睡魔と戦いながら教授のつまらない話を聞く。お経のような平坦な声は生徒を眠りに誘うには効果絶大で、講義内容を聞いておらず単位を落としかける生徒が後を絶たないとかなんとか…。
かくいう私もいつの間にかうたた寝をしてしまっていたようで、気付いたときには教授が教室を出た後だった。講義内容の三分の二ほど聞いていなかったことに絶望していると、隣から声がかけられた。
「ぐっすりやったな。眠り姫かと思ったわ」
「…生駒くん」
彼は先程の授業で使用したノートや筆記用具を鞄にしまっている最中だった。
私たちはいくつか同じ講義を選択しているため、こうしてときたま一緒になるのだ。
「隣にいたなら起こしてよ」
「いやぁ、あんまりにも気持ちよさそうに寝とったから邪魔したら悪いやん」
「もう、後でノートコピらせて」
「全然ええで」
今日の講義は全て出席したため後は帰るだけだ。確か生駒くんもそうだったはずと本人に聞くと、案の定「今日はもうなんもないで」と返事が返ってくる。このまま帰宅してもいいのだが、それだと彼に恋人のふりをしてもらっている意味がない。
「生駒くん、このあと時間があるならデートでもしない?」
「で、デート!?」
私の提案に彼は大袈裟に驚いた。そのリアクションの大きさに、まだ教室に残っていた生徒の何人かの視線がこちらに向けられる。
「こ、声が大きいよ」
「だ、だってそんな、うら若き男女が二人でお出かけってことやろ? あかん、甘酸っぱすぎるわ。アオハルや」
「…デートしたくないの?」
やはり、仮の恋人である私とデートなんてしたくないのだろうか? そうすると計画に支障が出るのだが…と困った顔をすると、それを見た生駒くんは私を悲しませたと思ったのかすぐに前言を撤回した。「ぜひ行かせて頂きます」と標準語で。
「じゃあ駅前に行ってさ、クレープでも食べようよ。新作が出たばっかりなんだけど、たしかクーポンが使えるはずだよ」
「よう知ってんなぁ。みょうじさんクレープ好きなん?」
その言葉に違和感を感じて、クーポンを探すために携帯を見ていた顔を上げた。彼の顔を眺めて違和感の原因を探る。生駒くんはと言うと「みょうじさん、もしかしてクーポンなかったん?」と見当違いな呑気な声を出している。
「ねぇ、"今は"私達付き合ってるんだから、苗字で呼ぶのちょっとおかしくない?」
「せやろか?」
「そうだよ。できれば私のことは名前で呼んで欲しい。あ、私の名前わかる?」
私がそう聞くと、彼は少し間を開けて、照れた様な顔で「…なまえさん」と名前を呼んだ。仏頂面がデフォルトな彼もこんな表情をするのか、となんだか特別な一面を垣間見たようで悪くない気分だった。
「さんはいらないよ」
「じゃあ、なまえちゃん」
「まぁいいでしょう」
満足した私は今一度携帯に目を落とし、お目当てのクーポンを探す。すると生駒くんは肩透かしを食らったように口を開いた。
「え、俺だけでええん? なまえちゃんは俺のこと名前で呼ばへんの?」
「うーん、私はまぁいいかなって」
「それちょっとずるいんと違う?」
口を尖らせて不満を露にする生駒くんの言葉を聞こえないふりして、ちょうど見つけたクーポンを見せた。ベリー・ベーコン・ベジタブルクレープ。略してBBBクレープのクーポン画面がそこには映っている。「スイーツ系なんかご飯系なんかよくわからんな」と眉を顰める彼の背を押して私たちは教室を出た。
「なんか、人多いね」
駅前のクレープ屋に到着したはいいが、平日の夕方だというのにそこには既に行列が出来ていた。クレープはオーダーを聞いてから作り始める特性上、行列の見た目以上に待ち時間があるのだ。
「まぁこの時間は学生も増えるやろし、しゃあないな」
「BBBクレープのためならいくらでも待てるけど、……!」
息が止まりそうだった。
行列の状況を確認するために周りを見回したとき、見たくもないアイツの顔を見つけた。クレープ屋の隣にあるコンビニの中から、アイツはこちらをじっと見つめていた。
「い、生駒くん。アイツがいる」
「どこ?」
「隣のコンビニの雑誌コーナー。こっちを見てる人」
生駒くんは私が指定した場所を見るとすぐにこちらに向き直る。そして怖くて俯いている私とアイツの間に立ち、見えないように壁になった。
「なんや独特な雰囲気しとるやつやな。…どないする?」
「どうしよう…並んでる間ずっとあそこにいる気なのかな。また家まで来るのかな…」
視界に入ったらと思うと怖くて視線を落としたまま考える。一体、どうして私の居場所がわかるのだろう。いつまであそこにいる気なのだろう。思考がうまくまとまらず、答えのない疑問ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
すると、私のそんな様子を見た生駒くんが先に口を開いた。
「ほんなら、今日はもう帰ろうや。クレープならまたいつでも食えるし、家まで送るわ」
「…私から誘ったのにごめん」
「なまえちゃんはなんも悪くあらへんよ」
「ほな、行こ」と生駒くんは私の手を取って歩き出した。あ、と思ったが恋人だったら当たり前だと思いその手を握り返した。
その場を離れるときにちらりとコンビニを盗み見ると、案の定アイツは私たちを見ていた。だが、その表情はいつもと違い憎悪ともとれる険しいものになっていた。
「次の角を曲がったところのマンションが私の家だよ」
「けっこう近いやん」
あの場を離れたことで少し心に余裕が出て来て、繋いだ手をわざと大きく振って歩く。私のその様子に安堵したのか、生駒くんは小さく息を吐いた。
「いやぁ、さっきは驚いて取り乱しちゃったけど、"恋人がいるところを見せつける"って計画は成功したね」
「アイツ、なんや異様な雰囲気持っとったし、予想より危ない奴なんちゃう?」
「うん…。とりあえず、これで諦めてくれたらいいんだけど」
実際、あの顔を見たらこの計画は火に油だったのではないかと不安を覚える。だが、なにか行動しないときっとこれからも付き纏われる。このまま大学生活四年間を怯えて過ごすのはこりごりだ。
他愛のない話をしながら二人で歩く。生駒くんは私があれこれ考えなくてもいいように、内容の薄い話を休みなく聞かせてくれた。関西から来た他のお友達のことや好きな食べ物のこと。すると時間は早いもので、すぐに家へと着いてしまった。マンションで繋いでいた手を離す。
「今日は本当にありがとう」
「どういたしまして。まぁ、大船に乗ったつもりでイコさんに任せとき」
「うん、頼りにしてる」
じゃあね、と手を振り生駒くんに背を向ける。鞄から鍵を取り出してロックのかかっているエントランスへの扉を開けたとき、「なまえちゃん」と声をかけられた。
「ん?」
「なんかあったら連絡してや。すぐに飛んでくるわ」
そう言った彼は真剣な眼差しで私を見ており、本当に心配してくれているのがひしひしと伝わってくる。今まで一人で抱え込んできたため、その優しさがとても嬉しくて涙が出そうになるのを堪えて私は笑顔を作った。
「なんかあったら鬼電するね」
「おん、それなら寝とっても起きれるから安心やわ」
もう一度「じゃあね」と声をかけ、彼に手を振りオートロックのドアをくぐる。事態が好転することを願うが、もしそうでなくとも彼から少しだけ戦う力をもらえたような気がした。