誰しもが口を揃えて、神様なんている訳がないと口にする。もしかしたら、だなんて考えてみた事はあるけれど、結局神様だなんて存在しないのだろう。だって、何だってできる神様は今だって誰かの危機を救ってくれないのだから。
無機質な床に接する背に、ひんやりと悪寒を覚える。顔の横に置かれた両腕に、押し倒されたのだと理解するのにそう時間はかからなかった。背けたくなる現実に思わず目を閉じたくなるが、目を逸らしてはいけない気がした。
「倉間くん」
じっと真っ黒の瞳に見つめられてやっと出た言葉は目の前の彼の名前だけだった。名前を呼ばれた彼は、ほんの少し口角をあげて機嫌よく口を開く。
「奏先輩。なに?」
優しい口調。まるで小さな子どもに話しかけるような。けれど、何故か胸の奥がざわついた。
倉間くん。倉間典人くん。あの有名なサッカー部に所属している2年生の男の子。学年も部活も違うけれど、倉間くんと同じクラスに通う弟からの繋がりですれ違えば最低限挨拶は交わす仲ではある。
そんな彼は、年相応に負けず嫌いで、たまに悪戯っぽく笑う。悪い印象は決してなかった。寧ろ、奏先輩と呼んで素直に笑う彼には好印象を覚えていた。
それがどうした事か。ある日、ある時間、突然普段滅多に使用される事のない空き教室に呼び出されたと思えば静止の言葉をかける間もなく冷たい床に押し倒されたのだ。気を使われること無く床と衝突した背中がじんじんと痛む。けれど、彼はそんな私の気も知らずか、何故か楽しそうに笑ったのだ。
「先輩、俺さあ」
片手で私の髪を弄りながら話し始める。その手つきはまるで恋人のようだった。
「奏先輩の事が好きなんだよ」
その言葉に、咄嗟に返す事は出来なかった。
すき。好き。目の前で熱っぽい瞳で見つめる倉間くんに納得する。成程、好き。好きだから今、2人きりになって押し倒して、そして好きだと伝えた訳だ。それにしては些か強引すぎやしないか。別にロマンチックなシチュエーションに憧れているとは言わない。けれど私だって女の子だ。少しは良い雰囲気で、と思う。
倉間くんは指に絡ませた髪を解いて頬を撫でる。するりと頬をなぞられ、少し擽ったい。
「先輩の、優しいところが好き。声が好き。この髪が好き。全部、ぜんぶ好きなんだよ」
ぞくり、と背筋が凍りつくようだった。思わず息を飲んだ。
倉間くんは笑う。それは、何時も見た顔と何が違うのだろう。どう言葉にすればいいのか判らない。けれど、私の全部が好きだと言う倉間くんに恐怖を覚えてしまった。
「…あ、の」
「奏先輩、全然気付いてくれないんだもんなあ。接点がない分、それなりにアピールしてるつもりだったんだけど」
言われてみれば、確かによく慕ってくれていたあの姿が、好きだからというのは納得はできる。
「気付いてくれないからこうしちゃったけど、先輩は判ってくれるよな?」
疑問符で投げかけられているのに、何故か肯定させられるように感じた。私は思わず小さく頷いた。
「やっぱり!奏先輩は優しいな」
「く、倉間くん。好きって言ってもらえて嬉しいんだけど、私は…その、」
兎に角この場を穏便に終わらせたい。口を開けば途端に倉間くんは表情をこわばらせる。しまった、墓穴を掘ってしまったか。
「なに?」
「わ、私は倉間くんの事、良い後輩としか思ってないから…ごめんなさい」
「それならさ」
食い気味に倉間くんは話す。
「奏先輩はどんな男が好き?あんたの好みじゃないなら、俺は好みの通りの男になるから」
どうしたってこの場は切り抜けられないのか。どう答えたものか。
見つめられる瞳から目を逸らせないままでいると、タイミング良く予鈴がなった。舌打ちが聞こえ、反射的に肩がびくりと震えた。
「あーあ、タイミング悪。…奏先輩、手」
「えっ?」
「そのまま寝っ転がるつもりですか?ほら、起きましょ」
今まで見てきた後輩の姿に一変して、思わず安堵の息を洩らしそうになる。倉間くんに手を差し伸べられ、その手に自分の手を重ねた。握られた掌はほんの少しだけ温かい。
手を引かれ、起き上がる。ずっと床に背を付けていたせいで背中が痛い。
「次の授業、移動ですか?」
「ううん」
「そうですか。じゃあ急がなくても大丈夫ですね」
倉間くんは教室の扉を開け、こちらに振り向いた。
「それじゃあ、また。今度好みのタイプ教えてくださいね」
その話は忘れた訳ではないらしい。ちゃっかりそう告げて倉間くんは早々とこの場を去った。
「倉間、くん」
男の子に好きだと言われたのは初めてだった。あんな風に押し倒されたのだって、初めて。私の事が好きだと言う倉間くんは今まで知っていた姿とは全く違った。いや、逆に今まで何も気付いていなかっただけなのか。慕われていた事に、悪い気なんてしない。けれど、私はどうしたらいいのか。
「…授業、行かなきゃ」
あの時予鈴が鳴らなかったら私は何と答えたのだろう。もう過ぎ去ってしまった事だけど。
私は服の埃を払い、足早に教室から出て行った。