彼のいない日常

 

 八神さんと別れてから、心にポッカリと穴が空いたような日々を過ごしていた。
 
 何処に行っても、何を見ても八神さんとの記憶が蘇って余りの情けなさに笑ってしまうくらい。自分から別れを切り出したくせに、いつまでも未練を断ち切る事ができなかった。

 このままじゃ駄目になると、重い腰を上げて私は逃げる様に神室町を去った。家を退去する時、八神さんの残していった衣類なんかを見つけては泣きそうになり、結局直接返す勇気も出ずにさおりさんに押し付けてしまったけれど。

 空っぽになった部屋はもう、「おかえり」と言ってくれる人はいない。それなのに家の鍵につけていたブタみたいなネコのキーホルダーだけは、捨てられずにいた。それは今でも大切に、家の引き出しへと仕舞ってある。いつかきっと、捨てられる日が来ることを上っ面の心で願いながら。
 
 
 引っ越した先の異人町では、私は小さな会社に転職して穏やかな毎日を送っていた。知らない街では当たり前に八神さんとの思い出はなくて、少しだけ心が前向きになった気がした。

 そうして仕事にも慣れて生活が落ち着いた頃、行きつけのコーヒーショップで店員さんに告白されて、私はそれを受け入れた。彼に特別な感情を抱いていたわけじゃないけれど、付き合っていればいつか好きになるだろうと、八神さんを忘れるキッカケになるだろう、という不純な理由だった。
 
 けれどそれは、逆効果だった事を私は思い知る。
 
「うわ、チンピラじゃん。絡まれたら危ないからあっちから行こうぜ」
「え? …あ、うん。そうだね」

 デートの途中、視界の端でガラの悪い男たちが店のスタッフに絡んでいるのが見えた。同じくそれを見た彼は不快そうに眉根を寄せて、少し遠回りだけど迂回する道を選んだ。勿論私にはあの男たちに立ち向かったところで勝ち目などないし、自分にできない事を彼に要求する権利はない。

 ただ、頭の片隅で八神さんなら真っ直ぐに助けに行くのにな、と思ってしまった。思うべきじゃ、なかった。気がつくと彼と会う度に、無意識にここにいないはずの八神さんの影を追いかけていた。コーヒーの飲み方、寒い時に肩を竦める仕草。気まずい時に首の後ろをかく癖。彼と八神さんとの違いを見つける度に、心臓がヒヤリと冷たくなる。本当、笑っちゃうくらいに未練タラタラだった。

 
 
 それから、もう一つ困ったことがある。


「ちょっと、やだってば!」

 彼への罪悪感を消すためにも彼を好きになろうと思えば思うほど、触れることを心が拒否してしまうこと。手を繋いでも、キスをしても、あの時のように幸せな気持ちになれないでいる。

「なんでだよ!ガキのお付き合いじゃあるまいし、そろそろいいだろ?」

 彼に乱暴に組み敷かれて、これから何をされるのか理解するとゾワゾワと鳥肌が立つ。そこで初めて、もう無理なのだと泣きそうになる頭で漸く理解した。無理やり服の下に入り込む手に必死に抵抗して、思いっきり彼の体を突き飛ばした。ベッドの端に飛ばされた彼は、目を丸くしてこちらを見ている。

「…お願い。もう出て行って」
「は?ちょっと待ってよ。俺たち恋人同士だろ?」
「ごめん、ごめんなさい。私やっぱり貴方の事好きになれない」
「なん、だよそれ…!」
「少なくとも、こんな事無理やりするような人は好きになれない。ならない。もう別れよう。二度と来ないで」

 乱れた衣服を戻しながら、なるべく強く見えるように硬い声を絞り出す。動揺している彼に、泣かないように必死に目力を込めて睨むと、彼は一瞬怯んだ後何か暴言を吐きながら乱暴にドアを閉めて出ていった。そうしてやっと静かになった部屋で、何度も深呼吸を繰り返す。
 
「…大丈夫」
 
 自分に言い聞かすように、目を瞑って涙を堪える。大丈夫。いつかきっと、忘れられる日が来る。そう言い聞かすのに、視線はあの合鍵を仕舞った引き出しに向けられてしまう。瞼の裏に八神さんの柔らかな笑顔を思い浮かべながら、涙が溢れないように必死に歯を食いしばった。自分には、泣く権利などないのだから。
 


 * * *
 
 
 
「よう、あんたがあの狸じじいの愛娘か」
「え、っと…?」

 朝、少しだけ腫れた瞼で出勤すると見慣れない男の人がいた。人の良さそうな、けれど少しだけ胡散臭さを感じさせるような笑みを浮かべ、その人は私に名刺を差し出す。

「便利屋くわな…?」

「桑名仁だ。この街で長年便利屋業をしている。金さえ払ってくれればなんでもやるぞ。ここの狸じじい、…社長とは昔からの縁でな。お嬢の話を聞いて一度会ってみたいと思ってたんだ」
「お嬢って…?」
「あのじぃさん、ヤクザみたいな顔してるだろう。そのじぃさんが娘のように可愛がってるから、ちょうどいいあだ名じゃないか」

 そう言って桑名さんはニヤリと笑った。確かに社長はとても一般人とは言えない強面だけれど。まさか初対面の人にそんなあだ名を付けられるとは思わなかった。チラッと社長を振り返ると、不服そうに桑名さんを睨んでいる。その顔は、まさにヤクザのような顔だ。桑名さんはそんな社長の視線にも気にした様子もなく、右手を差し出してきた。

「ようこそ、異人町へ。何か困ったことがあったらいつでも頼ってくれよ」

 その右手を掴みながら、私はどこか懐かしい気持ちを覚えた。まるっきり違うのに、桑名さんはどこか八神さんを思い出させる。私は曖昧な笑みを浮かべて「よろしくお願いします」と返事をした。

 社長と仲がいいとはいえ、私自身は便利屋業とは程遠い生活だ。早々会うこともないだろう。そう思っていたのに、それは随分と早く、私は桑名さんに助けられることとなるのだった。
 
 
 
 
 
 
 * * *
 
 
 ここ数週間、誰かの視線を感じることがある。仕事帰りや買い物中、何気ない時にふと誰かに見られているような気がしてしまう。けれど生憎と私は探偵でもないのでその視線がどこからきているのかとか、そもそもハッキリと私宛の視線なのかという確信も持てず。警察に相談する自信もなくモヤモヤとした日々を送っていた。
 
 いつものように退勤し、小さなオフィスビルを出る。今日はまだ視線は感じられない。今のうちにさっさと帰ってしまおう。そう思い俯いていた視線を上げると、数歩先で数週間前に見た顔がこちらを振り返った。

「よ、お嬢」
「…桑名さん」

 桑名さんは私を見ると片手を上げて挨拶をし、壁にもたれかかった背中を起こす。てっきり社長に用があるのかと思いその横を軽く会釈して通り過ぎようとすると、桑名さんの手が私の腕を掴んだ。

「えっ…」
「つれないな、俺はお嬢に用があって来たんだが」
「私に?」

 桑名さんに用事を作られる理由も分からず首を傾げると、桑名さんはさり気なく肩に手に回しながら歩き出した。戸惑う私に人懐っこい笑みを浮かべ、「コーヒーでも飲まないか」と誘う。一瞬迷ったけれど桑名さんの用事も気になったのでこくりと頷き、二人で近くの喫茶店へと足を踏み入れる。

 レトロちっくな古い喫茶店はオレンジの落ちついた照明に照らされていて、どこか懐かしく落ち着ける雰囲気だ。店内を見回すと、中途半端な時間なこともあってさほど混んでるようには見えない。私と桑名さんは窓際の席を選び、お互いにホットコーヒーを頼む。
 
「お嬢は、俺のことが苦手だろう」

 唐突にそんなことを聞かれ、思わず飲んだばかりのコーヒーを吹き出しそうになった。誤魔化すようにもう一口コーヒーを流し込んで、無理やり笑みを浮かべる。

「まさか。私、桑名さんと会ったのはこの前が初めてですよ」
「そう、そのはずなんだがなあ。これでも人を見る目はあるんでな。なんとなく、苦手意識を持たれてるのは分かるさ」
「…すみません」
「謝ることはない。人には合う合わないはあって当然だからな」

 フッと落ち着いた笑みを浮かべる桑名さんは本当に気にした様子はない。多分、三十代後半か四十代前半ぐらいの年齢だとは思うけど、随分と大人びた人だな、と思った。大人なのだから当然なのだけど、どこか彼の人生経験が人とは違うような気がして、私は気がついたら口を開いていた。

「すごく、個人的なことで申し訳ないんですけど…。桑名さんが、ちょっと知り合いに似てまして…」
「俺が…? もしかして、最近元気のない理由はそいつのせいか?」
「え?」
「この前飲み屋でじぃさんと会った時に、お嬢の元気がないって心配してたぞ。ちょっと前に彼氏と別れたって聞いたから、そいつが原因なんじゃねぇかって」
「うっ…。私、そんな態度に出てたんだ…」
「当たりか? 俺でよければ、悩みでもなんでも聞くぞ。なんせこの街の優秀な便利屋様だからな」
「もしかして、私に用事ってそれですか?」
「ヤクザみたいな顔したじぃさんのしけた顔見て飲む酒は不味い」

 しれっと言い放つその姿は、素直じゃないけれど社長のことを心配しているんだと理解できる。そしてその社長の悩みである、私の悩みを解決してくれようとしているらしい。遠回りなお節介とチグハグなその関係に、くすっと笑みが溢れた。

「心配おかけしました。でも、大丈夫です。…彼と別れたことは実はそんなに引きずってなくて」
「そうなのか?」
「はい。どっちかっていうと、彼と別れたことより、彼と別れる原因に問題があるというか…」
「なんだ、もしかしてその男の浮気とか暴力とかか?」
「あ、違います! むしろ、悪いのは私なんです」

 眉間に皺を寄せる桑名さんに、慌てて手を振って否定する。最後は確かに無理矢理ことを進めようとした乱暴さはあったけれど、根本的な原因は私にある。
 まだほのかに温かさの残るカップを両手で包みながら、私はぼんやりと八神さんのことを思い浮かべた。私がこうして彼氏を作ったように、八神さんももうとっくに新しい彼女を作っているのかもしれない。今度は私みたいに口うるさくもなくて、もっと理解のある彼女を。

「さっき言った、桑名さんに似てる気がするって言った人。私、その人のことが大好きだったんです。でも色々あって別れちゃって。忘れたくてこの街に引っ越してきたんです。それで、その彼氏を忘れたくて彼と付き合うようになったんですけど…。私の気持ちが中途半端だったせいで彼を傷つけちゃいました」

 真っ赤に顔を染めて告白してきてくれた彼を思い出す。彼はきっと、真っ直ぐに私を好いていてくれた。それなのに、私はいつも彼と八神さんを無意識に比べていた。改めて思えば、本当に最低なことしたと思う。

「なるほど。恋の悩みは、専門外だな」
「あ、すみません。ベラベラと…。でも本当、大丈夫ですから。こういうのって、時間が解決してくれるっていうじゃないですか。今は仕事も楽しいですし、ちょっとだけ前に進めてる気がするんです。だから、もう早く忘れようと思います」
「…それは、本当に忘れていい記憶なのか?」
「え?」

 落としていた視線を上げると、桑名さんの静かな顔と目が合った。少し暗い照明のせいだけじゃない。なんだか奥深い闇のように沈んだ目に、吸い込まれそうになる。急激に喉が渇くような錯覚を起こして、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「悪い記憶も、自分の犯した罪も、忘れられたら楽だけどな。そうじゃないからみんな苦しむ。だったら、その苦しみさえも利用して生きる方がまだマシだぞ」
「…桑名さん?」
「……なんてな!すまん、ただの恋愛相談だったな」
「いえ…」

 パッと表情を変えた桑名さんは何事もなかったかのようにコーヒーを飲み干した。カチャン、と小さく音を立てたカップは、この時間の終わりを示している。桑名さんはまるでこちらからの質問を拒むように、「まあ、本当にしんどくなったらいつでも電話をくれ」と優しく微笑んで席を立った。ポカン、とその様子を見ていた私はハッとして慌ててその背中を追いかける。
 すぐに財布を出そうとしたけれど、それよりも早く桑名さんが会計を終えてしまっていた。気さくな笑顔で気にするなという彼に、もう一度頭を下げる。
 

 やっぱり、彼はどこか八神さんと似ている。
 
 
 
 
 
 

 その帰り道。
 桑名さんと別れてなんとなく歩きたい気分になった私は、いつもより少し遠回りな道を選んだ。薄暗い道は人通りも少なく、ごちゃごちゃになった頭を整理するには丁度いい。変わった看板やどこかの家の夕飯の匂いを嗅ぎながら俯き気味に歩いていると、じゃり、と砂を削る音が前方から響く。条件反射で顔を上げると、そこには暫くぶりの彼がいた。驚いて数歩後ずさると、彼は一瞬で間合いをつめて乱暴に手首を掴んでくる。

「きゃっ…、!」
「さっきの男、誰だよ」
「な、何言って…」
「俺と別れてすぐ新しい男作ってんのかよ、このビッチが!」

 突然浴びせられた暴言に、カッと頬が熱くなった。痛いくらいに掴まれた手首を振り払おうと暴れたけれど、相手の力が強くこちらの足元がふらついてしまう。せめてもの抵抗で彼を睨むと、どこかやつれたような顔で、彼が自嘲気味に笑った。

「お前さぁ」

 三日月のように細まった目が、怯えた私の顔を捉えて離さない。

「いっつも俺のこと、他の誰かと比べてただろ」
 
 ──ああ、バチが当たったんだ。
 
 八神さんの代わりを見つけるみたいに彼氏を作ったから。あんなにも、誰かを好きになる幸せを教えてもらったのに。あの大切な記憶でさえ裏切るようなことを、私はしてしまったんだ。被害者ヅラして泣いたって、間違いなく私は彼を傷つけた立場だ。

「ざっけんなよ!」

 振り上がった彼の手を、ただボーッと見ていた。殴る権利が彼にはあるだろうし、殴られる理由が私にもある。それが分かっていても、怖くて足が竦んでしまう。無意識に逃げようと動く体を、掴んだままの彼の手が阻止していた。
 殴られれば痛いだろうか、とどこか他人事のように考えて、ぎゅっと目を瞑った。
 
 
 ──ねぇ。助けてよ、八神さん…!
 
 
 
「そこまでだ」

 突然落ちてきた第三者の声に、びくりと肩が震えた。瞑っていた目を開けると、そこには先ほど別れたはずの桑名さんが立っていた。ほっとしたのと同時に、言いようのない感情が胸を占めてキュッと唇を噛んだ。──私は今、何を期待していた?

「あんたがお嬢の元彼か。全く、どんな理由があろうと、女に手を挙げる奴はクズだぞ」
「お前、さっきの男か…。ハッ! ヒーローのお出ましってか?」
「残念だが俺は彼氏ではないし、ヒーローとは程遠いな」
「だったら関係ねぇだろ!」
「それもそうなんだが。目の前で殴られそうになってる女を放っておくほど俺も薄情じゃない。何よりその子はうちのお得意様の、大事な娘みたいなもんだからな」
「はあ?部外者なら大人しく引っ込んでろよ!」
「っ桑名さん!」

 私から手を離した彼は、真っ直ぐに桑名さんへと殴りかかった。思わず桑名さんの名前を叫ぶも、彼の振り翳した拳をあっさりと避けて、逆にその腕を掴み簡単に捻り上げてしまった。何が起こったのか理解できていなさそうな顔の彼に、桑名さんが顔を近づける。

「俺に手を出したってことは、相当の覚悟あるんだな。なあ?」
「へっ…、?」
「俺ァ裏社会にも顔が効くんだ。お前、夜道を一人で歩く勇気はあるのか?」

 恐ろしく冷たい声に、言われた本人じゃないのに私までぞくりと背筋が凍った。当人である彼はもっと恐怖を感じたらしい。顔面蒼白にさせて、桑名さんを突き飛ばして脱兎の如く逃げた。その背中をなんとも言えない感情で見送っていると、やれやれ、と肩を竦めた桑名さんが振り返る。

「大丈夫か?」
「あっ…ありがとうございます。でも、なんで桑名さんが?」
「喫茶店に入ったあたりからあの男がお嬢を見ているのに気がついてな。気になって後を付けてたんだ」

 …全然気が付かなかった。
 もしかしたら、最近の視線の正体は彼だったのかもしれない。俯く私に、桑名さんが手を伸ばす。優しく私の手を取って、「痛むか?」と聞いた。さっき彼に強く掴まれていた手首は、うっすらと赤く色づいている。

「…少しだけ。でも、大丈夫です」
「今はアドレナリンも出て痛みに気づいていないだけかもしれない。よく冷やした方がいいな。痛みが長引くようなら、病院にも行った方がいい」
「はい」

 桑名さんの話を聞きながら、私は全く別のことを考えていた。
 彼に殴られそうになった時、私は咄嗟に八神さんに助けを求めた。散々八神さんに喧嘩をして欲しくない、怪我をして欲しくないと言っておきながら、自分がピンチの時都合よく助けを求めるなんて。私はなんて、自分勝手なんだろう。

「お嬢?」

 ポタッ、と桑名さんの手に私の涙が落ちる。ああ、だめだ。早く言い訳しなくちゃ。そう思うのに、喉から出てくるのは小さな唸り声だけで、まともに声を発することができない。目の前で、桑名さんがどうしたものかと戸惑っているのが気配で分かる。

「もう大丈夫だ。あいつなら、俺がもう二度とお嬢の前に姿を現さないようにしてやる。な?」

 私が彼に対する恐怖心で泣いていると思ったのか、桑名さんの優しい声が頭に降ってくる。早く泣き止まなくちゃと思うのに、ぽんぽん、と遠慮がちに背中を撫でられて、堰を切ったようにどんどん涙が溢れてしまった。
 
 
 ──忘れていい記憶なのか?
 
 
 桑名さんの言葉が頭を過ぎる。忘れていい記憶なんかじゃ、ない。忘れたい思い出なんかじゃない。都合よくてもいい。自分勝手でもいい。それでも私は、あの一年が確かに幸せで、あの人の笑顔が大好きだった。
 
 
「…うっ、……うぅ…っ、」
 
 苦しくて流れ出るこの涙が、全部洗い流してくれればいいのに。
 そう思うのに、この心にこびりついた八神さんへの感情は、涙なんかじゃ落とせない。
 
 





 
 さよならと、八神さんに告げたこの口で

 会いたい、なんて。
 
 そんなことを言う資格なんて私にはないのに。
 
 
 
 
top.