もうすぐ冬になるというある日の休日。日が昇って間もなく、私は母に叩き起こされた。
「んぐっ……なにぃ?」
重いまぶたを持ち上げて彼女を見やると、「はい」と何かを差し出される。それは固定電話の子機のようで、反射的に受け取り耳に宛て一切回らない呂律のまま「もしもし……?」と問いかけた。
『おう。悪いな』
「…………?」
電話越しの声だと相手が誰だか分からずに首を傾げてしまう。母に視線をやると口パクで「清志くん」と教えてくれた。どうやら電話の相手は清志くんらしい。
「どうしたの清志くん?」
何度も閉じかけるまぶたを擦りながら聞くと、彼は「今日時間あるか?」と聞いてきた。一応予定はないため「あるけど……」と控えめに返答をする。何を言われるか分からない時点ではっきりとした答えを出すのは少し怖かった。
『そうか。悪いんだけどさ、俺の中学まで来てくれねぇか?』
「今?」
『いや、8時くらいに来て欲しい』
「なんで?」
『……まぁ、詳しい理由はあとで説明するけど、今日だけマネージャーやってくれ』
「へっくしょん!」
「風邪ひくなよ」
分厚い上着を羽織りながら体育館の隅に座り込む。清志くんは大きなくしゃみをした私を心配そうに見てから、体育館の中心に走っていった。
ここは清志くんが通う公立中学の体育館だ。彼の所属する男子バスケ部の活動場所でもある。今日のような休日でも部活はもちろんあって、いつもこんな朝から活動しているらしい。青春だなぁと思いながら私は肩を縮こませて膝を抱えた。部員は私が来る前に走り込みを終えているようで、この冷え込む中すでに半袖半ズボンになっていた。子供は風の子だ。
いつもはここに女子マネージャーがちゃんといると聞いた。しかし、昨日突然その一人が「辞める」と言い出し、残りの女子マネージャーは今日予定があるようで、どうしても人手が欲しかったため私に連絡をしたらしい。清志くんが「俺のせいだから」なんて言っていたけれど、詳しくは教えてくれなかった。
マネージャー業はミニバスのお手伝いと対して変わらないようだし、経験もしたかったため二つ返事で了承した私は清志くんが渡してくれた、学校のロゴと「MIYAJI」という刺繍入りの上着を着たまま肩をさする。広い体育館はとても冷え込み、床もすごく冷たい。上部の窓から差し込む陽の光がとても暖かく感じられた。
しばらく待っているとコーチの号令がかかる。その後二言三言話した彼は私を手招きで呼んだ。部員たちの前に立ち自己紹介と挨拶をすると、元気よく挨拶が返ってくる。体育会系の雰囲気に圧倒されながらもう一度頭を下げて、私はタオルが準備されている部室に向かった。
午前の激しい練習が終わり、全員にタオルとドリンクを配っていく。これはミニバスと変わらないなぁと思っていると、コーチにビブスを持ってくるように指示される。いつものように「わかりました」と答えて用具室に向かって、ふと勝手が違うことを思い出した。そうだ、ここいつもの体育館じゃないんだった……。
ビブスはどこだろうとありとあらゆるところを探していると、「何してんだ」と声がかかる。用具室の入り口に立っていたのは清志くんだ。
「ビブス頼まれたんだけど、そういえば場所知らないなって」
「なんで聞かねえんだよ」
「いや、いつものノリで」
「………、しっかりしてんのも考えものだな」
ため息を吐いた彼は奥の棚の方からビブスをとってきてくれる。それを無言で渡されるから感謝を伝えながら受け取った。
「こういうのはちゃんと頼れ」
清志くんはそう言って、ぽんと頭を撫でてくれる。そういえば、社会に出てから色々自分でやらなければならなくて、頼ることとか苦手だったなぁとそんなことを思い出す。否定も肯定もできなくて曖昧に笑うと、清志くんは眉間にシワを寄せる。
「……轢くぞ」
「いたっ」
ムッとした顔のままの清志くんにデコピンをされる。「轢く」ってなんだ、と思いながらヒリヒリと痛むおでこを押さえた。体はまだまだ未熟なのに、力はとても強い。男の子だなぁとそんなことを思った。
「俺だって年下のお前を頼ったんだ」
「……」
「ましてやお前はまだ小学生だろ。一人でなんでもできると思うなよ」
「自惚れんな」と吐き捨てて彼は踵を返し体育館の方に歩いて行ってしまう。そんなつもりなんてない、と言いきれなくて苦笑がこぼれた。清志くんにはなんでもお見通しのようだ。出会ってそんなに時間が経ってるわけではないのに、お兄ちゃんのように思っている自分に驚いた。いとこって不思議だなぁと思いながらその背中を追いかける。
「待って清志くん」
真っ直ぐ歩くその背中に声をかけると、彼はこちらを振り向いてくれる。その隣に並んで一緒に歩いていると、周囲から視線を感じた。なんだろうと辺りを見渡すと、休憩中の他の部員たちにすごく見られている。
「ねぇ、なんでこんなに見られてるの?」
「うるせぇ、刺すぞ。……どんだけ説明してもいとこって信じないんだよ」
「はっはーん。思春期だねぇ」
なんとなく視線の意味を察してうんうんと頷くと、清志くんが淡々と「おばさんか」と突っ込んでくる。控えめに言ってもおばさんなので否定し辛い。そのままノリで「清志くんも大きくなって」と言うと、「まじでおばさんだわ」と笑われた。いつもは難しそうな顔をしている清志くんだが、笑うと本当にあどけない。まだ、中学生なんだと実感する。
「それに、マネージャー辞めたの俺に責任あるしな」
「それそれ。どう言うこと?」
「…………告られたから、振った」
「ぶっ!!」
予想外の回答に抱えていたビブスを落としてしまう。清志くんは何も言わずそれを拾ってくれた。そうか、もう惚れた腫れたの世界なのか。自分のことではないのに、なんだか心臓がうるさい。それもそうだよな。清志くんっていとこの私から見ても普通にかっこいいし、同年代より落ち着いた雰囲気があってモテそうだもんなぁ。
「それで辞めちゃったんだ」
「多分な。気まずかったんだろ」
「そっか……。仕方ないね」
「……意外だな。お前なら「無責任」って言うと思ってた」
「なんで?言わないよ」
もちろんそう思わないわけではない。真剣にバスケに打ち込んでいる彼らを支えたいというのが私の願いだからそれを私情で投げ出すことは無いと思う。でもそれはあくまで私の話だ。その子にはその子の事情がある。他者がその感情まで深く理解することなんてできないんだから。
「恋ってさ、止められないじゃん」
「そう言うものか?」
「ははっ。もしかして清志くん恋したことないなぁ?」
「蹴るぞ」
「いつか恋するよ」
私の言葉に清志くんは大きな目をさらに見開いた。ビブスを拾い上げた私はそれを抱え直し、立ち上がる。清志くんはまだ固まって、こちらを見上げていた。
「そしたら色々わかるものもあるんだよ。好きな人のことで一喜一憂してね。笑ってくれたら嬉しいし、泣いてたら悲しい。そう言う感情を、いつか清志くんも恋をして、わかるようになるよ」
呆然とする清志くんに小さく手を振ってコーチのもとに歩き始める。しばらく恋とは無縁のくせに、よく言えたなぁと自嘲。でも、一応人生の先輩だから辛い恋も幸せな恋もしてきたつもりだ。いつか清志くんもそれを理解できるようになってくれたらいいなぁと思いながら、高い天井を見上げてつい「恋、したいなぁ」とそんなことを呟いてしまった。
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