unlucky today

 








 






 今日は起き抜けからツイていなかった。


 水を飲もうと冷蔵庫を開けるが見当たらなく、水差しは昨日から出しっぱなしだったことに気づく。

 冷えた飲み物はアルコールしかないがこれから出勤だというのにそれを開けるわけにはいかず、仕方なく温い水道水で喉を潤してシャワーを浴び、髭を剃ろうとして今度は替え刃を切らしていたことを思い出す。

 顎を撫でながら鏡の中の自分の髭を見てみるが、ものぐさが勝り、妥協することにした。

 見咎めるお上に対面する予定もない。


 身支度を整え外に出ると茹だるような暑さだ。


 通勤路は工事中で迂回するはめになり、自転車には引かれそうになり、信号にはやたら引っ掛かり、入った軽食屋は混雑。


 トーストとコーヒーで何故か番号札を渡されてしまった。

 多少待たされるのは構わない。

 だが、禁煙席が満席で、通されたのは喫煙席だった。

 こちらも混雑していて、唯一席は空いているが相席になる。

 いっそ立って待っていようと考えていたところに、フロアーの様子を見に来たスタッフがその唯一空いている席の客に声を掛けてしまった。

 打診を受けたその客がちらりとこちらを見る。若い女性だ。

 居心地が悪い。


 どうやら交渉成立してしまったようで、スタッフは満面の笑みでこちらを振り返った。

 無下にもできず重い足取りで向かい、失礼、と一声掛け、窓に対面するブラウンのワシリーチェアに座る。


 見知らぬ若い女性と二人掛け。


 パーソナルエリアに思いきり入っているわけでなんとも気まずい。

 脚を外側に組み肘掛けから上半身を乗り出すような体勢で座る。


 ツイてない。


 全くもってツイてない。


 指先に番号札を引っ掛けて本日幾度目かの溜め息をついたタイタス・ドラットーだったが、


「ああよかった。まだツイてるわね」


隣の女はそう言った。
















 意識は引かれた。

 しかし、初対面の異性にいきなり話し掛けるとは考えにくい。もしかしたら電話でもしているのかと過剰反応せずにいたが、その後に続く会話はなかった。

 店内を映す窓に瞳だけを向けると頬杖をついてこちらを見ているようで、首を捻ると目が合った。


 ということは先程の言葉は自分に対して向けられた言葉ということになる。


「……何がだろうか」

「スモーキングルームに通されてイライラしてたの。隣に来たのがあなたで良かったわ」


 やはり言っている意味が分からずドラットーは首を傾げる。


「素敵な香りね」


 来たばかりのこの短時間で嗅ぎ分けられるほどつけてしまったのだろうか。

 自分の匂いを嗅いでみた。

 疎いせいか鼻が馴れて馬鹿になってしまったのかわからないが、少し控えよう。


「奥様からの贈り物かしら」

「いや、家庭はない。まあ貰い物ではあるが」


 小首を傾げる彼女に首を振ると、唇を弧の字に吊り楽しそうに瞳を細めた。


「じゃあ……女性だ。教えてあげる、その人あなたに気があるわよ」

「待ってくれ、職場の人間なんだ。……接しづらくなる」

「お仕事は何を?」

「重鎮の身辺警護やモンスターの討伐などだな。将軍を勤めている」

「まあ……将軍様。すごい」


 くすくすと微笑み、カランと涼しげな音を立ててストローに口をつける。


「おモテになるのね。つけてるってことは、あなたも満更でもない? 名前を見たときに気づかなかったの?」


 確かにビンにも何かが刻まれていた。

 恐らくそれが名前なのだろうが、くるんくるんと飾り立てられた筆記体で読む気にはならなかった。


「香水で重要なのは香りだろう。甘ったるいわけでもなく折角の貰い物だからつけているだけだ。……名前など大した意味は」
「粗野な言い方……。あるわよ? その香水の名前は“women's man”。……意味はお分かり?」


『women's man』

 私の男。


 彼女が言わんといていることを理解したドラットーは大きく息を吐き出して口元を拭った。


「勘弁してくれ……。次にどういう顔をして会えばいいんだ」

「ごめんなさい。そうね、単にその香水が好きであなたに贈りたかっただけかも」


 ここまで意識させられてはその程度のフォローでは拭えない。

 そしてそれはフォローというよりその反応すらを面白がっているように思えた。


「対になる“man's women”も男性が女性に贈るものとしてはポピュラーね」


 私の男の対。俺の女、か?


 そう考えるとチープさが感じられ、多少心が落ち着きを取り戻した。


 そう。私はこの香りが好きなだけであり、決して他意はない。


「混ざるととってもセクシーな香りになるのよ?」


 わたしも今つけてる。


 と、彼女は片腕で上体を支え、手首から二の腕までをドラットーの首に撫で付けた。


 柔らかな感触に思わず息を飲み身体が強張る。


「ね……感じる?」


 手首を口元に寄せ、すうと胸を膨らませて首を傾げる。

 動揺してしまって香りどころではない。


 なんと言えばいいか困惑していたところにトレーを持ったスタッフが声を掛けてきた。


「大変お待たせいたしました! ご注文の商品です!」


 番号札と引き換えにトレーをテーブルに置き、ごゆっくり、と去っていこうとするスタッフだが、トレー上を見たドラットーはその背を引き留めた。


「頼んでいたものと違うようだが……私がオーダーしたのはコーヒーとトーストだ。コーヒーフロートではない」


 眉間にしわを寄せるドラットーにそのスタッフは笑顔で答える。


「サービスです!」


 サービスというのなら料金を下げてくれ。私はコーヒーが飲みたかったわけでアイスを乗っけてほしいなんぞ一言も言った覚えはない。いらんことはせんでいい。履き違えるな。それはサービスとは言わん。


 という忠言を丸々飲み込んで、


「うむ」


とだけ言いスタッフを見送った。


「ツイてないわね」


 くすくすと笑う彼女には飲み込んだことが伝わっていたようで、肩を竦めてみせる。


 先程の会話の流れを切ってくれただけで彼は賃金分の働きをした。花丸をやろう。

 さっそくトーストをかじる。


「ね、一口ちょうだい」


 コーヒーを指しているが、彼女の手元にもアイスコーヒーがあるので、アイスクリームのことを言っているのだろう。


「うむ」


 コースターごと差し出すが彼女は動かない。

 ドラットーが視線を向けると口を開けた。


「た、食べさせろ……と?」

「いいじゃない。あーん」


 綺麗に口紅が引かれた唇に視線が引き寄せられドラットーは頭を振った。

 逸らした先で通行人と視線が合い、口を引き結んでスプーンを手に取る。


「このくらいか?」


 満足げに頷いた彼女は、ドラットーの太ももに手をついて身を乗り出し細いスプーンの先にパクついた。


 思い過ごしかひどくゆっくり唇を引き、付いたアイスクリームを薬指で拭うと口を開いた。


「ん。おいし。あなたも食べたら?」

「う、うむ。そうだな」


 と言われてスプーンを見ると唇の筋が生々しく残っている。

 まさかそれを舐めるわけにもいかず、かといってあからさまにナフキンで拭うのも失礼だ。


 ドラットーは無言でコーヒーに突っ込むとアイスクリームを溶かす勢いでかき混ぜた。

 隣からはくすくすと随分楽しそうな気配。

 からかわれている。


「ね。わたしたち恋人同士に見えるかな」


 行き交う人の流れを視線で追いながら、彼女は汗のかいたグラスを傾け喉を潤した。


「まさか。よしんば親(ちかし)い関係に見えたところで親子だろう」

「そう? わたし幾つに見える?」

「……二十歳前後か?」

「ブー。四十」

「そうか。それなら夫婦に見えても」


 ……。


「嘘をつくな」

「バレた」


 やはり、完全にからかわれているな……。

 ドラットーは零れそうになる溜め息を咳払いにし、話題を変えた。


「それよりだ。先程から携帯電話が鳴っているが……取らなくていいのか?」


 君のだろう、とテーブルで蠢く電話を指し示すと、彼女はくるりと瞳を回して伏せていたディスプレイを確認し、繋ぐことなく再び伏せた。


「ストーカーされてるの。しつこくて」

「けしからん輩だな」


 ドラットーの視線の先でぷつ、と切れても携帯電話はまた鳴り出す。

 これが急用ではないというのであればかなりの粘着質な嫌がらせだ。


 憂いを含んだため息をついた彼女だが、ピンと顔を上げる。


「そうだ将軍様、低い声で脅してやってよ。善良な市民の警護はお仕事に入らない?」

「よかろう。そういうことならば協力しよう」


 再び鳴ってきた携帯電話を手渡され、しかしディスプレイを確認したドラットーは眉を潜めた。


 手の中にある携帯電話を見つめながら通話ボタンを押さず瞳を細めるドラットーに彼女は小首を傾げる。

 やがて深い溜め息をつくとドラットーは隣をじろりと睨んだ。


「人をおちょくるのもいい加減にしなさい。さすがに……不愉快だ」

「……なに?」


 眼前に突きつけたそのディスプレイには“Lovers”と表示されていた。

 即ち、恋人。


 出ないのには彼女なりの訳があるのだろうがここでドラットーが出るのは筋違いだ。

 からかっている以外の何物でもないが、しかし彼女は唇を尖らせて抗議した。


「勝手に登録されたの。恋人なんかじゃない、本当よ? 変え方わかんないんだもん」


 疑われたことに少々むくれてパシリと携帯電話を奪い、ボタンを押して耳に当てる。


「ホントしつこい。これから仕事なの。もう掛けてこないで」


 語尾を強めて切るが、彼女が視線を落とす手の中で再び鳴り出す。


「……ね?」


 うんざりと、しかしどこか諦めたようなため息をつく彼女に、ドラットーは眉間に深いしわを刻んだ。


「貸しなさい」


 そう言って貰い受けたタイミングで鳴りやんでしまった。

 しかしどうせすぐに鳴るのだろう。


 射殺さんばかりに携帯電話を睨み付けているとターゲットであるLoversが姿を現した。

 先手必勝。

 咳払いをして低めの声を意識し電話に出る。


「しつこく付き纏っているようだが金輪際やめろ。彼女が迷惑している。忠告したぞ」

『……あ? 誰だテメェ』

「私か? 私は」

「恋人」


 聞き耳を立てていた彼女が囁く。

 他に上手いことも思い付かず、促されるままに口をついてしまった。


「こ、恋人だ」

『ハァ!? ふざけんな──ははぁ。言わされてるな? いないのは知って』


 そこで携帯電話を奪われ、アリガト、と彼女の唇が動く。


「そういうわけだからもう……嘘じゃない本当。怖〜い将軍様なんだから。あんた殺されるよ? だからもう掛けてこないで」


 さよならニックス。


 コーヒーを飲んでいたドラットーはむせた。


 ニックス……ニックスだと?


「……大丈夫?」


 携帯電話の裏蓋を外し、バッテリーを抜いた彼女が首を傾げる。


「今……、いや、なんでもない。気にしないでくれ」


 同名は珍しくない。聞いた声も違う。

 自分の知っているニックスは、あのようなチンピラ紛いの言葉を吐いたり嫌がる人に付き纏うようなそんなことをするような奴ではない。


 他人だ。


「それより……何故バッテリーを外す。いいのか?」


 先程からしきりに窓の外を気にしている。

 仕事と言っていたし人と待ち合わせをしているのだろう。

 不都合ではないのだろうか。


「これ? 電源切っただけ」


 事も無げにそう言うが、ならば。


「電源ボタンを押せばよかろう。切るのであればそれで事は足りる」

「あら……そうなの」


 瞳をきょとんとさせて両手に別れたパーツに視線を落とす。


 今時珍しい。

 そういえば型も少し古いタイプだ。

 見るたびに違う携帯電話を持っている方が違和感がないくらいのものだが。


「勝手に登録されたと言っていたが……鍵を掛けるといい」

「鍵なんて持ってない」


 今度はドラットーが瞳を丸くさせる番だった。


「……ああ、わたしなんか変なコト言ってるのね? 疎いのよ。ごめんなさい」


 バツが悪そうに呟く彼女にドラットーは小さく微笑む。


「いや……失敬。鍵といっても実物ではなくパスコードのことだ。暗証番号を設定すれば操作する際に入力が必要となり、知らない者は弄れなくなる」

「そんなことできるんだ。こんな小さいのに……便利ね」


 どこまでも本気の様子が微笑ましい。

 自分をからかっていた先ほどまでの様子が嘘のようだ。


「よければ教えるが……今電源を入れるとまたストーカーが掛けてきそうだな」

「そうね……今はやめとく、やっと来たし」


 外に向かって小さく手を振り、それを入れたら他には何も入らなさそうなポーチに携帯電話を仕舞い込んだ彼女はドラットーを見上げてくすりと笑った。


「お髭がお化粧してる」

「む」


 いつもより伸び気味の髭にアイスがついてしまっているようだ。

 拳で拭い、取れたかと窺ってみるが彼女は首を振った。


「拭いてあげる。目、閉じて」


 紙ナフキンを近づけてくる彼女に言われるまま瞳を閉じるが、紙ナフキンではありえない感触を受けドラットーは瞳を開けた。

 間近に、彼女の瞳があった。


「な、何を」
「実直な将軍様。今度逢ったら鍵の掛け方、教えてくださる?」


 それまで鍵は開けておくから。


「な」

「ご馳走さま」


 微笑んだ彼女は綺麗なリップ音を立てて頬にキスをし、身軽にイスから降りて店を出ていった。

 その姿を、ドラットーは身体を捻ったまま硬直し見送ることしか出来なかった。





 アウトレンジの多段攻撃を受けたかのようだ。

 自分の身に降り掛かったことに頭の処理が追い付かない。


 ご馳走さま?

 ご馳走さまというのなら……こちらこそ……ではないのか?


 コンコン。


 窓をノックされ視線を向けると彼女が手を振っていた。

 こちらに投げキッスをし、腕を絡ませた男にもキスをする。


 その男は、逆の腕にも女性の腰を抱いていた。


 ああ。娼婦なのだな。


 そう考えると合点がいく。


 男性の目を引く仕草。視線の運び方。


 うむ。うむ。


 ドラットーは数回頷いた。


 伝票を置いていくところもちゃっかりしている。

 ご馳走さまとはこれのことを指していたのだ。


 決して……いや、その先は考えまい。


 しかも名刺を添えてある。


 “今度逢ったら”と言うのは“店に来て”ということなのであろう。


 置いていくのも忍びなく一応は財布に仕舞うが、全て忘れよう。


 今日はツイていない日なのだから。


 ドラットーも退店すべく、コーヒーを飲み干して立ち上がる。


 鼻孔をくすぐるいつもと違う香水と耳に残るニックスという名前が、ドラットーの溜め息を誘発させた。






















 まずい。思ったより遅くなった。

 腕時計で時間を確認したニックスは、肩に鉤爪付きの麻縄を引っ提げ逆の手には工具箱を持ち、廊下を早足で駆けていた。

 今日の訓練プログラムは全て終え後片付けの最中だ。


 前方にリベルトとルーチェの背中が見えたところで足音に気付いたリベルトが振り返り声を掛けてきた。


「お疲れさん。随分急いでんな。今日もケージュか?」

「大遅刻だ。メールはしたけどな」


 肩を竦めて歩みを緩めるニックスに、折り畳み式の長い脚立を柱にぶつけないよう気を配りながらルーチェも身体を捻る。


「ケージュ? 初耳だな。新しい女か」


 初めて聞く名前を揶揄するように口の端を上げるとニックスも片眉を跳ね上げた。


「おいおい人聞き悪いな。最近知り合った友達だよ」

「グラマーな?」

「男だ。俺のファン」

「さすが、雑誌に載るようなヒーローは違うぜ」


 ニックスの脇腹を肘で小突いたリベルトはルーチェを振り返る。


「そういやルーチェも反応あったんだろ? ファンレター貰ったって聞いたぜ?」

「へぇ。そうなのか」


 にやにやと面白がっている二人にルーチェは渋い相好を浮かべた。


「ああ……まぁ……。頑張ってください、だってさ」

「嘘つくなよ。カッコいいです、とか書いてあったんだろ」


 む、と押し黙るそれが肯定を示している。

 リベルトの鎌掛けに簡単に引っ掛かるルーチェは生真面目だ。誤魔化せていない。


「返事はなんてしたんだ? 今お前、フリーだろ」

「写真とか入ってなかったのかよ?」

「まさか。住所はおろか、名前も書いてなかったんだ。しようがないだろ」

「と、いうことは、書いてあったら返事くれるわけだ。ルーチェさんは」

「……礼儀として当然だろう」

「マメだねぇ」


 どうやらこのメンツでは2対1の少数派らしい。


「すんごい美女かもしれねぇぜ? 広報に頼んで特定してもらったらどうよ」

「いいんだよ。書き忘れたわけじゃないなら匿名希望ってことだ。知られたくないんだろ」


 軽口を叩きあっていた三人だが、前から歩いてきた上官に姿勢を正し礼をする。


「将軍。お疲れ様です」

「ああ。ご苦労」


 挨拶を交わしそのまま歩んでいた両者だが数拍の後にドラットーが振り返った。


「あー……ニックス」

「はい?」


 名を呼ばれたニックスはもちろん、リベルトとルーチェも半身振り返る。

 しかし呼びつけた本人は何やら口ごもったままなかなか話を切り出さずにいた。


「先行ってるぞ」

「ああ」


 込み入った話でもあるのかと気を利かせたルーチェがリベルトを促し足を動かすと、廊下にはニックスとドラットー二人だけとなった。


 急いではいるのだが相手は上官だ、急かすわけにはいかない。

 肩の麻縄を担ぎ直ししばらく様子を見ていたニックスだったが、まんじりともしないその様子にさすがに痺れを切らし小さく声を掛けた。


「ちょっと……お前に聞きたいことがあってだな……」


 はあ……、とドラットーに釣られてニックスの歯切れまで悪くなる。

 どう切り出したものかと考えあぐねていたドラットーは重い溜め息をついて顔を上げた。


「……どうだ、最近……」


 続くかと思った言葉はそこで終わった。


「……随分……ざっくりした質問ですね……。どうしたんです、らしくない」


 眉を潜めて上官の顔を窺う。

 自分でも返答に困ることを問い掛けているのだと理解しているドラットーだがうまい言い回しが思い付かないようだ。


「……そうだな。すまん……。では単刀直入に聞こう。今現在、気になっている女性はいるのか」

「…………は?」


 しぱしぱとまばたきをして口を開ける。

 将軍が……恋バナを振っている? ……俺に?

 顎を引いて上官を見遣る。


「……本当にどうしたんですか。いい人でも紹介してくれるんですか?」

「茶化すな。どうなんだと聞いている」


 茶化してるわけではなくこの妙な雰囲気を和まそうとしただけだったのだが、あくまでドラットーは真剣そのものだ。

 その様子にいらない考えまでが頭を巡る。


「……まさか見合いしろとか言うんじゃないでしょうね」

「ニックス」


 嗜めるドラットーの眼光は鋭い。

 そこはいつもと変わらないのだがいかんせん話題が突飛すぎる。


 外を見遣ってぽりぽりと頬をかいたニックスは小さく嘆息した。


「……まぁ……気になる奴はいます……ね」

「そ、そうなのか」

「……いちゃマズいすか」


 気色ばんで一歩踏み出したドラットーから視線を逸らしてぶっきらぼうに呟く。

 本当にいつもと様子が違う。


 聞いてこそこないが、その気になっている奴というのがどんな奴なのか気になっているのは明白だ。


 思いっきりプライベートなんだけどな……。


 ドラットーが苦手というわけではないのだが剣の師匠である上官と部下という立場上、公私はあまり混同したくはない。


 のだが……。


「……クロウの紹介で知り合った奴です。外見で言うなら小柄でブルネット。中身で言うなら……あぁ、ルーチェがリトルベヒーモスって例えてますね、将軍も話せば納得しますよ。不器用で歯に衣着せない物言いをする奴ですが、だからその言葉は飾りがない。大事にしてやりたいと……思ってます」


 名前を○○と言います。


 リベルトたちと話すときには気恥ずかしくて口にしないが、恥ずかしいことではないし、本心だ。

 頑なに他人との距離を開けようとするから実のところ○○の事は深く知らない。

 何故あれほどまでに好意までを拒絶するのかわからないが、その様子があまりにも脆そうに見えてほっとけない。


 それが兄気質からくるせいかと一時期は悩んだが、だとすると年下の女性は全員アウトということになる。

 それはない。別物だ。


 セレナはセレナ。○○は○○。


 第一、全く似てないし。


「そうか……。ブルネットのベヒーモス……。うむ。そうか……」


 大分略されているが、そう呟きながらドラットーはしきりに頷いた。


「他に何かあります?」

「ブロンドのシヴァに心当たりはないか?」


 再び瞳をしばたかせる。


「えぇと……女性の……喩えですよね?」

「当然だ」


 当然なのか。


「……ないですね。そんな美人、知っているなら忘れるわけない」

「そうか……。うむ、結構だ」

「……もう行っても?」


 何に悩んでいたのか知らないが、どうやら納得してくれたらしいドラットーに工具箱を持ち直しながらニックスは半身翻す。

 約束があるのだ。


 しかし機微が鈍くなっているドラットーは急ぐニックスの様子に気付けず引き留めた。


「ああ、最後に。“ふざけんな誰だテメェ”と言ってみてくれ」


 さすがにこの発言には絶句した。


 鼻で笑ったり頓狂な声を出さなかったのは、まだ“相手は上官”という理性が残っていたからだろう。


「…………将軍に?」

「馬鹿を言うな。そこの柱にでも言え」


 わけがわからない。

 王の剣を執り纏める我らが将軍は一体どうしてしまったというのだろうか。


「言えば、いいんですか……」

「うむ。低めの声で言ってくれ」


 なんだか涙が出そうだ。

 リベルトが聞いたら爆笑するだろうか。

 ルーチェがいたら医者でも紹介するだろうか。


 どうしてこの場に俺しかいない。


「……じゃあ、言いますよ。ふざけんな。誰だテメェ。」

「駄目だ。もっと感情を込めて言ってくれないと参考にならん」


 まさかのダメ出しをもらった。

 麻縄を担ぎ工具箱を持ち柱に向かってそう呟く自分の姿は客観的に見てどう映るのだろう。


 柱に将軍の顔をトレースさせて感情を込めて言わせていただく。


「ふざけんな誰だテメェ」


 言い放った後もしばらく声は掛けられず、瞳を動かして窺い見るとドラットーは斜め上を見ながら顎を撫でていた。


「うむ。信じてはいたが……やはり違うな。もう言っていいぞ」


 返答に困り曖昧に頷くニックスに対し、満足げに大きく頷いたドラットーは踵を返して歩き出した。

 この様子のおかしい上官はなんだ。なんなんだ。


 訝しがりながらも人を待たせているニックスは後ろ歩きで歩みを進め始めた。


「……将軍! 今度紹介してくださいよ、ブロンドのシヴァ」

「馬鹿者。せんわ」


 口に手を当てその背に呼び掛けると、手を振りながらニヒルに口角を上げ言葉を返すその感じはいつも通り。

 今起きた事件とも呼べる一連の出来事は……一過性であると信じよう。


 首を捻り、ニックスも踵を返した。
















 信じてはいたのだが、心の底でもしかしたら……という考えが拭えなかった。


 偶然相席になった彼女の電話口にいた男。

 名前をニックスといい、彼女につきまとい、彼女の電話に出たドラットーをテメェ呼ばわりした男だ。


 問いただそうか今日一日迷っていたものの、時間経過で薄れる問題ではなく、ニックスとはほぼ毎日といっていいほど顔を合わせる。

 ずっとしこりを抱えているわけにもいかない。


 どう切り出すべきか悩んだが、望む答え……いやそれ以上を貰えてドラットーは足取り軽く廊下を渡っていた。


 ニックスには彼女とは別人の気になる女性がいて、誠実に向き合っているようだ。


「リトルベヒーモス……会ってみたいものだな」


 ふ、と笑んだドラットーはおもむろにサイフから名刺を取り出した。そういえば彼女が置いていった名刺を入れたはずだ。

 ニックスの想い人は……確か○○と言っていたか。


「うむ。決定打だな」


 しこりは全て溶け消え、今度こそ晴れ晴れとした心持ちでドラットーは歩き出した。


 名刺には別人であるジールという名前が書かれていた。






















「──そうだな……あと40分……。ああ、まだ出てないんだ」


 携帯電話で待ち人に連絡を取りながら倉庫の扉を開けるとまだルーチェがいた。

 他の仲間と麻袋の補繕をしている。


「……いやいや、急ぐよ、悪いな。それじゃあ」


 お疲れさん、と掛けられる声にニックスも手を上げて応えながら、積まれた木箱を迂回し所定の位置に麻縄を引っ掻ける。


 申し訳ない思いであと40分ほど遅れると伝えたが、シャワー浴びてきていいですよ、気を付けて来てくださいね、ときたもんだ。


 なんて出来た奴だ。

 感動しつつ携帯電話を尻ポケットにねじ込み、呆れたようにルーチェを見遣る。


「外でやればいいじゃないか。ここ埃っぽいだろ」

「もう終わるさ」


 掃除は仲間内で当番制だが差し込む光が筋で見える程度に埃は溜まっている。

 薄暗いここは針作業には向いてないと思うのだが、小さい穴が目についただけだったのか歯で糸を切りながら麻袋を畳み始めた。


「将軍、なんだって?」


 何気なく言われたその言葉は重みを伴っていたかのようにニックスの首を縮めた。


 ブロンドのシヴァ。ふざけんな誰だテメェ。


 酒の席でもない。明け透けに話すには笑えない話題だ。


「大した話じゃない」


 あれが続くようであれば皆に相談しよう。

 将軍の名誉を守り、ニックスは口を閉ざした。


 番号順に並ぶ工具箱を割り当てられた場所に置いて踵を返す。


「お先。お疲れさん」

「お疲れ。彼女によろしく」

「違うって言ってるだろ……なんで信じないかね」

「なんだニックス。デートかよ? おれにも紹介しろぃ」


 こうやって噂が独り歩きするんだろうな。

 恋人がいるなら強く否定せねばならないが、残念ながら今は必要もない。


 恋人もいなく、想い人の○○は。


 恋人だったとしても気にしてくれなさそうだな……。


 険しい道だ、とため息をこぼしながらニックスは倉庫を出た。
















end
後書き