おかえり 前編 
















 私の戦闘能力に特筆すべき点は無い。


 座学は得意だから文官でなら上に昇れるのかもしれないけれど、私が目指すところはそこではない。


 彼の、隣。

 四天王であるクラサメ・スサヤの隣。


 彼とは同期として魔導院に入り、エミナちゃん、カヅサくんと共に良くしてもらっている。

 勉強では、助けてあげてたりもした。


 でも。


 一度実地に赴くと私は何の役にも立たない。


 危うい関係ではあるが開戦の火ぶたは切られていない国家間。


 主な相手はモンスター。

 と、これは候補生には当て嵌まるのだが。


 四天王にのみ下るという特令。


 コード・クリムゾン。


 極秘である任務内容を知るのは、幹部クラスと四天王のみ。


 私は、何も知らない。


 恋人が。

 どこで。

 何をしていて。

 いつ戻るのかも。


 わかるのは出立日と、“長そう”、“すぐ帰る”というクラサメくんの見立てのみ。


 それ以外は、何も知らない。


 ちゃんと帰ってきてくれるのだろうか。

 強さは知っているつもりだが、それにしても心配が消える事はなく。


 だからといって○○も業務を疎かに出来るわけでもなく。


「○○士官。ため息ついてますよ。まだ戻ってないんですか?」

「……当たり」


 仕方ないですねと肩を竦めたのは補佐についてくれている男の子。レイクくん。

 ○○も苦笑いを返す。


「極秘でしょう? バレちゃいますよ。オレ、何も見てないんで」


 お疲れ様です。


 一礼して部屋に帰る礼儀正しいレイク。


 労った○○も部屋へ帰るために資料をまとめた。
















 カードキーを差し込み解除ナンバーを入力するとクリアランプが点灯。

 かちゃりと扉を押し開いた自室は、当然、誰もいるはずもなく真っ暗だ。


 一段と肩を下げ、再びため息をついた。


 今日も、まだ帰らない。


 クラサメの目算は軽く過ぎ去った。

 心配だけが募る。


 早まる鼓動を抑えるように深呼吸をした○○は照明を点けた。


 大丈夫。覚えている。


 無事でいる。


「お願い……早く帰ってきて」


 涙すら出そうな切なる願い。


 しかし○○がどれ程泣き暮らしたところで恋人の生還率は変わらず、安否もわからない。


 傍にいる事すら適わない自分のなんと無力な事。


 沈みゆく思考では仕事も手につかない。


 まだやるべき業務は残っていたが、○○は先にシャワーを浴びる事にした。

 バスタオルと着替えを用意しバスタブに湯を溜めている間にテーブルに置かれたメモ用紙を手に取る。


 いってらっしゃい。お仕事がんばってください。


 いつだったか、クラサメが朝早くから会議があったとき。

 朝が苦手というわけではないが、寝ている○○を起こさないようにクラサメが出ていくから見送れない日が何日か続いた。


 優しさは感じるがそこは起こしてほしいと何度も言ったのだけれど、“次からそうする”と。


 そう言われたまま何度も次は過ぎた。


 せめて言葉でだけでもとメモに書いてテーブルの上に置いておいたら。


 いってきます。○○も無理はしないように。


 言葉が、返ってきた。


 こんな小さな小さな事でもまだ自分は嬉しさが込み上げてくる。今日も起こしてくれなかった、という涙は嬉しさからの涙へ変わった。


 知らないだろうな、クラサメくんは。





 今日はエミナちゃんとお茶したよ。

 美味しかったか?


 なめらかプリンが冷蔵庫に入ってます。ちゃんと甘さ控えめ。

 ごちそうさま。


 ごめんなさい。先に寝ます。午前2時。

 待ってる事はない。しっかり身体を休めろ。


 カヅサくんの実験のお手伝いをしました。紫の煙って本当に出るんだね。

 危険な事はしないように。


 廊下のワックス掛けが入ったみたい。ピッカピカでツルッツル。

 歩行時は考え事禁止だな。転ぶなよ?


 武装研のカタログにクラサメくんが好きそうなアクセサリー発見! 付箋つけておきました。

 見た。欲しいな。





 ちゃぷりと水面が揺れる。


 隅々まで全部言えてしまうくらい読み込んでしまった、同じ用紙に書かれたやり取り。

 わかるかな、というくらい端に書いても、増えたそれにクラサメは気づいて言葉を返してくれる。

 そろそろ空白も無くなり用紙を変えなければならないが、そもそもすれ違いがなければ直接言葉を交わせるのに。


 何度思ったかしれない根本にたどり着いてしまい、○○はちゃぷりと水面を指で弾いた。


「考えないもん」


 バスタブから上がった○○はバスマットの上で身体を拭うとバスタオルを巻き付けた。


 髪をまとめていたタオルをほどいて長い髪を揺らす。


 綺麗な髪だな。似合っている。


 交際を始めて間もない頃、そう言ってくれた。


 それからはエミナに教えてもらったヘアケアグッズで手入れを念入りにし、切る際にも毛先を整える程度。


 伸びた長さはそろそろ腰に届く程だ。


 摩擦で傷まないよう、静かにタオルを押し当てながら、冷蔵庫へ向かう。


 一口飲むと、冷えたミネラルウォーターが身体に染み込んでいくのがわかった。


 時計を見ると二本の針はもう真上。だが。


 ……嘘っ! 聞き違い……?


 ○○は扉へと駆け出した。
















「ックラサメくん!?」


 勢いよく扉を開き、顔を突き出す。


 やはり足音が聞こえたのは気のせいではなかった。


 視線の先には大きな鞄を下げたクラサメ。

 任務から今し方帰院したであろう恋人の姿があった。


 驚いたようだったが、○○の顔を見てふわりと相好を崩す。


「○○」

「クラサメくん!」


 瞳を潤ませ駆け寄ってくる○○にクラサメは目を見張った。


「○○、」
「クラサメくん! クラサメくん……!」


 トンベリが見上げる中、クラサメは抱き着かれ硬直していた。


「○○、部屋に」


 クラサメの言葉が耳に入っていないようで、胸に顔をうずめたまま泣きじゃくっている。


「なんだあ? クラサメ帰ってきたの?」

「おかえりクラサメくーん」


 夜も深い時間帯だったが、○○の声を聞き付けたのか近隣の扉が開く。

 二人の様子を見た途端、冷やかしの口笛が飛び交った。


「お熱〜い」

「おっ! 目の保養」

「ラッキーラッキー」

「見るな」


 じろりと睨みを効かせたクラサメは、動かない○○を抱え上げ大股で開け放ったままの扉から自室に帰った。


「不可抗力だって」

「泣かすなよー?」

「それ、どっちのイミ?」


 ひとしきり笑い合った後、それぞれが扉を閉める。


 クラサメに聞こえていたかは、わからない。
















「○○、どうした。何故泣いている?」


 いくら呼び掛けてみても○○は首筋から離れない。

 静かに荷を降ろしたクラサメは○○を抱えたまま自身もソファーに腰を降ろした。


「何か嫌な事があったのか? 教えてくれ、どうしたんだ」


 首を振ったまま離れない○○の頭にクラサメは口づけをした。


「遅くなってすまない。久しぶりの顔をゆっくり見せてくれないか?」


 僅かな沈黙の後、そろりと顔を上げた○○の瞳は濡れていた。

 二人とも沈黙し、○○の頭を遠慮がちに撫でるクラサメの手だけが動く。


 ○○が聞いていた帰院日は、クラサメの予測。


 あくまで予測にすぎない。


 今までの的中率が良かったからといって、これからも当たり続けるとは限らない。


 それを責めるのは筋違いだ。


 なんで遅くなったのなんて。


 言えるはずがない。


「遅くなった事を怒っているのか?」


 ○○の表情を窺うように覗き込んできたクラサメから腕を伸ばして距離を取る。


「お、怒ってなんてないよ!」

「私にはわかる。その顔は怒っている顔だ」


 むくれてる、と、赤くなっている鼻をつままれた。


「いひゃい」


 視線の抗議を受けたクラサメは口元に笑みをたたえてその鼻にキスをした。


「怒りも、喜びも、全ての感情を共に分かち合いたいんだ。私に怒っているのであれば言ってくれないか」


 全部聞くから。

 そう言ってまぶたを閉じ、額を合わせた。


 自分ですら考えが纏まっていない堂々巡りの話でもクラサメは根気よく聞いてくれる。


 だから今回も言ってみようと思った。


 怒ってない。心配しただけだと。


 だけど話を切りだそうとした矢先にクラサメが待ったを掛けた。


「少し、距離を置かないか」


 その言葉を聞いた○○の瞳は最大限まで見開かれ、見る間に涙が溢れる。


「なッ! なんで!? 私何かした!?」

「○○、落ち着け。誤解だ」

「なんでもするっ! ちゃんと言う事聞く!」

「すまない、違うんだ」

「わがままなんて言わないっ! 私、わたしッだからッ!」

「聞いてくれ、○○」


 呼吸を乱し再びしゃっくりを上げ始め、縋るようにクラサメに抱き着いた。

 ○○を安心させるように名前を呼ぶ。


「はやとちりをするんじゃない……いや、私の言い方が悪かったな。すまない」

「はや、と、ちり……?」

「そうだ。私は○○に何の不満もない。手放す気などあるものか」

「それじゃ……さっきの……」


 距離を置かないか。


 言われた言葉を思い出したのか、整いつつあった呼吸がまた早くなる。


「……今、この状態についてだ」


 しゃっくりに遮断されながらも○○は思考を巡らす。


 今、は。


 ソファーに座ったクラサメの膝に横抱きになっている状態だ。


「知っての通り、私はつい先程任務から帰ったばかりだ。服も、身体も髪も、汚れている。ゆっくりと過ごすためにも先にシャワーを浴びさせてくれると嬉しいんだが」


 このままでは○○に触れる事が出来ない。


 手の平を見たクラサメは小さな自嘲が混ざった微笑みを浮かべた。


「クラサメくんは、汚くないもん」


 自国ルブルムのため、皆のために最前線で剣を奮うその手に何の汚れがあるものか。

 触れる事を一瞬だって躊躇ったりしない。


 腕の力を強めた○○が伝えたかった事は口に出さずとも伝わったようで。


「では言い換えよう」


 首を捻る○○の前髪をクラサメは優しく払ってやった。


「シャワーでさっぱりとしたところにトレーニング上がりで湯気すら出ている恋人に抱きしめられたら、それがどんなに愛しい恋人であっても流石にデリカシーに欠けた振る舞いと捉えないか?」


 口を開けた○○から視線を逸らし若干言いにくそうなのは、今クラサメがそのデリカシーに欠けた行動をしているからか。


 抱きしめもしたし、頭にも触れた。


 でもいつもより遠慮がちだったのはそのせいだったんだ。


「……そうだね。そうかも」


 ぽつりと○○が呟くと、少なからずクラサメはショックを受けたようだった。

 ○○の腰に添えていた手と頭に触れていた手の両方を、パッ、と離すと所在なげにソファーの上で拳を作る。


「だから、シャワー浴びさせてくれ。早く抱きしめたい」


 じぃ、っとクラサメを見つめていた○○は可笑しそうに笑うと首筋にほお擦りをした。

 くすくすと笑いながらタートルネックを下げ、クラサメの首にキスをする。

 汗臭いだろうに。


 ソファーから手が浮く度に、デリカシーは? とでも言いたげにクラサメを見る○○。


「何の拷問だ?」


 思わずクラサメは天を仰いだ。


 擦り寄ってくる恋人。

 同じ事をしたいのにクラサメは返せないなんて。


「ひとつ、抜けてる」


 綺麗なリップ音を立てた○○は唇を離してクラサメを見上げた。


「久しぶりのクラサメくん、っていう事。……毎日されたら、それはちょっと困るけど。でもね、立場が逆だったら? クラサメくんは私に触ってほしくないって思う?」


 そんな事、思うわけない。


「○○」

「一緒だよ」


 クラサメの手に手を重ねて、纏っている革のグラブを外す。


「レザーの匂いもまとめて全部、私が好きなクラサメくんだもん」


 クラサメの手の平に頬を寄せ、ふわりと微笑む愛しい恋人。


「ッ○○」


 腰を抱き寄せ、顔を引き寄せ、自らも唇を。


「いや、やはり駄目だ。まずシャワーだ」


 鼻が触れ合う距離で留まったクラサメは、堪えるように重そうな溜め息をついた。


「……こうしていた間に私なら上がってこれたんだがな」


 少しばかり拗ねた様子のクラサメは立ち上がって○○をソファーに降ろした。

 ○○だって一緒にゆっくりしたいという考えは一緒だからすんなりと座らされる。


「すぐに戻ってくる。ああ、着替えとバスタオルを出しておいてくれ。そうだ歯も磨かないと。……ドライヤーは省略だな」


 何やらシミュレーションまで始めたクラサメ。

 タイムアタックのミッションだ。


「クラサメくん、急がなくても素敵でイイ方法があるよ」


 急ぐあまり泡まみれで出てきさえしそうな様子が可笑しくて、笑いながら○○は振り返ったクラサメに両腕を伸ばした。


「……成る程、それは素敵な名案だ」


 僅かに驚いたクラサメだったが、○○の思い付きにすぐに賛同し、手を取った。
















「○○は頭がいいな」


 一度任務に赴くと完遂するまで気を抜くことは許されない。

 張り詰めていた緊張感も蓄積していた疲労感も空っぽになるまで溶けていく久方ぶりの感覚に、クラサメは長く息を吐き出した。

 バスタブに浸かったまま振り返った○○が微笑んでクラサメの頬にキスをする。


「一緒に入ればいいんだよ」

「すでにシャワーを浴びているようだったから思い付かなかった」

「何回でも入るよ」


 一緒にいるためなら。


 そう言って笑顔をこぼす○○が愛しくて、クラサメはキスをした。


「……嬉しいんだが、バスタオル姿で廊下に出るのはいただけないな」

「……足音、聞こえたから」


 溜め息をついたクラサメは、バスタブの縁に乗せていた腕を○○の肩に回し、もたれるように肩口に額を付けた。


「皆に見られた」


 そのまま小さく肩に吸い付く。


「それに私じゃなかったらどうしたんだ」

「がっかりして部屋に戻る」


 想像したのか、○○はがっかりした。


 それほど待ち侘びていた事に口元が綻びそうになるが、何度もされては堪らない。駄目なものは駄目。叱らねば。

 クラサメは小さく咳ばらいをした。


「無用心だ。夜は鍵を開けるな」

「みんないい人だもん。大丈夫だよ」

「駄目だ、バスタオル姿で廊下に出るなんて。私だったら放っておかない」

「それは私たちが付き合ってるからでしょう?」

「魔がさす、という事もある」

「クラサメくんでも?」

「話を逸らすな。部屋に押し入られたらどうするんだ」

「大変! ……クラサメくん、私から目が離せないね」


 おどける○○の顔にクラサメは手に付いていた湯を飛ばした。


「きゃあッ」

「生意気」


 ぷくりと頬を膨らませた○○は口元まで湯に浸かると、ぶくぶくと気泡を出す。

 クラサメにぽんぽんと頭を撫でられていたが、やがて浮上した。


「でもみんなにバスタオル姿見られてクラサメくんに10秒早く抱き着けるなら、またしちゃうな」


 5人で10秒なら、10人で20秒。

 100人なら3分20秒だ。


「その計算は成立しない。頼むからおとなしく待っててくれ」

「んっ」


 計算を中断させるようにクラサメは○○を振り向かせてキスをした。
















「そういえば。クリーニングを頼んでおいた私のシャツが脱衣カゴに入ったままだったが、出してなかったのか?」

「……気のせいじゃない?」


 くるりと前を見て、手の平に感じる湯の表面張力を楽しみ始めた○○。


 これは。


「何か隠してるな?」

「きゃあッずるい!」


 無防備な○○の脇腹をくすぐる。


「白状しろ」

「するする! するからやめてっ」


 クラサメの手から逃れようと身をよじる○○のせいで湯が踊る。


 くすぐられて笑っていた○○だが、目尻の涙を拭い、怒らないでねと前置きをして話しはじめた。


「あのね、あの……。クラサメくんが遠征に行っている間……。クラサメくんが最後に着てたシャツ着て……寝てるの」


 振り仰いで窺ったクラサメは驚いているようだった。


「あの! ごめんなさい! ひ、ひかないで……それともすぐ着る予定だった? クラサメく」


 クラサメに抱きしめられ○○の言葉は途中で途切れる。


「全然知らなかった。そんな可愛い事してたのか?」

「か、可愛い……?」


 自分がこっそりしていた事の恥ずかしさから○○は赤くなりながら聞き返す。


「男の夢のひとつなんだぞ?」

「そうなの? ……知らなかった。なんで言ってくれなかったの?」

「断られたらショックじゃないか」

「女の子の中でも憧れの事だよ? 彼女なんだ、って思えるから」


 サイズの大きい彼のシャツ。

 女子の間では部屋着にしたいものベスト3に入る。


「着たいと言ってくれれば良かったのに」

「……着てほしいって言わなかったから……。好きじゃないのかなって、思って」


 だから、クラサメが居ない間だけ。

 抱きしめられているような気がするから。


「○○だけずるい」


 頭に巻いているタオルから零れている○○の髪を引っ張り、抗議の意を示す。


「私は○○を感じられない野営テントだったり無機質なホテルだったりするのに、○○は私のシャツを着て二人のベッドで寝ているんだろう?」

「……ずるくないもん」


 ぱしゃりと手で湯を掬い、○○は顔を拭った。


「じゃあ、変わって。私が四天王のお仕事する。クラサメくんは部屋で待ってて」


 いつ帰ってくるのか。

 無事でいるのか。


 クラサメのシャツを着ていても、抱きしめてくれる腕は無い。

 二人がいつも寝ているベッドに温もりは無く、一人では広すぎる。


 ○○は小さく鼻をすすった。


「私のパジャマも貸してあげる。香水も使っていいよ。だから」
「悪かった」


 クラサメは優しく○○を抱きしめた。


「心配してくれてるんだよな。すまない」

「そうだよ。考えないように、なんて無理。ずっと不安でたまらない。押し潰されてしまいそう。……クラサメくんだったら」


 寂しさに耐えられなくてすぐ死んじゃうよ。


 ぽたりぽたりと水面に雫が滴っているのは前髪の雫か涙か。


「そうだな。私には無理だ。……泣かないでくれ」

「泣いてないよ」


 ぱしゃぱしゃと顔を洗う。


「クラサメくんの見立てた帰院日。あとシャツと香水と、書き置きの詰まった用紙があって、なんとか耐えてるの」

「そうだな」

「何にも縋らないなんて、無理」

「そうか」

「無理だよ……」

「……そうか」


 息、出来なくなる。


 とうとう○○は泣き出した。


「今は、いる。傍にいるよ。遅くなってすまなかった。……少しだけ、言い訳を許してくれるか?」


 鼻をすすりながら頷いた○○に、クラサメは言葉を選びながら口を開いた。


「難しい危険な任務だったわけではなく、今回の遠征先はトンベリの……故郷だったんだ」

「言っちゃっていいの?」

「どこかわかるか?」


 おどけたようなクラサメの視線を受けて、意図を悟った○○は首を振る。

 わかるけど、わかってはいけない。


 言わずとも意志疎通のできる○○に、クラサメは微笑んで頭を撫でた。


「名残惜しそうなものだったから、少し滞在を延ばしてもらった。○○に言った日付けを過ぎてしまうと……承知の上で」


 思わず非難してしまいそうになってしまって、○○は顔を背ける。


「そうそう行ける土地ではないからな……。すまなかった。金輪際無い。日付けを守るよう善処する」

「やっぱりちゃんとした理由があったんだね」

「当然だ。早く逢いたいのは私も同じだぞ」


 擦り寄ってくるクラサメ。○○は腕を上げてクラサメの後頭部に回した。


「クラサメくんが、優しいクラサメくんで安心した。トンベリのためだったんだ」


 遅くなったの、許してあげる。


 顎を上げてクラサメの鼻にキスをする。


「良かった。安心した」


 安堵の笑みを浮かべたクラサメも○○の鼻にキスを返して、上がろうかと促す。


「そうだ。私まだトンベリにおかえりって言ってない」


 先に上がるね、と○○はバスタブから立ち上がった。

 脱衣所で二人はさすがに煩わしいので、一緒に入浴した際にはずらす様にしている。

 扉に手を掛けた○○だったがクラサメに呼ばれて振り返った。


「シャツ。着てくれるんだろう?」

「……いざ見られるとなると、……恥ずかしいな」

「見たい」


 強く熱望され、○○はこくんと頷いて扉をスライドさせた。


「……理想と違っても、がっかりしないでね?」

「ああ。しない」

「あんまり期待しすぎないように」

「わかった」


 閉める直前まで念を押した○○。


 一人になり、脚を伸ばしながらクラサメは前髪から伝う水滴を拭った。


 がっかりはしないし、期待もしすぎない。


 だが。


 理想通りで期待通りなんだろうな。


 磨りガラス越しに○○の姿が消えたので、クラサメも早々とバスタブから上がった。
















 クラサメがリビングに戻るとソファーに座る○○の後頭部が見えた。


 トンベリを膝に乗せてお話し中のようである。


「何話してるんだ?」

「仲間に会えたの? って聞いてた。それとクラサメくんは無茶しなかったかの確認と、守ってくれてありがとう、って。えらいぞ」


 よしよしと抱きしめる。


「私もトンベリを守った」


 回り込んでソファーに座ったクラサメは物欲しげな表情で○○を見た。


「……ヤキモチ? 催促?」

「両方」


 皆の前では見せない、○○だけが知ってるクラサメに○○は微笑む。


「ごめんねトンベリ」


 そっと膝から降ろして頭を撫でると、ふわりと揺れたトンベリは、ほとほとと奥の扉へと消えた。


「期待通り」


 するりと隣に移動したクラサメは、まだ濡れたままの○○の髪に唇を寄せた。


 長い袖から指先だけを覗かせ、今は整えられている裾は、スリット奥に太ももをちらつかせてる。


 思い描いた通りの○○の姿があった。


「……本当?」

「嘘なものか。……だが、ファーストボタンまで閉めているのは堅苦しくないか?」


 指摘に赤くなった○○は首元に手を添えた。


「いつもはふたつみっつ開けてるんだけど……だらし無いって思わない?」

「まさか。ここはくつろげる自室だぞ?」


 いつも通りに、と○○の手を退けてボタンを外す。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


「ちょっとクラサメくん! 私みっつって……!」

「そうだったか? むっつと聞こえたが」

「む……!」


 むっつって! 全部!


「クラサメくん、」
「○○」


 抗議しようとした○○の唇を塞ぐ。


 先程までの啄むようなキスとは違い、舌を絡ませる濃厚なキスだ。


「ん、クラ、サメくん……ふ」

「限界」

「ん……私も」


 強く抱きしめ合いお互いの体温が等しいのを感じると、クラサメは○○を抱え上げて寝室へと移動した。






















「○○士官、ご機嫌」

「そ、そう?」

「お肌もツヤツヤ」

「昨日3回お風呂入ったから」


 3回も? と皆一様にクエスチョンマークを浮かべた。


 そわそわしてるし。

 今日はため息ついてないし。

 時計を気にしまくってる割に、仕事はバリバリ。


 鋭くはないがちくちくと刺さる言葉の針に、○○は小さく縮こまった。


「帰ってきたんですね」

「……うん」

「お怪我などは?」

「ううん。大丈夫。ありがとう」


 温かい眼差しをくれる補佐官たちに○○はふわりと微笑んだ。


「○○士官わかりやすすぎです。朝礼のときにみんな気づいたんで、ケーキ買いに行かせました。お二人でどうぞ」

「わあ!」

「私が選んだんですよ!」

「ありがとう! さっそく今日いただくね!」


 楽しみ〜と指を合わせた○○は先程から時計を気にしていた。


 クラサメは今日オフだ。

 だからといって○○が仕事を休めるわけはなく、退勤時刻をまだかまだかと待ち侘びていたのだった。


「いいんじゃないですか?」

「ですよね」

「○○士官、真面目だし」

「この間の落ち込み様見ちゃったらね」


 きょとんと皆を見渡す○○にレイクは苦笑いをした。


「帰られて結構ですよ。後はオレらでやっておきますから」

「でも」

「いいからいいから」


 ○○を立たせる者、作業机の資料を片付ける者、ケーキを渡す者、背中を押す者。


 皆によって○○は扉まで追いやられた。


「でも」

「真面目すぎますよ。あと30分じゃないですか」


 まだ動かない○○に、レイクは提案するように指を1本立てた。


「じゃあお遣いです。クラサメ士官にケーキ持ってってください。ついでに食べて結構です」

「それって……」

「大事なミッションですよ? 重役に見つからないようにしなきゃならないんですから」


 こそこそ隠密でいくか、お腹痛いって早退したふりするか。

 私ら文官にはちょっとした任務だよね、と笑い合う仲間。


「ミッションの結果報告は明日聞きます。ほら、少しでも長く過ごしてください」

「ありがとう!」


 礼を言った○○は、けれど追い出されるように部屋を出た。
















 仮病で早退なんて初めてでドキドキする。呼び止められたらどうしよう。頭痛がするので帰りますと上手く言い訳出来るだろうか。

 ケーキを持っているのはマズイかなと上着でくるんでいたが、幸い、上司に見咎められることは無かった。

 逸る気持ちを抑えてキーを解除しようとすると○○が開けるまでもなく中から扉が開いた。


 出迎えてくれたのはもちろんクラサメだ。


「早かったな」

「もう。帰ってきたら“おかえり”でしょ」


 むくれた○○にクラサメは笑いながら謝罪をした。


 帰ってきたら、ただいま。

 出迎えるときは、おかえり。

 世間では当たり前の挨拶だが、スサヤ家では帰宅の際の挨拶習慣は無かったらしい。


 何度か言ってみてるのだが、気恥ずかしいのか何なのか、催促をしてようやく言ってくれる程度だ。


「みんなからケーキもらっちゃった」


 ただいま、とトンベリの頭を撫で、上着の中から取り出されたケーキボックスを見てクラサメは首を傾げた。

 浮かんでいるのは純粋な疑問符だ。


「めでたいことでもあったのか?」

「あったよ! クラサメくんが帰ってきたじゃない!」


 意気込んで言い放つ○○の頭を撫でながら、クラサメは次に浮かんだ質問をした。


「何故私が戻ったと皆が知っている?」

「それは……」


 視線を逸らし俯いた様子にピンときたクラサメは○○の顔を覗き込んだ。


「そんなに浮かれていたのか」

「浮かれてなんて……」


 いたけれど。


「うっきうきでした……」


 おとなしく白状した○○の頭をクラサメは撫でる。


「まだお仕事、あったんだけど。帰っていいですよって言ってくれたからお言葉に甘えさせてもらったの」

「気配りに感謝だな」

「うん」

「では出掛けるとしよう」


 ケーキボックスを冷蔵庫に入れたクラサメはジップアップのアウターを羽織った。


「カイハスに降りる。ディナーをリザーブしておいた」

「前に行ったお店?」


 頷いたクラサメに○○はやった、と拍手した。


「あそこのムニエル、美味しいんだよね。ちょっと待ってて」


 すぐ済ませるから。


 着替えるために、○○は寝室に続く扉を開けた。






















 ケーキ美味しかったです。昨日はみんなありがとう。


 今日の朝礼の締め言葉はそれだった。


「和むよな」

「本当よね」

「仕事出来るし、愛想いいし」

「僕らいい上官に恵まれたよね」


 確かに、と思いながらそれでも筆頭補佐官であるレイクは檄を飛ばす。


「和んでる暇あったら動け。この文書はイエロー。これはホワイト行き。ハイ、これJな」

「げ、レイク士官」

「すいませ〜ん」

「今なら漏れなく、早く仕事が片付けばそれだけ士官の笑顔がグレードアップ」


 皆にヘイストを掛ける事に成功したレイクはこっそりと○○を見た。


 誰よりも仕事を熟している。

 この部署のトップだから当たり前ではあるが、万人に当て嵌まらないのは皆が知っている。


 今日も、帰りたいんだろうな。


 クラサメが魔導院を離れる事はどうにも出来ないにしろ、共に過ごせるのであればその時間は多く与えてあげたい。

 それは、この部署での皆の総意だった。


 しかし○○がいなくては他の文官に負荷が増す。


 自分は彼女もいないしそれくらいの残業はいいんだけど。


 咳ばらいをしたレイクは隅にパーテーションで囲われた一角を見た。


 膨大な文書が一手に集うこの部署。

 魔導院内、外、上から下からの文書は、まずここへ集約され、中身を検分し各方面へと仕分けされる。

 故に、勤務時間は飲食厳禁。

 仕事が全て片付いた夕礼後にこぢんまりとお茶会をする事はあるが。


「これはグレー。こっちがG。A。これも。これは……」


 チョコボがほしいです。


 字が拙いので幼い子供からの投書だろう。


「……クリアー。よろしく」


 机に並ぶ書類の行き先を告げたレイクは喉を潤すため、パーテーションの奥に消えた。










「お疲れさま」

「○○士官」


 ペットボトルから口を離したレイクはひょっこり顔を覗かせた○○に一礼する。


「私も水飲み休憩」

「取りますよ」


 冷蔵庫を開けたレイクはクリスタルのボトルキャップが付いた○○のペットボトルを取り出した。


「今日は暑いね。ありがとう」


 受け取ってキャップを開けた○○はこくりと喉を喉を潤した。


「……今日も定時になりそうですね」


 すみません、と小さく謝ったレイクに○○は慌てる。


「お仕事だもん。レイクくんのせいじゃないよ。みんなよく頑張ってくれてる」


 笑顔で労ってくれる○○だが、その笑顔に隠しきれない残念さを見てレイクは心を痛めた。


「オレが至らないばかりに……すみません」

「そんな事ない。レイクくんすごく作業効率上がってるじゃない。大助かりだよ」


 ぽんぽんと肩を叩かれ、励まされてしまう始末。


 愚痴るつもりはなかったのに。


「○○士官はなんであんなに判断が早いんです? 見ていてもわからない」

「……見てたんだ?」

「……作業に差し支えない程度ですが」


 速さの秘訣は何なのか。

 盗める箇所は無いかとこっそり盗み見た事があるのだが未だにわからない。


「そうだなあ。筆頭補佐官であるレイクくんに秘技を伝授しよう」


 おっほん、と大仰に咳ばらいをした○○はレイクに向き直った。


「その一。文書は斜め読みで理解すべし」

「ふむふむ」


 あごひげを撫でるかのようなジェスチャーをしだした○○にレイクも書き留める仕草をする。


「その二。署名を見て内容と行き先を予測すべし」

「……ほほう」


 返事はするものの、やはり自分にとってレベルは高かった。

 まだステップ2なのに。


「その三。文字を見て人物像を浮かべよ」


 かな。


 言い終えた○○は照れたように笑った。


「……癖字、全部覚えてるんですか?」


 信じられない、といった風に目を見開くレイクに○○は首を振った。


「まさか。全部は無理だよ」


 初見もあるし、と付け加えられたから、初見じゃない人からならばほぼ頭に入っているという事だ。


「書き出しの一文くらいあれば大体わかるかな。書いたときのコンディションによって多少変わるから百発百中っていうわけにはいかないけど」


 それにしても○○が送り出した担当文書がリターンされる事はまず無い。


 文字の癖を見て瞬時に人物像を思い浮かべ、内容を予測。

 斜め読みで推測が確実だとわかるとハンコだ。


「だから早いんですね……」


 なるほど納得だ。


 そしてまだ自分にはステージが高すぎる事も。


「皆が出来るとは思いませんけど……それ朝礼で言うべきでは? コツとして作業効率が上がる人員が出てくるかも」

「それいい考え! 頭いいねレイクくん!」


 喜ぶ○○だが、褒められるべきは自分ではなく○○では。


「早速明日言おう」


 そんなに楽しみにする事でもないと思うが、朝礼の予行演習をしだした○○を呼んだのはパーテーションの外から顔を出した補佐官だった。


「なに?」


 ○○とレイクの視線を受け、補佐官は促されても言いどもりを見せた。


「あの……クラサメ士官が、……お目見えに」


 聞くやいなや○○はペットボトルを置いて駆け出した。
















「クラサメくん!」

「忘れものだ」


 そう言ってクラサメが差し出したのは金属の筒だった。

 受け取りながら○○は小さく謝る。


 昨夜、ケーキのお礼に渡そうと決めた紅茶葉だった。

 元々購入していたもので、封は切られているが一度しか飲んでいない。


「わざわざ届けに?」

「ああ」

「ありがとう」


 扉の横に立つクラサメは忙しなく動き回る文官たちを見渡していた。

 その間も出ていく文書、入ってくる文書によって人の出入りは多い。


「忙しそうだな」

「……どうかした?」


 用は済ませたのに立ち去らないクラサメに○○は問い掛ける。


「届けものと……、業務が終わったんで、顔を見に立ち寄っただけだ」


 しばらく無いはずだがもしかしたらまた特令が下ったのではと心配した○○は胸を撫で下ろした。


「ごめんなさい……。私は定時になりそう」

「……そうか」


 声のトーンが少し沈んだのは期待してくれたのだろうか。


「あの、」
「私が手伝える事はあるか?」

「あ、あります! いいの!?」


 願ってもない申し出に○○は何度も頷いた。


「共に居られる時間が長くなるのであれば喜んで」


 ○○のバスタオル姿じゃないが、と耳元に口を寄せる。

 赤くなった○○は、もうっ、とクラサメの胸を押すと腰に手を当てた。


「よし! こき使っちゃうんだから」

「その意気だ○○士官。使えるものはチョコボでも四天王でも使え」


 口元に笑みを浮かべた○○はくるりと向きを変え、口に手を添える。


「みんな、臨時の助っ人です! 簡単なお仕事なら言い付けちゃっていいから」

「宜しく頼む」


 ○○だけではなくクラサメからも言葉があり、口には出さないが皆一様に、えー!? と悲鳴を上げた。
















 文書を積み上げて運んでいた文官に手伝おうと言ったら逃げられ。

 何やら行き先を指示していた文官に手は足りているかと聞くと固辞されてしまった。


 この部屋において、ただひとり仕事がないクラサメはトンベリと並んでぽつねんと佇む。


 ○○士官。自分らには無理です。


 だって彼はクラサメ・スサヤ。

 四天王、クラサメ・スサヤ。


 ただでさえ上官であるその人は更にそんな肩書きを背負っているのだから。


 誰にでも出来るような雑用なんて恐れ多くて申し付けられず、だからといって部外者には文書の判断は任せられない。


 使うなんて無理です助けてください。


「クラサメくん、手伝って」


 皆の心の声が聞こえた○○は机に椅子を一脚引き寄せ、クラサメを手招きした。


「お仕事。これに、この印で封蝋お願いします。乾かさなきゃだけど、重なってる文書は混ぜないでね」


 頷いたクラサメはアルコールランプに火を付けてナイフで刻んだ蝋燭を器に入れた。


 ハハハハンコ押し!?

 嘘でしょ!?


 慌てた数人が駆け寄る。


「士官! 僕らやりますから」

「私の仕事を取らないでくれ」


 頬杖をついたクラサメは早く熔かすために蝋を金属棒でつつき回した。

 流し目を受けた二人は赤くなりながら言葉に詰まる。


「でも……!」
「君達ひま? ひまじゃないよね? これO。こっちはクリアーの束。それからあそこに積んであるのがゴールド。それとまだ未選別の書簡、オレの机によろしく」


 通り掛かりに二人の肩に手を置いたレイク自身は歩みを止めず、そのままその場を通り過ぎる。


「しかし」


 背中に声を掛けられたレイクはひらひらと手を振った。

 視線を交わした二人は小走りに後を追い、こそりと囁いた。


「いいんですか? 本当に誰でも出来る雑用ですよ?」

「いいんだよ。お前が言い付けてたら殴って土下座もんだけど」


 用を申し付けたのは他でもない○○だ。

 羽ペンの先をインク壺に浸しながらレイクは○○の机を見た。


 クラサメが悪いというわけではないが、引退したこの部署の人間が加わったわけではない。

 この部署においては四天王といえども素人同然。

 適度の緊張感をもたらす分には良いが、クラサメではもたらしすぎる。


 だが。


「わかるだろ」


 レイクは視線で二人を差した。


 二人を取り巻く空気が柔らかい。

 いつも難しそうな顔をしている○○も、いつ見掛けても神経質そうな眉のクラサメもだ。


 仕事内容など関係無い。


「傍にいるだけでいいんだよ。あの人たちは」


 ぽく、と認め印を押したレイクはぼうっと突っ立っている二人にため息をこぼした。


「なに。」

「あ……すいません」

「あまりにも……士官の笑顔が」


 可愛くて。


 見惚れるあまり抱えている文書を落としてしまいそうな二人をものさしで頭を叩く。


「サボってんじゃないよ」

「だってレイク士官! あれですよあれ!」

「クラサメ士官羨まし〜……」


 女子からすればクラサメの口元に笑みを浮かべさせている○○が羨ましいのだろうが。


「所詮おこぼれ。向けられることはないって」

「レイク士官枯れすぎじゃないですか?」

「夢見るくらいいーじゃないっすか」

「頼むから。ヤられてないで働いてくんない? 給料減らすよ」


 じろりと睨まれた二人は慌てふためく。


「勘弁してくださいよ! 来月彼女の誕生日なのに!」

「へぇイイコト聞いた。有効利用させてもらお」


 ひぃっと身震いをして、ようやく足を動かした。


「ちゃきちゃき働く。夕礼ではせめて少しでもあれに近い笑顔で感謝されたいでしょ」


 認め印を押した部分をずらして乾かす間、新たに運ばれてきた文書の選別に取り掛かる。


 あれに近い笑顔。は、あるかもしれない。


 しかしあの笑顔を引き出せるのは彼を除いて他にはいない。


 どれだけみんなが心を砕いて頑張ろうとも。


 キミたちにも。


 オレにも。
















「○○士官が羨ましいです……。どうしたらあんな素敵な彼氏ゲット出来るんですか?」

「ん〜……」


 わかんない、と笑った○○はケトルからティーポットに湯を注ぎ入れた。


 昨日のケーキのお礼にと持ってきた紅茶を夕礼後、皆で飲むことにしたのだ。

 男子は机を掃除して配置中。


「あーあ。私もかっこよくて優しい彼が欲しい〜」

「だ、だめ!」


 返事を期待してなかった独り言には予期せぬ○○のリアクションがあった。
 
 
「だめ、ですかぁ? あたしに彼氏できちゃ。○○士官ひどい! 自分が幸せだからって!」

「ク、クラサメくんを好きになっちゃ、……だめ」


 ぽつりと呟いた○○に、給湯室にいた皆が注目する。


「いやッちょっと可愛い!」

「上官に失礼ですが頭かいぐりしたい!」

「ああんもう! クラサメ士官も羨ましい!」

「え、ええ?」


 四方から抱きつかれ、慌てて○○はケトルをコンロに置く。


「みたいな、ですって。士官みたいな、彼氏。まさか奪ったりとかしませんよ」

「無理だしね〜」


 それってあたしに魅力がないって事? と、また一悶着。


「いい出逢いがあるよ。オリエンスにはいっぱい人が暮らしてるんだから」

「ですかね〜。どっかに落ちてないかな、クラサメ士官もどき」

「もどきでいいんだ」


 ツッコミを受け、皆で笑う。


「だってほら、見てくださいよ。手伝ってるんですよクラサメ士官」


 ○○も続いて通路に顔を出した。


 手伝う、というと断られるのは先ほど学習したから、皆の様子を窺いながらクラサメも机と椅子を運んでいた。


「ふんぞり返って動かなくていい位なのに」

「士官の印象、変わりましたよ私」


 クラサメは、上の立場なのにちゃんと下へ降りてくる事が出来る人。

 誤解されがちなのは纏う雰囲気のせいだ。


「でも……好きになっちゃ……だめね」


 皆がほぅ、っと眺める中、○○はまた呟いた。






















「クラサメくん、もしかして飴舐めてる?」


 少し驚いたように目を開いたクラサメは首を振り、グラスを回して氷を涼しげに鳴らした。

 酒の席で飴は舐めないだろう。

 口には出さないがそう言っている。


「そうだよね。……じゃあ、火傷したんでしょ、舌」


 身を乗り出してクラサメを覗き込むと気まずげに視線を逸らした。


 本当はわかっていた。

 飴なんか舐めてるわけない。


「紅茶、口付けるの早かったもん」


 そのときの様子が頭に浮かび、○○はくすくすと思い出し笑いをした。






















 トレーに紅茶とお茶請けを並べて戻ると、テーブルセッティングは終わっていた。

 いつもは机に腰掛けて参加の子が畏まって座っているのを見つけ○○は可笑しそうに笑う。


 クラサメくんがいるからだろうな。


 全員の手に渡ったのを見た○○はお決まりの乾杯音頭を取る。


 今日はみんなお疲れさま。明日もがんばりましょう。見習いさんもお疲れさま。


 最後に付け加えられた一言には皆が居住まいを正して頭を下げた。

 やっぱり可笑しくて、笑いながら軽く掲げる○○に皆も倣う。


 いつもならここからは談笑へと転じるのだが今日は何せイレギュラー。

 興味津々なのは伝わるが、固い。


 ○○は紙ナフキンにクッキーをひとつ取った。


 ハイ、クラサメくんの好きなやつ。


 と、クラサメの前に差し出すと自分にもひとつ選び取る。

 こくりと一口紅茶を飲んだクラサメは眉をしかめた。


 まさか紙コップでロールストランドを飲むなんてな。


 湯気がたつ紅茶を冷ましていた何人かがその銘柄を聞いてむせた。


 こここれ! ロールストランドなんですか!?

 わ、わたし初めて飲みます!!

 俺でも聞いたコトあるなそれ……。


 まじすか。


 恐々と紙コップの中の紅色を見る。


 い、いいんですか? めちゃめちゃ高いやつですよね?

 いいの。前に封切って飲んでなかったから。取っておいても悪くなっちゃう。


 気にしないでと勧めるが、皆じっと手の中の紅茶を見ていた。


 もう……。美味しく飲んでもらいたかったのに。紙コップじゃ嫌だった?

 私は気にしない。が、ロールストランドを紙コップで、という発想は○○くらいだろうなと。

 ……私は、高い茶器で一人で飲むより、みんなで紙コップで飲む方が好き。


 むくれた○○は、ねー、とトンベリに向かって同意を求めた。


 大切なのは、どう飲むかという事ではなく誰と飲むかだ。


 ……成る程、正論だな。


 でしょ? とトリュフを頬張る。


 たまには良い事を言うじゃないか。

 た、たまにはってひどいっ! むぐッ。

 口に物を入れながら喋らない。


 ごめんなさい……。


 口元を手で隠しながらトリュフを食べた○○はぺこりと謝る。


 その一部始終を見ていた全員が真っ赤になっていた。


 うーわー。

 やべぇマジ可愛い明日から大丈夫か俺。

 超カッコイイ! きゅんきゅんするぅう!


 皆の心中などお構い無しの二人はどちらも素だ。


 そんな中響いた、ずずず〜っと紅茶を啜る音。


 ラブラブですね。オレらお邪魔じゃないですか?


 ほお杖をついてクッキーをぱきりと割ったのはレイクだった。ただ一人、赤くなってない人物。


 邪魔なんてそんな!

 クラサメ士官は早く帰りたそうですけど?

 い、いいの! クラサメくんは少しお仕事以外で人と接しないといけないの! みんなでお話するの!


 さあお話しして! と促されるが、クラサメは難しい顔をして腕を組んだ。

 そもそも話し手には向いていない。

 無言の空間に苦を感じないクラサメには話してと言われても話題がなかった。


 はい。

 何かなレイクくん!


 挙手したレイクに○○は発言を許すように手の平を差し出す。


 オレ、士官の武勇伝聞きたいです。じゃなきゃ、○○士官の好きなトコ。


 あ、全部はナシですよとしっかり釘を刺し、レイクはお茶請けのクッキーをパクついた。






















 好奇の目に晒されながら、しかし平然とクラサメは○○の好きな箇所を上げていった。


「……なんで武勇伝を語らなかったの? たくさんあるでしょ」

「そっちの方が恥ずかしい」


 何故。


 思い出した○○は赤くなった頬を手で包んだ。

 俯いた視線も上げられずに、ずっとクラサメの横で小さくなっていたのだ。


「でも……たくさんお話ししたね。帰り際に副局長に見つかったのはひやっとしたけど……。楽しかった?」

「ああ。指導教官を離れてからは久々だったからな」


 よかった、と微笑んだ○○はグラスに口を付けた。


 本日もカイハスに降りて食事をした二人は部屋に戻って晩酌中だ。


「火傷しちゃったくらい早く紅茶に口付けたから、もしかして帰りたかったのかなって、思ったんだ」


 レイクはずばっと言ったが、もしかして帰りたい? と○○は聞けず、しかもお話しするんですと強く引き止めた。

 たまには大勢と話した方がいいと思ったのは本当だ。


「それも思い違いではない。帰りたかったのも本当だ」


 グラスを持ち、クラサメは○○の隣に移動する。


「○○が勤める部署の人柄も知れた。大勢も悪いわけではないが、何より私は○○とこうして二人きりが一番心地好い」

「私もだよ」


 見上げてくる○○の額にクラサメはキスをした。


「あ、でも武勇伝語ってくれなくてよかったかも」

「何故?」


 ちらとクラサメに視線を向けた○○は唇を尖らせた。


「みんな好きになっちゃう……でしょ」


 そんなわけないだろう、と○○の頭を引き寄せる。

 ……引き寄せて固まった。


「……私こそ、失敗したな」


 重い溜め息に○○は振り仰いだ。


「○○の事を喋り過ぎた……。惚れられるじゃないか」


 そんなわけないよ、と○○はクラサメの背に腕を回す。


 お互いにお互いを心配して、でもそんな二人はお互いを一番に思っているのだ。


 大好き、クラサメくん。

 私もだ。


 抱きしめ合った二人は唇を合わせた。


「火傷、気になる?」

「いや?」


 嘘ばっかり。


 舌を火傷したなら気にならないわけがない。

 無意識かはわからないが、飴を舐めてるのとからかう程度にクラサメは気にしている。


「傷は舐めて治るって聞くけど」

「ならすぐに治るだろう」


 あくまで強気なクラサメに○○は笑みを零した。


「火傷は冷やさないとダメだよ」


 私が冷やしてあげる。

 グラスをあおった○○は氷を口に含み、クラサメの両頬に手を添えて唇をあてがった。


「ん、……ん」


 そろりと流れ込んでくる冷えた水。

 心地好さに目を閉じたクラサメは、それ以上を求めて○○の口内に舌を滑らす。


 二人の熱によって氷はあっという間に溶けて消えた。


「……どこで仕込んできたんだ?」


 名残惜しそうに唇を離したクラサメは、○○の口端から伝う雫を舐め上げながら問い掛けた。

 悪戯っぽく笑った○○はクラサメのまぶたにキスをする。


「気持ちよかった?」

「ああ」


 いろいろと。


「だが口内以外は熱を持ってしまったぞ」


 どうしてくれるんだ? と○○を抱きかかえたクラサメは自分の膝に跨がらせた。


「全部冷やすにはロックアイス足りないよ?」


 くすくす笑いながらジャケットの掛けボタンを外す。


「運動すれば、汗かいて冷えるかな?」

「そうだな。冷えるかもしれない」


 ○○のズボンに収まっていたシャツの裾を引き出したクラサメはそこから手を滑り込ませた。


「ん、じゃあ……ん、責任……取らせて、ぁ、もらいます」


 シャツの中で肌を滑るクラサメの指に、○○の瞳はすでに潤み始めていた。


「○○の熱の責任は、私が取らせもらおう」

「きゃっ」


 その前に、と急に前屈みになりテーブルに手を伸ばしたクラサメ。

 ○○は落ちないようにしがみついた。


「危ないよっ」

「もう一回。」


 目を丸くしながら○○が受けとったのはグラス。


「……おかわり?」

「舌が痛い。」


 つん、と言う様が可愛い。


 どうやらお気に召したようだ。


 ありがとうエミナちゃん。


 ○○は再びグラスを傾けた。






















 四天王の勤めはもちろん特令だけではない。

 フィールドのモンスター排除、国内の街の査察、高官の護衛。中でも、候補生の意識を高めるために月一で行う四天王参加の演習は人気が高い。

 デスクワークも多少あるし、だからクラサメがのんびりしているのは稀だ。


 特令後に与えられる、僅かな休息。今日はその休息の最終日。


 ○○は通常どおりの業務だが、今日は週の中日だから運ばれてくる書簡の量は少ないはずだった。


 重要なのは早めに選別してしまい、○○は昼前に上がらせてもらう予定だった。


 なのに。


 ○○は今憤りとやる瀬なさを抱えながら机に向かっていた。


 顔を上げると視界に入るのは積み上げた封書。皆の机の上にも、封書。封書。封書。

 朝一で繁忙期並の膨大な量の文書が運ばれてきたのだ。

 段ボール数十箱。しかもどの箱にも、早急を求める印が。


 これ程の量であれば丸々一日掛かってしまう。


 遠出の約束は、泡沫のように消えた。


 帰りを待っていてくれる恋人に断りを入れるにも時間がない。


 ……ランチに出るときにでも。

 そう思いながら少しでも早く仕事を終わらせるためにペンを走らせる。

 仕事を終え帰ってきたと○○を迎え入れるクラサメに、戻らねばならないと伝えなければならない。


 そうか、と。


 少し残念そうに笑いながら俯く○○の頭を撫でるのだろう。

 頭に思い浮かんだ様子がリアルで○○は鼻をすすった。


「士官、JからN受け取ります」

「ありがとう。……えっと、これ」

「……どうかしました?」


 なんでも、と首を振る○○だが鼻が少し赤いのをレイクは見逃さなかった。


「ねぇ○○士官。喉渇きません?」


 朝から一度も席を離れていない○○をレイクは立たせた。










 半ば強引にドリンク休憩を取らせたレイクは、沈んでいる原因をやはり強引に聞き出す事に成功した。


「なるほどね」


 遠出のお出掛けを組んでいた休み最終日に、予期せぬ仕事が舞い込んで○○はヘコんでいたのだ。


 確かに職場に来てびっくりした。

 なんだこの量、と。


「この間、お茶してたのを見つかったのが……マズかったよね」


 飲食禁止は上からの指示だが、いちいち外へ水分補給に行っていては効率が悪い。

 パーテーションで区切った一角を室内に設けたいと申請し、許諾を貰ってきたのは○○だ。


「でも勤務時間外ですし、書簡は片付けてましたし。咎められる謂れはないですよね」

「それは内輪の見解かな。随分余裕そうだな、って……思ったんだと思う」

「確かにそんなカンジの面してましたけど。にしても。勤務時間外だし」

「時間外でも。癪に障っちゃったんだよ」


 あの日クラサメが来なかったら。

 仕事を手伝ってもらわなかったら。

 お茶会をせずにクラサメと帰っていたら。

 レイクの指摘におとなしく帰っていたら。


 いくつもあった選択肢。

 そのどれをも取らなかった自分が悔やまれる。


 クラサメが来たのも初めて。

 珍しさから、普段は早々に帰る人も残り、あんなに大勢での談笑も初めて。

 そしてたまたま通り掛かっただけなのだろうが、学術局副局長が来室したのも初めてだ。


 タイミングが悪すぎる。


 勤務時間外であろうと、職場で和やかに談笑する様を良く思わなかった副局長は。


「嫌がらせにも程がありますよ。なんですかアレ。有り得なくないですか」


 大量の段ボールを寄越した。


「ごめんなさい……。私のせいだ」
 
「いや絶対違いますから」


 ペットボトルのキャップを閉めた○○はため息をついて冷蔵庫に入れた。


「少し早いけど、ランチ休憩もらうね」

「あ、あいつら二人も連れてってくれません?」


 その言葉に少し言いどもってから○○はごめん、と断りを入れた。


「クラサメくんに事情を説明して謝って……すぐ戻ります」

「……それ、休憩じゃありませんが」


 力無く笑った○○はまた謝って部屋を出ていった。


 ま。オレ彼女いないし。


「暇人注目ー」


 レイクは皆が見渡せる位置で手を打った。


 しかし誰も振り向かない。


 目が合ったらお前暇なのかと殴るのでこの反応は正しい。


「んじゃ、暇人じゃないヤツ注目ー」

「なんスかレイク士官! わかってるでしょマジ残業コースですよコレ!」

「今この部屋に暇な人いるわけねぇし!」

「いたら替われ!」


 書類を分けながら。棚から棚へ走りながら。


 それぞれに忙しさを見てレイクは頷く。


「いや上官想いの部下に恵まれてオレは嬉しいよ」


 はあ? と一様に口を歪めてレイクを見る。が、手と足は止めない。


「レイク士官も部下想いですよね? ね? 仕事してくださいお願いですから!」

「レイク士官が壊れたー!」

「なんですか! なんなんですかその気持ち悪い笑顔!」

「うるせバーカ」


 威厳ねぇなオレ。

 慕われてる○○とは大違いだ。


 しかしその慕う○○のためなら動いてくれるだろう。


 彼女がいなくて有り余る時間がある自分だけではさすがにどうにも出来ない事。


「ちょっとオレから男気溢れる提案があるんだけど聞いてくれる?」
















 ほとほとと歩きながら○○は作業部屋に戻っていた。


 クラサメは嫌な顔もせず、ただ少しだけ寂しげに笑いながら○○の頭を撫でてくれた。


 わがままなんて言わない理解ある恋人。

 言われたところで○○にだってどうにも出来ないし、仕事は仕事。どうにもならない。


 せめて、明日だったら良かったのに。


 これが浮かれていた罰なら○○は受け入れる。


 しかしせめて。

 せめて明日に。


 ○○にとっては重過ぎる罰だった。


 扉を開けて自分の机に戻った○○はのろのろとペンを取った。


 そこに降ってきた声。


「帰っていいですよ」


 顔を上げるとレイクがいた。


「ありがとう……でもダメだよ」


 申し出に○○は一瞬瞳を揺らしたが、重量感がある積まれた文書を指して力無く笑う。


「わかるでしょ? 仕事がこんなに」
「オレ、士官の担当半分貰います」

「わたしがその半分を」

「俺が更に半分」

「アタシたちでまた半分ー」

「僕らでその半分」


 半分の半分の半分の。


 ○○の机から書簡がなくなった。


「ッダメだよ、ヤだ、気を遣わないでっ」

「いいから早くお帰りください」

「そうそう。カッコイイ彼氏とラブラブしてきてくださいよ」

「なんとかなりますって。試練だと思えば」

「みんな……」


 机の周りで軽口を叩く皆を見渡す。


 レイクは○○の机に広がっている書簡をつまみ上げ、音を立てて弾いた。


「大体、早印押してあるくせに内容急ぎじゃないですもんこれ。来月の案件ですよね」

「たま〜に嫌らしく混ざってるマジモンを見極めれば、後は叱られないんじゃないすかあ?」


 まさに玉石混淆。全部石であればまだいいのだが引っ掛けのように玉があるから気は抜けない。


「心配なさらないでください。オレ右腕ですよ? 信じてくださいって」

「でも……」

「……そんなに信頼ないんですか。ショック」

「そういうわけじゃっ」

「○○士官がいなくても回してみせます。信じてくださいよ」


 オレらを。


 レイクは○○の肩を軽く叩き、握り締めているペンを離させた。


「ほら立って。自分だけ悪い、って思ってます? 言っておきますけどサボらせてあげるのは今日だけですからね。明日からはまた、」
「ありがとう……! ありがとうレイクくん、……みんなも!」

「……ハイハイ。○○士官のおかえりだ。サイ、追い出せ」

「了解ッ!」


 命を受けた女子が○○の背中を押して扉へ向かわせる。


「士官! 俺も! 俺もがんばります!」

「僕らだってすぐだし!」

「士官!」

「だから!」

「僕にも!」

「えぇい群がるな男共!」


 わらわらと纏わり付く男子陣を追い払いながらなんとか扉までたどり着いた。


「ありがとう! 明日からちゃんと真面目に頑張るから!」

「いつだって真面目でしょうあなた。真面目すぎですよ」


 最後にぺこんとお辞儀をした○○は駆けていったようだった。


 さて。


「あれだけカッコつけたんだ。出来ませんデシタ、とかださい事はナシ。やるぞ」

「ですね」

「やりますかー」

「リターンくらうようなヘマしたら殴られるつもりでよろしく」


 ここへきて重みを感じたように皆の動きが鈍った。


「なんだよ充電したろ今」

「でもレイク士官だけ……」


 ○○士官に抱き着かれてズルイ。


「ずーるーい〜」

「役得役得。あー○○士官いい匂いしたなー」

「士官! 間接ハグしていいっすか!?」

「いいわけないし。殴るよ。さ、仕事仕事。効率考えろよ皆ー」


 まだぶつくさ文句を言いたさそうな男子の頭を順に叩いて煽る。


「仕事量が違うんだっての。なんなら替わる? 筆頭補佐官。悔しかったらオレ越えてみろよ。大歓迎」


 皆の非難がましい視線を綺麗にいなしたレイクは、口の端を上げてピースサインをした。






















 ○○士官がいなくても回してみせます。


 そりゃ言ったけど。


 そういう意味じゃなくて。


 ……まさかそうとられるとは。





「これは……う〜ん、詳細がちょっと不明確だから赤付けてリターン」

「なるほどです」

「○○士官ー。見て頂けましたー? 全部クリアーでいいっすか?」

「ちょっと待ってね……えーっと、あ、これとこれだけ通せるよ。後は残念ながらクリアー」

「はーい、もらいまーす」


 今○○は自分の机には座っていない。


 文書を幾つか抱えながら、机から机に渡ってアドバイスを与えている。


 ○○の机は。


「レイク士官。チェックお願いしていいですか」

「はいよ」


 レイクの机へと移行していた。


 ペンの頭でこめかみを押しながら下官から文書を受け取る。


 すれ違い様に○○が来た。


「お疲れさま」

「……お疲れ様です」


 ちらりと目だけを上げたレイクはまた書類の斜め読みを始めた。


「どうですか、新しい職場」

「うん。明日クラサメくん以外の四天王さんたちに初お目通りなんだ。緊張」


 少し肩を竦め目に付いた書簡を振り分けていると、横からさらわれた。


「やりますからいいですよ」

「あ……つい。ごめん」


 空いた手を寂しく握りながら、それでも○○は頼りになる後輩たちに嬉しく微笑んだ。


「私いなくても、大丈夫だね」


 寂しいけど嬉しいな。


 寂しそうに微笑む○○はこの忙しい職場のトップ。

 四天王を恋人に持つ○○には厳しい環境だった。


 レイクは蝋を印に付けて封を締めていく。


 ○○が四天王のスクリプターを希望していたのは知っていた。

 たまに眺めては、届け願いを引き出しに仕舞っているのを何度も見た事がある。


 とうとう、移動届け出しちゃったんですね。


 まだ白紙。と、こっそり安堵していた日々は終わってしまった。

 決め手は、あのクソ忙しい日を○○抜きで回せてしまった事らしかった。


 自分がいなくてもなんとか切り抜けた事。

 トップなのに迷惑を掛けた事。


 ……ただ皆○○の笑顔のために動いただけ。迷惑などと思っている人間はいない。


 男気溢れる提案なんかしなきゃよかった。


 もう少し頼りないカンジの方がよかったんだろうか。


 いなきゃダメです。

 まだ学びきれてない事はたくさんあります。


 皆、そう思ってます。


 ……オレも。


 なんて。


 ……言えるかっての。


「なんでもありません」


 口に出てしまったようだ。

 聞き返して顔を上げた○○に首を振る。


 男からみたってあんなに格好いい恋人の近くで、そんな縋るようなダサい事は。


「○○士官〜。マジでやめちゃうんですかぁー……」


 言うヤツもいるけど。


 レイクはため息をついた。


「困らすなっての。オレらに出来る事は○○士官が安心して任せられるようにする事くらいだろ」

「でもー……様子見にきてくれますよね?」

「おい」

「ん。お邪魔しに来るよ」

「すいません……皆士官大好きだから。顔見せに来てくれると士気が上がります」

「嬉しいな」


 ふわりと笑った○○は花のようだった。


「頑張ってね、レイクくん。頼りになる後輩」

「……任せてください。士官も……ご武運を」


 自分は理解ある頼りになる後輩。

 ○○が必要なのはこいつら。


 顔、見せに来て下さい。


 オレは大丈夫ですが、みんなが○○士官を必要としてるから。


 そんな理由付けまでして。


 一番○○が必要なのは自分なのかもしれない。


 本当は任せられたくなんて、全然ないんです。


 ……言えない。


 念願の、恋人の傍での仕事なのだから。




「○○」

「クラサメくん」


 一番の笑顔で、一番の人に駆けてゆく彼女の、オレはただの部下。


 ……もう、部下ですらないか。

















前編end
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後書き

おまけ





 冒頭でクラサメが帰ってきたシーン。

 あれがウチの二人だったらどんなカンジかと。 

 ニヤニヤしながら書きましたw








 if……〜もしも本編の二人だったら〜








「ックラサメ!?」


 勢いよく扉を開き顔を突き出す。


 やはり足音が聞こえたのは気のせいではなかった。


 視線の先には大きな鞄を下げたクラサメ。

 任務から今し方帰院したであろう恋人の姿があった。


 驚いたようだったが○○の姿を見るとふわりと微笑んでくれた。


「○○」

「クラサメ!」


 瞳を潤ませ駆け寄ってくる○○にクラサメは目を見張った。


「お前ッ! そのカッコ……!」
「遅いのよバカ! 何日過ぎたと思ってんの!? 身体なまったんじゃないの!?」


 トンベリが見上げる中、抱き着かれるかと思ったクラサメは○○に拳をお見舞いされた。


「帰院早々随分な言い草じゃねぇか!! 痛ェよ馬鹿!! なんだその格好は!!」

「シャワー上がりよ見ればわかるでしょ!?」

「そんな事聞いてんじゃねぇよ! 出てくんな常識ねぇのか部屋戻れ馬鹿!!」


 クラサメの言葉が耳に入っていないようで○○は胸板を叩き続ける。


「なんだあ? クラサメ帰ってきたの?」

「おかえりクラサメくーん」


 二人の声を聞き付けたのか近隣の扉が開く。

 二人の様子を見た途端、冷やかしの口笛が飛び交った。


「いつもながら熱いねぇ。……全力っぷりが」

「目の保養は保養だなー」

「ラッキーラッキー」

「見んじゃねぇ!!」


 周囲に牙を剥いたクラサメは、暴れる○○を抱え上げ大股で開け放ったままの扉から自室に帰った。


「不可抗力だって」

「オレたちが悪いんか今の?」

「帰ってきた早々怒鳴り合いですか」


 クラサメが無事な証拠だし、○○も浮上するから結構ですけどねー。


 ひとしきり笑い合った後、二人が消えた扉を見る。


 クラサメに聞こえていたかは。


「煩いぞ外野!!」


 ……聞こえていたようだ。