レティと紅明様との、久しぶりの夫婦らしい穏やかな時間は、紅明様の実兄である紅炎様によって終焉を迎える。

「紅明、やはりここに居たか」
「このような姿で申し訳ありません、紅炎様。紅明様がお疲れのご様子でしたので。第一皇子である貴方様を前にして膝を折り頭を下げることをしない、この無礼をどうかお許しください」
「構わん」

 紅明様を膝に乗せたままでは、膝をついて首を垂れることが出来ない。出来る限り頭を下げて、許しを乞う。紅炎様はさして気にしていない様子で、そう言うと紅明様のお顔を覗き込む。以前よりも肌荒れが酷くなってしまっている。それを察したのか、紅炎様はふむ、と顎にたくわえたひげを一撫でして嘆息する。

「この話はまた後日だな。紅明を運んでやれ」
「畏まりました」

 紅炎様は見るからに屈強な部下に命じて、餌場を後にする。残った部下の方は紅明様の腕をつかんで肩に回し、紅明様を背負う。椅子から立ち上がった私を見下ろして、部屋はどこかと言った。

「…紅明様の私室を、私は知らないのです。私はただの側室ですから、紅明様のお部屋に行くことなど…」
「なら貴殿の部屋はどこだ」
「…ご案内します」

 部下の方の態度はぶっきらぼうだ。突き放されているように感じるし、背がとても高いので、見下ろされるというより、見下されているように感じてしまう。そこに「頭の悪い女」と侮蔑の感情が込められている気がして、あまり良くない気分だった。けれど、それを表に出してしまう程レティは子供でない。多少の気まずさはあれど、レティはしっかりと自室まで案内した。
 自室に紅明様以外の男が入ったのは初めての事だった。彼も後宮に入ってからは終始気まずそうにしていて、外見のわりに若いのではないかとレティは推測した。レティは彼の為にも、後宮の出口まで付き添って、最後に紅明様を運んだことへの感謝を述べた。興味深げに至ることろの窓から様子を伺っていた娘たちの視線が、なんとなく納得した雰囲気を帯びた。それを察したのか、彼はややげんなりした様子で、そして有難そうにレティに謙遜して見せたのだ。
 紅炎様の部下と別れてから、レティはすぐに自室に戻った。紅明様が部屋にいる。レティの醜い独占欲が顔を出す。寝台で眠る紅明様を見ていると、何かしたくなる。紅明様はこの国のために、文字通り身を粉にしているのだ。その妻が、何もせずのうのうと過ごしていいはずがない。
 寝辛そうにしていたので髪紐をほどき、もつれにもつれた髪の毛を丁寧にとかしていく。お湯を女官に頼み、タオルを湿らせて身体を拭いていく。着替えには手間取ったが熟睡しているので起きることはなく、寝るのにふさわしい清潔な衣装に変えた。噛んだのかガタガタになって深爪になっている爪にやすりをかけ薬を塗る。顔の吹き出物や乾燥している部分にも薬を丁寧に塗りこんだ。
 そこまで世話をすると、レティの身体を疲労が襲った。眠った成人男性というのはすこぶる重い。それをどうこうしていたのだから、疲れて当然だった。しかし、世話は一通り終えたのでこれ以上は何もしなくていいだろう。レティは伸びを一つしてから沐浴に行き、帰って来てもまだ眠っている紅明の隣に横になった。


 目が覚めた紅明は自分が置かれている状況が分からなかった。ただ、久しぶりの寝台での眠りは心地よく、温かい。よく眠れた気がするし、とても休めたと実感できた。これでしばらくは政務漬けの日が続いても生き永らえることが出来るだろうと、思って身を起こそうとする。しかし、心地よさと政務への使命感が天秤に乗せられて紅明の中でせめぎ合っている。
 もぞりと隣の温かいのが動いた。首だけ動かしてそちらを見ると、最近は存在すら忘れていた自分の側室、レティシアーナ姫が眠っていた。以前より成熟した華々しい美しさがそこにはあった。よほど疲れていたのか寝る前の記憶があやふやで、自分でこの場所にやってきたのかは分からないが厄介な場所で寝なくてよかったと紅明は思う。
 レティは最初に迎えた正式な妻で、お互いの立場をよく理解しているできた女性だった。一時は心労がたたって病がちになったが、病を移したら大変だ、とか適当な理由をつけて絶対に紅明を近寄らせなかった。
 レティはあの大火の日以来、弑逆を企てたのではないかと疑われていた。もちろん分かる人にはそれがただの虚言だと分かるが、疑心暗鬼というのは怖いもので、多くの虚言が集まるとそれが真実に成り代わってしまうことがある。ここでレティの見舞いに紅明が行き、レティを擁護するような素ぶりを見せれば、レティが第二皇子という絶対的な後ろ盾を得た反逆者である、くらいに思われてしまうかもしれなかった。
 しかし、レティは紅明を寄せ付けなかった。それにより、夫にも見限られ、あらぬ疑いをかけられた哀れな姫と認識が改まった。それでもレティの心は深く傷ついたことだろう。レティを守るためには適度な距離が必要だった。第二皇子にまで序列が跳ね上がったせいで、後宮で争い事が起こらないように新たに召し上げられた多くの女性を可能な限り平等に愛し、レティもその中の一人であるように愛した。
 大勢に溶け込んだレティは人々の記憶から忘れられるようになった。大変な騒ぎだったにもかかわらず、落ち着いて何事もなかったかのように日常が繰り返されるようになった。それにほっと息をついた時、紅明ははたと気付いたのだ。確かに最初の正式な妻ということもあって思い入れがあった。けれど、本当にそれだけで、紅明自らが彼女を守るような行動に出るだろうか。答えは否だ。他の女性はごまんと愛した後で言うのは些かおかしく思えたが、皇子の身の上を考えれば当然だと正当化する。そしてそういう自分を省みて、レティを愛していたのだと、思い知ったのだ。
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