曇りのち嵐 

 








 






 今日も一日中慌ただしく院内を走り回った。

 朝に施し、昼に直したメイクはもうボロボロだ。


 細身の腕時計で時間を確認する。約束の5分前だ。


 本日最後のお仕事。


 ○○はクラサメの私室をノックした。


 出迎えてくれたのは、彼の後をついて回る従者、トンベリ。


 ○○を見上げる瞳が何を言いたいかわからないが頭を撫でて挨拶をする。


「こんばんは。えっと……部隊長は……」

「入れ」


 中から探し人の声がした。


 入室許可が出たのでそろりと足を踏み入れると、クラサメは机に向かって書類作成をしているようだった。

 瞳さえ上げることなく勤しむ上官の傍に歩み寄り、腰を90度に折る。


「先程は失礼しました……。こちらが本来の最終稿です」

「気をつけるように」


 渡すべきだった封筒を置いて、取り違えて渡してしまった書類を受け取る。


「申し訳ありませんでした……。失礼しま」
「あ。お客様?」


 ○○に掛けられた言葉ではないが、奥の扉が開いて女の人が現れた事に○○は驚く。

 相手をするでもなくクラサメは仕事をしていたから他に客人がいるとは思わなかった。距離の近さを感じる。

 恋人だろうか。


「では……私はこれで」


 目的は果たした。

 恋人といるのなら尚の事、帰らねば。


 再度扉に向かう。


「○○」


「はい?」
「ん?」


 クラサメが呼び掛けた声に対して同時に返事をした二人は。


「「え?」」


 驚いたように目を見張り、お互いを見た。


「すまない……。○○の方だ」


 失敗した、とばかりに眉を寄せたクラサメは、○○が来てから初めてこちらを見た。


「モンスター討伐フィールドの区分けをしておいた。これを全クラス隊長に配布してほしい」

「14日後の一斉掃討のですか?」

「そうだ。赤が入った場合は手数だが返却してくれ」

「かしこまりました。配布する際、折り合いがつかない場合のみ、3日以内にリターンを、と言付けます」

「ああ。それでいい」

「ねぇねぇ赤ってなに?」

「仕事を増やしてすまないな」

「……いえ。……仕事ですから」

「ねぇ」

「煩いぞお前」


 一度は無視したクラサメだが今度はあからさまに睨みつけた。


「ねぇ赤って?」


 それにはびくともせず、教えてくれなさそうなクラサメから○○へ視線を移す。


「えぇと……訂正……チェックでしょうか」


 クラサメを窺いながら言葉を選んで答える。


「なるほど。ダメ出しか」


 そんな身もふたも無い。


「やかましい。」


 視界の端に入った上官の眉間には、予想通り深いしわが刻まれていた。


「だって平たく言えばそうでしょ?」


 ねぇ? と視線を向けられるが頷けるわけがなく。

 苦笑しながら曖昧に首を傾けた。


 反論でもしようとしたのか、口を開いたクラサメだったが出たのは深い溜め息。


「もういいぞ○○。下がって休め」

「はーい休みまーす!」


 元気な挙手と共に応えたのは、もちろん私じゃない。


「お前、わかっててやっているだろう」


 クラサメに向かってにぃっと笑った彼女は、ぴょこりと跳ねてこっちを見た。


「○○ちゃん?」

「はい」

「名前おんなじだー!」


 何故か拍手する。


「別に珍しい名前でも」
「ないけど。魔導院で会ったコトないもん。クラサメ会ったコトある? 自分と同じ名前の人」


 珍しい名前ではないのは確か。

 だが○○も会った事がないのも確か。


 クラサメも押し黙ったから会った事がないのも確かなのだろう。


 屁理屈のようだが実は筋の通った理屈。


 ……あの上官を口で黙らせるなんて。


 ○○は心の中でこっそり○○に軍配を上げた。


「○○ちゃん?」

「はい。……○○さん?」

「はーい」


 笑い合う○○と○○。


 どうでもいいが。


「他所でやれ。私の部屋だ」

「いいじゃんけちー」


 上官の言葉に背筋を伸ばした○○だが、○○の言葉に対しても冷や汗をかいた。


 凄い口ぶりだ。


「○○、こいつの事は気にするな。忘れていい。記憶から消せ」

「ひどッ!」


 ぷくりと膨れた彼女はしかし次には胸を張った。


「同じ名前でわかりづらいから、私を呼ぶときは○○様でいいわよ?」


 偉そうな理由はどうやら様付けから来ているようだ。


 呆れたように溜め息をついたクラサメは、口を開かずに○○に帰るよう手で促した。


「……失礼します」


 用はもう無く、帰れと言われて残る理由はない。


「またね○○ちゃん」


 手を振る○○にも一礼して○○は廊下へ出た。


 ゆっくりと扉を閉めたのは、今居た空間が楽しかったからだろうか。


 閉まり切る直前に聞こえてきた上官の声は、いつものトーンとは違った。






















 つい先日垣間見たクラサメは幻だったのだろうか。

 仕事でなければ到底付き合いたくないほど生真面目な鉄仮面の上官に、ほんの僅かだが親しみすら沸いたのに。


「刻限ぎりぎりだな」

「すいません……」


 ガラスペンを置いて頬杖をつくクラサメは、いつもの厳しい上官の顔だった。


「間に合ったから良いが勤めを疎かにするな」

「すいません……」

「その隈はどうした。夜遊びでもしていたのか?」


 コンシーラーにファンデーション、ハイライトまで入れたのだがどうやら隠しきれていなかったようだ。


「すいません……」

「あまり、感心しないな」


 溜め息に混ざるのは失望。

 ○○の喉がきゅっと閉まる。


「すいません……」


 小さく縮こまりひたすら謝罪を繰り返す○○に、クラサメは溜め息をついて背もたれに体重を預けた。


「と、言っておかねばならないから言ってはみたが」


 急にトーンを変えたクラサメに○○はそろりと視線を上げる。


「どうした。最近……急にミスが増えたな」


 言葉を返せば今までは良かったという事であり、信用を裏切ってしまったという悔しさから○○の顔は歪む。


「こちらから聞くまで言い訳しないところも私は気に入っている。だが今は弁明を許そう。言ってみろ」


 何かあったのか。


 向けられる瞳には○○を気遣う配慮がにじんでいる。


 しかし。


「……いえ。自己管理が至らなかったせいです。今後は無いように致しますので。本当に、申し訳ありませんでした」


 甘えてはいけない。

 自分のプライベートの悩みを、自分より膨大な仕事を熟す上官に相談するなど言語道断。


「そうか……」


 頼ってくれなくて残念だったのか、相談されなくて安堵したのか。


 ……この沈黙はなんだろう。


 わかんない。けど。


「では……。お言葉に甘えてひとつだけ聞いてもいいでしょうか……。隊長は……、隊長なら……」






















「ここ、……だよね?」


 魔導院の下町、カイハスの外れ。

 大通りからいくつか脇道を通ってたどり着いた、店が複合している建物。

 その外観を○○は首を傾げながら見上げていた。


 気温のピークは過ぎ、大分過ごしやすくなっていた。

 案内看板に目的の店の名前も連なっていたため、着ていた上着を脱いで○○は建物に入る。


「えっと……地下……」


 奥に、下へ続く階段を見つけ、○○は低いヒールを響かせながら下った。


 きょろきょろと見渡してしまうのは珍しいものがあるからではなく、その雰囲気のためだ。


 たどり着いた重厚な扉。

 間接照明でライトアップされている黒地に金文字の看板。


「……どうしよう」


 なんか高そう……。


 有事のときのため、一応お金は降ろしてきたけど。やはりあの上官が勧める店。高級感がただよっている。


 場違いなのではと足が躊躇うが。


「せっかく勧めてくれたんだし……」


 アドバイスを求めたのは自分だ。

 一度でも行っておかねば感想を求められたときに伝えられない。


 上官に対しそれは失礼だ。





『隊長はストレス解消に何をしますか』





 そう問い掛けた際、言葉ではなく名刺を渡された。


 悪い冗談ではないのだろう。

 言うタイプでもない。


 だが。


「何の店かくらい、聞いておけばよかった……」


 小さく後悔しながらも○○は扉を開けた。
















 腕に掛けていた上着を預かられ、促されるままカウンター席に案内された○○は、メニューに顔を半分以上隠しながら目だけを辺りに向けていた。


 入口の扉と同じく、店内も墨色の黒い壁。

 照明のかさには蔦が巻き付けられていた。

 薄暗い店内は所々に間接照明。


 ピアノの生演奏がゆるゆると流れている。


 何から何まで高そうだ。


 そしてメニュー。


 ……読めない……。


 凝ったスイーツの名前。

 アルコール、とだけは辛うじて読めたものの、連なる名前はわからない。


「お決まりでしょうか」


 呼び鈴はあるのだが使う勇気はなくそしてオーダーは決まっていなかったのだが、ちらりとウェイターを見たら目が合ってしまった。


「えっと……あの……」

「どういったものがお好みですか?」


 どもる○○に嫌な顔ひとつせずウェイターはメニューに手を添える。


「順に、ストロベリー、クランベリー、オレンジ、マンゴー、マスカット、イチジク。こちらがチョコレート、チーズとなっております」

「えっと……じゃあこれを……」

「酸味の強いクランベリーを使用しております。ドリンクには甘めのキールと合わせるとよいかと」

「じゃあそれで……」

「かしこまりました」


 ああ。言われるがまま。


 客に恥をかかせないパーフェクトな接客に全乗っかりだ。

 情けなく思いながらウェイターを窺い見ると、嫌味ではなく微笑んでメニューを閉じた。


「少々お待ち下さい」


 綺麗な一礼をして、キャンドルに火を灯し、奥へと去っていった。
















 オーダーを待つ間、手持ち無沙汰の○○は心地好いピアノの音色に耳を傾けながらキャンドルの火を見ていた。


 ○○にとって落ち着く店内、とはいかないが、ゆったりとした時間が流れている。


 こういう場所が似合えば、大人なんだろうな。

 不躾にならない程度に、店内を見渡す。


 ……なんか、見られてる?


 心細さ故の自意識過剰だろうか。


 だが自分の姿を顧みて○○は口を抑えた。


 もしかして、ドレスコードあったの!?


 そういえば店内は黒。

 そしてスタッフもゲストも、皆の服装は一様にダーク系だ。


 羽織るもの、といっても預けた○○の上着は白。どうにもならない。


 気まずげに再びキャンドルに目を落としたところで演奏が終わった。

 送りたい者だけが送る拍手は大きくないが、しかし義理などではないそれは確かな賛辞だ。寂びれている、などでは決してなく、大人の余裕を感じさせる。


 スポットライトが当たっているわけでもないのに輝くような肌。

 手入れの行き届いた艶髪。

 立ち上がって優雅な礼をしたピアニストは静々と席を後にする。

 惚けたように見つめていると、彼女は伏せていた睫毛を一瞬だけ上げた。


 ハッとして、慌てて拍手をする。


 気を悪くさせてしまっただろうか。見惚れていたんだけど。


 話し掛けるにも距離は遠く、そのままバックヤードに消えていった。


 この頃、何事も上手くいかない。


 はぁ、と○○はため息をついた。


「お嬢さん。隣、宜しいですか?」
「はい?」


 急に声を掛けられ驚いた○○は、いつの間にか隣にいた男性を見て更に驚く。


「た、隊長!」


 丸まっていた背筋が思わず伸びる。


「畏まらなくていい」


 椅子から降りて敬礼しようとしたら呆れたように笑われた。


「まさか本当に来るとは……律儀だな」


 カウンターに肘を掛けながら○○を振り仰ぐクラサメは、いつもの上官の雰囲気とは違った。


「……嘘だったんですか?」


 ストレス解消に何をしますかと聞いて教えられたこの店。

 信頼の置ける上官の勧めだから、来てみたのに。


「嘘ではないさ。私はストレス解消になる」

「……私には、身分不相応です……」


 それに、と○○は二の腕をさする。


「ドレスコードがあったんなら、教えておいて欲しかったです……」


 入店を断られなかったから違反という程ではないのだろうが、目立ちたがりのようで恥ずかしい。


「確かに目立つな」


 まじまじと見られ、○○は所在なく視線を落とす。

 ノースリーブのワンピースにウッドソールのサンダル。

 どちらも白だ。


「だがお陰で見つけられた」


 言いながらクラサメは着ていたジャケットを○○に羽織らせた。


「着ていろ」


 ふわりとただよう香水がいつもより近くて、○○の心臓が小さく跳ねる。


「いらっしゃいませ。本日はいかようになさいますか」

「……そうだな」


 クラサメは思案するように口元のマスクに手を当てた。


「いつもの席に移動を」

「かしこまりました」


 礼をしたウェイターに、手にしていた一輪の花を手渡す。


「○○、来い」

「はい!」


 上官に呼ばわれいつもの調子で返事をした○○はテーブルに置かれていたキャンドルと水の入ったグラスを手に取ったが。


「そのままで。お運びします」
「お手をどうぞ?」


 ウェイターにはやんわりと制され、椅子から飛び降りようとしたらクラサメには手を差し出された。


「……すいません」


 格好良すぎる年上の男性たち。


 ○○はひたすら恐縮しながら手を乗せた。
















 案内されてたどり着いたのは店内の奥まった一角。

 テーブルに置かれたリザーブのプラカードを下げたウェイターは、ウェルカムフルーツを配し、新たなキャンドルに火を灯す。


 コの字型のソファーの端に座ったクラサメは、任せる、と言ってウェイターを下がらせた。

 慣れている。


 失礼します、と言って○○も向かい側に腰を降ろした。


「行きつけのお店、なんですね」

「ああ。私も教えて貰ったんだ。プライバシーを守る良い店だ」


 元四天王である上官は、端麗な容姿も相まって人に騒ぎ立てられる事も多い。

 しかし薄暗い店内でははっきり顔がわからない上、不躾にじろじろと顔を見てくるような客もいない。

 代わる代わる対応してくれるウェイターも全員マナーが良く、オプションだが全員イケメンだ。


「ここへはお酒を飲みに?」


 言いながら照明に照らされた壁のオブジェを見る。

 抽象的な影。よくわからないが上官の雰囲気には似合っている。


「そう思うか」

「……はい」


 なんだろうその切り返しは。


 店長と懇意にしている、だとしても、まさかお喋りしにというわけではあるまい。


 答えを待っていた○○の前で、クラサメはマスクを外した。

 驚いて○○は視線を外す。


「あからさまに逸らされると傷つくな」

「す、すいません!」


 弾かれたように視線を戻すが、向かいの席ですら薄暗く顔が明確に見えない。


 少し、ほっとした。


「見つめられるのも、照れるんだが」


 言われた事の意味がわからず変な顔になってしまった。

 暗いから見えてないといいんだけど。


 ナニ? 照れると?

 この上官が?


 というか逸らすのも駄目で見るのも駄目では一体どうしてほしいのか。


「隣、失礼する」


 ああそうか。見なくても自然な位置取りにすればいいという事か。


 納得した○○は水に手を伸ばす。


 隣に座り直した真面目な上官。


 確かに顔は見なくて良くなったが。


 ……近いです。
















 運ばれてきた注文の品は、クランベリーのケーキとホワイトキール。

 勧められただけあって酸味と甘味が絶妙にマッチしている。


 が、何より○○が気になっているのは隣に座る上官だ。


 お任せで出てきたのは、なんと酒ではなく甘いケーキと甘い飲み物。


 それを、何なら○○よりも早いペースで口に運んでいた。


 突っ込んではいけない。

 駄目よ○○。


 ぐるぐるとそれを考えているため気の利いた会話も出来ず、そして上官は元々無口。

 角で並んで座った二人は黙々と飲食に没頭していた。


 気まずい。

 何故プライベートで怖い上官と並びながらスイーツを食べねばならないのか。


 全くストレス解消になどなるはずがない。


「それは何というやつだ?」

「はい?」


 指されているのが自分の食べているケーキだという事に気づき、口を開くも答えはわからない。


「えっと……クランベリーのケーキです。……すいません、名前……読めなかったのでわからないんですが」

「甘いか」

「えっと……少し酸っぱいです」


 そうか、と答えた上官は少し残念そうだ。

 甘いのが好みらしい。


 ブラックコーヒーしか飲まないという噂は嘘のようだ。


 横目に見えるケーキもドリンクも、とても甘そう。


 しかし触れてはいけない。と思う。


「やはり意外か?」


 突然言われて○○は肩を強張らせた。


「私がケーキを食べるのは」


 見ると皿には既にケーキはなく、思考に没頭していたのは○○だけでクラサメはしっかり堪能していたようだ。


「……正直……意外です……」


 似合うと言った方がむしろ上官に対して失礼と思った○○は、迷った挙げ句思っていた事を告げた。

 そんな可愛げはこの上官にカケラも無い。


「甘いのが、お好きなんですか?」

「ああ」


 気持ちいい程の即答に、○○が戸惑う。


「いつまでも食べ続けられる」

「はぁ」


 やっぱり意外だ。


「失礼します」


 合図もしていないのにタイミング良く運ばれてきた追加分もまた甘そうなチョコレートケーキ。


「○○は?」


 ウェイターからもメニューを差し出されたが、まだ残っている○○は断った。


 同じペースで食べていたら見る間に太りそうだし何より。


「あの、隊長……」

「なんだ」

「メニューにプライスが記載されてなかったんですが……」


 気掛かりは値段。

 高そうな店。壁にメニューがあるわけはなく、メニューにも載っていなかった。

 時価とか言われたらどうしよう。


「時価。」

「えっ!?」


 ○○は怖々とクラサメを見たが、どうやら反応を楽しんでいるようだった。


「……また、嘘ですか?」

「またとは何だ。先も今も嘘ではないぞ」


 泣き出しそうな○○に口の端を上げたクラサメは言葉を付け加える。


「旬の果実を使用しているからな。価格が変動するんだろう。カードで支払っているから私も値段は知らん」


 そんな。

 やっぱりひとつでやめておこう。


「気になるか?」

「当たり前ですよ……」


 しゅんと気落ちした○○にクラサメは豪気に言い放った。


「ここは私が持とう。気の済むまで食べていいぞ」


 ありがたいようなありがたくないような。

 奢られるにも、とりあえず値段が気になって気兼ねしてしまう。

 勿体ないのに怖くて味がしなくなってしまう。


「ああそうだ。魔導院の人間は2割引だ。確か」


 良心的だろう、と言って新たなケーキにフォークを入れるクラサメ。


 元値がわからないので良心的も何も……。


 微妙に的外れな気遣いをされてしまった。
















 いつまでも値段を気にしてちまちまと食べる○○を見兼ねたクラサメは、呼び鈴を鳴らしてウェイターを席に呼び付けた。


「おおよそでいい。これらの価格帯が知りたいんだが」


 ざっとではあるがケーキの値段を聞くことが出来た○○は、端から見てわかる程に安堵の表情を浮かべた。


「安心したか」

「はい。……お気遣い頂きありがとうございます」


 値段を聞くなんて、あまり格好良い事ではない。


 が、○○を安心させるためにさらりとやってのけるクラサメも、嫌な顔ひとつせずに説明してくれたウェイターも、大人だな、と思う。


「安心ついでにいかがでしょうか?」


 悪戯っぽく微笑まれながら言われ、思わず頼んでしまう。


「じゃあ……えっと……」


 しかし○○はメニューが読めないのを思い出した。


「ブラックコーヒーと……ケーキは……」


 お任せで……お願いします……。


 にっこりと綺麗に微笑んだウェイターは了承の意を示して席をあとにした。


「やるじゃないか」


 背もたれに体重を預けている上官は満足げに笑っていた。


「何が出てきますかね? 楽しみです」

「予想は?」


 そうですね、と顎に手を添える。


「チョコレートケーキ」

「……一番無いと思うぞ」

「えっ何でですか?」


 クラサメはフォークで自らのを指し示した。

 チョコレートケーキだ。


「既にあるからな。被って同一の物は出さないだろう」

「でも……人のを見て自分も食べたくなる事とかありませんか?」

「オーダーすれば良かろう」


 ……確かに。


 店側としては注文されたわけじゃあるまいし、同じ物は出さないだろう。


「なんだ。食べたくなったのか?」


 皿を○○側へとずらしてくれたクラサメだったが、○○が使っていたフォークは下げられている。


 見るとクラサメはフォークの持ち手を差し出していた。


「いらないのか」

「……結構です」


 としか、真っ赤になった○○には言いようが無かった。

 几帳面で潔癖症ぽいのにフォークの貸し借りはクラサメの中でありらしい。


 またひとつ、意外な事が判明した。


 ケーキの最後一口を食べながら○○はそもそもに気付く。

 プライベートで隊長と会う事自体が初めてなんだ。


 オフと考えればいつもと違っても当然。そういえば私服も初めて見た。


 仕立ての良さそうなスーツだ。

 折り目正しいパンツ、ダークグリーンのシャツ、切り替えしのある袖には四角錐のカフリンクス。

 ○○に羽織らせたジャケットもきちんとプレスしてある。


 ……しわ、付けないようにしないと。


 ○○は姿勢を正した。


 そこへ掛けられた女性の声。


「お久しぶりね」


 先程のピアニストだ。

 優美な微笑みを浮かべている。


「ああ」


 軽く顔を傾けクラサメも挨拶を返した。


「お花をありがとう」

「とんでもない」

「ずいぶんご無沙汰だと思ったら可愛らしい恋人ね?」

「えっ?」


 頭上で交わされる会話の邪魔にならないよう縮こまっていた○○は突然話題に上り顔を上げる。


「私の優秀な可愛い部下だ。邪険に扱ってくれるなよ」

「あらそう」


 花に唇を寄せたピアニストは伏せていたまぶたを開けた。


 妖艶な眼差しに、同性ながらどきりとしてしまう。


「可愛らしいお嬢さん? よろしかったら今度はダーク系の御召し物でいらして頂戴ね」


 私が霞んでしまうから。


 最後にクラサメにリクエストを貰ってから、その女の人は次のステージのためにしゃらりとアンクレットを鳴らしてピアノへと歩いていった。


 確たるドレスコードは無いのに皆暗めの服装なのはそうか。


「あの人を際立たせるためなんだ……」


 納得出来たがしかし。


「そんな事しなくたって……」


 彼女は十分輝いている。


 真っ赤なベルベット生地のカクテルドレス。

 なまめかしい身体のラインも露出された腕も女性特有。

 豪奢な裾を綺麗に捌きながら歩く様は、例え漆黒のドレスだとしても美しさは損なわれないだろう。


「綺麗な人……」

「女性は化粧で化けるからな」


 通路に身を乗り出して後ろ姿を眺めていたらそんな身もふたも無い事を言われてしまった。


「……トゲがありますね」

「そうか?」

「そうですよ……。隊長がそんな言い方するなんて思いませんでした」


 上官であるときは常に厳しい姿勢は崩さないクラサメだがそれでも無神経な事は言わないし、オフの一面を見た限りではジェントルマンだ。


 あんな綺麗な人、すっぴんであっても美人だ。絶対。

 それをそんな。


 ……もしかして深い関係とか。


 うわ。


 邪推してしまった○○は一人で赤くなる。


「○○だっていつもと違うじゃないか」

「え」

「目がデカイ」

「えっと……」


 今日はオフ。汗で崩れる事はないからメイクだっていつもより気合いが入る。

 ビューラーでしっかりカールさせたまつげに付けまつげをのせ、マスカラもしっかりと。


 ストーンまで置いたのはちょっと強調し過ぎたかな……。


「……すいません」

「何故謝る」


 だって咎められてる気がしたんです。


 すいません……。


 ○○は再び小さく謝った。


「あ、あの人はご贔屓の方なんですか?」


 緩くウェーブのかかった艶髪。透き通った肌。真っ赤なルージュ。


 クラサメが並び立っても遜色ない。

 まさに美男美女。


「何故そう思う」

「えっと……」


 ご贔屓、という言葉が出てきたのはお花を渡していたからだ。


 恋人とは違う気がする。


 あくまで勘だけれど。


「そうだな……。花を渡すのは真似事だ」


 かつての仲間のな。


 そういってクラサメは想いを馳せるかのようにまぶたを閉じた。


 踏み込んではいけない気がする。


 これも勘だけれど。


 だから○○は話題を変えた。


「ではやっぱり○○さんが彼女さんですか?」


 その言葉にぱちりと瞳を開けたクラサメは視線だけを○○に動かした。


「そう見えるか」


 返された言葉が何故か固くなったように感じ、○○は口ごもる。

 ○○が言葉を発せずにいるとクラサメは溜め息をついて謝罪した。


「すまない……。質問に質問で返すのは私の悪い癖だ」

「いえ……。すいません」

「○○がすぐに謝るのも悪い癖だな」


 それに対しても謝りたくなるがこらえる。

 肩の力を抜いたクラサメは、ウェイターがクリームブリュレを置いて席を去ってから口を開いた。


「……あれは、違う」


 どこか自嘲さえ含んでいる言葉。


「あれ、って……○○……様……ですか?」

「様など付けなくていいぞ」


 あれは、あれで十分だ。


 肩を竦めながら言われた言葉は例え冗談にしても女性に対してずいぶんではないか?


「当ててみろ」


 顎を上げて○○を促したクラサメはスプーンを手に取りブリュレを口にした。


「では……幼なじみとか」

「はずれ。」

「……ご兄妹とか」

「それもはずれ。」

「元カノさん、とか」

「いや?」

「えっと……頭の上がらない恩人、とか?」

「まさか」

「実は何かの達人で、師匠だったり?」

「面白い発想だ」


 という事はそれも違う。


「……わかりません」


 いろいろ模索してみたが、とうとう○○はギブアップした。


 だって他に何がある。

 恩人とかだってかなり苦しい。


 恋人じゃなくて幼なじみじゃなくて元カノじゃない辺りで○○のボキャブラリーは尽きた。


 ○○様……何者……。


「降参か?」

「参りました……。教えてください」


 アイスココアを傾け涼しげに氷を鳴らしたクラサメは皮肉げに口の端を上げた。


「トモダチ、だ」

「……友達……ですか」

「健全なるお付き合いの……ただのトモダチ」


 苛立つように、しかし苦しげに寄せられた眉。


 もしかしてこれは。いや、もしかしなくても……。


「あたり。」


 口に出していないはずなのに、表情を読み取られたのかクラサメが丸をくれた。


「○○以外にだと、簡単に伝わるんだがな……」


 深く溜め息を付いた上官はウェルカムフルーツのぶどうをつまんで食べた。


 衝撃の事実に○○は固まる。


 何事においても即決即断のこの上官に限ってそんなまさか。


「か……片想いで……らっしゃいますか……?」


 頷きこそしなかったが視線は合わせないままクラサメは沈黙した。


 それが答えだった。


 気まずい沈黙が流れる。


 知りたくなかった。上官のそんな一面なんて。

 女生徒が騒ぎ立ててもつれない態度なのは、生来の生真面目さに加えてその想いがあるからなのだろう。

 浅くも短くもなさそうだ。


「私の事はいい」


 ぽつりと呟いたクラサメはスプーンの動きを再開した。


「自分では持て余す程だったんだろう。ストレス解消。出来たか?」

「えっと……。美味しいです」


 それが答えになっていないのは自分でもよくわかっている。


 ○○はダイス状にカットされたキャラメルトーストを頬張った。


 スイーツ。お酒。


 それなりに好きだが、店内の大人過ぎる雰囲気に○○は緊張するばかり。

 隣にいる堅苦しい上官もそれに加担している。

 何故オフの日にまで上官と顔を合わせねばならないのか。


 こんな事ならぱーっとショッピングでもするんだった。


 小さな後悔を胸に抱きながら○○はブラックコーヒーを啜った。

 ほど好い苦みが口に広がる。


「言ってみる気は、ないか」

「はい?」

「私に良いアドバイスが出来るとも思わんが……吐き出す事で気が楽になる事もあるぞ」

「……」


 確かに誰にも言えず一人で抱え込んでいた。


 全てを吐露する程仲の良い友人もいない。


 しかし。


「愚痴に、なってしまいます。吐き出すにしても……隊長には言えません」


 それは明らかに人選ミス。


 他に誰が見つからなくとも愚痴る相手にこの隊長は選びはしない。


「そうか」


 クラサメはスプーンを置いた。

 カップの底のカラメルが苦かったらしく、クラサメは手を伸ばしチェリーで口直しをしたようだった。
















 空になったカップを下げられ、次に運ばれてきたのは色鮮やかなベリータルト。

 様々なベリーが零れんばかりに飾られている。


 キャンドルの光に煌めき、てらてらと光るそのケーキは実に。……実に。


 ……女子力が高そうだ。


 そんな事とても言えないけど。


「綺麗……」

「タルトは食べるのは難しいんだよな……。旨いんだが」


 そうは言いながら、しかしクラサメは○○が見ている前でフォークを躊躇い無く入れた。


「隊長……よく食べられますね」


 そうか? と、口は物を頬張っているから目で言われる。


 甘い物は別腹。

 よく聞くその言い訳は主に女子の口から聞く。


 にしてもクラサメはもう5つめだ。


 ずっと食べていられるとは先ほど聞いたが、本当に同じペースで食べ続けている。


「そんなに食べて太らないなんて……羨ましいです」

「太らないわけではない」


 甘いケーキを甘い飲み物で流し込んでからクラサメは口を開いた。


「食べた日はいつもよりトレーニングを増やしている。こういう日が毎日というわけではないぞ」

「生徒の稽古に加え、ご自分のトレーニングもなさってるんですか」

「自己鍛練は基本だ。怠けると身体はすぐに衰える」

「隊長でも、ですか……」


 皆が見上げる元四天王でも上を見続けている。


 上は、霞むほどに遠い。


「あの、隊長、」

「その呼び方、なんとかならないか?」


 呼び方?


「今は隊長ではない」


 脚を組み替えながら言われ、○○は姿勢を正してクラサメに向き直った。


「し、失礼しました!」


 前期からクラサメは隊長から部隊長へと昇格した。

 クラスはいくつか変わったが、○○が顔を合わせたときからクラサメは隊長で、未だ呼び慣れない。


 部隊長、部隊長。


 自分に刷り込むように口の中で繰り返す。


「それもそうなんだが……そうではなくて」


 今度こそ意味がわからず○○は首を傾げた。


「今はプライベートだ。隊服を着用しているわけでもなければ、ここは魔導院でもない」


 確かに、隊長、と呼ばれれば仕事と直結してしまうのだろう。

 公私はしっかり分けたいらしい。


「……では、何とお呼びすればよろしいですか?」

「今はただの甘党の男子だ。同期の女子に想いひとつ伝えられない21歳のただの男子。……親しみ沸いたろ。名前で結構だ」


 表情一つ変えずに言い放つ様がなんだか可笑しくて○○は小さく笑う。


 名前……。クラサメ・スサヤ。


「呼びづらければ様付けでも構わんぞ?」


 皮肉って言うそれらはきっと彼なりの冗談。

 何故さん付けを飛ばすのか。

 似ているんだろうか。


「……クラサメ士官……」

「士官もいらない」

「クラサメ……さん……」


 小さく呼ぶと、クラサメは○○の頭をひと撫でして満足げに頷いた。
















 名前の呼び方ひとつで何が変わるでもなし。

 そう思っていたが、○○が思っていた以上に事態は進路を変えた。

 聞いてくれと。何故かクラサメによる○○様の悪口が始まったのだ。


 お互いに敬語ではなかったクラサメと○○だが、歳が違う同期は特段珍しくない。

 ○○様は○○のひとつかふたつ上だと思っていたらクラサメと同い年らしい。


 つまり、○○の4つ上。


 部署が違うのか顔を合わせた事はないが、となれば○○様も上官。

 微妙な相槌しか○○には打てない。


「○○もあいつの悪口言えよ。……なんで俺ばかり喋ってるんだ」

「……俺?」

「…………クラサメさんは俺派なんだ。」


 たっぷりとした沈黙の後に、そんな事をいう。

 ちょっと、可愛い。


「えっと……、元よりよく存じませんので……悪口も良口もありません」


 そうだよな、とクラサメは背もたれに体重を預けた。


 聞けば3年半。想いを寄せ続けているという。


 どこが好き。何が可愛い。

 そんな話かと思えばほとんど悪口。


 隣に座られているわけで顔は窺えないが、言葉通りであるなら眉間にしわ3本クラスだ。


「でも、好きなんですよね?」


 いつもだったら冷や汗ものの仏頂面も、今なら平気だ。


 答えずにクラサメはガトーショコラを食べた。


「好きなんですよね? ね? クラサメさん」

「しつこいな」


 顔を覗き込む○○を払う手も、上官ではなくクラサメさんなら抵抗出来る。


「そんなに想われてるなんて、○○様は幸せ者ですね」

「めでたいやつではあるな」

「最強のボディーガードじゃないですか」

「むしろ保護者だ保護者」


 打てば響く素っ気ない切り返しすらも余裕を持って接せられる。


 まさかあの上官とこんな風に会話出来るなんて。


 ……正しくは別人、クラサメさんだけれど。






















 ○○はハンカチをくわえて手を洗っていた。


 鏡に映る自分。


 アルコールは一杯だけだが強いわけではない。

 頬に赤みは出ない体質だが酒はしっかり入っている。


 蛇口を捻って水を止めた。


 上官であるクラサメは冷静沈着で尊敬しているが、怖い。


 しかしクラサメさんであるクラサメは。


 “少し可愛い”が、積み重なる。


 ○○は頭を振った。

 気の迷いだ。


 ちょっとギャップにやられただけ。

 しばらく恋はいらないと決めた。まだ傷は癒えていない。

 次に選べる日が来たとしてもそこは無い。


 額と鼻筋をファンデーションで抑えた○○が席に戻ると、何故かクラサメはうなだれていた。


「すまない……。少々……酔ったようだ」


 席に着く前に謝られ、反省したのか溜め息つきだ。


「具合、悪いんですか? 大丈夫ですか?」


 お冷やを差し出し、ポーチからハンカチを出して扇ぐ。


 扇ぎながらふと思う。

 お酒、飲んでたっけ?


「どうやらさっきのタルトにリキュールが使われていたらしくてな……顔が熱い」


 それで酔うの!?


「具合が悪い程ではないんだが。長々と愚痴ってしまったな……。不愉快だったろ」


 深い溜め息を吐き出して、膝に肘を付いてうなだれる。


 よほど後悔しているらしい。


「いえ……そんな。えっと……」


 怒られるかな?


「……楽しかったです」


 その言葉にクラサメはちらりと視線を上げた。


「本心か?」

「おっかない上官には建前で話す事はあっても、これは本心です」


 内緒ですよ、と唇に指を一本添える。


 明るかったお手洗いから出てきてまた目が利かなくなってしまったが、薄暗い中でクラサメは笑ったようだった。


「次は○○の番だぞ」

「え?」

「愚痴れ」


 カフリンクスを外し、袖を折り返しながらの命令口調はいつもより柔らかく聞こえさえする。


「狡いじゃないか。俺ばかり情けない」


 拗ねた口調でそう言うとお冷やをあおった。

 氷がグラスの底を叩く。


 ストレス解消に何をしますかと質問したから、○○がストレスを抱えているとクラサメは知っている。


 言いやすいように、してくれたのだろうか。


「じゃあ私も……少しだけ」


 好意を感じた○○がそう切り出すと、頬に手の甲を当てていたクラサメは○○を見た。


「どうぞ? クラサメさんは口が固いからな」


 自分でクラサメさんと言うクラサメに笑いながらも、これから言おうとする話に○○の眉は歪む。


 ちゃんと綺麗に愚痴れるだろうか。

 泣くわけにはいかない。


 クラサメの前に新しいミルクレープと2層が綺麗なハニーミント。

 ○○の前にレッドキール。


 お冷やも注がれ、小さくなったキャンドルは新たに取り替えられた。


 しばらく、入り用はない。


「笑わないでくださいね?」


 そんな前置きで保身なんかして。


 ひたすら情けない話ではあるが、聞く方も笑える内容ではないのに。


「私、この間まで彼氏がいたんですけど……。フラれちゃったんです……。寝取られたんです」


 友達だと、思っていた人に。
















 ずっと、好きだった。……僕と付き合ってくれませんか。


 ○○のクラスの副隊長をしていた彼に、照れながら告白をされたのは1年程前。

 彼の部署が変わり○○の受け持ちから離れた事が告白を後押ししたらしかった。


 少し頼りないが、誠実な人柄。

 よろしくお願いいたしますと○○も返事をした。


 慣れない仕事に互いに苦労はしていたが、部屋に帰ればおかえりと出迎えてあげられる幸せな日が続いた。


 初めて出来た恋人。


 彼も初めてだったようで、手探りの毎日。

 キスも。抱き合って眠るのも。


 雰囲気作りにと焚いてみたキャンドルも数が馬鹿みたいに多かったり。それがまたアロマキャンドルで匂いが混ざったり。

 重視しようと頑張る雰囲気も、なんだか可笑しくてくすくす笑いに変わる。

 お互いがお互いを想う行動が、結果として失敗しても嬉しかった。


 候補生ながら武官見習いとして教官の下に付き、動き回る日々。

 実地が得意ではない○○が見つけられた居場所。補佐官。

 自分の努力が教官の目に止まったのだと嬉しかったのだが、○○は周りから妬まれてしまった。


 彼はそんな事はしていないと言ってくれたし、○○もそれを信じている。

 だが、若くして一段階上に行った○○。


 それを周りの少しの人間は、彼の贔屓だと。


 そう言うのだ。


 彼の部署が、院生局、人事課だったから。
















「ちょっと考えてくれれば、すぐにわかりそうなものなんですけどね……。彼、全然下っ端だ、って」


 そんな権力、あるわけない。

 仮にあったとして、あの優しい彼がそんな事はしない。


「どう言っても……信じてくれなくて」


 もちろん周囲の人間皆がそう思ったわけではないが、耳に入ってくる中傷を流せる程大人ではない。

 気落ちする日々だが、信頼を得るためにそれでも努力した。


 媚びを売ったわけでも取り入ったわけでもない。

 実力なんだと。


 そんな、今期の初旬。


「私が耐え切ればいいと、思ってたんですけど……」


 しかし中傷に胸を痛めているのは○○だけではなかったのだ。


 気付けば虚空を見つめている○○に、彼も等しく傷付いていた。


 ごめんねと謝られ。


 こっちこそごめんねと言い返し。


 一体何に謝っているのか。


 二人とも、何も悪い事はしていないのに。


 暗く暗く落ちてゆく思考をため息で打ち切り、○○は少し笑った。


「そんな彼に付け込んじゃったのが、友人です。彼は、自分から相談したって言ってましたけど……多分向こうから」


 押し流されたのだろう。


 彼にも非はあるが、もっと非があるのは友人。

 それでも彼は庇うのだ。


 悪いのは、自分だと。


 優しすぎる彼は○○を裏切ってしまったと懺悔し、別れようと言ってきた。


「私は……戻ってきてくれるなら……そばに居てくれるなら堪えられたんですけど」


 一緒に居ても、彼はきっと自分を苛み続ける。


 だったら、そばに居ない方がいい。


 視界から消えればいずれ薄れゆく。


「身を、引きました」

「フラれたと、先ほど……」

「フラせてあげたんです」


 気丈に微笑んでみせるが○○の唇は震えていた。


 グラスを握る手も。


「でも……どっちから、とか関係ないんです。彼も同じくらい傷ついていたから」


 二人とも泣きながら。

 お互いを好きなまま。


 しかし二人は別れた。


「大人になるって、難しいですね……。苦いです……とても」


 初めての恋はとてもヘビィ級の結末を迎えた。


「……いつだ」

「バイバイしたのは、……10日前、です」


 ○○のミスが増え出したのも、その頃だった。


「申し訳ありません。……支障を、きたしまして」

「気づいてやれなくて、悪かったな」


 いえ、と○○は頭を振る。


 気づかせまいとしていたのだから。


「クラサメさん……部隊長に……ひとつ伝言をお願いしてもいいですか?」

「仲良しだ。承ろう」


 ○○はくすりと笑った。


「伝言っていうか言い訳なので、怖くて直接はとても言えないんですけど……、このお店のお名刺を頂戴した日……私徹夜明けだったんです。……もちろん遊んでたわけじゃなくて、……提出する書類の複製を……していました」

「複製?」

「今は女子寮に移動しましたけど……彼と一緒に住んでいた部屋……雨漏りしちゃって……書類が……」


 変ですよね、3階なのに。


 クラサメの眉間にしわが刻まれる。


 下層のピンポイントに雨漏りなどありえない。


 それは、陰湿な。


「駄目になった部分がほとんどで。不備はございませんでしたか?」

「あの量を複製したのか」

「……頑張りました」

「確かに言付かった。必ず伝えよう」


 よくやった。


 ○○の頭を撫でて、クラサメはミルクレープを食べた。
















 失礼、と、席を立ったクラサメ。


 グラスを傾けた○○は息を吐き出した。


 先程お手洗いから○○が戻ったときの、席にいたクラサメと同じ状態だった。一人になると改めて振り返ってしまうのだろう。


 少しだけいいですかと言っておきながら、全然少しじゃない。


 自分が思っていたより張り詰めていたらしく、ため息をついたら予想外に涙がぼろりと零れた。


 幸いクラサメは不在で、零れた涙はふたつきり。

 驚きながらも乾かすように両手で目元を扇いだ。

 その視線は一点に注がれる。


 ……これ、食べていいんだよね。


 ずっと気になっていた。


 キャンドルに煌めく、ウェルカムフルーツに添えられた飴細工の羽根。


 手を伸ばしてつまみ口でぱきりと割ると、見た目通り、鼻へと抜ける爽やかなハッカの味がした。


 この想いも、このハッカのようにすーっと消えてしまえばいいのに。


 男性は口でしてもらうのが好きだとガールズトークで耳にしたから、喜んでもらおうと恥ずかしながらもこっそり練習した。

 結局、する機会はなかったけれど。


 ぼんやりとバナナを手に取ると、○○はぱくりと頬張った。


 浅く、深く。舌を這わせてみたり。

 手も……これはバナナなので触らないが、手も使う。


 ……してあげたら、喜んでくれたのかな。


「……それに感覚がないのが残念だな」

「ふぐッ!?」


 思いもよらず上から降ってきた声に○○は咳込んだ。


「……歯、立てるなよ……」


 なんか痛いだろ。


 そう言いながら回り込んで座ったクラサメは、ちらり○○を睨んでからハニーミントを一口飲んだ。


 ……感覚ないんじゃないですか。


 もぐもぐと食べるのも気が引けたが一度口に入れたものを出すわけにはいかない。


 これは、バナナ。

 アレじゃない。


 ちらとクラサメを窺うと、膝に肘をついてこちらを見ていた。


 かぁっと、顔に血が昇る。


 進退に困った○○。


 謝りたいが口は塞がっていて、だから小さく頭を下げ、クラサメに背を向けてほとんど噛まずにバナナを食べた。


 飲み込んでから、今度は言葉で謝る。


「……すいません」


 座り直した○○はレッドキールに口をつけた。


 ああもう。頭が上げられない。


「何故謝る。正しい性知識は大切な事だ」


 真面目に捉えられても……。


「悪い事ではない」


 ……イケナイコトでは、あるがな。


 耳元で囁かれたわけでもないのにぞくりと鳥肌が立った。


 どこから出てきたこの色気。


「なんかもう……すいません……不愉快なものをお見せして」

「いや? 優秀な部下の意外な一面はなかなか面白かったぞ」


 からんとグラスを傾けて喉を潤したクラサメは、くくっと笑った。


 羞恥から更に顔を上げれなくなった○○は膝上で拳を握る。


「みんな……してますもん」

「みんな?」


 ○○は小さく頷く。


「18歳は……大人です。クラサメさんだって、そうだったんじゃないですか?」


 問われてクラサメは思考を巡らせる。


 18歳。

 ○○への想いに気付いた年だ。


 だが○○との距離は変わらず、○○は相変わらずたまに恋人をつくっていた。


 自分はというと。


「……割愛させてもらおうか」

「なんですか? なんでですか? もしかして、結構やんちゃだったとか?」


 冷静沈着、容姿端麗、才色兼備と、多数取り揃えられてらっしゃるクラサメ。

 ……無愛想はクールへと素敵に変換。


 今も騒がれてるクラサメは、魔導院に入った頃から騒がれていたのだろう。


 今は○○様を想っているとしても、恋人もたくさんいたのかもしれない。


 ちらりと視線を向けるとクラサメはふいと逸らした。


 攻守逆転だ。


 好機とみた○○はクラサメの顔を覗き込む。


「初恋はいつですか? ○○様と出会ったのはいつですか? 一目惚れですか? きっかけは?」

「……なんだか急に楽しそうだな」


 渋い顔のクラサメを余所に○○は軽やかにグラスを鳴らした。


「恋バナは女子の構成成分のひとつですもん。いいじゃないですか少しくらい楽しんだって。お酒もまわってちょっといい気分です」


 聞きたいです、と○○は笑った。


 華やかな噂は多々あるが、クラサメのそんな話なんて恐らく誰も知らない。

 本人から聞ける機会なんて、今後一切ないだろう。


 堅物な上官部分しか知らなかったから、そういう一面を知ってしまうと接しづらくなると思った。

 しかし馴れ合うのは良くないが、ラインを守れば親しみやすくなるのかもしれない。


「私だって、クラサメさんと同じで口は固いですよ?」


 誰に言うわけでもなく、心の内でちょっぴり優越感に浸るだけ。

 みんなの憧れクラサメ士官の、そんな一面を私は知ってるのよ、と。


「そんなに聞きたいか? 楽しくもなければも面白みもないが」

「それでも。……それでも、です。女子にとってはスイーツと肩を並べるくらい美味しいんです。うまうまです」


 うまうま……。


 聞き慣れない単語を咀嚼するのに首を傾げる様がまたちょっと可愛い。


「ほらクラサメさん! うまうまください!」


 うまうま、その意味について考え沈み始めたクラサメを、○○は引っ張り上げた。


「自分の事を話すのは得意じゃないんだが……」


 ○○はぴょこんと手を挙げる。


「じゃあじゃあ! 質問です! エミナ士官と恋人だった、っていうの本当ですか?」

「ああ……まあな」


 頷いたクラサメはグラスを傾けた。

 ○○は興奮してきゃあきゃあと赤くなる。


「やっぱりそうだったんですね!」

「やっぱり?」

「一番信憑性があった噂なんです!」


 そんなものが一人歩きしているのか、とクラサメは溜め息をつく。

 事実、そうではあるが、公私混同した覚えはない。

 上まで届いていなければいいのだが。


「エミナ士官とはいつから? 長かったんですか? 告白はしたんですか? されたんですか?」

「訓練生のときから……2年程か。向こうから言ってきた。美味いか?」

「うまうまです!」


 いやフルーツの事を聞いたんだが。


 くり抜かれたメロンの中にいくつも盛られた丸いフルーツ。


 頬張りながらソファーを弾ませる○○からは答えは聞けそうにない。


「それじゃあ、エミナ士官と別れてからは?」

「……引っ切り無しに女を変えてるように言わないでくれないか」

「だから真実を知りたいんです」


 堅物で生真面目な上官。


 浮いた話は聞かないが、女生徒の間で勝手に話は走る。


 だってこの容姿。


 フリーであるはずがない、と。


 魔導院内で美人と名高い名前をいくつか挙げてみるが、クラサメはいずれにも首を振った。


「そっか……3年半くらい、片想いなんでしたっけ」


 改めて言われると可笑しかったのか、クラサメは鼻で笑った。


「なんでですか? 何も可笑しい事ありませんよ。素敵じゃないですか」


 ○○が魔導院に入った頃からクラサメは○○を想っている事になる。


 これを一途として何と言おうか。


「あれのどこがいいのかは、俺にもよくわからんのだがな」

「よくわからんのにずっと想い続けられるなんて、凄い好きなんじゃないですか!」


 きゃあきゃあと逐一反応した○○は、へへと笑ってグラスに口を付けた。


「次は……しばらくはいいですけど、次は、クラサメさんみたいなイイ男をゲット出来るように自分磨きを頑張ります」

「俺?」


 意外そうに眉を上げたクラサメはグラスを傾ける○○を見た。


「自己研鑽は結構な事だが、見る目も養わないと同じ目に合うぞ?」


 そう言って組んでいた脚をほどきフォークでミルクレープを運んだ。


「見る目……ですか」


 確かに。


 優しくて誠実そうだった彼。

 そこに惹かれたのだけれど、誰に対しても優しく誠実だったのだ。


「俺を選ぶようではまだまだだ」

「クラサメさんはイイ男じゃないですか」


 ぱくぱくとミルクレープを食べるクラサメを、○○は悪戯っぽく覗き込む。


「どうだろうな」

「だって……」


 端麗な容姿を持ち、順調に昇格し官位を上げているクラサメ。

 魔導院のマドンナが元恋人で、現在は一人の人を想い続けていて。


 少し長すぎる片想い期間は、同期の友人方からしたらなんで告白しないのかと突っ込みを受けそうだが、慕う後輩からすれば一途とみえる。


 完璧ではないか?


「○○様が羨ましいです……」

「だがあいつの視界に俺は入らないんだ。新しい彼氏、と何度か紹介さえ受けた事だってある」

「……それでも言わないのは……失うのが怖いから、ですか?」

「あいつはカケラも気付いていない。友達だと信じきっているんだ……。引くだろ」


 瞳にキャンドルの光を浮かべるクラサメの表情は辛そうだ。


 実際、耐え兼ねるものがあるのだろう。


「……言わないんですか?」

「……言えないな」


 肩を竦めながら苦笑いを浮かべるクラサメは、やはり切なそうだった。


「一途に○○様を想っていて……忘れようとした事はないんですか?」


 密かな片想いに気付かず言い寄る人も、さぞ多かった事だろう。


 揺らいでしまいそうなものだが。


「恋人だったのは、エミナだけだ」


 ミルクレープを平らげたクラサメは、ナフキンで唇を押さえハニーミントを口にした。


「想ったら一直線、なんですね。素敵です」


 ○○も手にしたグラスを回してから傾けた。

 汗のかいた細身のグラスをコースターの上に戻す。


「やはり、見る目はないな」

「え?」


 言われた言葉の意味がわからず○○はクラサメを見る。


 意味はわかる。が、タイミングが。


「言葉そのままに捉えるな。ひとつの意味に捕われると相手に操作される事になる。常に柔軟な思考で多角的にかみ砕き自分の物としろ」

「あ、の……? それは……上官からの注言ですか?」


 何故か急に固い雰囲気を纏ったクラサメ。

 身じろぎして姿勢を正した○○の前で、クラサメは汗のかいたグラスに指を辿らせた。


「注言……ではあるが、上官からじゃないな。悪い男からの、だ」


 怪訝に眉を寄せる○○に瞳を向ける。


「恋人は、一人。だが」


 恋人ではない女は数えていない。


 驚きに目を見張る○○の前で、少しあった二人の距離をクラサメは詰めた。


 突然すぎて○○の思考は停止し、合わせていられなくなった視線を断ち切るように俯いた。


「あ、の……?」

「俺の気持ちは常に一定だ。一途……確かに間違ってはいないな」


 だったらこの手は一体なんですか。


 ○○の頬を滑る指。


「俺とあいつとの間には何もない。だから浮気も何も、そもそも存在しない」


 しかし残念な事に、とクラサメは○○の横髪を耳にかけた。


「男は思考とは別に身体が動く生き物だ」


 低音で囁かれ、○○は軽く眩暈さえ感じた。


「と、こういう諸事情がある俺だ。気持ちはやらん。……口は固いんだったな?」


 顎に手を掛けられ、○○は抗いきれずに顔を上げる。


「失恋の痛みを僅かな間だけでも忘れさせてやろう」


 近づいてくる端正な顔に、○○は強く瞳を閉じた。


 眉が寄るほどきつく閉じた瞳。まつげを震わせ、口はぎゅっと一文字。


 肩も腕も力みっぱなしだ。


 唇が触れる直前、これまでの関係が変わるであろう最後の最後に僅かに躊躇ったクラサメは再び距離を取ると名前を呼んだ。


 それでも、目を開けない。


 クラサメは腰を浮かせてテーブルの奥にあったものを引き寄せると、膝上で握られていた強張っている○○の手をテーブルの上へと誘った。


「無理強いするつもりはない。……叫ばなくてもやめるさ」


 嫌だったら鳴らせ、と。


 ○○の指が触れたのは呼び鈴だった。


「あ、の……クラサメさ」
「それ以外は、合意と捉えさせてもらおう」

「んっ」


 今度こそ重ねられた唇。

 角度を変え、ついばむように何度も唇を挟んでからクラサメは離れた。


 ちらりと窺った、テーブルに伸ばされた○○の腕。


 震えてはいるが、呼び鈴を鳴らす気配は。


 クラサメは口角を僅かに上げた。


 再び視線を戻すと、相変わらず力強く瞳を閉じている○○。


 顎に手を掛け、唇に舌を這わせる。


 思わず漏らした吐息、その僅かに開いた隙間から○○の口内に侵入した。


「ん、ぁん……」


 歯列に舌を這わせながら、手を腕の下から羽織っているジャケットの中に滑り入れる。


 露出している背中を辿ると○○はびくんと反らせた。


「ん……ぅ」


 口内を貪るような舌の動きに○○の思考は溶けてゆく。


 焦点が合わせられないままとろりと瞳を開けるとクラサメが視線を絡めてきた。

 かぁっと頬を上気させて勢いよく下を向く。


「色っぽい表情をするじゃないか」

「んッ」


 耳元で囁かれ、あまがみされ、○○は肩を強張らせる。


「振った彼氏も、見る目がないな」


 涙が零れそうになったのは、その言葉にかこの状況にか。


 あなただって、私を見てはいない。


 クラサメに想いを寄せていたわけではない。


 格好良い男性だとはもちろん思っていたが、同期の女子と眺めていただけ。


 下についてからは格好良いどころではなく先に緊張を強いる人だったのだから。


 浮いた話を聞かないのはお付き合いしている女性が皆大人だからであり、騒ぎ立てるようなコドモは相手にしないのも頷ける。


 先程○○も言われた、“気持ちはあげない”。


 それを了承した上での、関係。


 私、は。


「ぁあ……ん」


 ワンピースのボタンも、バックの編み上げの紐も、サイドのファスナーも。


 何一つ手に掛けず、身体中まさぐられて喘ぐ事しか出来ない。

 羽織ったジャケットさえ、肩に掛かったままだ。


「ふぁ、あン……きゃ」


 太ももをまさぐっていた手がワンピースの中へと侵入する。


 思わず膝を閉じ、力を入れてしまった○○だが、クラサメは片脚を持ち上げて自分の膝上に乗せた。


「危ない」


 倒れそうになった○○の腰を引き寄せ、腕を自らの肩に回す。


 音が鳴ってしまいそうになったベルを○○はとっさに手で握った。

 ……握ってしまった。


 その様子を見たクラサメは口の端を上げる。


 鳴らしたくはないようだ、と。


「あ、の……!」

「嫌だったら鳴らせと言った」


 鳴らないよう押さえた○○を見てもそんな事を言うクラサメ。


 意地が。


「悪いだろう? イイ男なんかではないさ」


 やはり見る目はないな。


 俯いた○○の視界で鎖骨に舌を這わせる。


「あッん……」


 思考を溶かされながらも呼び鈴から手を離さないのは、○○の小さな小さな抵抗。


 鳴らせば終わる。


 私の気持ちひとつ、と。


 本当は鳴らさなければいけない。


 そんなに○○は大人じゃない。


 この人の気持ちが自分に向く事はない。


 好きになってはいけない人。


 次の恋にはなり得ない。


 辛かった恋の次も辛いなんて、きっと死んでしまう。

 不毛過ぎるではないか。


 服の上から胸を揉みしだかれ、裾から侵入した手は太もも深くをまさぐり、唇はみみたぶをあまがみしわざとリップ音を響かせる。


「息が上がっているな」

「んっ……は、ァン」


 言いながら唇を塞がれ、更に呼吸は苦しくなる。


 逃れようと後ろへ引くが、後頭部に手を回され、強く強く唇を重ねる。


 視界が揺らぐのは、きっと酸欠だから。


「んッ、苦し……クラサメさ、ン……ぁ」


 ○○、と小さく名前を呼んだクラサメは短く息を吐き出した。


「恋人の手はどこをどう辿った? どうされるのがイイんだ?」


 何度も名前を呼ばれ、鈍い思考の中○○は思う。


 私の名前を、呼んでいない。


 恋人ではない人達は、それを受け入れた上で一時の快楽を求めるのだろう。


 名前が同じだなんて。


 違う人の名前を呼ばないでとすら言えない。


 絶対に、幸せになどなれない。


 鳴らさなくちゃ、と思うが、相変わらずクラサメの指は○○に快感をもたらす。


 鳴らさなければいけないのに、鳴らしたくない。


「あぁ、ん、アン」

「ふ、イイ声だな」


 下着の上から敏感な部分をなぞられ、自分でもとろとろしたモノが出ているのがわかる。


 閉じたい脚は、片足だけクラサメの膝の上なので叶わない。


「あッ」


 つぷりと突起を指の平で押され、○○は身体を反らせる。


「イイ声だが、抑えてくれないか?」


 出てしまった声をクラサメに指摘され、かぁっと赤くなった○○はクラサメの胸に顔をうずめた。


「イイコだ」


 そんな囁きすら○○を痺れさせる。


 押し潰すようにクラサメの指が動くたび、くぐもった声を発して○○は痙攣した。


「あ ッアァッ……ぁあん、そ れ!い、ぁ!」

「イイのか? 嫌なのか? 言ってみろ」


 勝手に反応してしまう身体。

 クラサメもわかっているだろうに指を止めた。


「やっ!やめないで……」

「どうして」

「んんっ」


 焦らすように薄く薄く触れる。


「気持ち、いいです……。忘れさせて、ください」

「自分に正直なのは良い事だ」


 薄く笑って下着の中に指を滑り入れたクラサメ。


 求めていた快感にびくびくとのけ反ってしまったがために。


 呼び鈴が、鳴った。
















 さすがにな、と。


 ○○の脚を降ろし、ワンピースの裾を直してやったクラサメは、乱れた呼吸のままの○○を自分の肩に引き寄せた。


 そこへ来た、ウェイター。


「彼女に口当たりのさっぱりとしたジェラートを。それと、チェックだ」


 カードを受け取ったウェイターは、かしこまりましたと一礼して席を離れた。


 沈黙の中、○○の整わない息だけが耳に届く。


「故意か? それとも……」


 呼び鈴を鳴らした事を言っているのだろう。

 ○○の肩に回していた腕はほどかれ、クラサメは僅かとなったハニーミントのグラスを回していた。


 何事もなかったかのような、その涼しげな様子。


「自分の、意思です……」


 本当は、思いがけず鳴ってしまったのだけれど。


 そんな事を言ってしまったら恋人ではない人達の一人になる。


 それは、癪に障る。


 目の前のクラサメが、あまりにも涼しげだったから。


「……鳴らしたんです」


 クラサメに想いを寄せていたわけではないけれどそれは嫌だ。


 自分には自分に見合った人がいるはず。

 イイ男を捕まえるためにも、自分をイイ女にしなくては。


「そうか」


 全部伝わってしまっているのかもしれないが、クラサメはそうとだけ言ってキャンドルの火を見つめた。


「……見る目を養って、クラサメさんなんかシャットアウトです」


 上がったままの呼吸でなんと説得力のない事。


「そうか」


 笑ったクラサメは○○の頭をひと撫でしてフルーツを引き寄せた。






















 クラサメさんと遭遇してから、クラサメ士官と顔を合わせるのは今日が初めて。


 まるで別人かのように言葉遊びをしてあの場を過ごしたが。


 いや、同一人物だし……。


 日をまたぎ、改めて冷静になると悩みの種でしかない。


 上官に対してなんて事を。


 ○○は頭を抱えた。


 愚痴った事。プライベートについて詮索した事。


 それより何より最後の一幕。


 クラサメが悪ノリしたのだが、拒めばやめると言われたにもかかわらず早々にベルを鳴らさなかった○○にも非はある。


 顔合わせづらい……。


 手に下げた紙袋の中にはクリーニングから上がってきたクラサメのジャケット。


 いつまでも手元に置いておくわけにもいかない。


 と、いうか避け続けられるわけがないのだ。上官だし。


 “恋人ではないたくさんの人達”。


 向こうは慣れてらっしゃるようだし、私も頑張ってなんでもなかったふりをしなければ。


「誰なんだろう……」


 中途半端に知ってしまった。


 全く知らないか、でなければいっそ名前を聞いた方がマシだったかもしれない。


 上官と女性が話しているのを見掛けるたびに、いらぬ邪推をしてしまいそうだから。
















 魔法陣をくぐりエントランスホールを見渡す。


 まだ終わってないかな。


 振り仰いだのは両サイドから伸びた階段の先にある軍令部の扉。

 確か第四会議室で会議だったはず。


 時間もある事だし少し待っていようかと空いているテーブルを探し、○○はぎくりと身体を強張らせた。


 対面に座り、仲良くお喋りをしている、彼。


 気付かれる前に視線を逸らせればよかったのだけれど、彼も気付き、次いで彼女も振り返った。


 いいよ、わざわざこっちに来なくて。


 クリスタリウムにでも逃げ込もうとしたが、名前を呼ばれてしまう。

 聞こえなかったふりが出来る程、小さくなかった。


「久しぶりね〜」

「……そうね」

「元気?」

「ええ」


 ホントに〜? と覗き込んでくる彼女からは、彼氏を取ったという悪気は全く感じられない。


 自称、天然小悪魔な彼女に男子は騙される。


 “なんか〜人のモノってよく見えない?”


 そう言っていたのを思い出す。


 狙っておいてどこが天然。

 友達の彼氏を奪うなんて小悪魔が過ぎる。


 計算ずくの悪魔。


 まさか自分がやられるとは。


 友人を見る目もなかったみたいです。


 関わりたく、ない。


 ぺらぺらと話す彼女を耳半分で流しながら、○○は彼に目を向けた。


 びくりと肩を震わせ、申し訳なさそうに俯く姿に力なく微笑む。


「久しぶりだね」

「そうだね」

「元気にしてた?」

「うん……」

「ごめんね」

「ううん……ごめんね」


 二人して俯き、謝る。


「なぁに〜? なんで謝ってるのぉ?」


 あなたのせいよと思いながら、しかし悪くない二人は顔を上げられない。


 その俯いた視界に、光が入り込んだ。


「キミは……」

「あっれぇ〜? クラサメ士官のトンベリだ」


 と、いう事は。


 顔を巡らせると、マスクを嵌め、見慣れた隊服に身を包んだ探し人の姿を見つけた。

 結構な量の資料を抱えている。


「あん! クラサメ士官だぁ」


 彼女も気付いたようできゃあと黄色い声を上げた。


「会議だったんですかぁ? お疲れさまですぅ〜」

「……お疲れ様です」

「ご苦労」


 礼をしたままの○○に表情はわからないが、声は聞き慣れたものだ。


「トンベリが先に見つけるとはな」


 怪訝な表情になってしまいながら顔を上げたが。


「○○の匂いを覚えたようだ」


 くすりと微笑され○○はまた俯く。

 どう返していいかわからない。


「クラサメ士官〜。私、今部署異動願い出しているんですぅ。どこだと思います? クラサメ士官のお付きです!」

「そうか」

「受理されたらよろしくお願いしますねぇ〜」

「ああ」


 甘ったるい声を出してしな垂れかかろうとした彼女の手は空を切った。


 あからさまな嫌悪感が前面に出てしまった○○は、上官の前という事で慌てて取り繕う。

 想い人の前ということもある。


「顔色が優れないな」


 小さなため息を見逃さなかったクラサメが○○を案じるように声を掛けた。


「……いえ」

「また雨漏りでもしたのか?」


 言われた言葉に○○は目を見開く。


 今ここで言うなんて!


 露出しているのは目元だけ。

 元々読みづらい表情だろうに更に判断材料が少ない上官。


 しかし。


 もしかして……わざと、言ってるの?


「……いえ。一度きりです。ご迷惑を」

「結構な事だ。また漏る事があったら言え。上に提言しよう」

「ご配慮頂き、ありがとうございます」

「気にするな。大事な書類が濡れては敵わん」


 ○○は、ちりりとした空気を感じていた。


 気付いていて、わざと言っている。


 砂糖でコーティングされた彼女も、押し黙ったまま彼に腕を絡めていた。


 そうか。つらっと涼しい顔をしたままこういう事をするのか。


 悪戯というよりは仕掛け。仕掛けというよりはお灸だが。


 ちょっぴり、名前借りても平気だろうか。


 ○○はつんと顎を上げた。


「これ、この間クラサメさんにお借りしていたジャケットです。クリーニングから上がりまして」


 その言葉に彼女は不機嫌を隠そうともせず眉根を寄せた。


 本気か否かはさておき、あわよくば、のリストにクラサメが入っているだろう事は容易に想像出来る。


 この間。ジャケット。私服。借りた。

 引っ掛かるキーワードは盛り沢山だ。

 あとは頭のいいあなたが勝手に想像すればいい。


 ありがとうございましたと○○が礼を言うとクラサメは溜め息をついた。


「公私混同をするな」


 ……調子に乗りすぎたようだ。


「……すいません」


 院内で名前を呼ぶなと言っただろう。


 ○○の耳元に口を寄せそう囁いたが、その囁きが聞こえたのは○○だけではなく。

 かあッと彼女の顔に血が上る。


 そして顔に朱がさしたのは○○もだ。

 演技しようとしたのにこれはクラサメに引き出されたものだ。


 やはり一枚も二枚も上手。


「す、すいません」

「生憎と手が塞がっている。急ぎの用がないのであれば部屋まで付き合ってくれないか」

「は、い……」

「ジャケットついでに……カフス。知らないか」

「カフス、ですか」


 あの店で外していたのは見たが。


「お忘れに?」

「見当たらない。見掛けたら手数だが届けてくれないか」


 テーブルか、ソファーか……ベッド脇にでも転がっているだろう。


 あくまでなんて事のないように話すクラサメに、わかっていても○○だけが赤くなる。


 いや、赤くなっているのは彼女もだった。


 意味合いは、違ってくるが。


「またすぐに会議がある。行くぞ」


 爆弾を幾つも投下させたクラサメは、そう言って踵を返した。






















「今のだろう。元彼氏と元友人とやらは」


 自室に戻るなりクラサメは辛辣に言い放った。

 友人の方にまで元、を付けている。


 向こうがどうであれ、○○が関わりたくないと思っているので間違っていないが。


「当たり、です」


 そんなにわかりやすかっただろうか。


「……わかっちゃったから、キミもすぐに来てくれたんだよね……。空気の読める、イイコですね」


 ありがとう。


 ソファー横に佇みクラサメを見上げているトンベリ。


 滑らかなベルベット生地のような頭を撫でてあげると、合わせて身体も揺れてしまいランタンの光も揺れ動いた。



「もう、被害は出てないんだろうな?」


 雨漏り、としか伝えていないのに彼女の仕業だと決め付けている。


 ○○だってそうなんだろうなと思ってはいるが、証拠はないのに。


「ありません」


 そして、もうないだろう。


「あれが下に付くと大変そうだな……」


 憂鬱そうに腕を組み、身体を机にもたれ掛けた。


「見掛けに寄らず仕事は出来ますよ?」


 天然ぶっているが全て計算なのだ。仕事が出来ないわけではない。

 しかし男子の気を引くためにわざと出来ない風を装う感はある。


 すご〜い、助かる〜、と。


 おだてられ、褒められ、男子は堕ちてゆくのだ。


「やっぱり大変なんじゃないか……」


 クラサメは溜め息をついた。

 本気でげんなりとする様子に○○は笑う。


「ヒールじゃなくて、まずスニーカーを履かせるところからですね」


 靴擦れした、と気を引こうとするのも彼女の手だ。


 頼れそうな男子がいる場合にのみ、彼女の足は靴擦れをおこす便利機能が備わっているらしい。


「そんな使えない人間はいらんぞ……」

「どうでしょうか……。部隊長とは対極の人からは受けがいいですから」


 届けが受諾されないように祈るしかないですねと、○○は笑った。


「そういえば部隊長……ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「あ、の……マスクは……何のために……」


 言いづらそうにどもりながら○○は言葉を紡いだ。


「今更な話だな」


 聞くべきタイミングはあの場でだったのだろうが、間近にクラサメの顔があったとき、○○はそれどころではなかったのだ。


 部屋に帰り、そういえば噂に聞く火傷の跡が無かったようなと。


 そしてそれから会ったのは今日が初めてだ。


「部屋に帰って思い出したのか」

「はい」

「……思い返してたのか」


 かあっと頬が朱に染まる。


 い、意味合いが!


「思い出したんです! 違います! あの! そうじゃなくて! えぇっと! あ、の!!」

「なんだ。えらく必至だな」


 顎を上げて笑うこの人は部隊長ではなく、クラサメさんだ。


「あの! ぁ、の……えぇと……」


 語尾も気持ちもしぼむ。


 いいやもう。勝手にマスクしてればいい。

 色々と墓穴を掘りそうである。


「ジャケットは……どちらへ……」

「マスクの事はいいのか?」

「ジャケットは! どちらへ!」


 軽く……いや、強く意地になる。


 クラサメの方からラインを割っているのだが、これは公私混同ではないのだろうか。


「そこのソファーにでも」

「かしこまりました! こちらへ! 置かせて頂きます!」


 語尾を強め、殊更丁寧な言葉遣いを選ぶ。


 ソファーに紙袋を置いた○○はまた一つ思い出した。


 店に忘れたというカフリンクス。


 値段は思っていたよりは良心的だったが、それでも一介の小娘が行きつけに選ぶクラスではない。


 ○○より先にクラサメ自ら足を運ぶのでは。


 見つけたら届けてくれとは言われたが、仕事が忙しいのだろうか。


「……え。」


 えええ〜!?


「部隊長……これ……」


 口元をひきつらせながら上官を呼ぶ○○の目は、ある一点に注がれていた。


「カ、カフス……」


 まさに先日見たカフリンクス。

 暗かった店内。

 明るい中で改めて確認するとこんな色だったのかと思うが、時折光を反射した四角錘の形は忘れていない。


 よろよろと手に取る。


「そこにあったのか」


 ちらりと○○を見たクラサメはまた資料を振り分け始めた。

 恐らく次の会議の必要資料。


 いやそうじゃなくて。


 そこにあったのかと言われた。


「お忘れになられたのではなかったんですか……?」

「忘れたなどとは一言も言っていない」


 手は止めず、あくまで淡々と。


 だって……忘れたって……。


 カフスを知らないか。見掛けたら届けてくれ。


 言ってない……!?


 外していたのを見ていた○○が、勝手に店に忘れたと思っただけだ。


 お忘れに?と。


 そして店に、とは口に出さなかったからか。


 テーブルかソファーかベッド脇にでも転がっているだろう。


 クラサメはそう言っただけだ。


 二人で店に行った事など知らない彼らはそんな事を聞けば誤解する。


 誤解させるためにベッド脇、なんて付け加えたんだろうとは思ったが、それでも本当に店に忘れたと思っていたのに。


「また、嘘ですか……」

「酷いな。嘘など一度だってついていないだろう」


 忘れたと思ったのは○○の誤解。

 そしてソファーとかベッド脇とか付け加えたが、テーブルに転がっていたからそれも嘘ではないのだ。


 見当たらないと言っていたのも、テーブルの端まで見てなかったのだと言い張る事は可能で。


 ……インク壷の横だから気付かないわけがないが。


 ○○はため息をついた。


 踊らされた。


 ○○も。


 彼らも。


 ○○は彼女を踊らせようと、クラサメの名前を借り、ジャケット、クリーニングなどのキーワードを借りた。


 その後は○○を赤くする事まで操ったクラサメの独壇場だ。


 名前を呼んだ○○を公私混同するなと嗜め、魔導院では呼ぶなと聞こえるように囁いて。

 二人の間に“公”だけではなく“私”がある事を臭わせた。


 魔導院外なんて、あの日一回きりなのに。


 ジャケットを○○がクリーニングに出してクラサメに返している中、カフリンクスを見掛けたら届けてくれなんて、○○の自室でジャケットを脱ぎカフリンクスを外したとしか捉えられない。


 テーブルかソファーかベッド脇に転がっているだろう。


 勝手に強調されてしまうのは、ベッド脇だ。

 想像してしまうコトは、ひとつしかない。


 それでも。


 そこまで三人に同じ推測をさせながら、それでも何一つクラサメは嘘をついていないのだ。


 ○○は空恐ろしいものを感じた。


 頬をひきつらせながらクラサメを見ていると、振り返ったクラサメが○○の手元を見て手の平を差し出した。


 重い足取りで歩み寄った○○はカフリンクスをその手に乗せる。


「届けてくれて、アリガトウ」


 いえ……、としか言えなかった。


「言っただろう。言葉を丸呑みにするなと」


 言われたけど……。


 やっぱり○○は、はぁ……、としか返せなかった。


「何をしょげている? 良かったじゃないか」

「……何が良かったんですか」


 ちらとクラサメを窺う瞳は非難がましくもなろうともいうもの。


「気付かなかったか? あいつ、嫉妬心丸出しだった」

「え」


 とくんと跳ねる鼓動。逸る気持ちを抑えるように○○は胸に手を当てた。


「……彼女が、……ですよね。わかってますよそれくらい」

「なんだ捻くれたな。男の方だ」


 捻くれさせた張本人が何を、と思いながらそれでも視界は切なさで滲む。


「追うなら今だぞ? 機を逃すな」


 まるでブリーフィングの一環であるかのような物言いだ。


「ずっと拳を震わせ、私を睨んでいた。……いい度胸だ」

「彼が……部隊長を……?」


 あの優しい彼がそんな大それた事を。

 クラサメには悪いが純粋に嬉しい。


 しかし○○は頭を振った。


「……追いません」


 どう縋ったところで、彼の罪悪感は消えない。

 彼から言ってきてくれなくては意味がないのだ。


「追わせます」


 きゅっと口を結び見つめてくる瞳に、クラサメは面白そうに眉を上げた。


「いい根性だ。流石私の部下だな」


 その言葉にまっすぐだった○○の視線が揺らぐ。


 クラサメは溜め息をついた。


「やはりか。異動願いなど、空きがあるか空く予定がないと特例がない限り出せるものではない。……出したのか」


 彼女が異動願いを出したと聞いたときに引っ掛かりを覚えたのだろう。

 そしてあの様子から察するに、○○のポジションを狙っても不思議ではない、と。


 私の部下、と言われ、○○にみえたのは後ろめたさ。

 すなわち、部下ではなくなる。

 そういう事だ。


 また、引き出されてしまった。


「○○が異動願いを出したから、あれが希望を出したのか? ……それならば話を聞く」


 だが、とクラサメは一度言葉を切った。


「逆なら別だ。向こうに打診され、逃げるために出したのであれば話にすらならん。許さんぞ」


 ぴり、とした空気に○○は俯いた顔を上げられない。


「逃げる……ためではありません……。自主的に、です……。更なるご迷惑を掛ける前にと……」


 そう言うのがやっとだった。


「そうか……」


 溜め息をつき、しばし思案するようにクラサメは思考を巡らせた。


「ならば説き伏せるまで」

「……はい?」

「失敗は誰にでもある。反省し、同じ過ちをしないようにすれば結構。あれは思考から排除して自分磨きに勤しみ追わせるように仕向ければいい」

「えぇと」

「加えて余計な事を考えていられないような膨大量の仕事を与えれば完璧だろう」

「待ってください!」

「何か」


 な、何かって……! 何かじゃなくて!


「私の……私の意思です! ちょっとのんびりしたいなって思っていたところで!」

「その歳で何を言っている。私の方がのんびりしたい」

「部隊長は無理です!」

「何故。私も人間だぞ。サボらせろ」

「人間なのは存じておりますが!」

「優秀な部下がいてくれたら私もケーキを食べるくらいの時間が出来るんだが」


 尊敬する上官に、優秀な、と言われるとやはり嬉しい。口先だけだとわかっていても。


「○○がいてくれると助かるんだ」

「……それは、私がいると彼女が下に付く事がないからですよね」


 薄く笑んだまま否定も肯定もしないクラサメ。

 今までだったら、視線にどきどきしたり、優秀? 助かる? わーいと喜んでいただろうが。


 裏を。裏を読むんだ。


 バレたか、と思っていながら、よく読んだと嬉しそうにも見える。


 誰だって踊らされたくはない。


「私ものんびりしたいさ。しかし、近い所で例のモンスター掃討の案件もある。引き継ぎは○○がやってくれるのか?」


 ああそうだ。引き継ぎ。


 挨拶回りから接する人間の癖、書類の保管庫の案内など。

 ……大変そうだ。


「……では区切りが付くまで取り下げます」


 抱えている案件が少なくなり、同僚で他に引き継いでくれそうな人を見付けたら。


 そしたら。


「少しだけ、部隊長がのんびり出来るまでは」

「そうか。感謝する」


 ……これは本心のようだ。


「次に時間が出来るのはいつだろうな」


 机の上の資料をひとまとめにしたクラサメは足元に来たトンベリを見下ろした。


「モンスターの掃討が終われば、でしょうかね」


 ○○もしゃがみ込んでトンベリを撫でる。


「何を言っている。モンスターの掃討が終わればその事後処理だ。上がってくるレポートに目を通し、活かせる意見の取捨選択。掃討後の実地フィールドの生態系変化を調査、等々、問題は山積だ」


 頭上に降り積もる言葉に重みを感じたように○○は首を縮めた。


「で、ではその後は……」

「纏めているクラスに学力、体力テストを行わねばならん」

「その後は……」

「その解読。個人それぞれに合った方向性を指し示し、スリーマンセルで模擬訓練をさせる。スケジューリングが面倒だが」

「……その後は……」

「玄武と会合が控えている。高官の護衛だが向こうに出向くため、作法を学ぶため資料をさらう」

「……」

「いつまでそこにいる気だ? 会議なんだが……」


 顔を上げた○○の前にはトンベリすらもう居なかった。


「私の部屋に居たいというなら別だが」
「帰ります!」


 キッと顔を上げた○○は扉を開けて待つクラサメの元へ大股で歩いていった。


「悩みなど忙殺してやろう。良かったな? 私が部下想いの上官で」


 くくっと笑うクラサメに拳を握りしめながら、それでも○○は一礼した。


「微力ながら! お手伝いさせて頂きます! ……良かったですね! 上官想いの部下で!」


 舌でも出しそうな勢いで言い放った○○は、ぷいっと顔を背けてからずんずんと魔法陣へと向かった。






















 うっかりプライベートなど知ってしまったがために。

 妙な方に突風が吹いた。


 遠巻きでは格好良かった男性は。

 下に付けば格好良いが怖い男性で。

 近づけば格好良くて怖いけどちょっと可愛い男性だった。


 更に近付きすぎてしまった○○。


 尊敬しているが怖い上官。


 ……そのままで良かった。


 あれからクラサメへの接し方が変わったのは言うまでもない。


 だって仕方がない。


 ○○がラインを守ろうとも、踏み越え仕掛けてくるのはいつも向こうなのだから。


 オロオロと飲まれていては精神が持たない。


 自然、図太くなり。

 冷静に言葉の裏を読む癖が徐々に付き。


 なんか○○、クラサメ士官に似てきた?


 そんな有り難くない言葉を同僚から言われてしまった始末。


 18歳乙女としては可愛いげがなさすぎるではないか。


 捻れた話が彼に伝わったらどうしてくれる。


 ……泣きたい。


 そんなに想われ続けている○○様は、幸せですね。


 思い違いもいいところ、激しく前言撤回だ。


 今は、悲哀、応援、そして尊敬。


 情報は皆無に等しいが、あの上官に想われ続けているにもかかわらず華麗にスルーし続けている○○様には、○○は尊敬の念すら抱いていた。


 差し支えなければ……いや差し支えても師匠と呼ばせて頂きたい。


 あんな黒い物体に想われ続け、何故平気でいられているのだろう。


 切に、レクチャーを乞う。
















 ○○は胸に抱いた紙袋を見た。


 先ほど食堂で○○を見付けた○○から渡されたものだ。


 あっちょうどいいトコに! ごめん、ちょっと頼まれてくれるかな? クラサメに渡しといて〜。


 顔の前で手を拝む○○は苦笑いで申し訳なさそうだった。


 元より用があったので了承すると懐こい笑顔を浮かべてアイスコーヒーをごくごくと豪快に嚥下。


 連れがいたのか、隣の席にあった空の食器類も重ねて慌ただしく席を後にした。


「レッドクローバー……」


 聞いた事の無い店名だ。

 持った感じから察するにケーキかなとも思ったが。


 中、見ちゃダメね!


 と言われたので推測は打ち切る。


 クラサメが甘党だと○○が知っている事を、○○はきっと知らないから知らないふり。


 そしてケーキだと知ったところで、その話題をクラサメに振るつもりは毛頭ない。


 自らプライベート話を持ち出すなんて危険を犯すわけがない。


 今のところ、黒い上官のウィークポイントは○○様だという事しかわからない。


 それだけは、垣間見えた少ない真実。


「3年半……。一目惚れとかするタイプでもなさそうだし、……少なくとも4年……?」


 4年、あの上官の傍にいて、何故あんなにも毒されないのか。


 どんな魔法を使っているのだろう。

 それとも固有スキル?

 除けの、アクセサリーとか?


 しかしいくら考えても答えはわからないままに、○○は今日も上官の私室をノックした。
















end
後書き