「ねーもう寒い!」

広い体育館に入りながらつい愚痴が溢れる。秋田県の秋はもう冬といっても差し支えないほど冷える。うんと伸ばしたカーディガンの袖で冷える指先を隠した。手と膝を擦り合わせながら体育館シューズを引きずって歩くと、中ではレギュラー陣が何やら話し込んでいるようだった。相変わらず一目でわかるほど大きい体が3つそびえ立っている。

「お疲れ様ですー。何してるんですかー?」

早く暖まろうと、敦くんと劉の間に割って入るようにして顔を覗かせる。敦くんは相変わらずお菓子をボリボリと食べており、早く食べ終えないとまた監督の怒号が飛ぶなぁとそんなことを思った。いつものことではあるけれど。

「おお、みょうじか」

それがな、と困ったように説明を始めてくれたのは岡村さんだ。大柄だけど優しい彼のことは結構好き。というか、陽泉のみんなのことは好きだ。かなり思いつき(寮生活してみたい、とか。カトリック系気になる、とか)で選んだ学校だけど、後から敦くんも来てくれたし、ここでの暮らしはかなり充実している。

「実は今日転校生が来たらしくてなあ」
「あー、確かそんな話でしたね。二年だっけ?」
「そうアル」

確認するように劉に聞くと、彼は頷いて応えてくれた。確かに朝から転校生の話で学内は持ちきりだ。特に女子が騒いでいたような気がする。私のクラスではなかったから、なんとなく「そうなんだ」程度でしか聞いていなかったが。

「アメリカから来たんだとよ」
「へー、アメリカ」

福井さんの言葉を受けて想像してみたが、アメリカ人の知り合いがアレックスさんぐらいしかいなくて全然ピンとこない。でも騒がれるってことは、何か特別特徴があるのだろう。

「私英語喋れないんですよね」

困ったなぁと呟くと、全員から哀れみの目を向けられた。「あれ?」と見渡せば、福井さんにため息をつかれる。

「日本人だよ。いわゆる帰国子女っていうやつ」
「あー!完全にアメリカ人で想像してました!」

脳内に浮かんでいたベタなアメリカ人像を消し去る。それにしても帰国子女か。この中途半端な時期に……さぞ大変だろう。

「で、それがどうしたんです?」

その帰国子女が一体どうしたのだろうと首を傾げると、岡村さんがまたため息をつく。まるで少女漫画のヒロインのようだ。彼はこう見えて結構繊細なところがある。

「どうやらバスケ部に入りたいようでなぁ……、帰国子女とどういう話をしたらいいのか、主将として悩んどったんじゃ……」
「……」

憂いを帯びたその表情に、例えるなら「恋する乙女」だなぁとその様子を見ていると、福井さんが「そういうノスタルジーなのいらねえよ」と淡々と突っ込んだ。それに劉が「そうアル。アゴリラそういうの似合わないアル」と便乗する。岡村さんは二人の散々な言いように「ワシ泣くよ!?」と非常に凹んでいた。いつもの光景だ。

「帰国子女だって敦くん」
「うーん。らしいね〜」
「珍しいねぇ〜」
「そだね〜」

そんなやりとりを見ながらいまだにお菓子を食べ続ける敦くんにもたれかかる。彼と会話をしているとこっちまで気分が「ゆるっ」となるのがなんだか心地よかった。そしてその帰国子女はいつ来るんだろう、と呑気に考えていると、体育館の扉が開かれる音がして、集まっていた全員がそちらを向く。

「ここが体育館だ」

そこに立っていたのは荒木監督。そして、一人の男の子だった。

「へぇ……」

その美貌に思わず感嘆の声が漏れる。もし顔写真だけ見せられたら綺麗な女性だと思ってしまったかもしれない。長く伸ばした黒髪で片目を隠しているが、その美しさは隠しきれてないような気がした。

「あ、れ……?」

男の子は一度体育館を見渡してから、私を見て目を見開いた。なんだか見覚えがあるな と思っていると、彼はにこりと微笑んでこちらに近付いて来る。

「ここ、こっち来たんじゃけど!!」
「その乙女みたいな反応まじでやめろ!!」
「でも、な、なんか超かっこよくない!?」
「突然JKみたいになんのもやめろ!!」

三年二人のそんなやりとりと、敦くんがお菓子を食べる音だけが聞こえる。とにかく私はその男の子に目を奪われていた。かっこいいからとか、綺麗だからとか、そういう理由ももちろんあったのだと思うけれど、それよりも胸の奥底から湧き出る懐かしさに、涙腺が熱くなったような気がした。

私の目の前に立った彼は、その瞳に泣きそうな私を映して微笑みを浮かべている。見上げる角度は随分急になったけれど、それでも確かに変わってないことが沢山ある。例えば笑う時に眉毛を八の字にするとか、私を見るときは優しげに目元を緩めるとか。

「◯◯ちん?」

敦くんが私を呼ぶ声がどこか遠くに聞こえる。まるでその声が合図のように、私たちはどちらともなく手を伸ばした。

「辰也くん!!」
「なまえ!!」

私の腕は彼の背中に、彼の腕は私のうなじと肩を包んで距離がゼロになる。背後から岡村さんの悲鳴のようなものが聞こえたような気がした。

「辰也くんどうしてここに?」
「なまえこそ。陽泉にいるなんて思いもよらなかったよ」
「私はなんとなくで選んじゃった」
「Wow!じゃあここで会えたのはミラクルなのかい?」
「ミラクルもミラクル!すっごい偶然!」

彼は私がアメリカ旅行に行ったときお世話になったホームステイ先の子、氷室辰也くん。まさかこんなところで会えるなんて本当に予想も想像もしていなかった。まさに偶然。もしくは奇跡だろう。

「ちょっと〜◯◯ちん誰〜?知り合い〜?」
「うわっと!」

背後から不満そうな敦くんの声がして辰也くんから引き剥がされる。敦くんは私の頭に顎を乗せて、じーっと辰也くんを見つめていた。

「敦くん、あのね?彼は氷室辰也くん。ちょっとした知り合いなんだ」
「アツシ……っていうのかい?俺は氷室辰也、よろしく」
「…………まぁ、◯◯ちんの知り合いだったら仲良くしてもいいけど」

敦くんは相変わらず不機嫌そうにそう言って、大きい掌を辰也くんに差し出す。辰也くんはそれに笑顔で受け応えていた。



まさか転校生が辰也くんだと思わなかったなあ、と練習風景を眺める。もちろんマネージャーとしての仕事もあったが、今日は辰也くんにルーティンなどを指導する名目が大きいようで、あまり派手な動きはなくたいした量はなかった。
辰也くんのプレイは、最後に観たあの日よりずっと綺麗で繊細で、それは思わず見惚れてしまうほどで、自然と口から「綺麗」と溢れてしまう。今日もう何回目だろうか。4回目あたりから数えるのはやめた。

「休憩!!」

突然監督の声が響き渡り、スキール音がなりを潜める。私は急いで立ち上がり、手にしていたタオルを配りにコートに踏み入った。三年から順番に配って、最後は今日初めて入った辰也くんだ。彼はとても楽しそうな笑顔を浮かべ、肩で息をしていた。

「辰也くん、お疲れ様」
「ああ、ありがとう」

彼はにこりと笑ってタオルを受け取ってくれる。辰也くんの様子が気になってそばに座ると、彼に「汗臭くないかい?」なんて困ったように聞かれて慌てて首を振った。汗どころかよくわからないがいい匂いがするレベルだ。匂いにまで美しさが漏れ出ている。

「どう?練習」
「ああ、みんなすごいね。正直舐めていたよ」
「へぇ、辰也くんの辞書に“舐める”っていう言葉あったんだ」
「あるさ それくらい。なまえは俺をなんだと思ってるの?」

苦笑した彼が私の鼻の頭をちょんっと指で突いてくる。「ごめんね」と謝りながら、こんな動作一つすら映えるなぁと他人事のように思っていると、彼はとろけるような声で「ねぇ」と呟いた。

「な……」

なに?とそれだけの言葉が言いたかったはずなのに、それは音にならずに消えていく。私の右頬にかかる髪を指でかき分けた彼が、そっとそこに唇を落としたのだ。耳に近い頬にて、軽快なリップ音。それは数年前のあの日と同じ場所だった。


「君の記憶に、俺は住んでいたかい?」


こちらを見上げるそのアメジストを孕んだ瞳に無条件に息が止まる。綺麗とか美しいとか、そんな言葉がちんけだと感じてしまうほどだった。あの日の言葉のアンサーを求められているのだと、記憶の中が一気にかき混ぜられる。色鮮やかに鮮明に、思い出される彼との記憶。確実に、彼は、辰也くんは私の記憶の中に住んでいた。

「ずっと、いたよ。永住権とれるレベル」
「ははっ。それは光栄だ。じゃあ」

今度のリップ音は、確実にすぐそばから聞こえた。耳たぶに熱い感触。そのまま彼は脳に直接言葉を落とすように囁く。

「永遠に、君の中に住んでもいいかい?」

骨抜き、とはこういうことなのだと思った。ゆっくり離れた彼が、華やかに微笑む。心臓がさっきからうるさくて、言葉の一つ一つを理解できるほど脳は正常に回らない。

「ど、あ、え」

答えを、こたえを、と必死に頭の中の引き出しを引っ張り出すが、まるで全部空っぽだったかのようになにも言えなかった。それとも、彼に全部消されてしまったのか。わからない。わからないまま、私は人生で初めて“腰を抜かした”。そんな様子を困ったように笑った辰也くんは、そっと手を差し伸べてくれる。

「ご、……めん」
「いいや、謝るのは俺の方だよ。まさか、ふふっ、そんな反応をしてくれると思ってなくてね」

珍しく声を上げて笑う彼に恥ずかしさが顔を出す。きっと冗談なのだろうと割り切ってその手を掴んで立ち上がった。全く、たちが悪いなぁと一人でため息を吐くと、彼は短く「ああ」と呟いた。

「俺は本気だから」
「え……?」
「本気でなまえの全てが欲しいんだ」
「…………」

その言葉にまた一緒視界がくらりと揺れる。そんな真剣な顔で言われたら、「冗談だ」なんて言えなくなってしまう。辰也くんは狼狽る私に「もう離さないよ」と微笑むと、トドメかのように掴んだ指先にキスを落とした。

完敗だ。