愛に埋もれる

 異人町に越して来てから、三年の月日が流れた。
 あれからもう彼氏を作ることもなく、仕事をしたり友達と遊んだりと比較的平和な日々を送っている。そういえば、あの時の元彼は桑名さんのいう通りあれ以降二度と目の前に現れることはなかった。
 
 そんなある日のこと。
 仕事を終えて帰宅中、桑名さんを見かけた。特に用事があったわけではないけれど、あれから桑名さんとは会えば話すような仲になっていたし、何も考えずに声をかけた。その時は物陰で隠れて見えなかったけど、彼の側にもう一人いる事に気がついた。
 あっ、と思い慌てて謝罪しようとして、その人を見て息が止まるかと思った。

「…八神、さん」
「ん? …あ、」
「なんだ、二人とも知り合いか?」
「ああ……うん、まあ…」

 八神さんも驚いた様に目を見開いて、不思議そうに首を傾げる桑名さんに何と言えば良いの分からず言い淀んでいる。どうして二人が?と疑問を抱きつつ、私も上手く言葉を探せなくて、分かりやすくオドオドと目を伏せてしまった。
 そんな私たちの状況に何かを察したのか、桑名さんは「何だ、邪魔そうだから席を外そうか」と気を使って本当にその場から去ってしまった。

 待って、と言いたかったけれどそんなあからさまに避けるのも気が引けて、足は地面に縫い付けられた様に動かない。

「…久しぶり」

 三年ぶりの、八神さんの声が頭上から降ってきた。
 無視するわけにもいかず、バレない様に小さく深呼吸をする。それから、意を決して顔を上げた。視界に映るのは三年前と変わらない、優しい笑みを浮かべた八神さんだ。

「……八神さん、変わらないね」
「そう?ちょっと白髪が増えたよ」
「うそ。実年齢より若く見えるって言われるでしょ。……海藤さんは、元気?」
「うん。相変わらずだよ」

 思ったより、普通に会話を続けられた事に自分でも驚いた。数分間世間話をしただけで、緊張して固まっていた肩が解けていく。それなのに、八神さんの声を聞くだけで痛いくらいに心臓が軋んだ。その理由は、今は到底考える余裕もない。

 暫く何事も無かったかのように、お互い付き合っていた頃の話には触れず当たり障りない会話を続ける。
 どうやら彼は仕事で暫く異人町に通うらしい。
 また見かけたら声をかけてよ、と彼は笑い、私もそっちもね、と笑い返した。

 事実、それから彼を異人町で見かける機会が増えた。時には海藤さんと共に歩き、時には最近できた探偵事務所の若い探偵さんと歩き。街の高校生や半グレ達と喧嘩したりして、相変わらず忙しそうに彼は何かを追いかけていた。



 
 
 * * *


 会社から帰る途中、今にも泣き出しそうな空を見上げた。天気予報では夕方から猛烈な雨が降るらしい。少し急いで歩いていると、建物の隅で電子タバコを吸っている桑名さんを見つけた。
 物思いに耽っている様子に声をかけるか迷ったけれど、以前のことを謝ろうと側に近づくと桑名さんは声をかけるより先にこちらに振り返った。前から思っていたけれど、桑名さんは人の気配に敏感だ。

「よう、お嬢。この前は大丈夫だったか?」
「あー、はは。大丈夫です。変な気を使わせたみたいで、すみません」
「気にするな。これは俺の勘だが、あいつだろう。例の、忘れられない男ってのは」
「……正解です」
「やっぱりな。あいつが気に食わないなら、俺がやっつけてやろうか?」
「喧嘩はだめですよ」

 なんだ、残念。と桑名さんは至って真面目に呟いた。何となく、桑名さんと八神さんは相性が悪いのかもしれないと思う。というよりは、よく似ているが故の同族嫌悪に近いのかもしれない。上手く言えないけれど、二人の正義感は似ているところがある。

 ──嗚呼、だから桑名さんと話していると少し落ち着くのかもしれない。
 優しげに笑う姿とか、困っている人をほっとけない行動力とか、街の人から慕われる人柄だとか。
 思わずジッと桑名さんを見過ぎていたのか、桑名さんは「どうした?」と首を傾げた。

「桑名さんって、彼女いるんですか?」
「お、なんだ。お嬢にしては珍しい話題だな。まあでも、残念ながら今はそういう存在はいないな」
「え、意外です。桑名さんモテそうなのに」
「ははっ。こんなおっさん相手に褒めても何も出ないぞ」

 そう言って謙遜する桑名さんだけど、実際彼はよくモテると思う。整った顔をしているし、職業柄かいろんなことに詳しく博識だ。それでいて何でも解決できるのだから、あちこちで聞く『便利屋くわな』の評判は頗る良い。そしてその評価の中には女性たちのそいういう『目』も含まれる。

 それでも桑名さんに浮いた噂がないのは既に彼女がいるのか、恋愛ごとに興味がないのかどちらかだと思っていた。

「なんだ、もしかして俺を口説いてるとか?」

 ニヤリと冗談っぽく笑って、桑名さんの手が顔に伸びてくる。くい、と顎に手をかけられ視線が上に向き、桑名さんの悪ふざけを含んだ目線と目が合った。
 揶揄われてると分かると、ムキになるのも馬鹿馬鹿しくて私は呆れた様にジトっとした目つきを桑名さんに送る。

「口説いたら落ちるんですか?」
「そりゃ、お嬢みたいな可愛い子に口説かれたら男なんてイチコロだろう」
「………そんな事、ないですよ」

 やんわりと桑名さんの手を掴んで離し、力なく笑う。実際、八神さんには私の声は届かなかったのだから。時々大きな怪我をしてくる八神さんを心配すればする程、彼が離れていくのを感じていた。
 彼にとって私は、少し重かったのかもしれない。それでも八神さんが好きで、大切だからいつも無事でいて欲しかった。無茶をしてほしく無かった。もっと自分を、大切にして欲しかった。あの時病室で眠る八神さんの顔を思い出しては、未だにチクリと胸が痛む。

 異人町で八神さんと再会してからというものの、うっすらと色を失いかけていた八神さんとの思い出が再び蘇ってきて単純な頭だと呆れる日々を送っている。
 
「──莉子」

 不意に、背後からかけられた声に驚いて肩が跳ねた。振り返ると険しい顔をした八神さんが、桑名さんを睨む様にして立っている。
 どうしたの、と声をかけるよりも早く、ずんずんと近づいてきてパシッと私の手を取った。それなのに視線は桑名さんを睨んだままで、こちらを見向きもしない。

「何してんだよ」
「おいおい。酷い言い草だな。楽しい二人の会話に乱入してきたのはそっちだろ?」
「さっき顔に触ってたよな。そういうのセクハラっていうの知ってる?」
「ちょ、ちょっと八神さん…!?」

 何故か私を桑名さんから隠す様に自分の背中にやって、八神さんは桑名さんに噛み付いた。それはどう見てもいちゃもんを付けているのは八神さんの方で、桑名さんも呆れた様子で首を振っている。
 ただならぬ八神さんの雰囲気に、慌てて止めに入ろうとした所でポツ、と冷たい何かが頬に落ちる。空を見上げると、どんよりとしていた空は益々暗く陰り、細かな雨が降り始めたところだった。

「…っと、雨か。濡れるのは御免だ。俺は先に帰るぞ」
「おい、待てよ。話はまだ…」
「八神さん、こっち!」

 まだ桑名さんに食ってかかろうとする八神さんの腕を無理やり引っ張って、桑名さんから距離を取る。ごめんなさい、と軽く頭を下げると桑名さんは困った様に笑って手を振ってくれた。

「お嬢、俺はいつでも口説いてくれて構わないぞ」
「えっ…!?」
「てめっ…、!」
「八神、自分の不甲斐なさを俺のせいにして救われた気になるなよ」
「………っ!」

 桑名さんにひと睨みされて、八神さんはハッと息を呑んで固まった。その横顔が何だかとても苦しそうで、心配になる。今日の八神さんは、何だか少し様子が可笑しい。
 そうこうしてある間にも雨は強さを増してきて、バケツの水をひっくり返した様な土砂降りになっていった。今度こそ桑名さんは身を翻し、雨から逃れるべく走り去っていく。

 残された私たちももう既に全身びしょ濡れで、今更雨宿りする気も起きない。こうなればもうヤケだ。私は意を決して、気まずそうに視線を落とす八神さんの腕を引っ張った。



 *
 
 
 
「どうぞ、前より狭い部屋だけど」
「…お邪魔します」

 八神さんの口からその言葉を聞くのは、何年ぶりだろうか。以前は半分同棲のようなものをしていたし、合鍵を渡してからは私より早く部屋に上がって「おかえり」と柔らかく微笑んでいた彼がいた。

 別れてから何年も経つのに、その言葉に違和感を覚えるなんて随分と図々しい心だ。チクッと痛む心に気づかないふりをして八神さんをソファに座らせて上着を脱がし、ハンガーにかける。新しいタオルを持ってきて渡すと、「さんきゅ、」と小さくお礼を述べて大人しく受け取った。

「ゲリラ豪雨かな。すぐやむといいけど…」
「なあ、」
「なあに、…きゃっ、!」

 部屋の中に八神さんがいるということが落ち着かなくて自分の家なのにウロウロと忙しなく動いていると、不意に八神さんに腕を引っ張られる。

 座っている彼の正面に倒れ込みそうになって、咄嗟に彼の足の横に跨ぐ様にして片膝をついた。中途半端な中腰の姿勢ではグッと距離が近くなって、変わらない端正な顔立ちに心臓が馬鹿みたいに高鳴る。

「桑名とどういう関係なの?」
「…何で、そんなこと聞くの」
「………もしそう≠ネら嫌だから」

 ポタポタと、頭から滴る雨の水滴が私の髪から八神さんの鎖骨へと落ちていく。雨に濡れて全身凍える様に冷たいはずなのに、八神さんが触れているところだけまるで火をつけた様にカッと熱を帯びていくのが分かる。
 八神さんの真意が分からなくて瞳を覗き込んでも、泣きそうに顔を歪める私が映るだけで何も分からない。

 ──八神さんは、ずるい。

「…桑名さんは、ただの知り合いだよ。街で会えば話もするし、冗談を言ったりするような…普通の仲だよ」
「でもさっき、顔触られてただろ」
「あんなの、ちょっとふざけてただけだよ」

 どうして私は、八神さん相手に言い訳じみたことを言ってるんだろう。八神さんはもう、彼氏でも何でもないのに。
 腕を掴んでいた八神さんの手が、するすると登って私の顔に触れる。そのまま、壊れ物を触る様な優しい手つきで頬を撫でた。
 思わずそれに擦り寄ってしまいそうになって、唇を噛んで耐える。それに気づいた八神さんの指先が、そっと唇をなぞった。

「……ごめん」
「……なにが」
「全部。さっきの俺の行動も、…あの時も」

 あの時≠ェ明確に何を示しているのか分からなくて、つい黙ってしまう。何も言わない私に、八神さんの目が不安気に揺れた。いつも自信満々で、行動力に溢れる八神さんのそんな顔を見たのは初めてで、余計に言葉が出てこない。
 唇をなぞっていた手が離れて、何かを堪える様にぐっと彼の膝の上で拳が握られる。その手を包みたくなるのを抑え、雨で張り付いている八神さんの前髪を払った。

「…本当は、ずっと後悔してる。あの日、別れを告げられてからこの三年間、一度だって忘れた事ないよ。…本当に、本当に好きだったんだ。…あの頃から、今でもずっと」
「……」
「俺はこんな性格だから危険な事にも首を突っ込むし、俺は俺の正義を曲げる気はないんだけど。でも、極端な話だけど死んでも良いやって思った事はないよ。いつだって、君の為に生きてる。…本当は、ずっとそう言いたかった」

 別れたあの日の事を、八神さんは今も覚えているのかな。
 ナイフで刺されるなんて普通じゃないし、ましてやそれが自分とは関係のない他人の事情に首を突っ込んだからだなんて。
 頭の片隅にでも私の事は思い浮かばなかったのかなと、ずっと思っていた。
 
 誰かのためじゃない。
 自分の為に、私の為に、生きていて欲しかった。
 私は八神さんと一緒に、生きていたかった。



 ぽろっ、と涙が溢れて目の奥がじんっと熱くなる。
 八神さんは馬鹿だ。大馬鹿だ。


 ──そんな八神さんを、この三年間忘れられなかった私も、きっと大馬鹿者だ。


「なんで、それをあの時言ってくれなかったのっ…!」

 涙で滲む視界に、戸惑う八神さんの顔が映る。
 八神さんが何かを言う前に、そっと両手で顔を挟み込んで自分の唇で彼の口を塞いだ。口付けをしながらも、私の両目からはずっと涙が溢れて止まらなかった。八神さんの手がその涙を拭うように触れて、腰に手を回されてもっと距離が近くなる。薄く開いた唇から熱い舌が入り込んで、夢中で舌を絡めた。

「…んっ、」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔では息をするのも苦しくて、酸素を求めて名残惜しく思いながらも体を離そうとする。けれど腰に回っていた八神さんの手に力が込められて、お互いの息がかかってしまいそうな距離ぐらいしか離れる事ができなかった。

 嫌だな。私今きっと、酷い顔してる。それでも至近距離で八神さんから熱っぽい視線を送られると、胸の奥から熱い何かがじわりと浮かんで、頭で考えるよりも感情が喉から飛び出してきた。

「八神さんと別れてから、誰といても何をしても隣にいるのが八神さんなら、て思った。八神さんと別れてからの三年が、八神さんと出会った一年に勝てないの。ずっとずっと、痛いくらいに八神さんが好きなの」

 泣いているせいで呼吸が上手くできず、肩で息をしながら八神さんのシャツを握った。雨の匂いに混じって、八神さんの甘くて爽やかな香りが鼻を掠めてその懐かしさにまた涙が溢れた。八神さんの手がまた頬に伸びて、優しく涙を拭う様に摩る。思わずその手を取って大きな掌に擦り寄った。今はどんな小さな隙間でさえも惜しいくらい、熱を逃したくない。

「八神さんが私をこんな風にしたんだよ」

 こんな風に、誰かを好きになるなんて思わなかった。好きになればなるほど、こんなにも苦しい思いをするなんて知らなかった。
 辛くて苦しくて悲しくて。もうやめたいのに、それを上回る程の八神さんから与えられる幸せに、私はもうとっくに抗えなくなっていたのだ。


「責任とってよ」


 言い切らないうちに、もう一度深いキスが落とされる。
 腕を引っ張られ今度は八神さんが上に覆い被さる様になって私は背中からソファへと沈み込んだ。酸欠になるくらい深い口付けに、愛しさが込み上げてくる。頭がパンクするようなクラクラとする感情に怖くなって、必死に八神さんの背中に手を伸ばし抱きついた。




 どうか、離さないで欲しい。
 もう二度と。
 
 無茶をしないで、なんてきっともう意味がない事を知っている。これからもきっと困っている人がいれば首を突っ込んでいくだろうし、怪我も沢山するんだろう。その度に私は生きた心地がしなくて、不安で苦しい思いもするんだろう。

 それでも、八神さんが隣にいない日々を送る苦しさには勝てないのだ。私はもう、それを痛いくらいに思い知ってしまった。
 だからせめて。せめて、これからは一緒に隣を生きていたい。
 
 
 
 
 
 
  
 
 *


 
 互いの荒い呼吸と熱い舌に昂った感情がキス以上のことを望んで、それはきっと八神さんもなんだと唇から、指先から伝わる熱で理解する。八神さんの背中に回した手を緩めて、とんとんと胸を叩くと漸く唇が離れた。少しカサついたその感触が、相変わらず不摂生な食生活を送っているのだと伝えてる。

「ね、先にシャワー浴びたい」
「…ごめん、無理」
「え」
「もう待てない」

 珍しく、余裕のない八神さんの目が熱を帯びて見下ろしてくる。そんな目で見つめられると、上手く言葉が出てこず中途半端に口がパクパクと開閉した。……ずるい、そんなの。

「じゃあ、せめてベッド行こう?」

 狭い部屋なので、ベッドはもうすぐ目と鼻の先だ。チラッと視線をそちらに向けると、同じく八神さんの視線もそちらへ向かう。
 上に覆い被さっていた体が起き上がって、視界が明るくなる。立ち上がった八神さんに続いて私も立ちあがろうとすると、ひょいっと軽々しく横抱きにされて持ち上げられた。

「じ、自分で歩けるのに…!」
「言ったよな。もう待てないって」

 八神さんはぎゅっと眉間に皺を寄せて呟くと、長いコンパスで一瞬でベッドの前に辿り着いた。
 ゆっくりとベッドに降ろされて、軽く肩を押されて重力に従って横になると、再び八神さんが上に覆い被さってきた。軽く頭を撫でられて、耳にキスされ頬にキスされ、じわじわと熱が上がってくるのを嫌でも感じる。そのまま上から順に、八神さんの頭が首元へと落ちてくる。そして、

「…しまった」

 首に顔を埋めたまま、八神さんの動きが止まった。中途半端に熱を持った体がもどかしくて「どうしたの?」と聞くと、困った様に眉根を下げる八神さんと目が合った。

「……ゴムがない」
「あー…」

 それは、そうだ。
 八神さんは仕事でこっちに来ていたのだし、常日頃からゴムを持ち歩いてるような人でもない。かといって今からコンビニに行くのも時間がかかるし、だからといって生でする訳にもいかない。
 一ついい方法があるけど、ちょっと言いづらい。けれどこのまま固まってる訳にもいかないので、そろーっと八神さんから目線を外した。

「………あるよ」
「え?」
「ゴム。新品の」

 なんとなく、気まずい気持ちで起き上がり、ベッドのサイドテーブルの奥にしまっていたものを取り出す。まだ表面のビニール袋も開けてない、正真正銘の新品だ。

 ぽん、と八神さんの掌にそれを乗せると、何とも言えない表情をして固まっている。何だか目を合わせる事が出来なくて、八神さんの鎖骨を見つめた。

「………一応聞くけど、もしかして男いた?」
「………まあ、一応」
「へぇ………」
「そういう八神さんこそ、この三年間一切の女性関係何も無かったの?」
「それは……まあ」
「へぇ………」

 どうして今からエッチをしようという男女二人の間に、こんな空気が流れてしまうのか。何となく落ちた沈黙に、たらりと変な汗が流れる。まあお互い、それなりの年齢と経験を積んでる大人なのだから別に不自然なことではないのだけど。
 
 けど、それはそれ、これはこれ、だ。

「………しないの?」

 つん、と八神さんの脇腹を突くと、びくっと体が揺れた。それから、ぐぐーっと眉が真ん中に寄って、小さな唸り声が聞こえた。…あ、凄く葛藤している。
 暫くその顔を眺めていると、凄く複雑そうな顔から、小さな声が絞り落とされた。

「………します」

 うーん、かわいい。
 普段とのギャップに「ふふっ」と思わず声が漏れて笑うと、少し照れた様な、拗ねた様な顔の八神さんが睨んできた。その顔もやっぱり可愛くて、相変わらずのふわふわの髪の毛に手を伸ばしてゆっくり撫でた。

「これからは、二人でいっぱいしよ?」
「…先に煽ったの、そっちだからな」
「えっ…ひゃあ!」

 言うが早いか、抱きつく様な姿勢で八神さんの顔が首筋に埋まった。べろりと火傷しそうなくらいに熱を持った舌が、首から鎖骨へとゆっくりと降っていく。「ん、」と短く声を上げると、八神さんの手がするすると雨で張り付いたシャツを捲り上げた。

「…震えてる」
「…八神さんこそ」

 それは、濡れたままでいる事の寒さのせいか。それとも、三年ぶりに触れるお互いの体温のせいなのか。分からないけれど、とにかく心が温かくて幸せだと言うことは間違いない。

 ちゅ、と軽いリップ音を響かせて額に口付けを落とすと、衣服を全部脱がされた。下着だけの姿になって少し肌寒さは感じるけれど濡れた服を着ている事への不快感はなくなる。
 八神さんも自分の服を脱いで、下着一枚の姿になる。無駄な肉のない、スラリとした体型に思わずじっと凝視してしまった。

「…ふっ、見すぎ」
「だって…。八神さん、太った事ないでしょ」
「鍛えてるからね」
「ずるい」

 元弁護士なのに、現探偵なのに。こんなに筋肉付ける必要は果たしてあるのか。ムスッとした顔で呟くと、「何だそれ」と呆れた顔で苦笑される。

「贅肉だらけの恋人の方が良かった?」

 茶化すように笑う八神さんは、多分本当に太った経験がないから言えるんだ。さおりさんと散々甘いもの巡りをしていた時私がどれだけ努力していたことか。

「…八神さんは、私がそうなったら嫌いになる?」
「まさか」
「うん。私も、どんな姿でも八神さんが好きだよ」

 真っ直ぐ目を見て伝えると、八神さんは「うっ」と小さく唸って手で口元を隠してしまった。三年前から思っていたけど、八神さんは意外と直球なことに弱い。
 よしよし、と頭を撫でると今度は八神さんがムスッとした顔を向ける。「…余裕なくしてやる」ぼそっと不穏な事を呟いたと思ったら、再び息を奪うような舌を絡めるキスを落とされた。

 今日だけで一体何回唇を重ねたのだろう。そんな事を考えながら空気を逃さない様に八神さんの首に手を回して、必死についていく。その間にも八神さんの手はブラのホックを取り外し、やわやわと優しい手つきで胸を弄った。
 爪先で先端部分をひっかかれると、ピリッと電流が走ったみたいに体が跳ねる。僅かな刺激でさえも久しぶりで、我慢できず小さな喘ぎ声が口から漏れた。

「…なあ、首隠れる服持ってる?」
「えっ……?ん、った、たぶん…?」
「よし」
「なに……っあっ、!?」

 疑問を口にする前に、ぢゅう、と少しキツめに首の皮膚が吸われる。キスマークを付けられたのだとすぐに理解して、首元に濡れる八神さんの舌と、胸元で与えられる刺激に思わず背中が弓なりに反った。

「ず、ずるい、やがみさっ…、ンあっ!」
「ん?」
「私だって、つけたいのに…!」
「俺は別にいいけど」
「だめ、八神さん首元隠れる服持ってない、でしょう?」

 首元が締まるのはちょっと苦手なんだ、と以前言っていたことを思い出した。だからきっと、今もそんな服を持っていないんだろうというのは簡単に想像できる。ちょっぴり悔しくて、余裕そうな顔の八神さんが再び首に吸い付く前に、こちらから胸元へ飛び込んだ。後ろに仰け反った八神さんは両腕をついて、驚いた様に固まっている。

 私はそのまま八神さんに跨るような格好で反撃される前に同じ様に皮膚に吸い付いてみた。なるべく人目につかない、鎖骨より下に狙いを定めてみたけど首よりも少しだけ硬い皮膚はやはり思う様には赤いマークが付かない。
 ゆっくり舌を滑らして、今度は出っ張った鎖骨に軽く噛み付く。ぴくりと八神さんが反応したのを、私は見逃さなかった。

「ふふふ」
「ちょっと、何笑ってんの」
「三年前と変わらないなあ、と思って」

 鎖骨が弱いとこ。

「…ふーん? そういうこと言う?」
「っン、ぁあ、!?」

 調子に乗って鎖骨を甘噛みしたり舐めたりしていると、つぷっと八神さんの長い指が下着をずらして中へと侵入してきた。突然の刺激に、チカチカと目の前が光る。

 いつの間にかそこはじわじわと奥の方から濡れ始めていて、急な侵入も容易く受け入れてしまう。

「ッまっ…、あっんンっ……、!」

 入り口の浅い所をぐりっとなぞられて、びくびくと体が痙攣する。私の弱いところなんて、散々知っているくせにわざとなのか焦らすように浅い部分を刺激して、そのもどかしさに無意識に腰が動く。

 そんな私を見て耳元でくすっと笑う声に抗議しようと口を開いた瞬間、長い指が奥のざらついた部分を強く擦って、中途半端に開いた口からは情けない喘ぎ声が漏れた。続く快感に私は声を我慢できず八神さんにしがみつき、久しぶりの感覚に呆気なくイッてしまった。

 息も絶え絶えに八神さんを睨むと、してやったりの顔で笑ってる。

「そっちも変わらないな」
「っあ、も、ひどい…っ!!」

 意地悪に笑う八神さんに抵抗しようとするのに、再びぐちゅぐちゅと水音を響かせながら出し入れされる指に頭が真っ白になって口からは耐えず甘い嬌声が漏れて、どんどん理性が溶け出していく。
 もう、知らない。海藤さんにでも揶揄われればいい。せめてものの反抗で、無防備な首筋に噛み付いた。

「…はっ、」
「ん、あっ……、ぅんんっ……、!」
「声、我慢しないで」
「だめっ…、ここ、壁薄いの…、ンあっ」

 口の隙間から漏れる声を必死に抑えるように、八神さんの肩にしがみつく。与えられる刺激全てに力が入らなくなってきて、膝立ちしていた姿勢が崩れた。
 すっかり八神さんにもたれ掛かるようになると、ゆっくりと丁寧に仰向けに寝かせられる。ついでに、ずらされていた下着が全部剥ぎ取られた。

「……なんかそれ、唆るな」
「ばっ、かっ……ひゃあっ、!」

 こちらは必死に声を我慢しているのに、八神さんの親指が咥内を弄り閉じられなくする。そうされると声も我慢できなくなるのに、追い討ちをかけるようにぷっくりと主張する胸の先端部分にぬるっと熱い舌が這った。

 舐めて、転がして、軟く噛んで。

 少しでも刺激を与えられるたびにお腹の奥底がきゅうっと切なくなって、言葉にならない声たちが喉から飛び出ていた。

「あ、ぅ……や、がみさっ……ン、!」
「ん?」
「も、欲しいっ…!」

 堪らず八神さんに手を伸ばして懇願した。
 八神さんは少し目を見開くと、ゆっくり細めて優しく微笑んだ。

「うん。俺も」

ちゅっと触れるだけのキスをして、端っこに避けてあったゴムの箱に手を伸ばす。
 いつの間にかすっかり主張していたそれに手早くゴムを装着すると、八神さんはギラついた目で私を見る。

「三個入りだって」

 不意に呟かれた言葉の意味が分からず、首を傾げた。

「なにが?」
「この箱に入ってるゴムの数。つまり、最低でも三回すればソイツを越えれるわけだ」
「……うそでしょ」
「…三年も待ってたんだ。寧ろ少ないくらいでしょ」

 何か誤解している八神さんに慌てて言い訳しようと口を開くけど、それを見越したように八神さんに口を塞がれる。それから、息をつく暇もなく八神さんのモノが一気に中に入ってきた。

「…ン、ぁああああ!!」

固い熱量がナカを押し広げられる感覚に、ビクビクと体が震える。入り口を浅く摩ったかと思えば、ズンッと奥まで出し入れされて。繰り返される律動にすっかり声を抑える事を忘れて喘いだ。

「あっ……ぁんっ、!あぁっ……!」
「…、はっ……キツ…」
「やが、みさ…あンっ…!」
「………なまえ、」
「…ン、えっ?」
「名前で呼んで」

 濡れた瞳と、目が合う。
 苦しそうに歪められた顔に、胸の奥が熱くなり涙が出そうになった。八神さんの顔に手を伸ばして、頬を挟み込む。

 ──ああ、セックスってこんなに幸せな事だったんだ。

 そんな当たり前のことに、じわじわと水の膜が目を覆っていく。好きな人とこうする事が、どれ程幸せでかけがえのない事なのか。改めて気付かされると、目の前の存在がとにかく愛おしくて顔を引き寄せキスをした。

「……たか、ゆきさん」
「…っ、」
「好きだよ」

 ずっと言いたかった。
 ずっと思っていた。
 別れてから、ずっとずっと。

 さっきまでの律動が止まり、ひゅっと息を飲み込んで八神さんが目を見開いた。それに伴って与えられていた淫楽が消えて、もどかしさにきゅうっ、と子宮が締まる。八神さんは耐えるように歯を食いしばり、苦しそうにゆっくりと、自分を落ち着かせるように深い息を吐く。

 ……まるで、泣いているみたいだと思った。

 切なそうに眉間に皺を寄せて、下唇を噛む姿に何故だかこちらまで苦しくなる。何も言わない八神さんに、余計な事言ったかと不安になりはじめた。

「隆之さん……?」

 もう一度、名前を呼ぶと八神さんの顔が隠れるように首元へと落ちてきた。ポタ、と雫が落ちて濡れたような気がしたのは、汗だったのかそれとも別の何かだったのか分からない。
 震える声で、八神さんが言う。

「俺も、好きだよ」

 じん、とその言葉を噛み締める間もなく、止まっていた腰の動きが再開された。突然の刺激に「あっ」と声を上げて、縋るように八神さんの肩にしがみつく。

 部屋に響く、お互いの浅い呼吸と肌がぶつかる音。恥ずかしいくらいに濡れた水音と、堪えきれない嬌声。頭がクラクラと麻痺していく中で、私は限界を迎えようとしていた。

「ん、ンあっあっ…、!たか、ゆきさ……っ、ん…!も、イッちゃう…!!」
「…はぁっ、…いいよ、俺ももう限界、かも…、!」

 その言葉通り、一層激しく腰を打ちつけ律動が早くなる。頭が真っ白になって、何も考えられなくなりただただ与えられる快感に身を委ね八神さんの手を握りしめる。ぐり、と何度目かの最奥に押し付けられた瞬間、ビクビクと体を震わし背中を大きく反ってイッてしまった。
 それからすぐに、八神さんも奥に擦り付けたまま小さく唸ってゴムの中に欲を吐き出していた。



 未だに激しい雨音が届く室内に、お互いの荒い呼吸が続く。ぎゅうっと握られたままの手に、今まで感じた事がないくらいに幸福感が胸に広がっていく。

「やばっ…」

 不意に呟かれた言葉に、八神さんを見ると目が合う。汗ばんだ体に、額に張り付いた前髪。まだ整わない、乱れた呼吸。思わず見惚れて固まっていると、八神さんはとても綺麗に微笑んだ。

「今俺、すげー幸せかも」

 今まで見た事ない顔でそんな事を言うものだから、ついポカンと間抜けな顔を晒してしまう。嗚呼、もう。八神さんって、本当にずるい。
 

「私だって」

 幸せだよ。
 そう言う変わりに、幸せそうに笑うその顔にキスをした。





 *
 


「ところでさ、」
 狭いシングルベッドで二人がぎゅっと肩を寄せ合い余韻に浸っている時だった。重い腰を労るように優しい手つきで撫でながら、八神さんが目を泳がしながら問いかけた。

「こんな事聞くのもどうかと俺も思うんだけど」
「なに?」
「あのゴムの箱って、自分で買った?」
「あー…」

 ゴミ箱に入っているかつて新品だったゴムの箱。この箱のおかげで、八神さんが実はちょっと嫉妬深い事を知れて嬉しい。流石に、まさか本当に続けて三回もするとは思わなかったけど。ふふふ、と笑うと八神さんは不機嫌そうに眉を寄せた。

「使う機会無かったの」
「うん?」
「万が一のために、用意はしてたんだよ。でもね、一回も使わなかったの」

 元彼に無理やり押し倒された瞬間、やっぱり思い浮かぶのは八神さんの顔だった。若い娘じゃあるまいし、一回セックスしてしまえばもしかしたら恋心が芽生えてたかもしれない。それでもやっぱり、触れたいと心から思えるのはずっとずっと、ただ一人だけだった。

「いつも別の誰かと比べられてる気がする、てフラれたって言ったら笑う?」
「……じゃあ俺も、馬鹿にしないで、てビンタされたって言ったらどうする?」
「うそ、ビンタされたの!?」
「ついでに海藤さんにもお前が悪いって説教されたよ」

 どこか遠い目をする八神さんには申し訳ないけれど、その場面は少し見てみたかった。一応笑うのを堪えてみたけど優秀な探偵さんにはバレバレだったみたいだ。「笑うなって」と呆れた顔で鼻を摘まれた。

「結局、似たものどうしなのかもな。俺たち」
「それって良いのかなあ?」
「上手くいってるから良いんだよ。あー、でも。海藤さんに絶対揶揄われる」
「なんで?」
「……散々忠告やら説教やらされて、今に至るから」
「うーん、それは呆れた顔されそう」
「多分、もうしてる」

 だから俺の言った通りだろ。
 ドヤ顔でそんな事を言う海藤さんを想像して、二人で笑った。
 
 
 
 
 
top.