至っていない。


 とすると一体どこへ。


「うっさいわよバーカ」

「……何も言っておりませんが」

「目が言ってんのよ目が!」


 横目でじろりとクラサメを睨む。


「えーえー。どうせ頭にも栄養行ってませんよ。身長でも頭でもないとなると、横……とか考えてたんでしょフザけんじゃないわよ!」

「だから私は何も」

「そりゃあ細いわけじゃないけど! 食べてる量に比例しては太ってないわよ! カロリーは消費してるし!」

「恐れながら申し上げます。摂取した栄養はエネルギーとして発散されているのでは?」

「やっぱりそうだよね?」

「大変燃費が悪い換算率ではありますが」

「一言多い!」

「申し訳ございません」

「顔が申し訳してない!」

「本心にございます故」

「余計悪いわ!」


 歯を剥き出してクラサメをどつく。


「苛立つのはカルシウムが不足しているからでしょう。心掛けて摂取した方が宜しいかと。それから糖分も」


 頭が働きます。


 見慣れない眼鏡姿のクラサメは、見慣れた涼しい表情で2つめのドーナツを手に取った。


「じゃあそれ寄越しなさい!」


 クラサメがドーナツを1つ食べる間に3つのサンドイッチを食べ終えた○○は、クラサメの手からおかわりを強奪した。


「……お嬢様は強欲でらっしゃる」

「クラサメ食べるの遅いんだもん。これからピアソラ行くんでしょ? あとレッドクローバーも。なのにもうこんな時間……」

「こんな時間なのはお嬢様が寝ていたからでして」

「あーもう、それはごめんて! 昨日寝るの遅かったの!」


 ほら行くよ! と、立ち上がりながら最後の一口は残し、クラサメに差し出した。

 取ろうと手を伸ばしたが○○はドーナツを遠ざける。

 ちらりと○○に視線を向け口を開けると、○○はクラサメの口に入れて指をほろった。


 咀嚼しながら空になった紙袋を片付け、内心溜め息をつく。


 執事の扱いしろよ。


 自分から執事やってと指名した割に、○○はいつも通り振る舞い、距離を気にしているのはクラサメだ。


 今日は○○の誕生日。


 何に影響されたのか。

 今年の誕生日はプレゼントいらないから執事やってと言われたのは一昨日。


 急にだ。


 にも関わらず、クラサメは○○の望み通りに誂えてきた。

 仕様も、中身も。


 だが肝心のクラサメ執事が仕える○○お嬢様はどうだ。


 カジュアルな格好で言動もいつもとなんら変わりない。

 それも考えてなかったわけでもないが。


「……なんか、企んでる?」


 前を歩いていた○○がこちらを振り返った。

 半眼なのは何故だ。


「いいえ? 人聞きの悪い」

「ホント?」

「ええ」


 漏れてはいないはずだ。

 鉄仮面には定評がある。


「参りましょうか」


 咳ばらいをして先を促す。


 私が仕えるに足る、お嬢様になって頂きましょうか。


 そんな、俺の考えなど。
















 サンドイッチとドーナツを食べた後、二人はピアソラに赴いた。

 中に入り、ランプシェードを眺めながら○○はクラサメに聞く。


「なんか買うの? ……なに」


 返ってきたのは答えではなく呆れ顔。


「常日頃、お嬢様は私におっしゃいますよね。朴念仁と」

「うん」

「朴念仁……その意味は、無口で愛想のない人。また、人情や物の道理がわからない人」

「うん」

「否定はしません。人の感情に聡いとも思わない。しかし」


 お嬢様も十分、朴念仁ですからね。

 言いながら奥へ手招きする。


「私無口じゃないし。愛想だって多分」

「前者ではなく。後者は当て嵌まります。少なくとも、今の発言は」


 今の発言?


「何か買うのと問われた。私の用事で連れてきたとでも?」


 白い手摺りの階段を昇りながらクラサメは後ろを振り返った。

 段差も合わさりいつもより高い位置から見下ろしてくるクラサメに、○○は頬をかいた。


「……かな〜って」

「それが朴念仁発言です」


 クラサメが腰を折り身を乗り出したため、思ったより近い距離に○○はのけ反った。


「お嬢様の誕生日である本日。一日付き合いなさいとおっしゃった。私の今日一日はお嬢様のためだけにあります。ついでであろうと他の人への贈り物を買うつもりは毛頭ございません」


 うわぁめちゃめちゃ執事モード入ってる!

 なりきりすぎだって!


 表情一つ変えずそんなこっぱずかしい事を口走っている事に、自身は気付いているのだろうか。

 録音しておけば後で強請のネタになるレベルだ。

 それ程に格好も発言も普段のクラサメと違い過ぎるが、目の前にいるのはクラサメで。


 照れる!

 恥ずかしい!!


 顔が赤くなっているのが自分でもわかる。きっとクラサメにもバレてるくらい。

 けどそれより冷や汗がハンパない。


「暑いですか?」


 あくまで涼しそうなクラサメ。


 ……恥ずかしいヤツ。


「なんでもないわよ。ところでピアソラに2階あったんだ?」


 やはり知らなかったんだな。


「お嬢様。お召し替えのお時間でございます」


 高い位置に切り取られた天窓から降り注ぐ光の中、クラサメは白い木製の扉につけられたアンティークのノブを回した。
















 扉を開けると室内は眩しいくらいの自然光で溢れていた。


「いらっしゃいませ」


 ふわりと微笑み声を掛けてきたのは、1階のインテリアやコスメチックスなどを取り扱っているピアソラのオーナー。何度も話した事がある。


 しかしここは。


「服屋さん?」

「やはり、知りませんでしたか」


「ようこそ、リ・ドレスへ」


 スカートの裾をつまみ可愛らしくお辞儀をしてみせたオーナーが着ている洋服も、並んでいる商品も、お花畑のようにふわふわだ。


 ピアソラの奥から続く階段の先にこんな店があったなんて。


 初めて訪れた。


 クラサメが知っていたという事は、きっとエミナと来た事があるのだろう。


 そういえばエミナもこんな服持ってた気が。


 ふわ〜っとトルソーに手を伸ばす。


「今、何をお考えで?」

「え。エミナに似合いそうだなわぁッ」


 言い終わらない内に首根っこを掴まれた。


「危ないなぁ! 何すん」

「先程も申しました通り、お嬢様にはお召し替えをして頂きます」


 腕を引かれ背中を押され、フィッティングルームに押し込められる。


「えッ?いいってば」

「お洋服はこちらです。終わりましたらお声掛けくださいね」

「あ、はぃ」


 にっこりと、だが洋服は強引に押し付けられてしまう。

 相手がクラサメではないため強く出れない。


 腕の中の服に目を落とす。

 シャツのように単純な形ではないのは明らかで、なんだか布量も多い。

 繊細なレースもちらりと覗いている。


 沈黙したままの○○にクラサメは声を掛けた。


「いかがなさいました?」

「こんなふわふわ! 私に似合わないって!」

「私の眼鏡が見慣れないだけのように、着てみない事にはわかりませんよ?」

「しかも着るのも神経使いそうだし難しそ」
「ああ。着方がわからないと?」


 狭い室内に身を乗り出し、クラサメは○○を覗き込んだ。


 お手伝い、致しましょうか?


 耳元で囁かれた言葉に肩が竦む。


 だから殊更強く言った。


「か! 借りるわけないでしょ! いいから早く出てってよ! 着替えるんだから!」

「はいはい」

「返事は1回!」

「失礼を」


 カーテンを閉める直前、最後に見たクラサメの口の端は上がっていたように見えた。


 ……上手くのせられた気も、しないでもない。
















「お、お姉さ〜ん?」


 フィッティングルームから顔だけを覗かせ、近くにいるはずの店主に声を掛ける。


 が、返事はない。


「ク、クラサメ〜?」


 先程よりも更に小さな声で呼んでみるも、やはり返事はなかった。


 どこ行ったんだよー……。

 心細い事この上ない。このまま出ていく勇気もないが、そもそも脱いだ靴が移動されている。


 ○○はフィッティングルーム内にある姿見を振り返った。


 どちら様デスか。


 そう声を掛けたくなる程、装いが180度変わった自分が映っていた。


 まずこれは間違いないだろうとブラウスに袖を通し、見えないようにと凝って裏に付けられている隠しボタンをちまちま留める。

 しかし次に手に取ったのが、広げてみるとチュニックだと判明し愕然とした。


 こっちが先か!


 せっかく留めたボタンを再び外し、このような事態に陥らないよう、ハンガーに掛けて全体像を把握する。

 まず、ストッキングか……。で、チュール、チュニック、ブラウス……最後にボレロ。

 かな。


 よしっと気合いを入れて組んでいた腕を解いた。

 因みに熟考の間、○○は下着姿である。


 格闘する事、数十分。

 ようやく間違う事なく完成した一様。


 服は可愛い。服は可愛いんだ。


 だけど。


「似合わないって!」


 やっぱり着替えよう。


 そう思いカーテンの隙間を詰めたときに外から声が掛けられた。


「お済みですか?」

「うぇッ? は、ハイ!」


 勢いよくカーテンが開けられる。

 声を掛けてきたのはオーナーなのに、目の前にいたのはクラサメだった。

 眼鏡の奥で瞳が上下に動く。


「やはり私の見」
「放置か! フィッティングルームに押し込めて放置か!」

「時間が掛かるかと思いまして、所用を」

「こんな小難しい洋服にアテンドもナシだもんそりゃ時間も掛かるわよ!」

「無事、着用出来てるではないですか」

「考えたもの!ドコ行ってたのよ!?」

「どこに行っていたと言われれば」


 クラサメは下を指差した。





 ○○をフィッティングルームに押し込めたクラサメは、ドロップアウト出来ないよう○○が履いていた靴をオーナーに預けた。


 十分は掛かるだろうと踏んで、目配せをし階下へ続く扉を開ける。

 階段を降りきったところで口を開いた。


「無理を言ってすまない」

「お気になさらず。お客様のニーズには応えなきゃ」


 店内にはクラサメと○○以外に客の姿はない。

 それもそのはず。

 ピアソラは本日定休日なのだ。


 今年はどうしようか。

 いろいろ考えた結果、洋服にした。

 リ・ドレスを選んだのはエミナとよく来ていたためクラサメも見知った店員だったから。

 選ぶクラサメへの敷居が高いと、店選びの候補にもあがらない。


 そして○○の事はオーナーも知っている。

 うってつけだった。


 服を選びに来たのは確か十日程前。

 郵送にして当日は渡すだけの予定だったのだが。


 明後日空いてる? 出掛けたいんだけど。


 急に予定が変わった。

 なんでお前の誕生日にお前が空いているんだ?


 訝しがりながらも、郵送するつもりだった予定をキャンセルするために訪れたのは昨日。

 そして定休日だという今日は無理を言って店を開けてもらっている。


「私も変わりようが楽しみ。リ・ドレス。お洒落に着替えて出かけしましょう。コンセプトにぴったりね」

「そう言ってもらえると気が楽だ」


 それにしても、とオーナーはクラサメを眺めた。


「貴方もずいぶん雰囲気違うじゃない。いつものマスクも取ってるし」


 あらわになっている口元を上目遣いで観察する。

 好奇の視線から逃れるようにクラサメは店内を見渡した。


「可愛らしいセバスね。彼女のために張り切っちゃったのかしら?」


 奥からシューズボックスを持ってきたオーナーは、作業用のカートに置いておいた○○の靴をその中に入れた。


「あらヤだ、ごめんなさい了解もなく。仕舞ってよかったかしら?」

「ああ。頼む」


 あの服に○○が履いていたスニーカーが合うとは思えない。

 靴も替える予定だ。


「ふふ。実は選んであったりするのよ? ただ……ちょっと彼女にはヒールが高いかしら」

「構わん」

「そうね。いざ歩けなくなったら抱きかかえてあげなさいな」


 商品を手に取っていたクラサメはさらりと言われた言葉に動きを止める。


「……これも頼む」

「あら新作。お目が高いわね。貴方ウチで働く気はない?」


 クラサメの手から商品を受けとったオーナーは、リボンを掛けながら何気なくそんな事を言ってきた。


「生憎と朴念仁の太鼓判を頂いているただのしがない教官だ。店員など性に合わん」

「貴方がいてくれたら彼氏層にも気軽に来てもらえそうなんだけど……そうね。貴方の感性は彼女のためだけに働くんだものね」

「……靴は郵送で頼む。そろそろ終わったろ」


 会計を終えたクラサメは、小さな紙袋だけ受け取り返事は濁した。


「彼女にぞっこんなセバスチャン。上手くいくように祈っているわ。頑張りなさい」


 ぞっこん……。

 ずいぶん古い言葉を使うな……。


「失礼だがあんた」
「なら言わない方が賢明ね」


 聞こうとした質問は綺麗にいなされた。


 そうだ。同い年くらいに見えようとも店舗を構えるオーナーだ。若いはずはない。


「可愛らしく変身した彼女を見て、いきなり押し倒したりするのはマナー違反よ?」


 ころころと笑う。

 いなした質問は見事に切り返されクラサメを黙らせた。


 ……一体いくつなんだろうか。
















 未だにカーテンを引こうとしている○○。


「いいから出てきなさい。全体像を見てみたらどうです」

「ここに姿見」

「遠くから」


 確かに、遠くから見てみるのとでは見え方が違うのは知っている。


「でも」


 靴無いし。

 そう言おうとしたら店主がすっと室内履きを差し出した。

 微笑むオーナーを見上げながら、自然と唇が尖る。


 そういえば用意がいい。執事仕様のクラサメへのツッコミもない。


 グルか?


 諦めた○○はそのもこもこのスリッパを履いて足を踏み出した。


「あら。やっぱり似合ってるじゃない! フィット感もばっちりね」


 手を合わせたオーナーは、肩や腰周りを触って診断した。


「緩いところやキツイところはございませんか?」


 最早応えられずに小さく頷く。


「じゃあ靴をお持ちしますね」


 俯きながら視線だけを鏡に向ける。

 自然光の中で鏡に映った自分。の服。

 フィッティングルーム内の白熱灯の元で見るのとはまた違う。


 デコルテを広く開けたブラウスは、衿ぐりが豪奢なひだで飾られている。

 そのひだはボタン部分から裾に至るまで全縁を彩っていた。

 ボレロも同じラインで、ひだを邪魔はしていない。

 下に着ているチュニックはハイウエストにサテンのリボンがあしらわれていて、そこから膝上までふわりと裾が広がる。

 ストッキングは白のダイヤ柄だ。


 服に負けているのをひしひしと感じる。

 着替えたい。


「あれ?」


 フィッティングルームに目を向けた○○は首を捻った。


「お嬢様がお召しになっていた洋服なら梱包致しました」


 後日届きますのでご安心を。


「あ、安心出来るか! こ、これで歩けって!? 帰れって!?」

「何をそんなに」

「変だもん! いや洋服は可愛いんだけど! 私に似合ってない!」


 強情に言い張る○○にクラサメは溜め息をついた。


「自信をお持ちになったらどうです。十分お似合いですが?」

「嘘!」

「これも、本心です」


 鏡に向き直らせ、髪を後ろへ払う。


「違和感があるだけです。私も今日はこの格好に相応しい言動を心掛けております。いかがです。お嬢様も」


 目の前の自分は着飾った装いだが中身はいつもの自分。

 クラサメは本当に執事のようなのに。


「今そぐわないのはその考えと室内履き。すぐにでも変える事が出来ますよね? ああ、どすっぴんもですか」

「う……」


 鏡越しに睨むが何も言えない。

 元々○○は化粧っ気がない。


「似合ってますよ。鎖が少々武骨ですが、ノーウィングタグも。あとこれも、です」


 クラサメはネックレスに触れた。


 一年前に贈ったプレゼントだ。

 太陽の光によって色を変えるダイクロイックガラスで出来たそのトップ。


 確か任務先で見つけ、衝動的に購入したもの。

 プレゼントだが何せ急ぎだったため包装もせず裸で渡した覚えがある。


 付けていたとはな。

 気に入ってくれたんだろうか。


「よく、似合っている」


 睫毛を伏せたクラサメは、今は黄色のそのトップに唇を付けた。


「パーカーの下にいるより光に当たっている方が、それもさぞ喜びましょう」

「き、今日はクラサメと出掛けるからたまたま付けただけであって!」


 零距離だったクラサメから飛びのいて睨みつける。


「そんな真っ赤な顔で申されましても」


 可愛いですね。照れてるんですか?


「寄るな変態執事! 命令よ!」


 伸ばされた手が止まる。


「命令、ですね?」


 確認したクラサメに○○は頷いた。


 良い傾向だ。着替えたいと駄々をこねられるより余程。

 行動は止められたにも関わらず、クラサメは小さく笑んだ。


「失礼? いいかしら」


 咳ばらいに気づいて視線を向けるとオーナーが靴を手にして立っていた。

 その靴を見て○○は目を見開く。


「それ……新しい武器?」

「まごうことなき淑女の履物でございます、お嬢様」

「だって……」


 殺傷能力高そう。


 受け取った靴の爪先部分を持ち、呆けたように眺める。


 確かにその感想は否めない。

 高いヒールは12、3センチ程あるだろうか。


「それだけ高いものを履くと、私の視線に大分近づきますね」


 戸惑っていた○○の肩がぴくりと跳ねた。


「しかしお嬢様には少々難しいご様子。もう少し低いものにして頂きましょうか?」

「履く!」


 鼻息荒くオーナーから靴を受け取った○○はスツールに腰を降ろした。


「一人で履けますよね?」

「大丈夫!」


 ……信用していいよな、これくらいなら。

 クラサメは店主に向き直った。


「失礼。チェーンを幾つか見せて頂きたいんだが」

「チェーン?」


 クラサメが指で首元を指すと、オーナーはせっせと靴を履く○○の首元で揺れるノーウィングタグを見咎めた。


「かしこまりました。では下へ」


 胸に手を当て軽くお辞儀。


「お嬢様。少々下へ行って参ります」

「はーい」


 聞いてないな。

 まぁいい。頑張ってろ。


 オーナーと共に1階へ降りたクラサメは、ショーケースに並ぶプラチナのチェーンを見比べた。


 一言にチェーンといっても様々。

 長さ、太さにヒトコマのモチーフだってそれぞれに違う。

 ネックレスとも合い、且つ○○に似合うもの。


「こんなのもありますよ」


 思案中のクラサメに横から差し出されたのは、光沢を削いだピアノ線のようなワイヤーだった。


「いかがかしら」


 自らにあてがう。


 邪魔をしなくていいかもしれない。


「ではそれを」

「ありがとうございます」


 にっこり笑ってクラサメに手渡しレジに向かう。

 ポケットからマネークリップを取り出しながらクラサメは溜め息をついた。


「レリック端末があればいいんだがな」


 カードスキャンで手間が掛からないのに。


「お手数お掛けします。確かに魔導院の顧客も多いけど……でも普通、お会計は1回だし。プライスタグも見ないで一式コーデをプレゼント、なんて大口様は貴方くらいよ? そんなお安い設定ではないはずなんですけど?」

「……そうか」


 魔導院に属する者は衣食住が保証されているため、極論ではあるが、金がなくても生きていける。

 入学するには多額が必要だが、自身の力量、任務いかんでそれ以上が返還される。


 使う場所も知らず時間もなく訓練生から候補生へと上がり、一般的な金の使い方というものを身につける機会がなかった。

 カード残高を気にする事もなく、恋人の望みも問題なく叶えてきた。


 自身への贅沢はスカラベとレッドクローバーくらい。


 それでも最初にスカラベで品物を購入したときは値段を気にしていた。


 良質な本革一点もの。値は張る。


 いつから気にしなく……。

 ああ。


 紙幣を差し出しながらクラサメは思い至った。四天王に加入してからだ。

 任務と授業と睡眠だけというハードスケジュールを繰り返した日々。

 スカラベに赴こうとカードを確認して驚愕したのを覚えている。


 そして使い方は恐らく近しい存在となっていた四天王に影響を受けたのだろう。


 化け物。デタラメ。酒豪。


 日記にはそんな単語ばかりが並んでいた。

 きっと全員が値を気にするような神経ではなかったはずだ。


 こんなところにも置き土産が。


「いかがなさいました?」

「なんでもない」


 知らず口の端が上がっていた。


「彼女は無事に履けてるかしら?」

「どうだろうな」


 例え履けていたとして、身動きは取れていないはずだ。


「しっかりエスコートしてあげなさい」

「ああ」


 顎を上げ傲然と笑むクラサメは、執事というより人を転がす貴族の様だ。

 先程、靴を履く気にさせた言葉選びも。


 慣れていない者なら履きこなすのが難しいくらいのヒール。

 頼らせる事まで計算の上だ。


 頭もまわる。ルックスもいい。


 なのにどうして。


「どうして貴方たちは恋人じゃないのかしら」


 頬に手を当て小首を傾げる。


「それは俺が聞きたい」


 クラサメが一番陥落させたい可動式の砦は、依然として堅牢なままに共に数年を過ごすはめとなっていた。
















「すごいよ! いつもと視界が違う!」


 扉を開けるなり飛んできたのは弾んだ声。

 いつもと違う目線が楽しいのか顔は忙しなく動いている。


「ね?」

「そうですね」


 合わせるためにクラサメが下げる視線も今日は少し。

 隣に呼び付けた○○は満面の笑みだ。


「喜んでおられる所申し訳ありませんが、それで歩けますか?」


 実際目の当たりにすると想定していたよりも高い。

 ○○は靴を履いていた位置から動いていなかった。


「みんなみたいに綺麗には歩けないけど……なんとか」


 自信なさ気に笑いながら、それでも白いペンキが塗られた床を等間隔に鳴らし、クラサメを振り返る。

 ゆっくりとだが、思っていたよりも歩けていた。


「ではお出かけね。楽しんで」


 仏頂面のクラサメに笑いつつ、オーナーは階下へ続く扉を開けた。


「ああそうだ。お嬢様、失礼致します」

「うぇッ何、あッちょっと!」


 ○○に手を伸ばしたクラサメは、前から覆いかぶさるようにノーウィングタグを外した。

 そのままチェーンからタグも外す。


「私のタグ!」

「本日だけは、このように」


 先程のワイヤーに通し、再び○○の首に掛ける。

 自分では見えないが、手で触れた感触と重みがいつもと違うからか不安げだ。


「なんか……頼りない……」

「その分私を頼ってくださいませ」

「え〜?」


 上目遣いでクラサメを見ながら笑う○○。


「落ち着かない……。チェーンがいい」

「お嬢様も前にしたじゃありませんか」

「こんなに不安なもんなんだ……。今死んだら身元不明者だね。院に報告よろし」
「護ります」


 タグを通したワイヤーを指先でたどりながら口をついて出たのは真摯な言葉。


「今日だけは」


 今日だけではなく。


「お嬢様が亡くなるという事は私がすでに亡いという状態。なので私に報告は出来兼ねます」

「ちょっ……冗談だし」

「魔導院への提出は……そうですね。オーナーにでもお願いしておきましょうか」


 自らもシャツの下から揃いのタグを引き出し唇を寄せる。

 ○○に向けられているのは強い視線だ。


 揃いのノーウィングタグを同時に提出。

 周囲の記憶が無くなろうとも、それもいいかと思う自分は相当キている。


 ○○は赤い顔で視線をさ迷わせ固まっていた。


 ……調子に乗り過ぎたか。


「まぁ、そんな事態になるとは到底思えませんが」

「あああ当たり前よ! 間違いなく平和なキザイアで物騒なコト言ってんじゃないわよ!」

「先に物騒な事をおっしゃったのはお嬢様ですが?」

「煩いッ!」


 クラサメを押し退けて扉に向かう○○。

 だが鳴り響いていた不規則な靴音は扉の前で止まった。


「いきなりハードル高いわね……」


 ○○が仁王立ちで見下ろしているのは店主が軽やかに降りていった階段。

 高いヒールに慣れていない○○には高難度だ。


「お手をどうぞ。お嬢様」

「大丈夫。不格好になるけど一人で降りられるわ。先に行ってて」


 申し出を断った○○は両手で手摺りに掴まり、一段一段確実に降りる。

 数段先にいたクラサメは差し出した手を引っ込めた。


 何故、掴まない。


 クラサメが抱えて降ろすという選択肢だってあるのに。


 深い深い溜め息をつきながらも、足を踏み外さないように○○から目は離さない。


 中程まで降りた○○は息を吐き出した。


「逆立ちの方が早いかも」
「やめてくださいね」


 冗談だろうが本気とも取れる言葉。

 そして恐らく本当にそっちの方が早い。


 一蹴された○○は肩を竦めて再び足を運びはじめた。


 本当に。

 抱えてとせがむより逆立ちで降りるという考えが上位にくるとはどういう事だ。


「なんか言ったー?」

「なんでもございません」


 階段の下に目を向けると、腕にコートを掛けたオーナーが口元に手を当て笑っていた。


 ○○以外には、意図は伝わっているようなんだがな。


 向けられている本人だけが未だ気付かない。


 全くどっちが朴念仁だか。
















 オーナーに見送られピアソラを後にした二人は次の目的地、レッドクローバーに向かっていた。


「寒くはございませんか」

「うん。寒、くない」


 リ・ドレスで着替えた洋服に今はコートを羽織っていた。


 フェルト生地のセミロングコートは膝までをすっぽり覆い、合わせの部分には大きな飾りボタンが4つ並んでいる。

 飾り気の無いシンプルなモスグリーンのコート。


 丸衿は人を選ぶんだが。


 今は歩く行為に集中している○○。


 よく、似合っている。


 何気にこいつ、首長かったりするんだよな。


 滅多に無いのだが、たまに髪を纏めると目がいく。

 水鳥のようにほっそりとした首筋。


 本人に言った事はないし、自覚あるのかも知らない。


 当然だが今は化粧もしていないくらいなので髪も纏めていない。


 少し、残念。


 ……。


 なんて考えてる場合じゃないな。


「お嬢様。意地を張らずにお掴まりください」

「大丈、夫だってば」

「お嬢様の大丈夫は信じておりませんので。失礼」

「あッぶな」

「どっちが」


 ○○の腕を取り、出した肘に組ませる。


「身体が遠い。もっとこちらへ。体重をお掛けください」

「ちょっ! わひゃッ」


 身体を引き寄せられクラサメにもたれ掛かる形になる。


「一言掛けてよ!」

「何度も申し上げました」

「にしても! 危ないって!」

「一歩距離を置かれて変なステップで歩かれるよりマシです。それに言葉を掛けずに行動に移すやり方はお嬢様から学んだつもりですが?」


 くそぅ。なんも言えない……。

 ○○は唇を尖らせた。


「だから。遠いと何度言えばわかるんです」


 隙あらば距離をあけようとする○○。

 いっそ転んでくれればそれを口実にどうとでも出来るのだが、何せ○○は体幹が優れている。

 現に、石畳で更に歩きにくいにも関わらず歩けているのだ。


「添えているだけでは意味がありません。体重をお掛けくださいと何度」

「うひゃ」

「言えばわかって頂けるんですかね?」


 空いている手で○○を引き寄せる。

 元々小柄な○○。高いヒールを履いていようともクラサメの腕の中に収まった。

 視線を感じてか、○○は肩を強張らせ俯いたままだ。

 髪から覗く耳が赤い。


「お嬢様?」

「なななななによ」


 今、どういう顔してるんだろうな。


「……先程お護りしますと言ったばかりでございます。お嬢様がすっ転びあそばされた場合、それ即ち私の落ち度。誠に遺憾ですが」

「自分のためか!」

「平たく言いますればそうなります」


 諸々の思惑が混みではあるが。


「おわかり頂けましたか?」

「……わわわかったわよッ。いいから離して!」

「本当に?」

「ホントホント!」


 では。


 ゆっくりと手を離しても○○は隣以上に距離はあけなかった。


 キッと顔を上げクラサメを睨みつける。


「後悔しないでよ! 筋肉痛になるがいいわ!」


 組んだ腕にもう片方の腕も添え体重を掛ける。


「参りましょうか」


 太陽は地平に沈み、並ぶ街灯が明かりを点し始めた。


「暗くなってきたね。クラサメは寒くないの? コート無いけど」

「お気遣いなく」


 寒くないのは腕の温もりのせいだ。
















「到着ー!」

「いらっしゃいませ。まぁ!」


 目的地に到着し扉を開けると、出迎えてくれたのはレッドクローバーの夫人だった。

 いつもと違う二人の装いに小さく驚きの声を上げる。


 ○○は組んでいた腕を解き、照れながらもお辞儀をした。


「こんにち……こんばんわ」

「こんばんわ。まぁまぁ! 可愛らしい格好でまぁ! コートお預かりしますね……まぁ!」


 コートを脱いであらわになった私服。

 これもまたいつもと違う。


「とても可愛いわ! 見立ててもらったのかしら?」


 出された椅子に座らされながら、○○は照れ臭そうに返事をした。

 ちょっと待っててねと奥に消えた夫人。

 失礼しますと言ってクラサメもついていった。


「そだ」


 微かに音楽が流れている店内を見ていた○○は思い出したように手を叩いた。


「どこだったかな……。どっかで……」


 足元に気をつけながら目当ての物を探す。


「あ。これこれ」

「あまりうろつくな」


 品物を手にしたと同時に、背中に声を掛けられた。


「マスター。こんばんわ」

「座ってろ」


 相変わらずにこりとも笑わないスカラベの主人。

 何かを手にし、ぶっきらぼうに椅子の横に作業カートを引き寄せた。


「ねぇカルバンさん。これ欲しい」

「……自分用……じゃないな。包んだ方がいいのか」

「えーと、出来れば……」


 溜め息をついたマスターは、商品をカートに置くと壁に掛かっていた革の端切れを引き抜いた。

 いびつな形の革。

 適当な大きさにざっくりハサミを入れ、余計な部分を裁断し適当に包むと、最後は革紐でくるりと巻き上げた。


「これでいいか」


 聞いておいて選択権は無い。

 紙袋に入れてくれる様子を見ながら○○は笑った。


 スカラベは革や金属製品を取り扱う店。

 自然と客層は男性中心で、自分へ買う人が大部分。

 贈り物としての需要は少ないらしい。


「なんだ」

「んーん? 十分です。ありがとう」

「代金は後日だな」


 椅子に座るよう促し溜め息をつく。

 手ぶらな○○を見ての判断。


 ぶっきらぼうだけどやっぱり優しい。

 紙袋を受け取りながら椅子に座る。


「こっち向きじゃない。向こうだ」

「え?」


 指示された通りカルバンに背を向け座り直すが。


「え? 何?」

「聞いてないのか?」


 髪を梳かし始めたマスター。


「結ってやれと言われた」

「えー!? マスターが!?」

「おい動くな」


 思わず振り向いた○○の顔を、ぐきりと前に固定する。

 力強い手。武骨な指。


「だ、大丈夫?」

「任せろ。娘がまだ家にいた頃は、髪を結んでやるのは俺の仕事だった」


 娘さんがいたんだ。初耳。


「便りの一つも寄越さん親不孝者だ。どこで何をしているのか」

「寂しい?」


 前を見たまま問い掛けると嘲笑の気配がした。


「元気で幸せでやってるならそれでいい」


 滲み出ている優しさに胸がほっこりする。


 笑ってるのかな。

 視線だけでもと、動かしてみると。


「ちょッカルバンさん! それハンダごてじゃ!?」

「動くなと言っただろ」


 鏡もなく、マスターの手元は見えない。

 不安は募る。


 本当に大丈夫なんだろうか。
















 動いていいぞと言われて作業用カートを見てみると、ハンダごてだと思っていたのはカールアイロンだった。

 マスターが持っていたときはハンダごてに見えたのに。

 何故。


「鏡、どっかにないんですか〜?」


 完成したらしいが何せ確認するための鏡が店内には無い。どうなっているんだろう。

 首筋が涼しいのと、手で触ってみるともふもふしているのはわかるが。


「まぁ! いいじゃない! 可愛くしてもらったわね」


 奥から出てきた夫人とクラサメ。

 喜色を示しながら夫人は○○に駆け寄った。


「最後の仕上げね。いらっしゃいな」


 そう言ってレッドクローバーへと手を引く。


「クラサメ、助け」
「ごゆっくり」


 ええー?

 困惑する○○をよそに扉は閉められた。


「あんたにあんな特技があったとはな。驚きだ」

「手先は器用な方だ」


 アイロンやヘアピンを片付けながらぶすっと呟くマスター。

 商品の一部はマスター自ら加工しているので器用なのは知っているが、必要スキルはまた違うだろう。


「お前もいつもと違うな」

「今日は○○の誕生日なんだ。付き合ってやってる」


 溜め息をついている割には楽しそうに見受けられる。

 いつもと違う装い。口元。


 少し言い澱んだ末、マスターは口を開いた。


「マスクはどうした。傷を負ったと聞いたが……」

「傷は癒えた。が、通常、マスクはしている。外しているのは今日だけだ」

「そうか。調子はどうだ。メンテナンスはちゃんとしているんだろうな?」

「ああ」


 クラサメは自身の武器を召喚した。

 次いで現れた、マスク。


「問題はないと思うが……見てくれ」

「……ああ」


 多少驚きの表情を浮かべるカルバンにマスクを渡し、クラサメは氷剣を立て掛けた。


 発見は偶然。


 マスクを外し、自室で剣のメンテナンスをしていたときだ。

 全ての工程を終え剣を収納したとき、机の上に置いていたマスクも共鳴し失せた。

 しばし固まった。

 再び氷剣を召喚してみると、マスクも同時に現れた。


 ……含有鉱物が近いのか?

 マスクはほぼ常時着用なのであまり必要性はないが、そんな便利機能があったなんて。

 持ち運ぶとなるとかさ張るマスク。今日は助かっていた。


「関節も問題ないな。オイルは何番を使っている?」


 番の可動部分を動かしながら店内を物色しているクラサメに問い掛けた。


「70から80だな」


 数字が大きくなる程とろみが少なくなるオイル。


「上等だ」


 クラサメに返すと、先程と同様に空気中に光球を残して剣とマスクは消えた。


「ただ、好みではあるが月に一度でも研磨を掛けると艶が持続する。マッドにしているのはわざとか?」

「ああ。消しているんだ。たまに500番前後で磨いている程度」


 確かに馴染んできている。

 傷などがあれば均さなければいけないが、何せ、マスク。当たり前だが傷一つない。

 魔導院の人間。

 実力は知らないが、それも当然なのだろう。


「今日はあんたの入り用はないのか?」

「ああ、悪いな。また改めてゆっくり」


 言いかけていた言葉は隣からの奇声に阻まれた。


「姫サマがご乱心のようだ」


 くくっと笑うマスター。


「そろそろ落ち着きというものを身につけて欲しいんだが」


 一つ歳を取ろうとも何も変わらない。
 勢いよく扉が開いて出て来たのは仁王立ちの○○。


「だ〜れだ!? 答え! 私! ねぇ! 私が別人!」

「はいはい。行きますよ」


 マスターと夫人に礼を言ってはしゃぐ○○にコートを掛ける。

 並ぶ二人に見送られ、クラサメと○○は次の目的地であるグレイハンドに向かった。
















 対面に座る○○はグラスの細い首を持ち炭酸弾けるワインを口に運んだ。


 鉢まわりにゆるりと編み込みを入れ、細めのロッドで巻かれた髪と共に結い上げられている。

 あのマスターが作り上げたとはとても思えない精緻な髪型だ。

 酒豪と豪語している○○だが、その頬が今ほんのり上気しているようにみられるのはアルコールではなく恐らくチークのせい。

 薄く乗せられたファンデーション。ピンクグラデーションのアイシャドーはシャーベットカラー。マスカラは目尻を強調してラメがかっている。

 化粧を施したのはレッドクローバーのオーナー夫人。

 服装も相まっていつもの○○とは思えない。

 視線が合う度、無意識に背筋が伸びてしまい、そのつど小さく舌打ちをしていた。


 女は化けるというが。

 こんなんじゃ、どこで擦れ違ってもわからんぞ。

 共通点を見出だすとすれば声と。


「まさか全部平らげるとは思ってませんでした」


 その食欲。


「え?」


 口元をナフキンで拭いながら○○は聞き返した。

 ごちそうさまでしたと手を合わせる○○の前には空になったディッシュがいくつも並んでいる。


「美味しかったねー。お腹いっぱーい!」

「……何よりです」


 普段はしないエプロンを外し、ポンポンと腹を叩く。


「はははっ出てる出てる。チュニックでよかったー」


 言動は間違いなく○○。

 だが喋らない○○を前にすると、実はクラサメも緊張していた。

 喋ってて欲しいような黙ってて欲しいような。

 複雑。


「では最後のデザートですね」


 クラサメがそう言うと同時にタイミングよくケーキが運ばれて来た。


「うわー! かっわいい! すごーい! キラキラ!」


 思わず身を乗り出した○○。

 置かれたのはチョコレートでコーティングされた半球状のケーキ。

 登頂にはベリーとナッツが乗せられていて、皿の縁はオレンジのコンフィチュールが飾りたてていた。

 天井の照明が映り込む程のチョコレートドーム。

 今は○○の顔が映し出されていた。


「ん〜ッ美味しッ!」

「はしたないですよ」


 クラサメが止める間もなく○○は指で皿の縁のコンフィチュールを舐めとった。


「ありがとうクライさん!」

「わかりますか」


 当然、と○○は笑った。

 このケーキは事前にレッドクローバーに発注し、こちらに運んでもらっていたものだ。


「クラサメも、ありがとう」


 おかげで。


「……は?」


 思わずクラサメの眉根が寄り、声まで出てしまうくらいのヘコみを見せた○○。

 たった今まで笑顔だったのに。

 なんだ。どこ行った。


「お嬢様?」

「ん……」

「食べないのならいただきます」

「あッッ」


 皿を引き寄せながら、すでにフォークは入れている。


「ひっどーい! 私のでしょ!? 私より先にフォーク入れるってどうなのよ!」

「一口目はお嬢様に」


 小さく切り出しフォークを差し出すと○○はぱくりと口に入れた。


「いかがですか」

「美味しー! ってこらー! だから食べるなー!」

「独り占めする気ですか?」

「いや食べてもいいけど! 私も食べる!」


 皿を真ん中に引き寄せ自らもフォークを手に取ると、女子にあるまじき一口サイズにフォーク入れた。


「ちょっと! あんたペース早過ぎよ! 味わいなさいってば!」

「お嬢様こそ。大口ですが入り切ってませんよ。はしたない。口の端についてます」

「んぅ!? ……取れた?」

「……ええ」


 親指で拭い舐め取った○○。

 相変わらず色っぽい展開にはならない。伸ばしかけたこの手をどうしてくれる。

 装いが一新しようとも、同じやり取りはつい数時間前にもした。

 望む展開にならずとも、望まない展開を回避出来ればそれで。


 嘲笑が出た。

 これではまるで本当に執事ではないか。


「クランベリーは2個あるから1個づつね」


 ん〜甘酸っぱい!

 口をすぼめて味わった後、もう一つをフォークに刺しクラサメに差し出す。

 あ〜ん。

 そう言う○○に感じる事は色気よりも幼稚さ。

 苦笑しながらも口を開く。

 笑っていてくれるなら、それだけでいい。
















 同じペースで食べていたのは最初だけ。

 後は執事のポジションをわきまえ、美味しそうに食べる○○を眺めていたのだが。

 ごちそうさまでした!

 最後の一口はしっかり二等分してクラサメにも寄越した○○。

 だから執事の扱いしろよ。

 決して見下されたいわけではないのだが、ここまで揃えてきた格好が全く活用されていない気がする。

 しかし考えてみれば、言われたのは『執事やって』。

 イコール○○がお嬢様なわけではないのだ。


 過剰な期待だったか。全ては一人で空回り。それは今も。


 クラサメは小さく溜め息をついた。


「危ないですってば。お手を」

「平気。高いのにも慣れてきた!」


 順応性ありすぎだろ。


「ほら!」

「暗いですし。せめて普通に歩いてください」


 は〜い、と返事をした○○は、不満げに唇を尖らせ後ろ手を組んで歩きだした。


「近いね」

「近いですね」

「これにも慣れてきた」


 笑い掛けてくる距離にはクラサメだけが慣れない。

 慣れないまま終わりそうだ。


「後はもう帰るんだよね?」

「……ええ」

「今何時だろ」

「二〇〇〇を回ったところです」

「その余裕……やっぱり外泊届け出してたんでしょ」


 飛空艇に乗る前に出した外出届けは、○○の分までクラサメが処理した。

 悪いようにするわけがないので特に考えずに任せたが。


「外泊許可を出しておけば帰院するしないは勝手ですから」


 外泊の回数は本人の働きに左右され、問題事を起こせば減数される。

 もちろん使用するかは本人次第だが、それでも上限まで使い切る人間は少ない。忙しくて使用機会が無いというのが多く聞かれる本音だ。


「なんでしたら本当に泊まっていっても構いませんが?」


 ちらりと視線を向けると○○は軽く笑った。


「残念ー。明日一講入ってるからなあ」

「……そうですか」


 講義が無かったら宿泊したのか?

 即答で切られるのと、本当に残念と思っているか定かではない拒否。果たしてどちらが良かったのか。

 問うておきながらクラサメにもわからない。


「それに誕生日は今日だしね。明日からはまたいつもの○○サンだよ。選んでもらって何だけど、多分、この服、もう着ない」


 これが似合うような女の子でいるわけにはいかない。

 必要なのは動きを妨げない服と頑丈な靴だ。

 ○○は大きく背伸びをした。


「まだ今期分余ってるんだよな〜。あ! 今度パラディーセ行こうよ!」


 お酒飲み放題ー! と、○○は思い付きにご満悦だ。

 前は互いに同伴者がいた。二人で行った事はない。


「そうですね。私も読みかけの本が」


 持ち出しを禁止とされている貴重な蔵書が何点もある。

 その場で読むしかないのだが、何せ邪魔な存在が。

 思考を横切った影にひどく不愉快になった。


「絶対、お一人では行かないでくださいね」

「わかってるよー。だから誘ってんじゃん。……遺憾ですけど私よりクラサメの方がスケジュールタイトなんだから、都合付けてよね!」

「多忙で申し訳ありません」


 きーッと歯を剥く○○にクラサメは馬鹿丁寧に腰を折った。


「執事のくせにッ生意気ッ」


 ここで執事扱いがくるのか。タイミングがいまいちわからない。

 ふいと顔を背け歩き出した○○。

 追い掛けようとクラサメが足を踏み出したとき、二人は同時に眉根を寄せた。





「……聞こえた?」

「ええ」


 女性の叫び声がした。

 遠い上に微かだった。反響して方角がわからない。


「あっち!」


 指を差しながらクラサメの首筋に腕を絡めると、クラサメは心得ていたようにそのまま○○身体を預かり、走り出す。


「よくわかりますね」

「なんだろ……でも聞こえない……。シスターと……モンスター? 男……? 男! 複数人」


 嘘だろ。

 一声以来、クラサメには何も聞こえない。

 抱えられながら○○は首を伸ばした。


「……あれ、ナンパ? ……違う! やっぱり脅し!」


 会話まで聞こえるらしい。

 目や耳など、○○は五感が優れている。

 ……なのに第六感は鈍いのか?

 こんな状況ではあるがどうでもいい事を考えてしまった。

 それよりも。


「知り合いですか」

「多分! ……あ、あそこ!」


 指されたのは暗がり。

 目を細めて、ようやくクラサメにも路地裏に男がいるのを確認出来た。

 首筋を叩かれたので物音を立てないように○○を壁際に降ろす。

 駆け付けたものの問題はこれからだ。○○もそわそわと首を巡らす。


「遅いわねえ……。何やってんのよ警邏は!」


 遅いかはさておき、クラサメたちが早かったのは事実だ。


「早くッ早くッ早、あ゙ァ!? んぐッ」

「デケぇ声出すなよ! ……あ。」


 あるまじきガンたれをかました○○。口を塞いだクラサメも咄嗟だったので素に戻った。


「……失礼。しかし口が過ぎます。下品ですよ」

「下品なのは向こう! あー無理ッ! あー鼻持ちならないッ! シスターに向かってなんてコト!」


 クラサメの手を剥ぎ取った○○は鼻息荒く今にも出て行きそうだった。


「無理ッ遅いッ! 出る!!」

「待て馬鹿!」


 踵を返した○○の腰を引っつかむ。


「一般市民との抗争は禁制! しゃしゃり出るな! 警邏を待てよ!」

「待てないわよ! ってかそもそも気付いてるかも怪しいし!」


 それに!

 ○○はクラサメの腕から抜ける。


「都合いいコトに、今私たちこんなだし。どっから見たって良家のお嬢様とそのセバスチャンでしょ?」


 向けられた笑顔はいつもの○○色。

 このタイミングで今日一かよ。


 だが確かにこの格好ならば魔導院の人間だとはわかるまい。


「行くよクラサメ」

「御意」


 と言って、しかしクラサメは○○の頭を掴んだ。


「ちょ」

「お嬢様? まさか出張りませんよね?」

「え」


 不満げな顔からは、やはり自ら行こうとしていたのが丸わかりだ。


「執事の役割を真っ当させて頂きます」

「……わかったわよ」


 唇はますます尖ったが約束は取り付けた。


「いい子です。あとでご褒美をあげましょう」


 では失礼します。

 唇を尖らす○○の頭を一撫でしたクラサメは、暗がりに向かって駆けた。
















「あ? なんだてめぇ」


 クラサメが声を掛けるとスキンヘッドの男が振り返った。

 放った言葉は捻りの無い決まり文句。


「通りすがりの執事です」


 だからクラサメも何も捻らずに答え、凄みをつけた眼光にも全く動じる事なくジャケットの衿を正した。


「執事がこんな所でナニしてんだよアァ?」

「ですから。通りすがりだと申しましたが。悪いのは耳ですか? 頭ですか?」

「んだとてめぇッ!!」

「待て」


 気色ばむ男を窘めたのは小肥りの男。


「通りすがりでしたか。すいませんねえ。さあどうぞ」


 半歩下がって道を促すその様子に他の男たちも倣った。

 どうやらこいつが主犯格。


「まぁ……通りすがり、だったんですが」


 障るんですよ。

 眼鏡を上げながら足を進める。


「あン? 何に触るって?」

「耳にも。目にも。勘にも癪にも。全てにおいて障るんです。ああ。わかりますか? さわる。気に入らないという事ですが」


 首を傾げ、説くように言うと男たちは予想通りの反応を示した。


「馬鹿にしてンのか!?」

「おや気付きましたか。存外賢かったんですね。ならば今後の展開もわかりますよね?」


 クラサメは顎を上げ、すぅっと目を細めた。


「お嬢様が気分を害されました。その女性をおいてとっとと失せろ」


 覇気に気圧されたのか擦り足によって石畳がじゃりと鳴る。

 しかし目の前にいるのは自分たちより身体が出来ていない男。そして一人。

 思い直した男は拳を握った。


「失せるのはてめ」
「そうよ! めちゃめちゃ害したわよ! 殴られたいわけ!?」


 予期せぬ後方からの声にクラサメの肩が下がった。

 なんで来た……!


「その声……。もしかして」
「おーっと! ご機嫌ようシスター」


 びしりと手を突き出して口を開いた女性の言葉を遮る。


「あ、の……?」

「ただの通りすがりのお嬢様とセバスチャンよ」


 振り返るとにまにまと笑みをたたえた○○がいた。


「……失礼」


 こめかみを揉みほぐしたクラサメはクエスチョンマークを浮かべる女性と男たちに向かって制止のジェスチャーをした。

 返事は聞かない。

 言い放つと同時に踵を返すと、仁王立ちで腕を組む○○に大股で歩み寄る。


「おとなしくしてろっつっただろ!」

「おとなしくしてるわよここで!」

「意味ないだろうが!」

「だってシスター気になるし!」

「俺がしくじるとでも? ナメんな!」

「そういうワケじゃないけど!」

「馬鹿か!? あそこにいるツルッパゲ並だな!」

「言い過ぎ!」


 交わされるのは小声での怒鳴り合い。

 仕事の邪魔をされ、小馬鹿にされ、挙げ句放置された男たちの苛立ちはピークに達した。


「シカトしてんじゃねぇよ!! 痛い目みてぇのか!?」


 割って入ってきた声に二人は視線を向ける。


「ちょっと。私アレと一緒ってコト?」

「……失礼。言い過ぎました」


 アレよりは馬鹿じゃないよな。アレよりは。


「もうちょっと芸あるわよ私」

「……あるんですか」


 クラサメは鼻で笑った。

 ステイが出来ないのは知っている。

 ご褒美もお預けだぞ。
















 勝手にときの声を上げ、勝手に殴り掛かってきては勝手にカウンターをもらってくれる男たち。大いに結構。

 ぶん回される腕を避わしながらクラサメは眼鏡を上げた。

 だが、結構過ぎる。全く骨が無い。

 近頃のフリーランサーはこの程度なのか?

 化け物を相手に化け物と共に過ごす内、いつの間にか自分も化け物レベルになっていたか。

 それならそれで一向に構わない。

 この程度で苦戦しているようでは逝った仲間に笑われる。というか殺される。

 小肥りの男が懐に手を入れたのを視界に捕らえたクラサメは、群がる男をあしらい一足飛びに距離を詰めた。

 気を緩めていた男はヒィッと声を上げる。

 手首に手刀を叩き込むと軽い音と共に落下したのは小刀。

 どこまでもマニュアル通り。

 遠くに蹴り石畳の上を滑らせると、クラサメは眼前の男を見下ろした。

 先程までの余裕はどこへやら。完全に萎縮している。

 手首を摩る手はギラギラした指輪がいくつも嵌まり、額に光るのは汗か脂かわからない。

 身なりは悪くないが、内包しているのは醜い脂肪の塊だ。

 クラサメは眉間にしわを刻んだ。


 困ったな。……触りたくない。


 相手の獲物でも奪っておくべきだった。魔法が使えないのは痛い。

 しかしずっと睨み据えているわけにもいかず、クラサメは意を決して掌底突きを腹に入れる。

 吹っ飛んだ男は壁に当たり短い手足を投げ出して泡を吹いた。

 嫌悪感すら抱いたその初めての感触。

 払拭するように手を振っていると、身体を強張らせていた女性が初めて声を発した。


「あの、ありがとうございます……」

「礼でしたらお嬢様に」


 クラサメは警邏を待つつもりでいた。

 今こうしているのは○○が飛び出しそうだったから。


「知り合いだそうで」


 え? と目を丸くして振り向いた女性に○○は大きく手を振っていた。

 その背後には腕を振り上げた男がいた。


「ナーイス! よくやったわよクラ」

「お嬢様!!」


 叫ぶより先に○○は反応を見せた。

 鋭く上半身を捻り、踵落としを。

 脳天へ行くはずのそれは僅かな躊躇いの後、肩口に決まった。



「う、わッ! と……パスッ!」


 バランスを崩した○○は左手を地面につき、側転へと繋いで着地する。

 踵落としを決めた時点で体幹の崩れを見て走り出していたクラサメだったが、手が必要ないとわかり速度を緩めた。


「へへッ見た? 踵落とし! ちょっとバランス崩したケド実践で初めて出来た!」


 クラサメの横ではしゃぐ○○。

 その様を冷ややかに見下ろしながらクラサメは口を開いた。


「お嬢様……」

「ん?」

「後で説教して差し上げましょう」

「はぁ!?」


 手を借りながら立ち上がる○○の口が歪む。


「なんでよ!?」

「二点、言い含めなければと思う箇所がありました。心当たりはございませんか?」

「ございませんわよ!」

「……自覚の無さも追加対象ですね」


 なお一層冷え込む視線に、○○はぐっと言葉を詰まらせた。

 無表情から読み取れるのは奥底で煮える怒り。

 怖い。後でってのが更に怖い。

 本当に差し向かいで説教する気だ。


「ね、ねぇ、ごめん、ごめんて」


 引き上げられ目線が同じとなった○○はクラサメに縋りつくが。


「理解していない謝罪ならば結構。受け付けません」


 一瞥をくれただけで一刀両断。

 ○○との会話を終えたクラサメは、じりじりと進退を決め兼ねている男たちに向かっていった。

 うわどうしようシャレになんないんですけど!


 ○○はよろよろとシスターの元に歩み寄った。


 街灯の下を通過した際に○○だと確信する。声でもしかしてとは思ったが。

 しかし。


「ご機嫌よう、……お嬢様?」

「はははーお嬢様でーす。こんばんはシスター。みんな元気ー?」


 口から出た言葉は思ったより投げやりだった。

 彼を怒らせてしまった原因を考えているため、他に思考が回せないのだろう。


「名前は言ってはならないのね?」

「うん。ただの通りすがり。バレちゃいけな」
「お嬢様。」

「うわ!」


 すぐ傍で聞こえた声に肩を竦める。


「お口にチャックでお願いします」

「な、なんで!」

「自分で塞げないのなら塞いで差し上げましょうか」

「うわ、ちょっと!!」


 顎を持ち上げ身体を引き寄せようとするクラサメに○○は胸板に腕を突っ張らせて対抗した。


「塞ぐ塞ぐ塞ぐ! 塞ぐからー!!」

「遠慮せずともよろしいですよ? ほら。身体の力を抜いて」

「抜けるかアホー! こんのッエロ執事! 嫌、だッ! つっつんでしょ!!」

「てめぇ!! まだ終わってねぇぞ!!」


 誰か、と思ったときだった。


 投擲されたナイフをたたき落とすため後方回し蹴りを放ったクラサメ。

 気が逸れた隙に○○は腕の中から抜け出した。

 ありがとう男A。

 クラサメは温もりが無くなった手に視線を落とし開閉させると溜め息をついた。


「折角いい所だったのに」


 どこらへんが!?


 思うが口は開かない。

 喋ったらまた付け入らせる隙になる。


 ほう。学習したか。

 真一文字に引き結ばれた唇を見て肩を竦めたクラサメは、残りの男たちを地に伏せるため身体を向き直らせた。

 学習したらしたでつまらない。学習させているのは自分だが。


 しょんぼりと肩を落とし、○○はシスターを見つめた。


 喋っちゃいけないみたい。

 喋るのも駄目なの?

 うん。……なんでかわかんないけど。


 喋らない○○に釣られたのか、シスターも口を押さえている。


 久しぶりなのに会話する事すら禁じられた。

 理由くらい教えてくれても。

 ……なんか腹立ってきた。ちゃんとした理由なんでしょうね。


 じろりと遠くで立ち回るクラサメを睨みつけると、ちょうど最後まで立っていた男が崩れ落ちるところだった。


 その音と重なって耳に飛び込んできた警笛に、○○は鋭く顔を上げる。

 その様子に、傍にいたシスターがびくりと震えた。

 眉間にしわを寄せ、周囲の建物を透かすように耳に神経を集中させると複数の足音。

 やっと警邏が駆け付けて来る。

 全員、クラサメが伸した後だが。

 クラサメに視線を向けると顎で大通りを指した。警笛は聞こえたらしい。


 喋っちゃダメって言われたけど。

 振り向いた○○はシスターに抱き着く。


「ごめんね、行かなきゃ。ちゃんと警邏に言うんだよ? あと、こんな夜に女の子が出歩いちゃダメ」


 シスターの笑う気配がして○○は身体を離す。


「私はいいの。こっわ〜い執事が付いてるから」


 くすくすと笑い合う二人をクラサメが急かす。


「それじゃあ。おやすみなさい」


 コートの裾をつまみお辞儀をした○○はヒールを響かせて駆けていく。

 その背を見送りながら、シスターは手の中にある物を思い出した。

 先程、パスと言って放られた紙袋。

 慌てて呼び止めようと一歩踏み出すと、○○も思い出していたようで視線がかち合う。

 顔の前で拝まれた手。

 動いた唇は、また今度と。そう言っていた。

 何故名前を言ってはいけなかったのか。

 何故喋ってはいけなかったのか。

 何故あんなに急いでいるのか。


 理由はわからないままだが、嵐のように、宣言通り去っていった通りすがりのお嬢様と執事。来てくれなかったら自分の身も危なかった。


 ありがとう。

 シスターは胸の前で手を組んで感謝の意を示した。

 ……何を祈ればいいのかしら。

 ご無事……一太刀も喰らっていないのに?

 ご武運……全員が地に伏せているのに?


 わからないけどとにかく祈った。

 何かを、何かに。
















 並走しながら○○はクラサメをじろりと横目で睨んだ。

 口元はまだ真一文字。

 ああ。


「いいぞ、もう」

「なんなのよ全く!?わけわかんないし!」

「そうかまだわからんのか。へえ」


 だから怖いってば。

 わからないものはわからない。

 強いて上げるなら、というのは一つだけあるが、それでここまで怒るのも○○にしてみれば理解し難い。


「ところでなんでお前走れてるんだ」


 考え込んでいた所に声が掛けられた。

 呆れ気味ではあるが冷え込みはない。


「歩くより走ってる方がバランス取れるみたい。あ、ほら蒼龍の……タケウマ? みたいなカンジ」


 歩くのはぎこちないのに今隣で走る様ときたら。

 クラサメは溜め息をついた。


「良家のお嬢様としては、そんなに格好よく走れては失格だ」

「あー……。ははは。そうかも……」


 護身術として身を護る体術を学んでいるくらいはまだ可としてもこの疾走は不可だ。


「と、いうわけでお嬢様やれよ」

「うわッ」


 走る○○を、腕を掴んで引き止める。


「警邏だ」


 顎で指されたのは通りの奥。

 遭わないに越した事はないが、遭ってしまうのならば素通りとはいかない。

 こちらに駆けてくるのは4人か。


「場所と状況。お前説明しろ」

「は!?」

「女性の叫び声を聞いて駆け付けた俺たちは、暴漢をやっつけたがお嬢様が気分を害されたために帰宅中」

「ちょっと」

「女性は無傷だがその場に留まっている。暴漢どもは全員伸びてるから大丈夫だとは思うが早く駆け付けてやれ。こんな所か」

「いや、だから」

「なんだよ。これくらい言えるだろ」

「じゃなくて! あんたが言ったらどうなのよ」


 こういう場合、気分を害されたお嬢様が話すより執事が説明するのが普通ではないか。

 対して返ってきたのは簡潔な答えだった。


「俺だと万が一、バレるかもしれん」


 普段と違うのは装いと眼鏡の有無だけだからと。

 だけれどそれをいうなら○○だって。


「なにぶん、有名人なもので」


 口を開き掛けたら先を制された。

 それを言われると何も言えない。 確かだ。


「わかったわよ」


 渋々引き受ける事にする。


「だけどあんたも執事に戻りなさいよ。剥がてるわよ、さっきから」

「失礼致しました」


 大袈裟に一礼し、クラサメは衿を正した。


「では参りましょうか」


 出された肘に腕を絡ませ、○○は背筋を伸ばす。


「気分を害されているのでもう少し具合悪そうにお願い出来ますか」


 注文多いな!

 なんでそこまでこだわるのか……。

 違う種類の脱力感から背が丸まったのだが、及第点を頂けたようでクラサメは歩みを進めた。


「全く。私がバレたらどうすんのよ……覚えてらっしゃい」


 恨みがましい瞳でクラサメを睨みつける。


「お嬢様はやれば出来る子です。自信をお持ちになってください」


 クラサメの隣で前を見て歩く○○。

 見知った顔だとしても。

 口を滑らさない限りわからないだろうさ。
















「乱闘があると通報があったのだが。知らないか」


 尋ねてきたのが恐らく班長。顔は見えないが渋めの声だ。


「ええ。4ブロック先を左に曲がった所で」


 おい、と顎で指した班長は、二人を先に行かせた。


「……乱闘の中に、執事風の男がいたとの一報だったのだが……。間違いはないか?」


 ○○はクラサメを一瞥した。


「そうね。暴漢たちの言動が耐え兼ねるものだったので。お仕置きを」


 いけなかったかしら?

 顎を引いて唇に人差し指を当て、上目遣いで警邏の朱雀兵を見る。


「……ご助力、感謝する」

「全員気絶してしまっているけれど、シスターが襲われていたみたい。詳しい事情は彼女に」

「了解した。……失礼だがお前たちの身分を明かしてもらいたい」

「名乗る程の者じゃないわ? キザイアの住人でもない。これからカイハスに戻るところなのだけど」

「おい調書取れ」


 はい。


 残っていたもう一人の年若い朱雀兵が返事をする。

 ○○とクラサメは同時に口を歪めた。

 今の声……!

 眩暈を感じたかのようによろけた○○だがクラサメに受け止められる。

 そしてそのまま身体を反転させるとクラサメの腕の中に収まった。

 怪訝な表情浮かべるクラサメ。

 と、警邏の二人。


 静まり返る中、○○はぽつりと呟いた。

 その呟きはあまりに小さく、すぐ傍にいたクラサメも聞き返す。


「……お嬢様?」

「疲れた。」


 は? と三人の口が開く。


「私疲れちゃった。ねぇクゥ? 帰ろ?」


 先程まで上手い具合に事を運べていたのに、急に自信なさ気になったのは予想外の材料があったからか。

 誰もいなかったなら襲っていたかもしれない。

 後のクラサメ・スサヤ氏はそう語る。

 呼ばれた名前。クゥ。

 クラサメと呼べないからだろう。

 いつもは並んでもクラサメの胸辺りに○○の頭があるのだが、ヒールのお陰で顔が近い。

 上目遣いでクラサメを見た後、疲れちゃったアピールなのか肩口に頭をこてんと乗せた。

 ヘアスプレーであろうミストの香りがふわふわと漂う。

 予期せぬ事態にクラサメは珍しく固まった。

 が、それも一瞬の事だった。


 うわッちょっとッッ!


 背中と腰に腕を回し、クラサメは○○を抱きしめた。


「そうですね。早く帰りましょう。一刻も早く帰りましょう。私たちの家に」

「そそ、そうね」


 わ、私たちの家って!

 魔導院の寮。

 間違ってはいないし、あえて私たちの家という言葉を選択した理由もわかる。

 誤解をさせるための言葉選び。

 故に否定も出来ず。

 胸板を押し歩き出した○○だが再びクラサメに引き寄せられる。

 うわあ!

 と声を上げなかったのは褒めてほしい。

 抱え上げられ、はたとクラサメを直視してから、遅ればせながらきゃあと言ってみた。


「あのような下品な輩の事はミルクティーでも飲んで綺麗さっぱり忘れましょう。ええさっぱりと」

「そそそれは名案だわっ」

「ああ。悪夢にうなされてしまいますね。あのツルッパゲはお嬢様には毒が強すぎました。しかしご安心ください。お嬢様が眠りに落ちるまで私が傍についております」

「だッ! 大丈夫よ! 一人で平気! ここ子供じゃないんだし」

「では、添い寝を致しましょうか。……子供程度ではなく」

「なッ何」


 その方が何も考えられず眠れましょう。

 耳元に唇を寄せて囁くと、視線に構うことなく首筋に唇を落とす。

 ○○はクラサメの腕の中で小規模な爆発をした。

 もはや顔なんて見れない。

 顔なんて見せれない。

 だから○○はクラサメの首に回した腕を強く引き寄せた。

 見なくて済むように。

 見られなくて済むように。


 調子に乗るなと怒鳴りつけたいところだが、警邏がいる前では下手に発言をするわけにはいかない。

 しかし抱え上げられた○○に移動するすべもない。

 なんで突っ立ってんのよッ!!

 早く帰りましょうとか言っておきながらクラサメは動くそぶりを見せなかった。

 急かすようにぱたぱたと脚を動かすがそれでも動かない。

 仕方ないので腕を緩めてクラサメの目を見る。

 向けられているアイスグリーンの瞳は楽しげで、それに映る自分はさぞ羞恥で真っ赤なのだろう。

 つま先が忙しなく動く。


「ね、ねぇ、クゥ。早く。早く帰ろ」

「早く?」

「ん、早くッ」

「無理ですか?」

「無理……ッ」

「もう限界と?」

「〜〜ッわかってるんでしょ!?」


 もうヤだ。泣きたい。

 羞恥で人って死ねると思う。

 めちゃめちゃ恥ずかしい。


「だ、そうです」


 散々無視しておいた警邏の二人に、クラサメはここに来て向き直った。


「私の愛しい人が限界だそうですので失礼致します」


 言うや否や返事する間を与えずクラサメは踵を返した。
















 クラサメの腕の中で○○は披露困憊だった。


 なんか……すっごい疲れたんだけど……。

 それはもう、困憊も困憊だった。


「もう、降ろしてよ……」


 ぺちぺちと首筋を叩くがクラサメからの返事はない。

 警邏の二人が見えなくなって大分歩いた。未だ抱えられている理由はない。


「……ちょっと。ナニ笑ってンのよ……」

「笑ってますか?」

「自覚ナシ? にやにや笑ってるわよってかこっち見んな!」


 近距離でこちらを見るクラサメの顔を手で押しやる。


「痛いですお嬢様」

「さっきのアンタの言動の方がイタイわ!」


 ナニあれ!? なんなのあれ!?

 再び顔を羞恥に染める。


「いつから恋人設定にすり替わった!? 信っじられない! エロ執事!」

「お嬢様が私の事をクゥなどと可愛らしくと呼ぶからいけないんですよ」


 実際、クラサメが外れたのはそこだ。


「だって名前呼べないし! ねぇ執事、とか執事に向かっていうのも変じゃん」


 名前を呼ばないとか、偽名とかいう選択肢はどうやら無かったようだ。


「最初はいいカンジだったのになあ……」


 どこで……と考え、思い至って後ろを振り返る。


「ねぇ、アレ、トキトだったよね」

「……おそらく」


 班長と一緒にいた最後の一人。

 一言しか声は発しなかったが、二人同時に思ったのなら確実だ。


「うう……バレたかなあ? でもトキトなら空気読んでくれると思うんだけど……」


 魔導院の人間と民間人との揉め事はご法度。

 始末書で済めばいいが、理由いかんでは降格、減給も有り得る。

 最初からトキトとわかっていたのならキャサリンとスノウとか名乗っておけば良かった。

 その偽名ならばトキトの記憶にも新しいはず。上手くごまかしてくれるだろう。

 自己が薄いともいうが、余計な事は口に出さず状況把握に長けている。

 トグアの人と○○のやり取りの際もずっと黙っていた。


「お嬢様? 今何をお考えで?」

「トキトと過ごしたトグアでの牢の中の」


 言葉尻は悲鳴に替わった。

 クラサメが○○を抱え直したからだ。


「あっぶな! 落ちるトコだったわよ!」

「落としませんし。落ちないよう掴まっていてください」


 いやだから降ろしてってば。

 ○○はため息をついた。


「私の腕の中で他の男性の事を考えるとは。お嬢様も罪な女性ですね」


 溜め息と共に言われた言葉に○○の頬が引き攣った。


「他の男性って……トキトだよ? エミナラブのトキトだよ? 今キザイアの警邏だったんだね。前に会ったときはコルシだったんだけど」

「だから。他の男の話は止めてください」


 何故睨む。

 まだその設定は生きているのか。

 ○○は再びため息をついた。


「……何を考えようが、お嬢様の勝手でしょ?」


 そうだ。勝手気ままに振る舞っていいはずなのだ。

 何故自分の誕生日にこんな気苦労があるのか。

 ○○はため息をついた。


「今は何をお考えですか?」

「アンタのコトよ」

「おや嬉しい事をおっしゃる」


 クラサメは片眉を上げて笑った。


「めでたい頭ね。全部が全部、プラスじゃないわよ」

「それでも、です。愛しいお嬢様の頭の中が私の事で埋まっているなら何でも構いません」


 愛しそうに愛しいというクラサメに○○は身震いをした。


「ッだーもう! それ! やめてくんない!?」

「それ、とは?」


 つらっと聞き返すクラサメ。

 その顔はわかっていて聞いている。


「その……それよそれ……」


 ぽつりと呟くが聞き返される。


 くっそ! 絶対聞こえたでしょーが!


「その! ぃ、愛しい人、っての!」


 寒気がする! と○○はコートの上から腕をさすった。


「愛しい人を愛しいと言って何が悪いんです?」


 直視してくる距離が近い。

 また赤くなりそうだったので、再び手で顔を背けさせる。


「心にもないコトを! むず痒いわ!!」

「心にもない事ならば口からは出ません」

「じゃあナニか? 新手の嫌がらせか? イジメか? 楽しいか!」

「どう捕らえて頂いても構いませんが、楽しいですね。ええ本当に」


 私のお嬢様は本当に可愛らしくて困ります。


「それも禁止! 私のっても禁止! 可愛いも禁止ー!!」

「それでは喋れなくなってしまいます」

「じゃあ喋んな!!」


 愛しい人。私の。可愛い。

 たったその3つのワードを禁止しただけで喋れなくなるってなんだ。


 だが喋るなと言われたクラサメは口を閉じた。

 自然、○○からも言葉はなく、靴音だけが響き無言になる。

 だが。


「ナニ笑ってんのよ」


 ちらりとクラサメを覗うと口の端が上がっていた。

 視線だけを○○に向けたクラサメは、答えはせず肩を竦める。


「禁止解除。ナニ笑ってんのってば」

「反芻中でございました」

「はぁ?」

「先程私の事をクゥ、とお呼びになったお嬢様はひどく可愛らしく。それはもう。どうしてやろうかと思う程に」

「ちょッ馬鹿じゃないの!?」

「何と言われようと結構。……もう呼んでは頂けませんか?」

「二度と呼ぶか! 金輪際! 死に際の願いだとしても呼ぶもんか!」

「では死に際には違う願いをする事に致しましょう」

「ナニさす気だ!」


 じゃあ私より先に死ぬな!

 言い放ってからはたと自分の発言に首を捻る。

 さすがにクラサメも目を見張っていた。


「お嬢様を亡くし生きるつもりはありません」

「いや悪かった」

「先に死ぬなとおっしゃるなら、いっそ共に」

「ストップ」


 なおも喋るクラサメの口を塞ぐ。

 口を閉じたのを手の平に感じ、○○はやっと離した。


「この話題、嫌」

「かしこまりました」


 さっきはいくら嫌がってても止めなかったくせにここはあっさりと引いた。


「なんで誕生日に死ぬ死なないの話してんの私達。まだぴっちぴちの21なのに!」


 そりゃ戦闘職種だけど。

 気持ちを切り替えるために○○は腕を伸ばした。


「そうよ! 誕生日なのよ!」

「そうですね。ハッピーバースデー、私」

「は!?なんでアンタのハッピーバースデーか!」

「ああ失礼致しました。楽しすぎてつい、私の誕生日かと錯覚を」


 うっかりでした。

 んなワケあるかい! と○○は脱力しながら突っ込んだ。


「お嬢様。先程、クゥと呼んだのはとっさだったわけですよね?」

「……そうね」


 今度は何。


「思いがけず出てしまった位置に、私を恋人とする思考があったと考えても?」

「だから! トキトがいて! とっさに!」

「そう。考えた結果ではなく」


 構えていた最初のやり取りではなく、予期せぬ事態になり、クラサメをクゥと呼んだ事。

 そこが重要だ。


「別に恋人呼びなワケじゃないっての! クラサメのクよク。呼べないんだから仕方ないじゃない! ただの執事の名前! それを勝手に恋人設定にすり替えたのはそっち!」


 なんで恋人設定にしたかな!

 思い出すだけで顔が染まる。

 歯が浮くセリフをよくもまああんなに次々と。

 クラサメが喋るとバレてしまうというから○○に任せたのではなかったか。

 それをあんなに喋りくさって。全くもって意味がない。


「お嬢様が可愛らしいのが悪いんですよ」


 何故か○○のせいにして、クラサメに悪びれた様子はなかった。


「私がどんだけカワイクっても。アンタはそのまま執事でよかったんだってば」

「あんな風に呼ばれたら、恋人設定にもシフトしようというものです」


 どうやらご自分の魅力を理解してないご様子ですね。

 クラサメは顔を傾け、○○を見た。


「それはもう。どうしたらいつまでも腕の中に閉じ込めておけるかと思考を巡らせてしまいました」

「いや実際今閉じ込まってんですけど」


 わーオメデトウ、と口から出た言葉は投げやりにもなろうというもの。

 たまにもがいてみてはいるが、降ろす気は皆無のようだ。


「ああ帰りたくない」

「馬鹿言わないで! 帰るわよ! 明日講義入ってるっつーの! 歩け! 歩かないなら降ろして!!」


 ついには立ち止まり溜め息をついたクラサメ。

 降ろしてくれたらこんな馬鹿クラサメは放置して一人で帰院するのに。

 ため息をつきたいのはこっちだ。


「どこにネジ落としてきたのよ馬鹿!」

「戻りますか? あるかもしれない」

「いいから帰る!」


 本当に踵を返したクラサメの髪を引っ張り軌道修正。


 本当にネジが外れたというならそれは先程警邏と遭った場所だ。

 何本も転がっている事だろう。


「ああもう! 帰る、帰る、帰るー!」

「近所迷惑ですよ、そんな大声」

「うるさーい!!」


 むしろ呼んでいた。

 助けてトキト。  

 警邏が必要なのはこっちもだった。
















end
後書き