講義を受けながら私はあの男のことを考えていた。
水族館の帰りに声をかけられてから、そろそろ一週間が経とうとしていた。あれからあの男の姿を一度も見ていない。何度か視線を感じることはあったが、見渡しても誰もいないため、神経が過敏になっているのだろうと結論付けた。
あんなに何か月も執着していたのに、そんな簡単に諦められるものなのだろうか。不安は尽きないが考えたところで答えなんて出ないのだからきりがない、と私は小さく頭を振った。
そんなことより考えることは他にもある。
そろそろ、終わりにしないといけない。
あの男の姿が見えなくなって二、三日経った頃、私は生駒くんにいつまで彼氏のふりを続けてくれるのか聞いた。すると彼は「まだ諦めたかわからんし、もう少し続けた方がええんちゃう?」と言ってくれたのだ。その言葉に私はとても安堵した。それが"あの男に対する不安"だけが理由じゃないということは、自分が一番よくわかっている。
だが、いつまでも彼の優しさに頼っているわけにもいかない。私と生駒くんが付き合っているという偽りの真実が、友人たちの間でじわじわと広がってきているのだ。ふりをしているだけなのに、彼からしたらいい迷惑だろう。
講義が終わり、教授が教室から去って行く。私は真っ白なノートに溜息を吐き、板書を諦めて鞄の中へしまった。また今度友人に写させてもらえばいい。
教室から出てどうしたもんかと頭を悩ませながら構内を歩いていると、ちょうど講義が終わったのであろう生駒くんが別の教室から出てきた。
「お、なまえちゃん」
「生駒くん、お疲れ」
なにも言わずとも二人揃って歩き出す。
生駒くんは会うたびにおもしろい話をしてくれる。今日は「迅くんの代返をしたら本人が出席していた」とか「弓場くんと食堂に行ったら一般客にそっちの筋の人と間違われた」とかそんな話だ。彼の周りではなぜこんなにも愉快なことが起きるのだろうか。
話を聞いていると、生駒くんはなにか思い出したように「せや」と声を上げた。
「俺、この後ボーダーの防衛任務が入っとんねん。せやから夕方から一緒におられへんねんけど…」
「そうなんだ、全然大丈夫だよ」
「応援してるね」と伝えると、彼は少し心配したように「なんかあったら連絡してや」と私に告げた。自分も忙しいはずなのに私の心配までしてくれるのか。そう思った瞬間、これ以上彼に迷惑をかけてはいけないのではないかと私は自答した。この関係を続けたいというのはただの我儘だ。彼はきちんと私のお願いを聞いてくれた。なら、今度は私が約束を果たす番なのではないだろうか。
一つ息をのんで私は彼に向き直る。
「あのね、生駒くん」
「ん?」
「もしも今日なにもなかったら、恋人ごっこはもう終わりにしようと思うの」
私がそう告げると、彼は心底驚いたように目を見開いた。それを見て次の言葉に一瞬詰まる。だが、それを悟られたら優しい彼は私がまだ不安がってると思って続行を申し出るだろう。それはいけない。
私は無理やり笑顔を作って口を開いた。
「アイツの姿が見えなくなってからもう一週間経つし、多分もう大丈夫でしょ。これ以上迷惑かけられないよ」
「迷惑なんて、そんなん思てへんよ」
「それに、もしも生駒くんのことが好きな子がいたら、私がいたら邪魔じゃん?」
あははと大袈裟に笑って見せながらそう言うと、彼は「そんなこと、」となにかを言いかけたが、すぐに口を閉じてしまった。
「…せやな。俺の未来の彼女のためにも、そろそろ終わりにしよか」
「うんうん。本当にありがとうね。感謝してもしきれないよ」
「全然ええで。なまえちゃんの彼氏すんの楽しかったわ」
「……それは私も」
鼻の奥がつんと熱くなるのを感じた。このままでは泣いてしまいそうだ。泣いているところなんて絶対に見られたくないため、私は生駒くんに「それじゃ、これからバイトだから」と告げて足早にその場を去る。後ろから「がんばりや」と声が聞こえたが、私は振り向くことができなかった。
夜の十時過ぎ。私は家に帰るために暗い道を歩いていた。
結局涙は堪えられずひとしきり泣いてからバイトに行ったため、店長に何事かと心配されてしまった。まるで恋人と別れた直後みたいな気持ちだと思い、自分で自分を笑った。
ふと、気になって周りに目を向ける。
私の勤めているバイト先は警戒区域のかなり近くにある寂れたCDショップのため、夜遅い時間になると人通りがほぼゼロに近くなる。この時間になると普段は店長が車で大通りまで送ってくれるのだが、今日はこれから古くからの音楽仲間と店で語り合うらしく、一人で帰ることになった。
周りに人影はないため、気のせいかと思い歩みを進める。だが、やはり気のせいではないようで、今度は先程よりもはっきりと"もう一人分の足音"が聞こえてきた。
怖くなって小走りになると、足音も同じスピードでついてくる。大通りまではもう少し距離があるため、どうしようと内心焦りが募る。
その時、ふと昼に大学で生駒くんがなにかあったら連絡するように言っていたのを思い出した。防衛任務と言っていたから携帯など見れないかもしれない。だが、藁にも縋る思いで私は生駒くんにメッセージを綴る。それを送信したと同時に、後ろから誰かに腕を掴まれその拍子に携帯が地面に落ちた。
「みょうじさん」
ひょろりと背の高い男は、以前にも増して焦点の合わない目で私を見下ろしている。切れかけの街頭に照らし出されたその顔は、同じ人間のものだとは思えなかった。どうして今日に限って現れるんだろう。
「きょ、今日はあの男い、いないんだね」
「離して!」
手を振り払おうと試みるが、枝のように細いのに力が強くて思うようにいかない。そうこうしているうちに、両手をがっちりと掴まれる。男はなにがおもしろいのか口元に薄く笑みを浮かべている。
「ず、ずっと考えてたんだ。あんな粗野な男がみょうじさんの彼氏なわけがない、騙されてるんだって」
「私は騙されてなんかない。生駒くんのこと悪く言わないで」
「ほ、ほら、洗脳されてるんだよ。大丈夫、ぼ、僕が守ってあげるから安心して」
驚くほどに話が通じない。男は意味のわからないことを喚き散らしている。周りを見渡すが人は歩いておらず、そもそも警戒区域の近くのため民家もない。こんな夜遅い時間に人気のない道を一人で歩いた自分の浅はかさを恨みつつ、逃げる方法を考えた。
先程の足音で分かったのだが、この男は存外足が速い。大通りまで走ってもきっと辿り着く前に捕まってしまうだろう。
私は覚悟を決め、意を決して男の足を自分のヒールで思い切り踏み抜いた。
すると男は声にならない悲鳴を上げ、掴んでいる私の手を離した。今しかない、と踵を返して走り出す。
後ろから待てと声が聞こえるが振り返らず私は一心不乱に走り、警戒区域の立ち入り禁止ロープをくぐった。