両手に持っていた大量の紙袋を床に置き、○○は弾んだ息を整えた。
つ、疲れた……。
小走りでここまで来たが、約束の時間から優に三時間は過ぎている。
怒ってるんだろうなあ……。
目の前の扉を見上げ軽いため息をついてノックする。
再び紙袋を持ち上げていると、中から返事がした。
「……私。入るよー」
ガッ。
紙袋を持ったまま器用に開けた扉は、何かにぶつかって止まった。
体重を掛けてみても動かない。
視線だけを上に動かすと、目線の位置から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「言葉が成ってない。やり直し」
言い終えない内に扉を押し返される。
この野郎、今足で閉めたな!?
反射で怒鳴りそうになったところを深い深い呼吸で静める。
再び言葉を発するまでに十回は深呼吸しただろうか。
「……失礼しまス。お夜食をお持ち致しましたがいかがでしょうか、ご主人サマ。」
言いながら扉を睨みつける。
「ぎりぎり及第点だな。入れ」
たっぷりとした沈黙の後の言葉がコレ。
そして開けてくれないわけ。
「失礼致しマス」
中へ入ると、腕を組んで傲然とこちらを見下ろすクラサメがいた。
……何でこんな目に遭ってるかっていうと、一週間前にさかのぼるワケですよ……。
○○は遥か彼方に見える高い山岳の稜線を見ていた。
真夜中のペリシティリウム朱雀魔導院。
大小様々な鐘が鎖に繋がれた、建物の最上部だ。
学院探索の際に見付けた。
テラスよりも見晴らしが良いここは、隠されたようにひっそりとある通路を通らねばならない。
立入禁止の表示も無かったのにもかかわらず、単純に判りづらいせいか他の生徒や教官と出くわした事は無く、ここで出逢ったのはただ一人だけ。
見付けて以来、お気に入りの場所として○○はたびたびここへ来ていた。
飲み物持参で来た事もある。
ただ、長居出来ないのがネック。
口ずさんでいた歌に区切りが付いたので煙を肺に入れ、ふぅ、と吐き出した。
「何してるんだ」
「クラサメ」
「……おい」
○○の手に視線を移して眉をしかめる。
「あっヤバ」
慌てて後ろに隠すが間に合わない。
そもそも煙が燻っている。
「こんなところで吸ってたのか」
咎めながら大股で隣まで来たクラサメは柵に手をつき○○を横目に見た。
「……部屋で吸わないでって言われたから」
○○にはルームメイトがいる。
煙草は、服に臭いがつく、煙が単純に嫌い、など非喫煙者にはよく思われないことが多く、そして○○のルームメイトもその一人だ。
外でならいいかなって思って。
「屁理屈だな」
言って手摺りに肘を乗せ頬杖をつく。
「……おっしゃる通りです」
○○も肘を投げ出し縁に顎を乗せた。
こんな時間まで何してたんだろ。珍しい。
「始末書書いてた」
突然掛けられた言葉に驚きながら隣を見る。
クラサメは視線を稜線に向けたままで呆れたような溜め息をついた。
「今喋ってたぞ」
ちらと目が合ったが、すぐに戻された。
気をつけてるつもりなんだけどな……。
口元に手を当てる。
無意識に口に出してしまう癖は相変わらずのようだ。
……って、始末書?
「生徒がヘマをやらかしたんだ。……お前な、仮にも戦闘職種なんだからその筒抜けっぷり何とかしろ。尋問されたら一発だろ」
今度は喋ってはいなかったようだが読まれたらしい。
くそぅ。
唇を尖らせて煙草に口を付ける。
○○に用事があってここへ来たわけではないらしく、特に会話も無く沈黙が続く。
クラサメは頬杖を付いたまま同じ方角を見続けていた。
あれ、こっちって。
「蒼龍だったっけ」
「ああ」
確か会議だか何だかで長期滞在していて、つい先日帰ってきたばかりだったはずだ。
そういえば言ってなかったな。
「おかえり」
「……ああ」
蒼龍かあ。
まだ行ったコトないんだよな。
あっちの方角にあるけど、確かこっちの方からぐるっと迂回するんだよね。
真っ直ぐ突っ切れれば手間も時間も短縮になるのに。
あ、でも今は飛空艇あるから関係無いか。
キザイアもあっちだったなー。
確かに、何度か上空を飛んでる飛空艇見えたっけ。
「ねえクラサメ」
発せられた言葉にクラサメの思考はしばし停止した。
「……また、随分と話が飛躍したな」
どういう回路なんだ○○の頭の中は。
身体を反転させて両肘を手摺りに預ける。
「あっちってキザイアとかミィコウ方面だなーって思って」
キザイア、スカラベ&レッドクローバー、クラサメ、プレゼント。
そういう思考回路が働いたらしい。
成る程な。
連想ゲームか。
クラサメは溜め息をついた。
「別にいいって。蒼龍に行く前にも言ったけど」
「いやー、こう、何年も記念ごとにあげてるとネタも尽きてきてさあ」
「だから」
「どうしよっかなっていろいろ考えたんだけど」
「おい」
「今年は直接希望を聞いてみるコトにしてみました」
「何度も言うが」
「ね、なにがいい?」
本当に……。
つくづく話を聞かないヤツだな……。
呆れて物も言えない。
見上げてくる○○を肩越しに見遣る。
「ねえ」
「……別にいいって。ただ」
身体を手摺りから離し。
「話聞け」
○○の頭を軽く小突く。
「何よ。今年はプレゼントじゃなくてお願い?」
違うって。
だから人の話をだな。
口を開いてはたと停止する。
……それいいな。
「あ、ちょい待った! ストップ! 思考ストップ! 今何考えて」
「じゃあ今年はそれで」
「それってどれ!」
「わかってるくせに」
「わかんない知らないっ!」
「いつかのお前の誕生日の逆。俺の言う事を聞く日」
「イヤ!」
「普段人の話聞かないんだ。年に一度くらい聞いたらどうなんだ。祝う気あるのか」
「祝う気はある、ケド……! ……そだ! さっき別にいらないって言ったじゃん!」
「前言撤回」
「男に二言は無いって言葉、知らないの!?」
「男にだって二言はあるんだぞ。知らないのか?」
「知らないわよ! 聞いたコトないわよ!」
「そっちこそ、希望取ったくせに」
「アレは無し! 前言撤回よ!」
「女には二言があるのか?」
「当たり前じゃない! 女には二言も三言もあるのよ!」
「男女差別か。哀しい壁だな」
「うるさいッ! あ、こら、ちょっとドコ行くのよ!」
「帰る」
「まだ話は終わって」
「来週」
半身だけ振り返る。
「楽しみにしてるからな」
○○は拳を握り締めていた。
「……講義の助手、入ってるんだけど!」
「気にするな、俺も授業だ。終わってからでいい。部屋来て存分に祝え」
「ちょっとクラサメ!」
「零時だ」
鐘が鳴るぞ。
長居できない理由がこれだ。魔導院中に響く鐘がここにある。美しい調べも、直下で聞くと流石にひとたまりもない。
鐘の鳴る予兆、歯車が巻き上がる音を聞きながら、墓穴を掘った○○は頭をかきむしった。
そんなわけで、こんなわけです……。
持ってきた紙袋をテーブルの上に置く。
「すごい荷物だな」
手伝う気が無いクラサメはソファに座ったままだ。
「ご主人サマに、貢ぎ物をと、思いまして。……いろいろと」
クラサメはふぅん、と顎をあげた。
「それよりもめかしこんでくれた方が良かったんだが?」
化粧なんかする時間無かったんだってば!
「申し訳ありませんでした。私用で時間が無かったものですから」
ヘアピンを数本取り出し器用に髪を纏め上げ、羽織っていた前開きの膝丈パーカーを脱ぐ。
「……初めて見るな。そんな格好」
○○が着ているのは開襟の七分袖のブラウスに黒いタイトスカート。
ご丁寧に腰巻きの黒いエプロンも着用している。
ウェイトレス。給仕係。召し使い。
レースもふりふりも無いが、いわゆるメイドの格好だ。
「……ウェイトレスのバイト経験がある友達に借りてきたので」
「なんて言って借りたんだ。恥ずかしいヤツ」
だってこんなの持ってないし!
「……あんまりじろじろ見ないで頂けますか」
「俺の勝手」
即座に返される言葉に○○は小さなため息をついた。
今日は何言っても無駄だな……。
「失礼致しました。キッチンをお借りしても?」
肩をすかした仕草を了承と考えて、○○はクラサメの視線から逃れるようにキッチンに向かった。
ホールにして4つ。
イチゴと生クリームのショートケーキ、数種類のフルーツを使ったタルト、チーズケーキにガトーショコラ。
更にマフィン、ゼリー、プリン、コンフィチュール。
全種類を1つずつ取り分けて2つのプレートに乗せ、クラサメの待つテーブルへと運ぶ。
「お待たせ致しました」
テーブルに置くより前に、その種類の多さを見てクラサメから感嘆の声が漏れた。
「まだ向こうにありますので。切り分けて冷蔵庫に入れさせて頂きました。足の早い物からお食べくださいませ」
テーブルに差し出されたカードには大まかな賞味期限と食べ合わせの例。
手書きだ。
「どちらをサーブ致しますか?」
「これ」
右手にサーバー、左手にお皿でスタンバイしていた○○はプレートを回してフルーツタルトを取った。
「見た事無いケーキだな。レッドクローバーの新作か?」
「……恐れ入ります」
ずっとむくれっ面の○○だがちらりとクラサメに視線を向けた。
「……手作りか?」
「……恐れ入ります」
クラサメに衝撃が走った。
「凄いなお前」
褒められた。
「何で今まで隠してた」
怒られた。
「……申し訳ありません」
「今度また作れ」
って言われるだろうから秘密にしてたのよ!
「承服致し兼ねます。特別なのは本日中に限らせて頂きますので」
これだけ作るのにどれほど苦労したか!
「只今お飲みものをお持ち致します」
まだ何か言おうとしていたクラサメを遮り、○○は立ち上がって再びキッチンへと戻った。
めでたい事や祭り事は大好きだ。人が喜ぶ様を見ているだけでこちらも嬉しくなってくる。
年に一度の誕生日。
それはそれはめでたい日である。
もうちょっと、気持ちよく祝わせてはくれないものかしら。
炭酸で作ったクラッシュゼリーを飾りグラスに入れ、持参したタンブラーから飲み物を注ぐ。
いやいや。無理難題を押し付けられても祝う気持ちが大事。
大事なのよ。
使った形跡の無さそうなシルバートレイに乗せてテーブルに運ぶ。
クラサメはケーキに手を付けず待っていた。
「……? 失礼致しました。どうぞお召し上がりください」
てっきり食べてると思ってたんだけど。
あ、飲み物待ってたのか。
「ドリンクは?」
手元にはグラスが一つだけ。言われているのは○○の分だと察する。
今運んできているというのに催促する程クラサメは関白じゃない。はずだ。
「いえ。私は」
タンブラーにはもう一杯分入っているが、それはクラサメのお代わり。
給仕する側でいる気だったので自分のは用意していない。
夜も遅いからケーキも食べるつもりは無かったし。
「持ってきてないのか」
「……ではコーヒーを頂いてもよろしいでしょうか」
三度(みたび)キッチンへ行こうとするが手で制された。
「丁度いいのがある」
そう言って○○が来てから初めてクラサメがソファから立った。
何やらチェストから出してきて手渡されたのは薄い紙でくるまれた木箱。
とぷんと重心移動するこの重さから察するに。
「お酒……?」
「貰い物だ」
だよね。クラサメお酒ダメだもん。
「では御好意に甘えさせていただきます」
高そうな紙を丁寧に剥がしていると、○○の前にピューターが置かれた。
「恐れ入りま」
紙を脱いであらわになった木箱。そこに書かれていた文字。
「しッ」
「し?」
「なんであんたが持ってんのッ!?」
ずびしと、だがしかし丁寧にクラサメの目の前に木箱を突き付ける。
「時雨月!」
「……確か高いやつだったか?」
さすが下戸。反応は薄い。
「高いなんてもんじゃ……!」
思わず箱を崇める。
しぐれづき。
魔導院を設立した冷の月に因んで名付けられた、ルブルム国内で最高級の地酒だ。
店で売られているのを見た事が無い。
まさに幻の酒。
○○も過去に一度しか。
「あれ? 前にどこかで……」
飲んだ記憶はあるが誰とどこで飲んだかの記憶が無い。
「やるから飲めば」
「マジか!!」
うわすげぇ反応。
そそくさとソファに座って木箱を置いた○○は、てぐすねを引いてそっと蓋を開けた。
「メッセージカード……? 入ってたよ」
はい、と腕を伸ばして渡される。
貰ったものの開封すらしてなかったので気付きもしなかった。
二つ折りのそれを開いて目を通し。
「びっくりした……。なしたの?」
「……なんでも」
見てはいけないものを見てしまったかのようにバシリと大きな音を立ててカードを閉じたクラサメは、驚く○○を尻目に机の引き出しにカードをしまった。
「眺めてないでさっさと開けろ」
「はーい」
○○はすっかり上機嫌だ。
敬語外れてるぞ。
思うが口には出さない。
さっきの仏頂面に戻るよりは全然いいか。
グラスを合わせて乾杯した二人はそれぞれ一口飲んだ。
美味いな。
光を受けて乱反射するゼリーを見る。
さすが、クラサメの甘党を見抜いただけはある。
ドリンクだけだとクラサメにとっては少し物足りないが、恐らくそれはケーキとの組み合わせを考えての事。
ゼリーに閉じ込められた炭酸が喉に涼しい。
作った当人はといえば。
「ッくっはー! いやーん美味! おいしー!」
そう言って声高らかに言ってピューターを掲げた。
感想とか催促しないか普通。
力作だろうに。
時雨月が全部掻っ攫ったようだ。
「ホンット美味しい! ホントだよ!? ありがとうクラサメ! どうしようクラサメ!」
○○はまた瓶を眺めた。
「……どうもしない」
どうしようって何だ。
「ゆっくりじっくり飲みたいなあ……。あー……クラサメ、封閉めの道具とか……」
聞いた事の無い単語だが、一度開栓した酒なんかを長期保管するためにまた閉めるための道具だろう。
「あるわけないだろ」
酒飲まないし。
「ですよねー」
そう言って背もたれに身体を預ける。
「今週末から研究班にくっついて長期遠征なんだよね〜。私いるかなあ。……必要かなあ?」
「必要だから組み込まれてるんだろ」
「……いなくても」
「馬鹿野郎」
「じゃあ、持っていっても」
「大馬鹿野郎」
どれだけ気持ち奪われてるんだ。
酒を必要としないクラサメには理解し難い。
「今日全部飲めばいいだろ」
「そんな勿体ないコト出来るか!」
「……じゃあ残せば」
「それはもっとありえない!」
ではどうしろと……。
溜め息をついてケーキを口に運ぶ。
「やっぱり今日飲み切るしかないんじゃないか」
「……さすがの私も潰れるわよコレ全部飲んだら……」
こんな美酒を一気飲みとか。酒飲みとしては不名誉極まりない。
「遠征に発つまでの間、晩酌に来てもいい?」
その言葉に動かしていたフォークが止まる。
やはりこいつの思考回路はわからんな。
来たところで、クラサメは飲まないので一人で飲む事になる。
やると言われて所有物になったのだし、普通なら部屋に持って帰るという選択肢が先に来るだろう。
そう言われても許可を出すつもりは無かったが。
クラサメに贈られた酒という事で遠慮しているのか、毎日部屋に来るような気軽な関係と考えているのか。
何も考えてないのか。
……全部だな。
「ご勝手に」
タルトを食べ終えたクラサメは次にマフィンに手を付けた。
「事前準備で忙しいから、夜遅くなっちゃうと思うけど」
お前がいいなら。
「クラサメ寝てもいいよ。気にしないから」
少しは気にしろ。
「戸締まりはトンベリに任せてくね。あ、寝たらごめん」
……また運べと。
「いやいやお手数は掛けませんて。その辺転がしといていいからさ」
呑み処・スサヤ?
クラサメに睨まれたにも関わらず、○○は笑って時雨月を注いだ。
「マズそうな名前」
言って天を仰ぐ。
ああ。面白くない距離だ。
水であれば一口で飲み干せそうな量を注いではゆっくり飲み、また注いではゆっくり飲む。
「面倒じゃないのか。それ」
何故なみなみと注がないのか。
「こういうお酒は、ちっちゃいグラスに入れて少しずつ飲むものなの」
クラサメが用意したピューターは、冷たいものは冷たいまま、熱いものは熱いまま保つ事に優れた錫製の容器。
ビールやウイスキーなどを入れるには最適だが、地酒を入れるサイズではない。
が、クラサメの部屋にそのサイズのグラスがあるとも思えないので、それを使ってそのまま飲んでいる。
「お気になさらず」
酒飲みの醍醐味を理解する気もないクラサメは、気のない返事をしてプリンに取り掛かった。
「そういやお前、酔っても変わらないんだったか」
一度だけエミナとカヅサと4人で飲んだ事があるが、酒に弱い体質だとわかって以来クラサメが参加した事はない。
そのときも真っ先に潰れた。
何度かあった同期との飲みの席でも、クラサメは飲まない。
ただ、やたら絡んでくるヤツや笑い上戸などのあしらいが面倒だった覚えはある。
「そだね。あんまり変わんないケド……陽気にはなるかな。あ、あとよくしゃべる」
「……普段よりか」
「失敬な! これでも面倒見いいんだよ? お酒には強い方だから、先に潰れたコの介抱とかして」
ふふふと得意げに笑う○○の頬はほんのり上気している。
「ああでも一回……いや二回かな、記憶飛ばしたコトあるなー。体調悪かったのに無理して参加したんだよねー」
エミナに世話になっちゃった。
そう言って酒を嚥下し、また注ぐ。
酒に強いヤツでも記憶飛ばす事があるんだな。
記憶を無くすのは酒に弱い人に限った事ではないらしい。
「ところでトンベリは?」
見当たらないケド、と身体を捻って室内を見回す。
「さあな。仲間でも探してるんじゃないのか」
気付くとトンベリがいない事が度々ある。
耳にした目撃例からするに、どうやら他の従者を探して学院内を徘徊しているようだ。
朝になれば戻っているし、不自由があるわけではないので好きにさせている。
「寂しいのかな……やっぱ」
「どうだろうな」
その機微は、クラサメにはわからない。
「この時雨月、誰から貰ったの?」
また話が飛んだ。
それが○○だからなのか酔いのせいか、判断が付かない。
「……ボスからだ」
「ボ」
「ああ。四天王の」
○○は奇声をあげて立ち上がった。
うっすら涙さえ浮かべている。
「ののの飲んじゃった! ごめんクラサメ! てかあんたが飲みなさいよ! 私が飲んでいいものじゃ」
「いいんだ。俺の物をどうするかは俺が決める。気にするな」
「でも」
「くどい」
言葉に詰まった○○はすとんとソファに収まった。
「じゃあせめて大事に頂きます……。ああ付加価値が付いて旨さ150%、ついでに今立って一気に酔いも回った……」
「……付加価値で50%も上乗せかよ」
「だって四天王だよ!?」
「……俺は?」
「あんたは別」
なんで別なんだろう。
一応、元四天王なんだが。
「ビャクヤさんに貰ったアクセサリー、まだ付けてるんだ」
シャツの上から左の肘上を触る。
「ベスネルでは世話になったんだったな」
クラサメは覚えていない。
「お前、まだ付けてるのか。日記」
「つけてるよ。習慣だもん」
忘れちゃいけないことを忘れないために書く。
そこに書くのは主に人との繋がり。
クラサメがそれを知ったのはかなり前だった。
「飽きやすいくせにな」
「そりゃあ、まいにち書けないときもあるケドさ、演習期間とか、レポートでいそがしいときとか」
ぶつぶつ言って酒を注ぐ。
「でも! だいじなコトらもん! それはつづけるわよ!!」
「ビシッと決めたところ悪いがな……。お前呂律怪しいぞ……」
「あ? なにがよ?」
「……酔っ払い」
「よってない!」
ああそうだな。
酔っ払いはみんなそう言うんだったな。
「あれ、ケーキ全部たべた? お代わり持ってきますね〜」
「お前、あまり動くと」
「へーきへーき。よっ」
空になったトレーを手にキッチンへ向かう。
その足取りは、やはり少しだけふらついている。
「大丈夫かよ……」
「だーいじょうぶらって! いいからクラシャメは座ってなさい!」
○○の大丈夫は信用出来ない。
過去、散々学んだ事実だ。
「酔い潰れるとか、勘弁だぞ……」
何故自分の誕生日にこんな気苦労があるのか。
クラサメは再び天を仰いだ。
「へいお待ち」
ケーキを持ったウェイトレスの格好でその言葉はいかがなものか。
クラサメはまた溜め息をついた。
言葉は指摘せず、○○を見遣る。
「顔、真っ赤だぞ」
「ほんと?」
「ああ」
言って○○は自分の手を当てる。
「自分じゃわかんないやー。そんなにあかい〜?」
○○を手招きして頬に手をあてがう。
「うひゃっ」
「な」
普段であれば○○よりも体温が高いクラサメだが、その手が今は気持ちよく感じる。
「クラサメの手冷た〜い。あ、飲んでないからじゃな〜い?」
お酌しますよ〜と時雨月を手に取る。
「ま、いっぱい」
飲めないと否定するのも面倒で、クラサメはおとなしく空になったグラスを持った。
微量に注ぎ入れ、更に自らの容器にも注ぐ。
「おたんじょうびおめでとー! かんぱーい」
一気。
飲み干して出た言葉から旨そうなのはわかるが。
「飲みすぎだ馬鹿」
口を付けずグラスを置き、瓶も遠ざける。
「本当に大丈夫なのかお前。人の肌とは思えない色してるぞ」
「ん〜?」
「ボム並」
また頬に触れる。
○○は小さく肩を竦めた。
「熱い」
「えー? 熱くないよー? つめたいよー」
お前が熱いから、俺の手を冷たく感じるんだろ。
俺は至って平常だ。
「きもちいー」
「……気持ちいいか」
「ん、きもちいー」
「……そうか」
頼むからそんな目で見ないで欲しい。
とろんとした目と赤く染まった頬。
緩く笑いかけてくる○○から視線を外すしかなかった。
「ねえクラサメ、トンベリは? キッチンにもいなかったよー?」
酔っ払い確定。
何度目になるかわからない溜め息をついて額に手を当てる。
お前な、いい加減に。
そう言おうと視線を向けたとき、丁度○○が身震いをした。
「寒いのか?」
体温はこんなに高いのに。
「ん〜わかんない。おんど上げていい?」
「俺は寒くない」
「ぁぅ……。あっパーカーあるじゃん。どこやったっけー?」
「……着るのか」
「ん? うん。らってクラシャメさむくないんでしょ?」
パーカーを探そうと立ち上がった○○を引き止めたのは、離れる指が名残惜しかったからだろうか。
「ここにいろ」
「わっ」
手を引くと簡単にぐらついた。
「こうしていれば、寒くないだろ」
あっさりと腕の中に収まった○○は首を捻ってクラサメを見上げた。
「なーんら。やっぱりクラサメもさむかったんだー?」
「ああ」
「手もつめたいもんねー」
「ああ」
「しかたないなーあっためてあげるよ」
熱い両手でクラサメの右手をくるむ。
「あったかい?」
「ああ」
「ぎゃくー」
「はい」
「あったかい?」
「ああ」
……なんなんだろうな。
この中身の全くない会話と、それに律儀に返す自分は。
温めてもらった手を少し戸惑いながら腰に回す。
○○は逃げなかった。
「あったかくなったー?」
「ああ。○○のおかげだ」
そう言うと照れ臭そうに笑った。
「○○は? 寒くないか」
「うん。クラサメあったかーい」
言いながらこくりと喉を潤す。
「のみどころ・シュシャヤ、暖房かんびー!」
……いろいろ突っ込みどころはあるが。
「いつの間に分店したんだ?」
「はえ? のみどころ・シュシャヤでしょ?」
再び言えてない。
本人が真面目なだけに、思わず笑ってしまった。
「お客様、店を間違えておられるようです」
「え〜?」
「当店は、呑み処・スサヤですが」
「あってるじゃん!」
「いいえ」
「しぐれじゅき置いてあるとこでしょ?」
「時雨月、だろ」
「それ。時雨じゅき」
「月」
「月」
「ん」
「を、だす、のみどころシュシャヤ」
「スサヤ」
「シュシャヤ」
「ス」
「シュ」
「言えてない」
「シュシャヤ」
「スサヤ」
「え〜??」
「ス、サ、ヤ」
「ス、シャ、ヤ」
「惜しい。ス」
「シュ」
なんだろうこの会話ともいえない会話。
更にいうならウェイトレスの格好をしているのは○○で、クラサメはもてなされる側だ。
逆ならまだわかるが。
馬鹿な○○と馬鹿みたいな会話をする俺も、恐らく馬鹿みたいに見えるんだろうな。
終わりがないようなやり取りを繰り返しながら、クラサメは○○の肩口に顔をうずめた。
「ところでパティシエール・○○の作品はいかがですか〜? ぜんぜん食べてなーい!」
これ二巡目なんだが。
「美味かったよ。ありがとう」
言いながら頭を撫でてやる。
ようやく礼を言わせてくれたか。
「がんばったんだよ〜? これとか力作ー」
言ってフルーツタルトを指す。
クラサメが最初に選んだやつだった。
「毎日ちゅうぼう借りてー遅くまでいろいろつくったのー。かしてもらったお礼に毎日カップケーキもつくってさー。どんなのがよろこぶかなーってずっと考えてさー」
「毎日?」
「うん。言われてから毎日ー。ちゅうぼう閉じてからかしてもらってたの」
「ずっと考えてくれてたのか」
「うん」
ああ。胸がつまるってこれか。
愛しくてしかたがない。
クラサメは深く呼吸をした。
時が止まれ、なんて、ミッション中以外で初めて願った。
回した腕に力がこもってしまう。
「……ありがとうな」
再び頭を撫でる。
「うむ。あじわって食べるがよい」
言葉は偉そうだが○○の顔は緩みっぱなしだ。
「なぁ……髪、ほどいてもいいか」
「ん?」
「その方が暖かいんじゃないか」
「んー……んじゃほどく」
「やってやる」
ピンななほーんと言って○○はグラスを煽った。
7本。
とりあえず目についたものから慎重に外しにかかった。
はらはらと解けてゆく細い髪。
「お前の髪、好きなんだ」
細くて、ふわふわしていて、繊細な、自分とは反対の髪質。
手に心地好い。
「そーだったんだー。知らなかった」
「覚えておけ」
「ん」
3本目。
「じゃあ私はークラサメの手好きー」
「手?」
「あとねー声ー」
「へえ」
「うん」
「知らなかった」
「覚えておけー」
「ああ」
知らなかったよ。
「あ、クラサメがいっこで私はふたつじゃん! ずるい!」
「ん?」
「ほかにないのー? 好きなトコー」
ほか。
なんかもう、全部なんだが。
華奢な身体も、ミッション中の呼吸も、突然言い付けた今日の事に全力なのも。
言えない。
今なら言ってもいい気もするがまだ言えない。
「そうだな。……身長とか」
「あっ気にしてるのにー!」
手が置きやすいんだよ。
「あと俺の予想を越える思考回路」
「それほめことばー?」
「今はな」
「むー。……でも今度はクラサメがみっつになったねー。私のこと大好きじゃん」
「そうだな」
ああそうだよ。
いつかこの距離が変わって、言える日は来るのだろうか。
ヘアピンを外しながら時計を見る。
「俺の誕生日、もう終わるな」
もっと、早く来てくれてれば。
もっと、長く一緒に。
「なんで今日、遅くなったんだ」
4本目のピンをテーブルに置くと、小さく溜め息が出た。
こういうときだけ、針の進みは早い。
「そう、聞いてー!」
おとなしくピンを外されるがままになっていた○○は、急にクラサメの腿をぺちぺち叩いた。
「じゅぎょー終わってー部屋もどろうとしたときにさーぐんれいぶちょーに見つかったのー!」
軍令部長。
脳裏に浮かんだ人物像に、クラサメの眉間にもしわが寄った。
教員の研修期間のローテーションで、十日間程下に付いた事がある。
あまり気持ちのいい人物ではない。
野心家で、気分屋。
罪はなすりつけ、手柄は横取りする。
大口を叩くのに技量は比例していない。
学ぶ事は少なかった。
「なんか厭味言われたのか」
だから、部屋に来たとき不機嫌だったのか。
何の笑みなのか、○○はふふふーんと笑った。
「いやみも言えないぐりゃいカンペキにやってやったわよ!」
「何を」
「しょりゅいしぇいりー!」
どうやら言い付けられてない所までやったらしい。
だからか。
「むかむかしながらやってたんだけどー……やりはじめたら、いろいろ気になってー……」
ごめんなさい。
クラサメを振り仰ぐ。
「気にしてない」
わけではないけれど。
許してやるよ。
こんな所も○○は全力。
テーブルに置いたピンは6本。
最後のひとつが見つからない。
「7本なんだよな?」
「うん」
「無いが」
うなじから髪をかきあげる。
「うひあッ」
「どうした」
「なんか鳥肌たった!」
言いながらクラサメに腕を見せる。
そして急に向きを変え、小さくくしゃみをした。
「う〜、ごめんティッシュどこ?」
「……机の上」
離れたら戻ってくるのだろうか。
だからといって引き止める事は出来ず、○○は机に向かうために立ち上がった。
背を向けて鼻をかむ。
その様子を視界の端に捕らえながら、クラサメはチーズケーキを一口食べた。
鼻を啜りながら○○が戻ってくる。
若干……いや、意識的にクラサメが背もたれに身体を預けると、○○は当たり前のように元の位置に収まった。
「ん〜……風邪ひいたかなあ」
思ったより厨房寒かったし、とまた小さく鼻を啜る。
小さな幸福を感じているのはクラサメだけで。
「あったかくしろ」
言いながら再び腕を回す。
「……雪山で遭難したら、体温で暖めあうのがいいそうだぞ」
「たしかにあったまるもんねー」
「ああ。理に適っている。人肌は暖かいからな。……もし、俺と一緒に遭難したら」
どうするのだろう。
「私? 私ならねー」
ファイア使うー。
さすがの、○○クオリティだった。
雪山で遭難したらファイアで暖を取ると言い放った色気も何もないそんな○○だが、本当に顔は赤かった。
こんなに赤いくせ、寒いという。
「大丈夫……なのか。すごく赤いけど」
顔だけではない。
耳も、首も、手も、肌が見えているところは真っ赤だ。
普段、肌が白い方なだけに際立つ。
「へっちゃられす!」
それはさすがに信じない。
顔を包むように手をあてがう。
○○から移って体温が上がったクラサメにすら、熱く感じた。
「熱いぞ。熱あるんじゃないのか」
酒のせいか風邪のせいか判断が付かない。
手を首元に移動させる。
「ん……だいじょぶ」
「それは信じない」
手の平で○○の体温を感じていたクラサメは、指先に金属が触れるのを感じた。
二重に下がっているチェーン。
一つはノーウィングタグだろうが、もう一つは。
「これ……」
「ん? クラサメにもらったやつー」
手繰りよせてトップを見る。
「着けて、くれてたのか」
確か二十歳のときに贈ったネックレスだった。約三年前。
「お気に入りだよー。デザインもだけど、おふろも大丈夫だから外さなくていいんだよねー」
毎回外すとその内面倒になって着けなくなる。
確かに、それを考えて贈った物ではあったが。
まだ着けていてくれたなんて。
「お前……、この前まで彼氏いたんじゃなかったのか」
○○はからりと笑った。
「友達にもらったモノだもんー」
トモダチ。
さすがに、今のは刺さった。
胸の内に黒い物が渦巻く。
「トモダチ、ね」
これだ。またこの距離。
知り合いでも、同期でもないトモダチ。
一番入りたくないそのエリアに、クラサメはいるらしい。
悪気なく、友達に貰ったネックレスだと彼氏に言うのだろう。
男からの貰いモン?
そうだけど、関係ある?
笑いながら答えるんだろうな。
他意がないその想いは、クラサメの気持ちを考えなければとても好意的だ。
イイヒトより、マシか。
そうは思われてないだろう。
善人である自覚なんて更々ない。
ただ、イイヤツと思われている可能性は否定出来なかった。
どうすれば、打破出来る。
そんな事を考えていたときに、またクラサメの指先に何かが触れた。
なめらかな肌にそぐわないもの。
シャツの肩口を開くとそこには小さな引っ掻き傷があった。
クラサメの視線を感じたのか、左右に揺らしていた頭を止めて指先で触れる。
「まだある〜? なかなか治んないなー」
続けて○○の口から出てきた男の名前に、心臓が変に跳ねた。
きつく瞼を閉じる。
上手く呼吸が出来ない。
「ぃッ! ヤバッひっかいた!」
その小さな声に、瞳を開けた。
目に飛び込んだのは。
「血、が」
「うそッシャツにつくっ!」
ティッシュ! と立ち上がった○○を腰に回した腕で引き止める。
それはほとんど反射に近かった。
「ちょックラサメ」
「舐めてやるよ」
「ふえッ? ぃ、いいって」
「動くな」
こんな距離、変わっていまえばいい。
掻き傷に唇を寄せ、血を吸い上げる。
「ク、ラサメ、ぃいってば」
「肩竦めんな」
シャツに付くぞ。
腰に回していた手を外し、頭を反らせる。
「ぃ、たッ、だからいいって! ティッシュ!」
「俺がいいって言ってるんだ」
髪邪魔。
かき上げてサイドに払うと、小さく○○が震えた。
「こっちにもある」
掻き傷から逸れて首筋にも吸い付く。
○○は短く息を漏らした。
ハ、なんだお前。
「も、ぅ、止まったでしょ」
「動くから全然止まらない」
シャツを引っ張り背中にも吸い付く。
「そんなトコに、ない、ょッ」
「あると言ったらある」
こっちにも。
ああ。こっちにも。
吸い付くたびに震える○○。
一番○○が跳ねたのは。
「ひ、ぁンッ」
首筋か。
「ク、ラサメ、も、ぃぃ」
「今日はなんの日だ」
「たん、じょぅ、び」
「そうだ。俺の言う事を聞く日だったな」
それを聞いた○○が首を捻ってこちらを見た。
「ゃ、めて、ください」
……ああ。奉仕か。
それは忘れてた。
ただ。
「トモダチが傷の手当してるだけだろ」
お前の言う事は聞かない。
「クラ、サメ、酔ってるの?」
「酔ってない」
飲んでねぇよ。一滴も。
「ゃ、めて、ゃだ」
「借り物のシャツなんだろ。血が付かないようにしてるだけだ。治療ぐらいおとなしくされろ」
トモダチの。
言ってうなじに吸い付く。
「んンッ」
閉じ込めた腕の中で火照った身体を震わす○○。
焦点の合ってない潤んだ瞳に赤く上気した頬。
薄く開かれた唇から漏れでる声と荒い呼吸。
エロい顔。
酒のせいとか風邪のせいとか、そんな事は考えない。
○○をこんな風にしたのは俺だと悦に浸る。
「も、ぃい、ゃ だ」
「酒のせいか? 全然止まらないな。……ああほら」
流れてる。
舌先で肌をなぞる。
「ひぁ……ンッ! ゃ、は、ァン!」
こんな声で鳴くんだな。
腕の中で跳ねる感触も、こらえ切れてない漏れでる声も、腿に立てられた爪も、クラサメの加虐心を煽るだけでしかない。
「もっと、鳴け」
うなじを舌先で舐め上げる。
「ゃッぁ……ンッ!ヤダッ!ヤダヤダッ!クラ、サメ!」
「煩い」
目に付いたケーキの苺を手に取り口に押し込み、ついでに果汁が流れた指もねじ込む。
無意識なのか、馬鹿なのか。
クラサメの指に舌が絡んできた。
くぐもった声を発する度に指にも振動が伝わり、それがクラサメの奥の何かを痺れさせる。
短く息を吐き出し肩口に吸い付いた。
シャツを引っ張り背中に移っていく。
「く、るし、く、び」
開襟のシャツだがボタン部分が喉元に上がってきていた。
「ああ……悪い」
だがシャツを持った手は緩めない。
「ボタン、外せ」
○○がびくりと跳ねた。
当然だが外さないだろうな。
口から指を引き抜き、手早くボタンを外す。
「ちょッ」
「発言を許した覚えは無いが?」
抗議の声をあげようとした○○の口に再び指を入れて黙らせる。
○○はぎゅうっとキツく目を閉じた。
好きだと言ってくれた手で口を塞ぎ、好きだと言ってくれた声でこんな酷な事を言う。
自分はどこで止まるんだろうか。
距離が変わればいいと思った。
男に付けられた傷を見て血が昇った。
思いっ切り、見切り発車だ。
終着地点は見えていない。
どこまで、自分は。
距離に変化はあるだろうが嫌われるだろうな。
そうは思うがもう自分では止まることは出来ない。
なるようになればいい。
そう思ったとき、予期せぬ衝撃が来た。
腕の中から逃げ仰せた○○は、クラサメに背を向けてシャツのボタンを止めた。
激しく上下する肩が荒い呼吸であることを示し、それは。
……泣いているんだろうか。
そのまま立ち去るかと思いきや。
「教育的指導ー!」
ビシィッと指を突き付けクラサメを振り返った。
「……は?」
「精神衛生上、よろしくありません!」
更にビシィと両手を差し出した先にはトンベリがいた。
……いつの間に帰ってきてたんだ。
「……居なかったら、良かったのか?」
「そうじゃないわよ! こンのスケコマシの朴念仁! 女ったらしの唐変木!」
さっきの色っぽい表情はどこへやら。
顔は赤いし目は据わっているが、表情はいつもの○○のものだった。
肩でしている息も、また別件。
「……見事な反語だな」
「揚げ足取るな! 女の敵め!」
再びクラサメを指差して大声で怒鳴り付ける。
「あんたが酒弱いのは知ってたけど! こんっなに酒癖が悪いとは思わなかったわ! 今日は! ……誕生日だし! 飲ませた私も悪いし! モルボルの臭い息に当てられたと思って忘れてあげるわよ!」
馬鹿だこいつ。本当に馬鹿だ。
忘れるなよ。許すなよ。
「……も、帰れ、お前」
零時はとっくに過ぎている。
「帰るわよ! 当たり前よ! あんたの誕生日はもう終わってるんだから!」
ああそうだよ。
ヘアピン外し終えた辺りで終わったんだよ。
俺言っただろ。聞けよ、話。
「帰るわよ! ええ帰りますとも!」
足音をよく吸収する絨毯にも関わらず、足音高く扉に向かう○○。
足取りはふらふらどころかしっかりしすぎている。
送る必要はなさそうだ。
苺が無くなったショートケーキを食べていると、テーブルの隅に追いやった物がクラサメの視界に入った。
「○○」
呼ぶと眉間に深いしわを刻みながらも振り返る。
……無視はしないんだな。
「明日も来るのか」
「ハァ? 来るわけ」
指差された先を見て言葉を詰まらせる。
指されていたのは、テーブルの隅に鎮座している時雨月だった。
正に進退極まれりを体言している。
取りに行きたいがクラサメを警戒しているのがモロ分かりだ。
とりあえず、警戒はするようになったか。
フォークを置いて背もたれに身体を預け、ついでに頭の後ろで手を組んで肩を竦め敵意はないと示す。
その様子を確認した○○はクラサメを警戒しつつもソファを回り込んでにじり寄り瓶を掴んだ。
持って帰れ。
と思ったんだが。
なんと一気にらっぱ飲み。
豪快に喉が動く。
さすがに呆気に取られているとドンと勇ましく空になった瓶をテーブルに置いた。
「ご馳走様でした! おめでとうございました! お邪魔しました! おやすみなさい!!」
言い捨て○○は出ていった。
さっきまで気にならなかった空調の音が耳に障る。
やってしまった。
クラサメは組んだ手を膝につき、何度も頭をぶつけていた。
俯いていた視界の端にランタンの光が入る。
見上げていたのは従順な従者。
「お前、あいつの事嫌ってるんじゃなかったのか」
他の人には触られたり抱え上げられたりとされるがままだが、何故か○○とカヅサにはそれを許していない。
連れて帰院してからしばらくモーションを掛けていた○○だが、いつまでも素っ気ない態度のトンベリに気落ちしていた。
カヅサには何かを感じてのことだろうと予測できるが、友好的な○○に対してのそれは理由がわからないでいる。
それなのに、助けてやったのか。
いつもならクラサメが就寝してからなのに、今日の戻りもまた早い。
見上げてくる瞳を見ても考えはわからない。
が。
「助けたのは、俺を、か」
自嘲気味に笑みを浮かべ天を仰ぐ。
少しだけ無茶を振って、慌てる○○を見られればそれでいいと思っていた。
それなのに。
なんでこんな事態に。
トンベリが帰ってなければ今頃。
出来事をフィードバックする。
乾杯して。
○○が酔い始めて。
寒いと言い出して。
あたためて。
引っ掻き傷が目に付いて。
イラっとした。
……一連の流れだろ。
何が悪い。
引っ掻き傷を見付けてしまった事か。
それは○○をあたためていたからで、何故あたためていたかというと体調を崩していたからで、何故体調を崩したかというと。
……俺のためにケーキ作ってたからなんだよな。
再び頭をもたげる。
そもそも酒を出した事がいけなかったのだろうか。
体調が悪いとわかっていたら飲ませたりはしなかった。
空になった瓶を睨む。
添えられていたカード。
そこに書いてあったのは、かつての仲間からのメッセージ。
“惚れた女を落とすときにでも使え”
実に男らしい簡潔この上ない文面が綺麗な丸い字で書かれていた。
そういう意図で出したつもりは無かったが恐らくミッションは失敗に終わった。
変わった距離がどのように変化したかはわからない。
気掛かりが一つあるが、少しは自分を刻めただろうか。
誰の言葉だったかな。
“その身に刻んで、逝け”
共に思い出されたのは薄い記憶の中でさえまばゆい金色。
○○が長期の遠征で発つ日がやってきた。
あの日から4日。
○○とは一度も会っていない。
どころか見掛けてもいなかった。
同じ院内にいようとも配属も違うわけなのでさほど珍しくもない。
ミッションのすれ違いや忙しさも手伝って3ヶ月近く会わなかった事だってある。
なんて。
たかだか4日会わなかっただけでこんなにも自分に言い聞かせている。
自分はこんなに僻みっぽかったか。
嘲笑が出た。
避けられているわけじゃなくて本当に忙しいんだろうな。
あんな事をしたにも関わらず、直後にクラサメを怒鳴り散らした○○だ。
おとなしく退場はしないだろう。
あれは、避けるよりぎりぎり見える範囲で遠くから睨み続けるタイプなのだから。
時計を確認して、クラサメは飛空艇発着所に向かった。
今なら少し会話するぐらいの時間は取れるだろう。
小さいのによく目に付く。
今日行動を共にしているのは戦闘職種ではなく研究員。
いつもより身長のアベレージは低い。
だからといって○○は相変わらず埋もれていた。
目立つ髪色でもない。
声さえも聞こえない程遠いのに。
視力はいい方だが。
それだけではないナニかが働いているとしか思えない。
クラサメに気付いた○○が手を振ってきた。
ごめんもうちょっと待って。
唇がそう動く。
了承の意を返し、腕を組んで冊に寄り掛かった。
相変わらず指示を飛ばしながら自分もよく動く。
任せておけばいいのに。
溜め息が出たのは呆れたからではない。
今までとなんら変化のない今の態度。
まさか気掛かりがビンゴじゃないだろうな。
「なんて顔してんだい」
気付くとすぐ近くにカヅサが来ていた。
……そういえば、いたな。
「おつかれさま。見送り?」
「ああ」
「甲斐甲斐しいねえ」
そう言いながら手摺りに肘を付くカヅサを睨みつけた。
「大体1ヶ月ぐらいかな。飛空艇であちこち。調査内容はプリンのサンプル採取。今更何を、ってカンジだよねえ。上が何考えてるかはわかんないけどさ。ま、そういう事だから」
危険は無いよ。
そう言って笑いながら首を傾けるカヅサに、クラサメは仏頂面と沈黙を返すしかなかった。
聞かずとも聞きたかった事は全て聞けた。
自分はそんなにわかりやすいのだろうか。
聡いヤツが集まったのか、集まった中で聡いヤツだけ残ったのか。
○○の筒抜けっぷりがうつったわけではないと願いたい。
「気に掛けてやれ」
その言葉にカヅサはクラサメを振り仰ぐ。
顎で指された先には○○。
「過保護だなあ、心配ないって。それよりボクの心配とかないわけ?」
「風邪ひいてるんだ」
まだ何か言おうとしていたカヅサの口は言葉を発する事なく閉じられた。
非戦闘員のボクより、風邪ひいてる○○ちゃんの心配ですか。
でもま、そういう事ならボクの出番?
「言っておくが。的確な薬を処方しろよ」
風邪の、と睨みながら強調されたそれはまるで信用されていない。
前科持ちだしねえ。
肩を竦めるカヅサは悪びれた様子が無かった。
「お疲れさま〜。お見送り? ありがとー。講義入ってなかったんだ?」
「ああ」
区切りが付いたのか、クラサメとカヅサの元に○○が駆け寄ってきた。
三人の間に無言が流れる。
「え、何。私邪魔? 何話してたのよ」
「気にするな」
二人を交互に見上げる○○に言葉をやる。
「あ、カヅサ、後ででいいんだけど機材の最終チェックお願い。運ぶのはいいんだけどさー」
数字ばっかであんま自信なくて。
あははと笑うが笑えない。
一番大事じゃないのかそこ。
じゃあ見てきますかー。
そう言って手摺りから身体を離し伸びをする。
「あ、いや、後でで、いいんだけど」
「なーに言ってんの。もう出立だよ」
○○をデコピン。
睨んでる人もいる事だしね。邪魔者は退散しますよ。
「それじゃあね、クラサメ君」
「ああ」
「1ヶ月ぐらいだってさー」
「ああ」
「プリンのサンプル採取だって」
「らしいな」
「いろんなトコ行くみたい。ユハンラとかインスマとか。楽しみ」
「お前さ」
頬杖を付いて、隣で冊に腕を乗せている○○を見る。
「覚えてないのか」
この間の事。
「ごめん!」
クラサメの言葉尻に重なるようにパンと手を合わせ謝った。
「やっぱ風邪ひいちゃってて。お酒変な方に入ったみたい。……あ! でもでも!」
時雨月は美味しかったよ?
腕にすがって見上げてくる。
この場合のごめんは覚えてない事に対する謝罪のわけで。
確かにこの距離は、覚えてたらナイだろうな。
クラサメは深い溜め息をついた。
「……私なんかした?」
「別に」
一番懸念していた事態に陥った。
記憶飛ばし。
「なんか、ごめん?」
「別に。」
縋られている腕を振り払うように身体の向きを変えた。
「まだ風邪治ってないんだろ」
脱力しつつ、自ら話題を変える。
「プリンの種類を求めるなら西ネシェルも行くはずだ」
西ネシェル地区は年中雪原地帯。
「悪化させないように気をつけろ。腹出して寝るなよ。薬は持ったのか。カヅサからの薬は貰うな。……なんだ」
○○は笑っていた。
「なんかクラサメ、お母さんみたい」
言うに事欠いて母親。
男ですらない。
……殴りたい。
俺はこれのどこがいいんだろう。
「母親の言う事は聞いとけ……」
投げやりになってしまうのを止められなかった。
はーいと○○が返事をした所に飛空艇のエンジン音が重なった。
タラップ付近にいた人間が、呼ぶジェスチャーをしている。
○○はそれに大きく手を振り返事をした。
「それじゃあいってきます!」
すぐ近くにいるのに口に手を当て叫ばなければ届かない轟音。
飛空艇に向かうため踵を返した。
「○○」
呼ぶがこの轟音では気付かない。
気付かず歩き出したその腕を掴んで引き寄せ、ミッション前にお互いに掛け合っているいつもの言葉を掛ける。
手を離すと最後に笑顔を残し○○は駆けていった。
見上げる者の髪やマントをはためかせ上昇していく飛空艇。
徐々に遠ざかっていく駆動音と共にその姿も小さくなり、やがて陰に消えた。
職員は通常業務に戻り、見送りに来ていた者も三々五々に動き出す。
そんな中クラサメは飛空艇が消えた方に視線を向けながらフェンスに寄り掛かっていた。
○○に触れられた腕に触れる。
いつもと変わらない表情。声のトーン。
踏み込んできた距離も、前となんら変わり無い。
でもあのリアクションは。
確かに、聴覚がきかない中、思いもよらず引き止められ驚いたのだろうが。
それだけ、か?
耳元に口を寄せたとき、一瞬身体を強張らせたのは。
既視感を拭えない。
だってあれは。
口元に手を当てる。
本当は覚えていて、忘れたフリをしているだけではないだろうか。
そう思うが飛空艇に駆けていった○○は笑顔だった。
ただの事象か。
どっちだ。
決定打に欠ける。
眩しい太陽に目を細め、クラサメは院内へ戻るため踵を返した。
角度を変えてみるか。
判断材料が足りないなら自ら作り出すまでだ。
奇しくも、マスク越しに囁いた言葉はクリスタルの加護あれ。
これも一種の加護なのだろうか。
end