黄瀬くんからする香り。私はそれが苦手だ。
別にキツいわけじゃない。でも、休み時間ごとに香りを変えてくる。だから、苦手なのだ。
大体は甘い香り。時々柑橘系の香りがする時もある。
それは全部全部、女物の香水の香りで。あまりおしゃれに詳しくない私でもそれは、それだけは分かった。
黄瀬くんの遊び癖は有名だし。
黄瀬くんには何人友達がいるのだろう。身体の関係を持った友達が。もう、片手じゃ数えきれないと思う。
お陰で私は香水に敏感になった。
黄瀬くんからお母さんと同じ香りがした時はとてもびっくりした。それが教育実習の先生からもした時は絶望すら覚えた。
黄瀬くんも私もただの中学生なのに。
黄瀬くんは、私が視認することが出来ないほど真っ暗闇ににいるんだと思う。
一介の中学生には、分からないほどの真っ暗闇に。
私はふと隣の席に目を向ける。
授業を真面目に聞いているのか聞いていないのか分からない顔で黄瀬くんが座っていた。当たり前だ。私と黄瀬くんは隣の席なのだから。
ああ、甘い香り。やっぱり前の時間とは違うんだね。
「なんスか?」
気付くと黄瀬くんと目が合った。私はまるで「石にならない内に」と言わんばかりに目を逸らす。
貼り付いた笑顔が怖かった。思わず足が竦む。
完璧な作り笑顔だ。こうすれば女の子が落ちる と分かっているのだろう。計算され過ぎて、研ぎ澄まされ過ぎて、自然な笑顔にすら見えた。これに騙されてきた女の子たちのことを思うともっと怖い。
「なんで逸らすんスか」
黄瀬くんがからからと笑った。私はスカートの裾を握る。手汗は止まるすべもなくスカートを濡らしていった。
黄瀬くんはまるで笑顔の能面を着けているようなものだ。中の、本物表情は一切分からない。見えないのだから。きっと、彼と仲良くする人たちはこの笑顔に疑問を抱かないのだろう。こんなにも偽物なのに。
「ねぇ、名前サン」
名前を呼ばれ、震えが止まる。身動きがとれなくなったのだ。恐怖で、動けない。
黄瀬くんは先生が黒板に向いた瞬間に身体を持ち上げる。この席は教室の一番後ろなので誰も気付かない。
貼り付けた笑顔のまま、その顔が近付いてくるのが分かる。そちらは一切見れないのだけれど。怖くて。焦点は目の前をゆらゆら揺れた。
「俺、名前サンと…仲良くしたいんスよね…」
甘い香り。鼻を掠める。
私は顔を上げた。先生がこちらを向いている。口が動く。古文の説明だ。何を言っているのかは分からない。全然頭に入らない。
視界がぐにゃりと歪んで、震えが戻ってきた。
絶望だった。
隣からペンが走る音がする。ゆっくりとそちらを見やる。彼は淡々と前を見据えている。まるで何もなかったように。
でも、私はしっかりと記憶している。
彼の香りの一つになりたい と思ったことを。
結局は私も、彼に騙された女の子たちと変わらないのだ。
ああ、いい香りだ。
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