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  そしていつかを求める瞳


 懐かしい匂いがする。
 高坂穂乃果は大きく息を吸い込んで肺を満たした。それからニットキャップを目深にかぶって、来客用の下駄箱から緑のスリッパを取り出して履いた。しんとして透き通った空気はここに人がいないことを教えてくれているようだ。穂乃果は静まり返った校舎を歩きだした。
 卒業したら音ノ木坂学院には訪れない。これがμ’sの最後の宣言だった。九人で相談して決めたことだった。思い出はそれぞれの心のすみっこに。過去に浸りすぎないように。μ’sを知る学生を驚かせないように。そういった理由で、そういうことになったのだ。
 五年待った。穂乃果の足取りが早まる。
 五年という歳月が経っても穂乃果の内側でふつふつと沸く欲は冷めるようすがなかった。音ノ木坂に行きたい。望みはたったひとつだった。思いがはち切れて、大学の卒業式を終えてすぐ、飛ぶように学院前まで走ってきた。学院は現在春休みだ。慎重に移動したらきっと騒ぎにはならないだろう。穂乃果はこじ開けるように前へ前へと進んだ。ずっと上を見ていた。わたしたちの居場所。わたしたちのスタートライン。わたしたちを知るだれよりもの存在。穂乃果は唱えた。わたしたちのμ’s。
 
 屋上への出入りが禁止されたことは雪穂から聞いていた。雪穂らがμ’sを真似て屋上で練習していたところ、突然告知されたのだそうだ。雪穂は、ドアノブにはガムテープが何重にも巻かれて鍵を挿せないようになったとも言っていた。
 それがなんなの。穂乃果はよく滑るスリッパが転げ落ちてしまわないように、足の甲を心持ち高く上げながら思った。





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