濡れた睫毛が揺れた
*幸村くんの性格が悪いです
「ひどい人」
その言葉は、驚くほどにするりと口から出てきた。そのとき、彼は「そうだね」と何の感情もない表情で言った。本当にひどい人だ。どうして私は、この人のことを好きなんだろうか。どうして私は、この人を嫌いになれないのだろうか。
***
彼の印象は「綺麗な人」だ。白い肌や長い睫毛といった、女の子顔負けの見た目の美しさはもちろん、内面の美しさも持ち合わせていると思っていた。誰に対しても笑顔で接して、困っている人がいれば手を差し出して。女の子たちが「幸村くん素敵!」と騒ぐのだって納得できた。私だって、彼を素敵な人だと思った。
そんな私と幸村くんが関わりを持ち始めたのは、1学期の席替えだった。くじ引きの結果、私は真ん中の列の1番前という、とんだハズレくじを引いてしまったのだった。うわ、と顔をしかめた私に友人は「ドンマーイ」と軽い声をかけてきた。他人事だと思って、と私が文句を言うと友人は窓際の後ろから2番目の席の番号が書かれたくじを見せてきた。
「交換しろー」
「やーだよ。いいじゃん、勉強に集中できて」
ため息をつきながら、席の移動を始める。そういえば隣の席は誰なんだろう、と移動しながら考える。あんまり騒がしい男子は嫌だな、無害な男子でお願いします、神様。こんなハズレくじを引かせたんだから。
なんて考えていた私は、隣に来た人を見て驚くことになる。
「隣は米沢さんなんだね、よろしく」
爽やかな笑顔で、私にそう言ってきたのはあの幸村くんだった。
私は「テニス部のイケメンに全然興味ありませーん」という無関心派でも、「テニス部のイケメン最高!テニス部に近づく女はいじめてやる!」という過激派でもなく、普通にテニス部をかっこいいと思っていて、それなりに憧れを抱いていた。実際のところ、無関心派も過激派も数はそんなに多くなくて、1番多いのはこの普通にテニス部に憧れ抱いてます、というタイプなのだ。
というわけで私は、至って普通の、量産型の女の子ということになる。そんな私にもこの王子さまのような美しい笑顔を向けてくれるのだから、やっぱりすごくいい人なんだろうなぁ、と私は勝手に「幸村精市」という人間を美しくて優しい人だと思っていたのだった。
「ヒー、ハブ、ド、ドーン……?」
「doneじゃないかな」
「ダーン?」
「そうそう、そんな感じ」
隣の席ということは、英文の音読でペアになったり、小テストの丸つけで解答を交換したり、と学力がばれてしまう機会が割とある。席替えから1ヶ月も経てば、私の馬鹿な面を何度も見られて、呆れられていることだろうと勝手に落ち込み始めることもあった。ただ、そんな私を見ても彼はくす、と優しく笑って正しい答えを教えてくれるだけで、馬鹿にした様子も呆れた様子も見せたことはなかった。
「羨ましい」と、例の友人は私に言った。アタリ席引いたラッキー、なんて私に言っていたくせに、隣が幸村くんとわかるとこの変わりよう。まあでも、私もあの席はハズレだと思っていたけれど、幸村くんが隣なら悪くないと思っている。そんな素振りを見せれば友人が羨ましいオーラをずっと出してくるから、あまり表には出さないけれど。
そんな「優しくて綺麗な王子さま幸村精市」との関係が少し前進したのは、とある日曜日のことだった。お父さんが上司から美術館のチケットをもらったと言って、お母さんと私と弟を連れ出したのだった。私はそもそも美術館なんて興味はなかったのだけれど、半ば無理やり連れてこられたのだ。「どうせ暇でしょう」と言われ、反抗しようとしたものの、特に予定もなく言われた通り暇だった。
連れてこられたものの、私には絵の善し悪しなんて全然わからなくて、ただお父さんたちの後ろをついていくだけだった。そんな私に背後から声をかけてきた人がいた。「米沢さん」と呼ぶ声だけで私はそれが誰だかわかった。そして私、と家族が声の主を確かめようと振り向く。声をかけてきた張本人である幸村くんは、少し驚いた顔をしていた。
「こんにちは、こんなところで会うなんて思わなくて、声をかけてしまったよ」
いつもと変わらない笑顔でそう話しかけられて、何と答えていいのかわからなくなった。休日に、まさか彼と会うとは思っていなかった。家族が私と幸村くんのことを、面白そうに見ている。
「ご家族の方、だよね」
「あ、うん。なんか、ごめん」
「なんできみが謝るの。あ、初めまして、米沢さんのクラスメイトの幸村精市です。彼女にはいつもお世話になっています」
礼儀正しく挨拶をされて、お母さんやお父さんは幸村くんに「どうも」と頭を下げる。弟はというと、「姉貴の彼氏ー?」と幸村くんに直接訊いていた。ちょっと、と私が止める前に幸村くんは「違うよ、ただのクラスメイト」と簡潔に答えていた。
「ゆり、退屈ならお友だちと一緒に回ればいいわ。その方があなたも楽しいでしょう」
突然の幸村くんの登場ですでに混乱していた頭が、お母さんの発言によってさらにぐちゃぐちゃになる。「べ、別に、友だちってわけじゃ……」と、混乱のあまり回らない舌でなんとかそんなことを言うと、幸村くんが「あれ」と首を傾げた。
「俺たちって、友だちじゃないのかい?」
幸村くんのあの発言により、「じゃあやっぱりそうしなさい」とお母さんが言ったので、私は断る理由も見つけられず、こうして幸村くんと一緒に美術館を回っている。
優しい人だから、気を遣ってくれたのかもしれない。そう思ったのは、幸村くんの隣を歩き始めてしばらく経ったころだった。きっとそうだ。私の親の前で「友だちじゃないです」なんて言いにくいことこの上ない。仕方なく、友だちだと言ってくれたのだろう。
「米沢さんは美術館ってよく来るの?」
しばらくは特に会話もなく、ただ並んで歩いているだけだったが、ふと幸村くんが私に話しかけてきた。
「ううん。今回はお父さんが会社でチケットをもらったから、連れてこられたの」
「その言い方だと、美術館はあまり好きじゃないのかな?」
「えっ、うーん……。好きじゃない、って言えるほど来たことがあるわけでもないから」
なんともいえない、かな。と私が素直に答えていると、幸村くんは少し嬉しそうに笑った。今の会話のどこに嬉しくなる要素があったのかわからない私は、首を傾げる。
「米沢さんは食わず嫌いしないタイプなんだね」
「そう、かな」
「うん、きっとそうだよ。それなら、今日から美術館が好きになるかもしれないね。もしもそうなったら、また一緒に行こうか」
「え、えっ、それは、その」
幸村くんと話していると、なんだか非現実的な感覚があって、まるで夢か私の妄想のように感じる。そんな風に思ってしまう相手から、まるでデートのお誘いのような言葉をかけられれば、うまく言葉が出てこなくなるのも仕方ない。
この日の幸村くんのおかげで、私は退屈だと思っていた美術館を好きになれたのだから、やっぱり幸村くんはすごいと思う。別れ際にそう伝えると、なんだかんだあって連絡先を交換するに至った。面白そうな展覧会があったら、きみと一緒に行きたいから。だそうだ。
マメな幸村くんは、その日の夜にお礼とこれからよろしく、という内容のメッセージを送ってきた。連絡先を交換したものの、まさかこんなにすぐ幸村くんとやりとりすることになるとは思ってなくて、返事を考えるのに時間がかかってしまった。送信するのにこんなに緊張したのは初めてだった。
その後幸村くんは、その言葉通り誰々の展覧会があるから、一緒に行かない?というメッセージを送ってきた。暇な帰宅部の私がその誘いを断るはずもなく、もちろん、と返信すると幸村くんからは顔文字つきのよかった、という言葉と集合場所と時間の提案が送られてきた。幸村くんと出かけるということが現実味を帯びてきて、少し怖くなったことを覚えている。
それ以来、幸村くんは度々私を誘うことがあった。学校でも以前より話しかけてくれるようになって、あの幸村くんと友だちになれたのかな、と嬉しくなった。ただ、私は強欲で、こんなものでは足りなかったのだ。
いつしか私は、幸村くんのことを好きになっていた。幸村くんが私と仲よくしてくれるから、勘違いしそうになった。そんなわけない、と自分を叱って、それでもいつかつき合えたらいいなあ、なんて。
さらにときは流れて、何度幸村くんと2人で出かけたことだろうか。私の幸村くんへの想いはどんどん大きくなっていって、もう抑えが効かないほどになっていた。次に会うときに告白してしまおう、と決心したのはある日の夜のことだった。次の日曜日には幸村くんとの約束があった。当たって砕けろ、そんな思いで来たる日曜日を待っていた。
しかし土曜日の朝、携帯を見てみれば幸村くんからのメッセージが来ていた。明日家の急な用事で行けなくなった、ごめんね。というものだった。なんだか拍子抜けして、腹は立たなかったけれど残念だった。ううん、気にしないで。と返信して、これはもしかしたら神さまが告白するな、って言ってるのかな、なんて思う。たとえそうだとしても、ごめんなさい神さま。私は幸村くんが好きなんです。
その日以来、幸村くんからのメッセージが来ることはなかった。それだけなら、忙しいのかな、で済ませることができたけれど、幸村くんは学校でもあからさまに私を避け始めたのだ。なんで?と頭の中は疑問符でいっぱいになって、泣きたい気持ちになった。何かしてしまったのか、思い返してみるけれど、心当たりはない。どうしよう、どうして。
「幸村くん」
私が声をかけると、幸村くんは面倒そうに私を見た。なんだか、幸村くんじゃないみたい。それでも勇気を振り絞って、話したいことがあるから屋上に来てください、と言う。少しの間があって、幸村くんは「わかった」と答えた。
「それで、何の話かな」
「私、幸村くんに何かしたかな……?」
「どうして?心当たりでもあるの」
「ない、けど」
「そう。ああ、そうだ。俺もきみに言いたいことがあったんだ」
気まずい雰囲気の中、幸村くんが口にしたのはあまりにも残酷な言葉だった。
「俺の連絡先、消してくれないかな」
何を言われたのか、わからなかった。どうして?と今度は私が訊くと、どうしても、と素っ気なく答えられる。
「理由がないなら、消したくない。こんなときに言うつもりじゃなかったんだけど、その。私、幸村くんのことが好き、なの」
私がそう言うと、幸村くんの瞳はさらに冷たくなった。
「だからだよ」
「え、何が?」
「きみが俺を好きになったことは知っていたよ。だから、俺の連絡先を消してほしいんだ。もっとわかりやすく言えば、俺はきみともう連絡をとりたくない」
「……幸村くんを好きになるのは、駄目なの?」
うん、と。面倒だから、と幸村くんは言った。女子に好かれるのは面倒だ、と。信じられない、という顔をする私に幸村くんは、「そんなに驚くことかな」と不思議そうに言う。
「俺は今までも同じことをしてきたよ。好きになられたら、縁を切って」
「ひどい人」
その言葉は、驚くほどにするりと口から出てきた。そのとき、彼は「そうだね」と何の感情もない表情で言った。本当にひどい人だ。どうして私は、この人のことを好きなんだろうか。どうして私は、この人を嫌いになれないのだろうか。
この話を聞いても、私のどこかには彼に憧れ、好きだという気持ちが残っている。馬鹿だと自分でも思う。それでも私は、彼を、幸村くんを嫌いになれない。
「俺はひどい人なんだろうね、きみから見れば。でも、きみが俺を好きにならなければずっと仲よくするつもりだったんだよ。どうして俺に恋愛感情なんて抱くのさ。そうなったらもう、友だちでなんていられないのに」
そう、嘆くように言う幸村くんは、どうしようもないほど綺麗だった。憂うような表情はまるで、絵画の中のようで。長い睫毛が幸村くんの瞳を覆って隠してしまう。ひどい人、私はもう1度呟いて、屋上をあとにした。
ピアスホウルさまに提出