「今掲示板に張り出してあったの見てんけど、午後のあの教授の講義、休講になってんで」
「まじで?」
大学構内のベンチに腰を下ろしながら話をしていると、ふと思い出したように生駒くんがそう言った。講義がなくなるのは嬉しいのだが、今日はバイトも入れていないためやることがない。
「午後から暇になっちゃったなぁ」
「そう言うと思てな、めっちゃいいもの用意してんねん」
いいものとという言葉に反応して胸が高鳴る。一体なにを出してくるのだろうかと期待しながら待っていると、生駒くんは口でドラムロールを鳴らしながら勿体ぶって鞄の中からそれを取り出した。
「じゃじゃーん、水族館のチケット」
「お、おぉ! 本当にいいものだ!」
それは電車で少し行ったところにある水族館のチケット二枚だった。
なんでもおもしろくしたい彼のことだ、しょうもないものをわざと勿体ぶって取り出して、"いいものじゃないやないかーい"と相手に突っ込みを入れさせようとしているのではないかと思っていたが、まさか本当にいいものだったとは。
「嵐山に貰ってん。スポンサーさんに貰ったはいいけど、広報で忙しいから行く時間がないねんて」
「え、嵐山って、あのボーダーの顔の?」
「そう、嵐山准」
嵐山くんは今や誰もが知っているボーダーのアイドルだ。同じ大学に通っているので姿を見かけたことはあるが話したことはない。というか、ファンが多すぎて近付くことができないのだ。
「そんなわけでなまえちゃん」と生駒くんは持っていたチケットの内一枚を私に手渡した。それを受け取ると、珍しく少しだけ口角を上げて彼は言った。
「今から一緒に水族館行かへん?」
「もちろん行く!」
久方ぶりの水族館に楽しみを抑えられず、ゆっくり歩く生駒くんを「早く早く」と急かして水族館のゲートをくぐる。
館内に足を踏み入れると寒色基調の照明が付いており、全体的に薄暗く海の中を思わせる作りになっている。小さな水槽には一種類、大きな水槽には多種類の魚が入れられ互いに捕食することなく共生をしているようだ。
水族館とは言え平日の昼間は人が少なく、水槽の前に人だかりができていないため快適に魚を見ることができた。
「なまえちゃん見てみ、コブダイやて。タイってことは食べたらやっぱ美味いんやろか」
「強面なところが生駒くんに似てるね」
「えっ」
「…冗談だよ」
私の言葉を聞いて、生駒くんは水槽の中のコブダイに顔を近づけて「ほんまに似てる?」と自分と魚を交互に指さした。その様子がやけにおもしろくて携帯で写真を撮ると、彼は「撮影NGやで、ちゃんと事務所に許可取ってや」と私の頭を小突いた。
魚たちの水槽ゾーンをすぎると、次は水中トンネルゾーンだった。水槽の一部がトンネルのように丸くくり抜かれており、そこをくぐるとまるで海の中にいるように感じられるというものだった。
「生駒くん見て、アザラシ!」
「ほんまや。可愛えなぁ」
私たちの頭上をアザラシが優雅に泳いでいく。海獣を下から見る機会など滅多にないため私は上を向いたまま歩き続ける。すると、今度はペンギンがまるで空を飛ぶように泳いでいった。生駒くんはそんな私の数歩後ろを付いてきながら「前向かんと危ないで」と声をかけた。魚たちが頭上を通るたびに魚影ができ、私の視界をちらちらと遮った。水面に反射した光がここまで差し込んできて光の帯を作っている。
その様子がなんとも綺麗で、私はこの感動を伝えようと生駒くんを振り返った。すると彼はすぐ近くまで来ており、唐突に私の肩を掴んで引き寄せた。
彼の腕の中で驚いていると、頭上で「すんません」と声が聞こえた。どうやら対面から来ている人とぶつかりかけていたようで、上を見ていて気付きもしない私を引っ張ってくれたようだ。
「ほらな、危ない言うたやん」
「ごめん、ありがとう」
そう言って顔を上げると、予想以上に近くにあった深緑色と目が合う。その近さに驚いて私は半歩後ずさった。顔に熱が集まっていくのを感じ、こんなところを見られるわけには行かないと両手で頬を覆うようにして彼から目を逸らした。すると私の様子を見て一瞬不思議そうな顔をした生駒くんは、ハッとなにかに気が付いたように顔を青くした。
「肩を掴んだうえに引き寄せたの、もしかしなくてもセクハラやんな…?」
「え? いや、全然そんなことないよ」
「だって俺、気軽に女の子に触れたらあかん顔やろ」
「どんな顔だ。…本当に気にしないで。ほら、次々見て回ろう」
彼の腕を引っ張って水中トンネルを通り抜ける。ふと廊下の壁に貼ってある館内マップを見て、もう少しで出口に着いてしまうことに私はどうしようもない寂しさを覚えるのだった。
「小さめの水族館だけど、すっごい楽しかったね」
水族館を出ると、辺りは夕焼けで赤く染まっていた。遠くでカラスが鳴いている声が聞こえる。
「俺、赤くてころころしたクラゲが好きやったわ」
「わかる。いっぱいいて可愛かったね。あと最初の方にいたウツボも口をぱくぱくさせてて可愛かった」
「牙が凄かったな。さすが海のギャングやわ」
感想を言い合いながら駅までの道のりを歩く。生駒くんは始終表情こそ変わらなかったもののとても楽しんでいたようで、珍しい魚に悉く突っ込みを入れていた。彼といると笑いすぎて顔が筋肉痛になりそうだ。
「水族館出たら寿司食べたなってきたわ」となかなか倫理観のない発言をする生駒くんにご飯でも食べて帰ろうかと提案しようとしたとき、後ろからぼそぼそとした聞き取りづらい声で「みょうじさん」と呼ばれた。それを聞いて、私は体が強張るのを感じた。
生駒くんには聞こえていなかったのだろう。足を止めて微動だにしない私を不思議に思ったのか、「なまえちゃん?」と声をかけてくる。そちらを見遣ると、彼は優し気な瞳で私を見ていた。
そうだ、私は今一人じゃない。そう思い一つ深く息を吐いて私はゆっくり振り返った。
案の定、そこにはぼさぼさの黒髪を無造作に伸ばしひょろりとした背の高い男が立っていた。彼は焦点のうまく合わない目を私に向けている。
何事かと振り向いた生駒くんはすぐに状況を察したようで、元々険しい顔を更に険しくさせた。
「みょうじさん、そ、そいつ、誰?」
そう言って男は生駒くんを指さす。ちらりと生駒くんの顔を見ると目配せをしてきたので、私はそれに頷いて答える。そして男に見せ付けるようにその腕に抱きついた。
「…彼氏だけど」
「う、嘘だ」
「嘘じゃないよ。彼氏がいるからあなたとは付き合えない」
だから諦めてほしいと告げると、男は「でも」だとか「そんなはずは」と唸るように呟いていた。ずっとその調子なためどうしたもんかと考えていると、生駒くんは私を後ろ手に庇うようにし一歩前へ出た。
「でもやないねん。これ以上俺の彼女につき纏うんやめてもらえる?」
「だ、だって、この前までいなかった。いつから…」
「ちょっと前からや。こっちも困ってんねん。彼女も怖がっとるし、やめへんのやったらこっちも考えなあかんなぁ」
生駒くんの圧が凄い。あの仏頂面で、しかも関西弁で言い寄られたら誰でも怖いだろう。小刻みに震えている男を見ながら心の中でほんの少し同情した。
黙っている男に「なんとか言いや」と生駒くんが更に詰め寄ると、目を泳がせた男は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「わかりました…」と呟いた。
「言うたな? 約束やで?」と彼が尚も詰め寄ると、男は更に小さな声で「はい」と答え踵を返して小走りに去って行った。
男の背中が夕闇にのまれ見えなくなり、私は緊張の糸がほどけその場に座り込んだ。
「怖かった……」
「お疲れさん」
しゃがみこんだ私の頭を生駒くんがぽんぽんと撫でる。それが心地よくて少しの間頭を預ける。
やはり、彼氏役を生駒くんに頼んで正解だった。彼ほど威圧感を出せる人はそういないだろう。そう思い顔を上げると、彼は男が消えた方向を睨め付けていた。
「…とりあえず言質取ったけど、あれはどうなるかわからへんな」
「でも、"彼氏いるから諦めて作戦"は決行できたよ。生駒くんのおかげ。本当にありがとう」
「そんな作戦名だったんや。なまえちゃん、あんまセンスないな」
「うるさいわ」
生駒くんは私の手を取って立ち上がらせる。そしてそれを離すことなく駅に向かって歩き始めた。
「ちょっとま様子見やな」
「そうだね、何事もなかったらいいんだけど…」
「なんもなかったら、恋人ごっこも終わりやな」
「…そうだね」
"恋人ごっこも終わり"その言葉は私の心を重くさせた。
そもそも彼に恋人のふりをしてほしいとお願いしたのは私の方だ。だが、いつのまにか彼と過ごす"偽りの時間"が私の中でとても大切なものへと変わってしまっていた。相手の優しさに付け込んでいるだけなのに、なんとも都合のいいものだ。
自分の醜さに自嘲しながら、それでももう少しこのままでいたいと、繋いでいる手を強く握った。