1
初めて恋をしたのは、高校三年の夏のこと。
好きな男の子が出来て——そして、運命という言葉が嫌いになった。
**
1.
親友が、彼氏と同棲を始めるらしい。
そんな話を聞いたのは、大学生活も一年が過ぎようとする頃。クリスマスを目前に控えた、夕暮れ時の事だった。
「へぇ、ついに一緒に住み始めるんですね!」
「そうなの。色々相談に乗ってくれて、本当にありがとう、リリー!」
ツリーにサンタにクリスマスソング。そんな浮かれきった装飾のショッピングモールのカフェで、私を「リリー」と呼んで、少し照れながらもふわりと笑ったのは、ルナさんこと、ルナーティアさん。嬉しそうな親友の様子に、私も思わずにっこりと笑みを深める。
前から何度か相談されてはいたけれど、ついに同棲かぁ、なんて、ちょっと感慨深い気持ちだ。きっと私がルナさんと過ごせる時間は今までより減ってしまうから、そこは寂しいけれど……ルナさんの幸せそうな顔が見られるのは、素直に嬉しい。
けれど——ニコニコと笑みを交わし合う私たちの横で、少しだけ眉を寄せている男の子が一人。何やら微妙な表情の彼に気が付いて、私はにやりと揶揄うように目を細めた。
「——それにしても、よくルーさんの許可が出ましたね?」
名前を出した事で、その彼の頬がピクリと少しだけ反応する。私とルナさんの隣に座って、ちびちびとコーヒーを消費しているのは、ルーさんこと、ルーファウスさん。ルナさんの双子のお兄さんである。
ルーさんってばシスコンなのに、と。私が含みを持たせたのを言外に感じ取ったのか。ムッとこちらを一瞥する彼をスルーして、ルナさんは、思い出すように小首を傾げて言った。
「でも兄さん、思ったよりあっさり許してくれたよね。私が一人暮らししたいって言った時とは大違いだよ。ビックリしちゃった」
「それは、まあ。レイは信頼できるしな」
「ルーファウスくんに言われると、なんか嬉しいな」
「レイ『は』って、ちょっと兄さん、それどういう意味?」
「はは。まあ確かに、気持ちはちょっとわかるけど」
「シュレまで!? もう!」
そうして続いたやり取りに、ルナさんの彼氏であるアシュレイさんが、からかうように少しだけ意地悪く笑う。ルーさんの向かい側の席で、菫色の瞳がニコリと細くなった。
拗ねたようにミルクティーのカップを手に取ってそっぽを向くルナさんと、そのミルクティーのような色の髪を持つ恋人のアシュレイさん。気兼ねない軽口混じりのじゃれ合いを見せつけられて、「相変わらず仲良しですねぇ」なんてクスクス笑いつつ、持っていたフォークをそっと皿の上へ戻す。かちゃりと微かな音がした。
(……でも、いいなぁ)
高校時代。ルナさんの一目惚れから始まったという彼等の関係は、順調そのものと言っても過言ではない。好きになって、努力して、想いを告げて、両思いになって。お付き合いを続けて、そしてもう少ししたら一緒に住み始める。
少女漫画より平和で、恋愛ドラマよりも甘やかな、絵に描いたような素敵な恋愛だと思った。クリスマスも一日デートするのだと、この前嬉しそうに言っていた。
(クリスマス、かぁ……)
親友の幸せを喜ぶと同時に、どうしたって羨む気持ちが生まれてしまうのは、自分の恋が素敵なそれとは程遠いと、身を持って知っているからに違いなかった。
チラリともう一度隣を見やると、コーヒーカップを置いた紅い瞳と視線が絡む。彼が軽く首を傾げたせいで、コーヒーのような濃茶の髪がふわりと揺れた。
髪も目も、双子の妹であるルナさんと同じ色。よく似た二人のことが、どちらも大好きだというのに……何故、彼に対してだけ、私の心臓はおかしくなってしまうのか。
その答えに気付いてから、もう一年と半年が経とうとしている。
「リリー? どうかしたか?」
「い、いえ。なんでも!」
——ルーさん。私の好きな人。……そして、私がずっと、嘘をついている人。
彼のクリスマスの予定さえ聞けないまま、臆病な私はまた、へらりと笑って、色々な事を誤魔化し続けている。
「じゃあルナさん、また! アシュレイさんも」
「うん! またね、リリー! 気をつけてね!」
ぱたぱたと両手を振る私へ、楽しそうに手を振り返してくれるルナさんと、それに小さく笑っているアシュレイさんを見送って、「行っちゃいましたね」と隣を見る。
「そうだな」
「あれ、涼しい顔ですね。可愛い妹がデートなのに……」
「いや、今更だろ。ったく、もうそのからかいには乗らないからな、リリー」
「ちぇー。……まあそっか、もう一緒に住むんですもんねぇ」
確かに今更ですね。不満に少し唇を尖らせる私の横で、ルーさんはちょっと呆れ顔だ。ポケットから自分のスマートフォンを取り出した彼を横目に、私は壁際へと視線を向ける。ショッピングモールの大きな窓からは、日が落ちて暗くなった外の様子が覗いていた。
そもそも、なんでこんな所で四人で一緒にお茶をしていたのかというと。それはずばり、たまたま暇だった私とルーさんが、ルナさんとアシュレイさんにお呼ばれしたからである。
もともと二人は今夜、食事の約束をしていたらしく、せっかくだから同棲の報告ついでに一緒に食べないかと誘われたのだ。……けれど、せっかくのふたりきりのデートである。私たちの存在は、さすがにちょっとお邪魔虫がすぎる。二人きりで一日、クリスマスデートはするらしいけれど、それとこれとはまた、話が別だろう。
……ともかくそういう訳で、今日は二人で楽しんで欲しくて、食事のお誘いは残念だけれど、やんわりとお断りした。ルーさんにもこっそり肘打ちして、今日はお茶をしてそのまま解散、という運びになった訳なのだが。
(……ルーさんは、この後用事とかあるのかなぁ)
——と。いざこうして二人になると、気になってしまうのは、隣を歩く彼のこと。
私がルーさんを好きだと知っているルナさんには、「リリーも兄さんとどこか寄っていきなよ」なんて。ニコニコ顔で、さっきこっそり耳打ちされてしまった。
まだスマホに釘付けのルーさんを窺い見ながら、どうしようかと迷っていると……ふと、紅い視線がこちらを向いた。彼の足が止まる。
「リリーはこの後予定あるか?」
「と、とくにないです」
「なら、俺たちも何か食べてから帰るか」
「!! はいっ! ……ふふ、何がいいかなぁ」
……迷っているうちに、逆にさらっと誘われてしまった。嬉しくて、思わず顔が弛んでしまう。
ルーさんとは、高校生の頃からの気心知れた友達だから、二人でご飯なんて何度も行ったことはあるけれど。……彼は、私がその度に、誘うかどうか、こんなにも悩んでいる事をきっと知らないだろう。
それが、なんだかいつもちょっと悔しくて。けれど同じくらい、安心もしてしまう。
「……」
気付かれないように細く息をついて、肩にかけたバッグの紐を、確かめるように軽く握った。これから、ルーさんと二人だけで夕ご飯を食べて、帰り道まで一緒だ。
それならば——念の為、薬を飲んでおきたい、かもしれない。
「——あ、ルーさん。私、ちょっとお手洗いに行ってきますね」
「ん、分かった。あっちで座ってる」
軽く手を挙げてベンチの方へ歩いていくルーさんを見送ってから、女性用のトイレの個室へ駆け込む。しっかり鍵を閉めて……カバンから取り出すのは、白い錠剤がいくつも入った、透明なピルケース。一見怪しく見えるかもしれないけれど、『オメガ』の人々には、きっと見覚えがある錠剤だろう。もちろん怪しい薬とかではなくて、至って普通の『抑制剤』だ。
……この世界の人間には、生まれ持った男と女という性別の他に、狼社会にルーツを持つとされる第二の性別——第二性が存在する。第二次性徴期の頃を目安として現れる第二性は、アルファ、ベータ、オメガの三種類。
そして私——エミリリアーナ・ストリエは、女性体のオメガなのであった。
このオメガという性を持つ人は、男女を問わずに妊娠・出産する事が可能である、という特徴を持つ。しかし、その特徴の影響で、オメガ性をもつ人々は、ある一定の周期で、ヒートと呼ばれる発情期を抱えている。その期間のオメガが分泌するフェロモンは、アルファ性を強力に誘惑し、時に暴力的なまでの性的衝動を呼び起こさせる。そして、アルファのそれを享受する為に、発情期のオメガは、ただただ多淫な生物へと成り下がるのだ。
この発情期間があるために、オメガは社会的にも立場が弱く、ヒートやフェロモンを抑える為の『抑制剤』が普及した現代でも、その偏見は未だ拭えないまま。
そしてそれとは反対に、この世の中は、とことんアルファ性に優位に出来ていた。
能力に秀でた人、カリスマ性のある人が生まれ易いとされる、第二性、ひいては狼社会の頂点。それがアルファという性別だ。
身近な人を挙げるならば、ルーさん、そしてルナさんがアルファ性の持ち主である。高校時代から名門と呼ばれる学校でトップの成績をキープしていた二人も勿論、そんな優秀なアルファの例に漏れないのだろう。
そして、アルファでもオメガでもない、一番人口が多い、マジョリティと言える第二性が、ベータ。こちらも、身近な人で言うとアシュレイさんがそうだ。
世間一般の代表と言われる事もあるベータは、アルファやオメガと違って、発情しないし、フェロモンも発しない。オメガのよほど強いフェロモンであれば、ベータ性でも当てられてしまう事があるらしいが——基本的に、フェロモンを嗅ぎ分けることも出来なければ、アルファとオメガの発するそれが、体へ影響を与えることもない。
……私も、ベータだ、ということになっている。
オメガである、ということを堂々と公表して過ごすには、この世の中は生き難い。多くのオメガがそうするように、私も、オメガだということをずっと隠して生きてきた。知っているのは私の保護者代わりの養父と、主治医の先生くらい。好きな人にも、親友にも、これだけは秘密だと決めている理由は、うじうじと色々考える割にはシンプルである。
アルファ性であるルーさんとルナさんに、私のこの、オメガという性別を、意識して欲しくないのだ。
オメガだから、アルファだから。そういうのを気にせず、友達でいたいし、好きでいたい……そんな、自分勝手なただのわがまま。
オメガのフェロモンは、ヒートの時だけ放出される訳ではない。些細な要因で発作として漏れ出る場合も多々ある。そのフェロモンを抑え込むための薬が、抑制剤。オメガが日常生活を送るために、必要不可欠なものだ。
私の使っている抑制剤は、通常は一日一回、朝食後。今日の分は、もうとっくに飲み終えているけれど……当然だが、夜になるにつれて、朝飲んだ薬は、効果が切れてくる訳で。
(……飲んでおかなきゃ。ルーさん、鼻が良いし。それに)
好きな人の前だと、例え薬を飲んでいても、効果が緩くなる気がする。アルファを求めるオメガの本能みたいなものが、心に引っ張られているのだろうか。
……そういうのが嫌でベータだと嘘をついているのだから、間違ってもルーさんの前でフェロモンなんて少しでもちらつかせる訳にはいかない。
ルーさんと会う時には、余計に一錠。今日みたいに、一緒にいる時間が長くなりそうな時は更に追加でもう一錠。体に良くない事だとはわかっている。けれど、私のせいで彼を傷付けることになってしまうくらいなら、こっちの方がよっぽど良いだろう。
オメガという性を隠すならば、間違ったって、第二性で強制するような、利用するような——そんな事態を招く訳には、万が一にもいかない。
錠剤を水で流し込んで、ケースを再びカバンの奥底へとしまいこむ。ルーさんを好きになってからの一年半。こんな風に抑制剤を飲み続けているから、このピルケースも、すっかりカバンの底の相棒になった。
「……うん。よし」
軽く身嗜みを整えて、小さく頷いた。これで帰るまで平気なはずだ。
頭の奥が少しもやつくような、胸焼けのような……薬を飲む度、日毎に大きくなっている気がするそんな感覚からはそっと目を逸らして。ルーさんの待つベンチへと、振り切るように足早に歩を進めた。