花を散らす雨
*幸村くんの病気の話なので苦手な方はご注意ください。
幸村くんが入院した。いつもと変わりない日の朝に、担任の先生はわたしたちクラスのみんなに、そう言ったのでした。その瞬間、教室はシンと静まり返り、先ほどまで楽しげに談笑していたあの穏やかな雰囲気はどこにもなくなりました。かわりに、驚きと戸惑いとそして悲しみといった感情が、教室を包み込んだのでした。もちろんわたしも、驚き、戸惑い、そして悲しんだうちの1人でした。あの幸村くんが。容姿端麗で成績優秀、誰にでも優しく穏やかで、強豪であるテニス部の部長を務めているあの幸村くんが。何でも持っていて、まさかそんな不幸が彼に訪れるなんて、誰も思ってはいなかったのです。誰かが「みんなでお見舞いに行こう」と言いました。団結力の強いクラスだったので、放課後幸村くんのお見舞いに行くという計画は簡単にまとまりました。
放課後、わたしたちはお花と果物を買って、幸村くんの入院する病院へと向かいました。クラスメイトが入院したという事実は、クラスの雰囲気をどこか異様なものにしました。無理もありません。幸村くんはわたしたちみんなの憧れで、王子さまだったのですから。
看護師さんに幸村くんの病室の場所を訊ね、無事病室まで辿りつくと、クラスでもよく幸村くんと話していた男子が先頭に立って、扉を叩きました。すぐに「どうぞ」という幸村くんの綺麗な声が聞こえてきました。扉を開け、ぞろぞろと中に入ると、幸村くんは入院する前と同じ、柔らかな笑みでわたしたちを迎えました。幸村くんの微笑みを見て、わたしたちは安心し、楽しく談笑することもできました。わたしたちがいる間、幸村くんは1度も笑顔を崩しませんでした。意外とこんなものなのなんだ、というのはわたしだけでなく、みんなが抱いた感想でした。
それから月日が経ち、わたしたちは3年生になりましたが、幸村くんはまだ病室にいました。運よくわたしは3年生のクラスでも幸村くんと同じになり、新しい3年生のクラスでお見舞いに行くことになりました。幸村くんはわたしを見て、「2年も同じクラスだったよね」と話しかけてくれました。まさか幸村くんのような人気者がわたしを認識していたとは思っておらず、驚いたわたしは「うん」という一言しか返すことができませんでした。
それから、わたしと幸村くんは話すようになりました。クラス単位でお見舞いに行ったのはその最初の1度きりでしたが、わたしは個人的に幸村くんのお見舞いに行くようになりました。
わたしが病室に入るたびに「また来てくれたんだね」と出迎えてくれることがとても嬉しく、それが幸村くんのお見舞いに行こうという気持ちに繋がっていたのでしょう。わたしはいつの間にか、微笑みをたたえた悲劇の王子さまに恋をしていたのでした。そしてわたしは、病室でのやりとりが1番多いのは自分だと、優越感に浸っていたのです。初めは毎日のようにお見舞いに来ていた女の子たちも、いつしか病室で甲高い笑い声を上げることもなくなり、幸村くんは静かな病室で佇むことが多くなったのでした。わたしが行くとどこか嬉しそうに笑う幸村くんに、わたしは勘違いをしてしまいそうになるのでした。
いつ行っても、幸村くんは同じように微笑んでいました。強い人なんだな、と思うと余計に幸村くんへの好意は大きくなるのでした。こんなに理不尽な不幸にも真っ直ぐに立ち向かう悲劇の王子さま。まるでおとぎ話のような存在にさえ感じていました。そう、所詮わたし自身の問題ではなく、他人の問題です。だからわたしはどこか客観的に他人事として見ていたのです。
ある日いつものように病室に入ると、幸村くんは窓の外を見つめていました。いつもなら、にこりと笑ってわたしを出迎えてくれるのですが、その日の幸村くんはわたしに笑顔を見せませんでした。わたしに気づいても、微笑みもせず、話すこともしませんでした。わたしはなぜかその姿がとても美しく見えて、また彼への想いが大きくなったのでした。そして愚かなわたしは、いつもと違う幸村くんを、どこか悲しげな幸村くんを、わたしならいつもの幸村くんに戻せると思っていたのです。
「幸村くん」
「……なに」
わたしに対する返事もそっけなく、目を合わせようとはしてくれません。かわいそうな幸村くん。長い入院生活で疲れているんでしょう。わたしが元気づけてあげなくちゃ。愚かな勘違いをしていたわたしはそう思い、幸村くんの手にそっと触れました。
「大丈夫だよ、幸村くん。きっともうすぐ退院できるよ。わたしも一緒に頑張るから」
あとになって考えると、なんと愚かで思い上がった発言だったでしょうか。わたしの言葉に幸村くんは冷たい視線をわたしに向け、そして思い切り手を払いのけました。きっと微笑んでくれる、「ありがとう」とわたしに笑いかけてくれると思っていたわたしは、幸村くんの行動の意味がわからず、呆然としてしまいました。
「……どうしたの、幸村くん?」
「もう、明日から来ないでくれ」
「え……」
「一緒に頑張る?きみが何をしてくれるっていうんだい?俺のために何ができる?毎日お見舞いに来ること?そんなもの、俺は求めていないんだよ!俺のために何かしてくれるって言うならさ、俺と代わってくれよ。俺の代わりに病気と闘ってくれればいい」
黙り込むわたしに、幸村くんは「ほら、何もできないだろう」と冷たく笑いながら言いました。幸村くんから強い拒絶の雰囲気を感じて、わたしは病室をあとにするしかありませんでした。幸村くんに言われた言葉を理解しようと考えてみましたが、まったくわかりませんでした。そもそもわたしと幸村くんは決定的に立場が違いますから、わかるはずもないのです。病気になった幸村くんと、病気になっていないわたし。どんなに幸村くんの立場で考えようとしたって、実際にその立場に立ったことのないわたしには、限界がありました。それに気がつかずに幸村くんの力になれると勘違いしていたわたしに、幸村くんが怒るのは無理もありません。
ああ、なんと愚かだったのでしょう。力になれないことを自覚していれば、また違った結果になったかもしれません。こうなってわたしは、やっぱり幸村くんはわたしとは住む世界が違う人だから、仕方ないなんて思っていたのです。悲劇のヒーローはやはり物語の主人公で、そういう意味でもわたしとは交わるはずがなかったのでしょう。好きだといっても所詮は他人事で、小説やドラマを観るような気分だったということがわかりました。涙は出ませんでした。幸村くんのことは好きでしたが、心のどこかでは幸村くんとは住む世界が違うとわかっていたのでしょう。いつかまた幸村くんがテニスをしている姿を見れますように。
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