目蓋の裏には闇がある

 レティの少し前までの名前はレティシアーナ・アレクサンドリア・ドゥ・パルテビア。ファミリーネームからある程度推測されるであろうが、レティの肩書きはパルテビア帝国が第二皇女であった。だがそれも先日までの話だ。
 きっかけは沢山あった。けれど姉のセレンのように"パルテビアの毒グモ姫"と他国まで名の知れた武人であった訳でもないし、戦うことなど大の苦手のレティは軍国主義の帝国内ではかなり浮いた存在だった。あの姉が敗走した相手だ、レティなどに歯が立つ訳がない。レティは早々に諦めて自分の運命を受け入れた。

 嫁ぎ先は天華の三国で争いをし、勝利した煌帝国だ。煌帝国は三国統一を果たした後も周囲と戦争して領土を広げて行っている。いつしかこちらの西方までその大きな力を奮い、脅かすことになるだろう。彼の国がレームについたらパルテビアは終わる。だからこその婚姻なのだろう。しかし所詮よそ者の私に設けられたのは現皇帝の実弟の息子(第二子)というとてつもなく辺境で王位継承権などほど遠い者の側室だった。
 パルテビアを背負って行くからには失礼があってはならない。レティはいくら文字も言葉も同じだとはいえど、慣れない箸での食事だとかマナーだとかを残り少ない時間で出来る限り詰め込んだ。そして出立の朝 恭しくバルバロッサに頭を下げてみせたのだ。ああ、なんて口惜しい。父を殺し、姉を虐げ。罪深い男め。一人残される幼い弟に余計なことを吹き込んでくれるなよ、と上目遣いに睨み上げ、レティは荘厳に飾り付けられた馬車に乗り込んだ。

 煌帝国について一応は西方で名を馳せる国の皇女だけあって、末席の者の側室と言えどきちんと皇帝陛下と皇后陛下にお目通りすることがかなった。こちらについてすぐに、まだパルテビアの衣服だというのに通されたそこでレティは文字通り跪いて深く頭を下げた。あの男が憎い。これはあの男のために頭を下げているのではない。パルテビアの将来のためにレティは煌帝国に低頭するのだ。言い聞かせても胸に蔓延る憎しみは消えてなくなってはくれなくて、レティは袖の布で隠した口を噛み締めた。
 お会いした練 紅明様は王位継承権からいうと第五皇子にあたる方で、第一印象はレティと似た雰囲気の方だった。同じ帝国のパルテビアで戦力皆無のレティと武芸が苦手らしい紅明様。読書がお好きなようでよく書庫に篭られたり、自室に持ち帰って埋もれたり、魔法にも東方の国にしては珍しく力を入れているそうなので祖国から持って来た魔法書を後ほど従者に届けてもらうととても目を輝かせたそうな。
 ともかく、レティは皇族の側室になった以上は後宮に入り他の殿方にもお顔を簡単に見られるわけにはいかない。まるで幽閉されているようだとも思いながらも、この国の女官は随分優秀なようでこちらの楽器の手ほどきも頼めばしてくれたし、こういう本が良いと希望を伝えればぴったりの書物を持って来てくれたので特に不自由はなかった。

 そして婚姻の儀を済まし迎えた初夜。結婚が決まったときに勉強したが純潔を失うのはとても痛みを伴うらしく、よく官能小説なんかにある境地に達するまでは何度も何度も身体を重ねなくてはならないようだ。人によってはその過程はとても辛いものらしく、レティは緊張でどうにかなってしまいそうだった。
 紅明様は身軽な夜着でいらっしゃって、平静を装いきれていないレティを見抜いて初めは少し話をしようと言って下さった。年は同じでも、こうも違うのかと思った。別に姉のセレンだってこの前不本意ながら嫁に行ったばかりだし、レティが特別遅い訳でもないのだが。紅明様はたいそう喜んだ様子でパルテビアの魔法書について熱く語られた。

「こんなに西方では魔法が進んでいるなんて!!」
「パルテビアは魔導士を側近にしたり、帝国国家として重大な戦力の一つと考えています。けれど一口に西方とおっしゃいましても、ムスタシム王国は魔導士を虐げる国ですし…色々でございます」
「是非我が煌帝国の繁栄のためにも学ばなくては!」
「紅明様は武人には向かないとおっしゃっていましたが、軍師にとても向いていらっしゃいますね。私の持って参りました書物はすべて差し上げますので、どうぞ国の為 役立ててくださいまし」

 荷物の入っている籠にとてとて、と近付いて紅明様を手招く。ぱかりとそれをあければ中にあるのはたくさんの書物で紅明は文字通り目を輝かせる。ああ、女官の方が伝えて下さったことは世辞など一つまみも入っていなかったようだ。紅明は震える指でいくつか手に取ろうとして、辞めた。何故だと問えば返って来たのは意外にもここで役目を果たさなければレティの立場が危ういと気にしていたらしい。
 それが心の底からの真なのかはレティにははかり知れない。単に抱きたいだけなのかもしれないし、彼自身が背負う"役目"を果たすためなのかもしれない。ともかくレティは緊張しているけれども身を捧げる覚悟は決まっていた。どんとこい、と思ったが遠慮されてはこちらも恥ずかしいので、いっそ大胆にと思ってそっと口づけ紅明様の手を握った。

「覚悟は出来ております。けれど、何分初めてなもので…至らな点がございましても今晩だけはご容赦ください」
「い、いえ。私も出来る限りのことはします」

 互いに王位継承権が遠かったからこそ、警戒心が弱かったのかもしれない。紅明様はたかが側室にしては(経験がないので多分が付く)大事に抱いて下さった。それに緊張をほぐす意味でも祖国の話をするのは楽しかったし、なにより堅苦しい作法だとかが自然になくなって打ち解けて行くのが心地よかった。まだ心まで許した覚えはないが、きっと時間の問題だろうとレティは隣に寝そべって眠りについた。
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